2020・6・3

石村良子代表「不思議なことが」

 

昨日 稽古で富士川游先生の「頼山陽の病志」の話をした所しばらくして電話があり「先生、今稽古の帰り美容院に行こうと長楽寺を通り赤信号で止まりふと見ると、富士川游先生顕彰碑がありました」という。調べてみると広島長楽寺公園に一碑、母校広大病院にも一碑立っているという。紹介分には空前絶後の大業績 『日本医学史』 で日本医史学を確立した富士川 とある。明日64日先生誕生日。

 

富士川游先生顕彰碑(広島市)
富士川游先生顕彰碑(広島市)

頼山陽像(帆足杏雨筆 広瀬旭荘賛 京都大学総合博物館蔵) 贈られた羽織を着装している気難しそうな山陽50歳ぐらい

死の直前池野義亮の描いた画とは雰囲気が違う。ちなみに義亮が描いた方は7.8枚あったようで其の1枚が呉市の図書館にあるという。

2020・6・1

石村良子代表「頼山陽の病志」

 

明治の広島長楽寺出身の医学博士,病理学者、富士川游は、山陽の肖像画。春水日記、梅颸日記から推察し 以下の病志を書いている

 

頭顱(あたま)が大きくして殊に前額が突出して居る。この頭顱の形状は脳水腫を患いたるものに見らるるものであるから、山陽が幼時癇ぺきに罹りたるといわるる病症の中には軽度の脳膜炎がありて、それがために脳水腫をひきおこしたのではないかと思われる、、、、、軽度の脳膜炎で水腫の激甚でなかった場合は其の知力は尋常に比して優越せるものであることがしられる」

 


2020・5・29

歌人吉井勇、頼山陽を詠む

 

石村代表から、耽美派の歌人吉井勇(1886 - 1960)が頼山陽を詠んだ一首を教えていただく。

 

三本木の昔思わす夕ともし

   かの家の窓に山陽やゐる 

              勇

 

 吉井勇 ネットより
 吉井勇 ネットより

東京の伯爵家に生まれたが、政治とは関わらず、劇作家、小説家としても活躍。京都の祇園では毎年、勇をしのぶ「かにかくに祭」(勇の歌にちなむ)が行われているという。この一首から山陽の本質を理解していたであろうことが伺える。(見延典子記)

 

 田能村竹田作         「題陸羽像」の画賛
 田能村竹田作         「題陸羽像」の画賛

2020・5・1

山根兼昭「煎茶道と頼山陽」

 

中国唐の時代に、「陸羽」が煎茶道を確立し、茶聖とも称されておりました。

無量寿寺
無量寿寺

頼山陽作 「陸羽の像に題す」

李白狂歌し 張旭顛す 醉郷処として 遊鞭を著くる無し

竹炉銅ていの別天地 尽く先生に付して 一仙と作す

(大意)李白(詩人)は酒一斗に詩百篇、張旭(書家)は三杯に草聖の名を得、貴人の前でも狂気じみた酔態を演ずる。いずれも酔郷における当代の第一人者である。それに対し、お茶の世界では、ことごとく陸羽先生に付与して一仙とした。

 カキツバタ園
 カキツバタ園

    カキツバタ(上)

    アヤメ(右)

 八橋
 八橋

「煎茶道売茶流」

室町時代後期に、煎茶道の祖・高 遊外が京で活躍、その伝記を京・妙心寺で修行をしていた方厳和尚はその生き方に魅了されます。

その後、寛政の末ごろまで、江戸に移り住んでおりましたが、一八〇五年、茶道具一式を持ち、江戸を発ち三河の国・知立八橋に到着します。知立で活動を始めた方巌和尚は「八橋売茶翁」として地元の有力者・都築弥厚等の協力を得、長年荒廃したままになっていた「無量寿寺」を一八一二年再建したのであります。

 

都築弥厚は江戸時代後期に「明治用水」を企画し江戸幕府も承認し明治になって完成、現在の安城市が東洋のデンマークと言われる所以であります。

弥厚の弟、豪農で文人の都築曲江は、頼山陽が一八一三年十一月に有松に来ることを知り、西尾に招いたのであります。(昨年・「西尾にも来た、頼山陽=湯谷祐三先生企画)

 

都築曲江に導かれて有松を出発した頼山陽は、次の宿場町・知立で八橋売茶翁、都築弥厚、等の尽力で再建した「無量寿寺」に足跡を残したか、住職に確認しましたが特に記録はないとの事でした

その後、文人系の茶道趣味が盛んになり、頼山陽、田能村竹田、青木木米、など中心に最盛期を迎えておりました。また尾張出身の画家、山本梅逸、中林竹洞、

梁川星巌らとも親交を深め詩歌、煎茶にも長じておりました。

 

「無量寿寺」

愛知県の花は「カキツバタ」であります。

カキツバタは無量寿寺のシンボル的な花であります。

平安時代、「伊勢物語」の在原業平は此の名園を見て「らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ」と詠んでおります。

1812年に再建した折に、カキツバタ園にも手入れしましたが、特に池の中に張り巡らされた「八 橋」が有名で、地名にも、ひいては京都の銘菓「八つ橋」の名の由来とも言われております。5月、これからがカキツバタの季節ですが、今年は残念ながら閉園で入れません。

 

「アヤメ」「カキツバタ」

カキツバタは湿地や池に咲き、花びらの中央に白い線が入っている。

アヤメは乾地に生育、花びらの模様は様々。

 

2020・3・23 藤一郎さん「我が家の墓石の3面」

 

我が家(衞藤帰一堂)の墓石の3面の彫り込んでいます。

君名真良氏衞藤如山其號也以安永二年癸巳弐月

三日歿享年四十有二安政三年丙辰春二月曽孫道

孝謂毅曰曽祖初業醫不幸早死違今哭十有餘年再

後屡遭不淑家乗散逸是以行事履歴不得其詳墓石

雖存絻刻如山真良醫師六字耳如旗壊缺苔蝕懼後

世子孫無識處所今茲 工改造焉欲以報祖徳吾子

為余記是毅固辞不可乃記其概曰君之遠祖曰山城

守貞義世仕大友氏居干大白谷邑貞義孫曰蔵人左

道家子孫徒中山邑道家六世孫曰三右衛門貞道寛

文十一年辛亥徒中野邑貞道曽孫善兵衛其眼文三

年戊午?命為中津牟禮里正世襲焉善兵衛有男二

人長曰荘左衛門薬嗣次曰想六則君之幼字也寛延

三年庚午為醫更名真良蓋先是世傳眼科書乞治者

多至是使君別為醫家也其業日進明和中?官命為

謁醫且許乗轂蓋 ?特恩也君娶伏野氏生男女各一

人男曰良庵早死養姪世篤為嗣即本荘荘左衛門篤

双子也妻攁戻女世篤壽七十五歿有男曰道哉夙終

家業周游四万大有聲譽三十三先歿年妻寡児弧家

道大衰弧乃道孝七歳長必備嘗艱難梢長發憤励精

西遊崎奥受業干岩永羪安之門學就而還乞仡岩遠

近醫至覆常満戸升於是家道駿發有光乎祖業矣禹

呼君而有霊即九泉之下基喜可知而願己矣銘曰

 君家衰矣 曽孫是興 君墳崩矣 曽孫新之

 自君之歿 百載千茲 家興新墳 不朽可知

 天之報徳 固己如斯 魂魄安焉 亦復溪疑

          衞藤鎮毅撰

           古庄虎彩書

2020・3・21 藤一郎さん「竹田、送別会場『春楼』」

 

竹田が催した送別会場の「春曦楼」の手がかりは未だにありません。

我が家「衞藤帰一堂」の墓に漢文が彫られています。

幕末に早世した曽祖父の功績を伝えるためのようです。発見した子孫の私はそんな文化が我が家のあったのか感激しましたので投稿します。

 

2020・1・16

見延典子 ⇒ 不動院 麻生さん➁

「頼杏坪の落款」

 

頼杏坪の軸の続き、 冠冒印は不鮮明ながら「間縁」でしょうか。

 『頼杏坪先生伝』(重田定一著)より

同上
同上
今回の軸の冠冒印
今回の軸の冠冒印

朱印、白印はさらに読み取りにくい。麻生さん、もし鮮明な映像をお持ちなら、お示しくださいますよう、よろしくお願いいたします。

今回の軸の朱印、白印     白印は左と同一か?
今回の軸の朱印、白印     白印は左と同一か?

墨湖の署名、落款部分を拡大しました。
墨湖の署名、落款部分を拡大しました。

2020・1・14

見延典子 ⇒ 不動院 麻生さん

「絵師は中川墨湖」

 

頼杏坪の軸の件、鶴の絵を描いたのは広島藩の絵師 中川墨湖(1789-1861)ですね。

名は義喬、通称は彦太郎。初め高橋、中川に改称。山田雪塘に学んだ後、岸駒に師事。四条派の画をよくし、蝦を得意とする。頼杏坪の編集『芸藩通志』の挿絵で知られる。

             (ネットより)


2020・1・12

不動院 麻生さん

「頼杏坪の掛軸」

 

頼杏平の掛軸です。南区の方の所藏です。義父の遺品だそうです。

鶴の絵は『芸藩通史』に挿絵を描かれた人の絵です。入手経路はわからないとの事。新年のめでたい絵ととらえています。


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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