2023・11・9

匿名さん

「『頼先生遊記帖』(『十旬花月帖』)を購入したい」

 

『頼先生遊記帖』(『十旬花月帖』)を購入させて頂きたく存じます。どうぞ宜しくお願い致します。


匿名さんへ

 在庫はございます。1冊送料込み1、000円です。振り込み番号をお知らせします。よろしくお願い致します。

                            事務局

     

2023・9・19

上口雅彦さん ⇔ 見延典子

「長岡外史の外史について教えてください」

 

見延典子様

 今、山口県笠戸島に来ています。写真の長岡外史は、大日本外史を暗証していたから、外史と名付けられたとあります。頼山陽『日本外史』と関係あるのでしょうか?

 

※長岡外史(1858-1933)は現在の山口県下松市出身、明治、大正の陸軍軍人、政治家。「プロペラ髭」と呼ばれる自慢の髭は最長で69cmにも達したという。

笠戸島 外史公園に建つ「長岡外史像」
笠戸島 外史公園に建つ「長岡外史像」

上口雅彦さんへ

 

 『大日本史』なら知っていますが、大日本外史という本は知りません。時代背景から長岡外史が暗唱していたのは『日本外史』の可能性が高いと思います。この文を書いた方は『日本外史』や山陽外史についてはもちろん、頼山陽に関するの知識はなかったようですね。

 

                           見延典子

 

長野県千曲市雨宮の詩碑 ネットより
長野県千曲市雨宮の詩碑 ネットより

2022・3・8

見延典子 → 信濃さん

「千軍と千兵」

 

 お尋ねの件、頼山陽は繰り返し推敲をする人で、一つの漢詩、漢文に異なる漢字が当てられている例は珍しくありません。「川中島」も当初は「千軍」としていたものを「千兵」に変えたと思われ、「千兵」のほうが決定稿です。とはいえ「千軍」も流布しているようで、お祖父様のご自宅から見つかった和紙に書かれている漢詩は、古い文献などで覧になったものを書き写したのではないでしょうか。


逆に信濃さんに伺いたいことがあります。お問い合わせの御文中を拝読すると、長野市川中島古戦場跡にも詩碑があるように書かれていますが、どのような詩碑なのでしょうか。ご教示くださいますよう、よろしくお願い致します。

                     見延典子

 

2022・3・6   信濃さん「教えてください。『千軍』と『千兵』」

 

初めまして長野県に住むペンネーム信濃と申します。

頼山陽の有名な「川中島」の漢詩について疑問があり、こちらのホームページに辿り着きました。

 

祖父の自宅から「鞭声粛々夜河を...」の続きが「暁に見る千軍」となっている和紙が見つかりました。

 

長野県千曲市雨宮の石碑と、長野市川中島古戦場跡では「千兵」となっておりますが、こちらのサイトにて財団法人煎茶道三癸亭賣茶流蔵の「川中島」で「千軍」となっている掛け軸の写真を発見しました。

またオークションサイトでも2点ほど「千軍」パターンの「川中島」を見つけました。

 

漢詩の知識に乏しく申し訳ないのですが、「川中島」は2パターン存在するのでしょうか? もし「千兵」と「千軍」のパターンが存在する経緯などご存知でしたら教えて頂きたいです。お願い致します。

 

2020・8・31 会員希望さん「この時代だからこそ…」

 

この時代だからこそ頼山陽の大義が一服の清涼剤になり得るのかも知れませんね。ネットワークの活動も面白そうですね。会員希望させていただいてよろしいですか?

会員希望さんへ

お問い合わせいただき、ありがとうございます。

ご一緒にネットワークの活動をお願い致します。

                   籟山陽ネットワーク事務局

 

2020・8・26

久保寺さん → 石村良子代表、進藤多万さん

 

書簡の解読、「良平」の情報等、ありがとうございました。大変参考になりました。「子明」については、まだわかりませんが、「良平」が「阿部絹洲」だとすると「子明」は「野田笛浦」ではなさそうですね。まだまだ、初心者でわからないことばかりなので今後ともよろしくお願いします。

 

2020・8・25

石村良子代表「子明宛書状を訳してみました」

 

最初と宛名の部分は「頼山陽ネットワーク」顧問の頼先生にお尋ねしました。それらを踏まえ、訳してみました。

 

   良平は変わりありません よろしく精だしております

   三日坊主でなければです

〇さて車馬記は御取り帰り下されたでしょうか 

金三に御附申しましょう  

〇右貸付の事(いよいよ)御相談申し置いた通に

成るようでしたら

此季に諸方に預け置いた分を 取返すつもりです如何 

この件 御左右御聞かせください   

〇小子事大分物入お聞きださい

 右五百金には手を付ず 又そのまま置きたいと

思います 

左段品々あなたの御世話で御売拂くださいませんか  

唐墨箱入弐挺   

新渡筆立壱筒  

唐紙 拾六枚   

有栖川石菖蒲 但鉢共壱鉢   

朝日石菖蒲 同上石附壱鉢

右何卒 節季前ですので一窮人救のため御右富児にこじ付被下間敷や   

星夕後一日   

子明足下   襄拜

 

2020・8・24 進藤多万さん「良平は阿部絹(縑)洲が有力」

 

星夕かあ・・・。人に読ませておいて「それもそうだ」といつも後から思います。

「良平」を例の本で調べました。「師・賴山陽」とある「阿部絹(糸へんに兼も)洲」が有力。彼が入塾間もない頃かと推測。篆刻家・詩人。「良山堂茶話」が、文政七年刊行と、ネットにも出てる。士分でない・讃岐の人・どうやら推薦者も本人も富裕かな?・・。子明は誰か。

 

2020・8・23 

石村良子代表 ➡ 久保寺さん「全文、解読できました」

 

お問い合わせいただいた「子明宛、頼山陽の書状」について、全文、解読できましたのでお知らせいたします。「閏夕後一日」ではなく「星夕後一日」ですので、寛政9年に縛られなくなります。

 

良平無異 よろしく出精仕候

三日坊主でなければ よきと候

〇扨車馬記御取帰被下候や 金三ニ御附可申候  

〇右貸シ付之事愈御相談申置候通ニ相成候へば

此季ニ諸方ニ預ケ置候分 取返可申候如何

此御左右御聞セ可申候   

〇小子事大分物入お聞可下候

 右五百金ニハ手を付ず 又置申度候

 左段品々御世話ニて御売拂被下間敷や  

唐墨箱入弐挺   

新渡筆立壱筒  

唐紙 拾六枚   

有栖川石菖蒲 但鉢共壱鉢   

朝日石菖蒲 同上石附壱鉢

右何卒節季前義候故一窮人救のためと 御右富児ニ

こじ付被下間敷や   

星七夕後一日   

子明足下  襄拜

 

2020・8・15 進藤多万さん ➡ 久保寺さん

 

『漢文学者総覧』には16名の「子明」さんが載ってますが、全部あたってみられたのでしょうね。大物小物いろいろ・・・。

閏7月8日なら江戸遊学中ですが、ちょっと趣味が老成しているような気もします。しかし人のものを拝借して売ってしまうとかの「わるさ」はしていたかもしれません。

古文書解読は石村さんにお任せして、いつものように内容を推理してみました。

 

2020・8・14

久保寺さん ➡ 見延典子「内容には不明な点もまだあるので…」

 

この書簡、「子明」とは「野田笛浦」のことだと思いますが、野田は寛政116月生まれなのであり得ませんね。

本文が原本の写しだとしても、「閏七夕後一日」というのは間違いのように思います。

文字自体も山陽の字とは似ているようでもありますが、他の書簡のような見た瞬間に「これは真筆!」とは思えませんでした。

内容は不明な点もまだあるので、これからも調べてみたいと思います。

 

2020・8・13

見延典子 ➡ 久保寺さん「18歳の山陽が書いた内容とするには…」

 

書状の内容をお知りになりたいという久保寺さんのお問い合わせの趣旨から外れますが、「閏七夕後一日」はめったなく、山陽の存命中は「寛政9年7月、山陽18歳」だけとすれば、18歳の山陽が書いた内容とするにはやや無理があるように思います。いかがでしょうか?

 

2020・8・12 

石村良子代表 ➡ 久保寺さん「内容が面白いと思います」

 

内容が面白いと思います

調べてみます

いつもながら 久保寺さんの実力すごいです

 

2020・8・11

千葉の久保寺さん「贋作の可能性が高いが、内容を知りたい」

 

御無沙汰しております。千葉の久保寺です。贋作の可能性が高いとは思いますが内容を知りたくて手に入れました。

添付ファイルにあるように不明な点が多々ありますが、もしわかる部分があればよろしくお願い致します。

「子明」?とは誰なのか。 日付が「閏七夕後一日」の解読で正しいのか。正しければ寛政9年7月、山陽18歳、江戸遊学中になるが内容的にあっているのかなど疑問点が多々あります。 お手数をおかけしますが宜しくお願い致します。

 □□□□よろしく出精   仕候三日坊主でなければ  よきと候〇扨□□記御取   帰被下候や□□□御附可申候  〇右貸シ付之事□御相談

申置候通ニ相成候へば此季   ニ我方ニ預ケ□□分取返   可申候如何候此御ただし御聞セ   可申候   〇小子事大分物入の聞へ候右

五□□ニハ手を付ず又□   申度候たゝ品々御世話   ニて御売拂被下間敷や  

唐墨箱入弐挺   新渡筆立壱筒  唐紙 拾六枚   有栖川石菖蒲 但鉢共壱鉢   朝日石菖蒲 同上石附壱鉢

右何卒節季前□□故一   窮人救のためと□□□   □□こじ付被下間敷や   閏七夕後一日   子明足下   襄拜

 

2020・6・17 会員希望Aさん、Bさん

    「頼山陽ネットワーク通信18号が読みたいので、会員に」

 

会員希望Aさん

貴ホームページ「問い合わせ」欄の「2020・6・15中嶋康博さんー頼山陽ネットワーク通信18号が読みたい」に名前が記されています者です。私も同通信を拝見したく、ご配慮をお願いいたします。

 

会員希望Bさん

先日,入会した岐阜の中嶋君と同行して、如亭墓移転法要に参加した者です。同じ理由で18号を拝読したい事と、今後も山陽に関して詳しく知りたいゆえ,入会を希望します。先日ようやく見延氏の三巻本「山陽」を入手しました。ゆっくり拝読します。

 

2020・6・15 中嶋康博さん

          「頼山陽ネットワーク通信18号が読みたい」

 

3月の半ば、大きく騒がれる直前の頃に京都に出向き、長楽寺の山陽墓碑ほかの古刹に漢詩人の墓参を敢行。さらに大阪の天徳寺へ、此度の資料紹介論文の発表に伴ひ、宿願となってをりました、後藤松陰先生の墓前報告に行って参りました。
ところで旅の大きな目的で永観堂の柏木如亭の墓碑移動の法要があったのですが、移動したさきに「詩僧稀鈍之墓」なるものがあって、気に留めなかったのですが、御一緒した清水寺学芸員の坂井輝久様よりの御指摘にて山陽とのつながりを御教示頂き、ネット検索しましたところ、貴HPの「2016・6・1湯谷祐三さん「詩僧稀鈍の墓」の記事にゆきあたりました。
過去の通信文ですが「頼山陽ネットワーク通信 第18号」を私が読むことはできますでしょうか。

中嶋康博さんへ

ご連絡の件、会員登録をされていらっしゃいますので、お読みいただけます。登録のアドレスにお送り致します。

引き続き、頼山陽ネットワークをよろしくお願いいたします。

                  頼山陽ネットワーク事務局

 

2020・4・21 見延典子 ⇒ 湯谷祐三さん

                 頼山陽書簡のデ一タべ一ス化」➁

 

そういえば、雲華上人研究家の湯谷祐三さんが「頼山陽書簡集」に掲載されていた雲華上人宛ての書簡をすべてデータベース化したという話をされたいた記憶がありますが、自信がありません。

湯谷祐三さん、もし読んでいたなら、教えてくださ~い。

 

2020・4・18 久保寺辰彦さん「頼山陽書簡のデ一タべ一ス化」

 

いつも返信ありがとうございます。

徳富蘇峰共編の「頼山陽書簡集」は1300通あまりの活字化された山陽の書簡があるので、これを丸ごとエクセルデータベース化できないか考えています。もし、データベース化してしまえば、いろいろな事が瞬時に検索できるようになります。

例えは、以前にも質問させていただいた「時遣働」や「為持上申候」が他の書簡で

どう使われているか、検索ワードに入れれば使用されている個所が瞬時にわかります。そうすれば、読み方や意味をとらえる上で参考になると思います。

ちなみに「為持上申候」ですが、見延先生の読み方の「持上げさせ」で検索することも石村代表の「持ち上げられ」で検索することも可能ですので、どういう結果に

なるかも楽しみです。

ただ、データ量が多いので、入力するのにどれくらい時間がかかるのかわかりません。入力後の間違い探しも大変そうです。それ以前に昭和2年発行の書簡集には巻末の「補正」が数多くあり、ここをまず訂正しなくてはならなくなりそうです。

 

2020・4・15  見延典子 ⇒ 久保寺辰彦さん

              「バランスを欠いている『竹』」➃

 

頼山陽が篠崎小竹宛て書簡で用いる敬称の変遷、とても面白いですね!

この着眼、切り口での研究は見たことがないので、お時間が許せば、ぜひまとめていただきたいと思います。

石村代表もお書きになっていたように、山陽の字体は年代によって異なります。またさまざまな字体を書き分けることもできたでしょう。書家としての頼山陽の魅力を再認識できました。ありがとうございます。

 

2020・4・14 久保寺辰彦さん ⇒ 見延典子

              「バランスを欠いている『竹』」③

 

千葉の久保寺です。いつもご指摘ありがとうございます。今回、先生が言われたことがきっかけで篠崎小竹宛ての書簡をもう一度確認してみました。

ただ、真筆となる書簡そのものが少ないので、小竹宛ての書簡に「老兄」という敬称を使うようになったのはいつごろからかを調べてみました。調べたのは頼山陽書簡集上・下・続と頼山陽名著全集7巻の書簡集の合わせて106通です。

その結果、文化3年、山陽27歳の時に出した小竹宛ての書簡「承弼足下」に始まり、承弼兄、長左衛門様、小竹君、承弼仁兄、小竹兄、篠崎蝶左衛門様、小竹仁兄、承弼老兄、篠兄、承弼様、承弼盟兄を経て、やっと単独で「小竹老兄」と出てきたのは文政8年46歳の書簡でした。

同一人物の宛名ひとつでも、これだけの種類があり、時代によって変化していったのがよくわかりました。

また、山陽の書簡も書いた年代によって字体そのものが変化していく様子も知ることができました。        

                       (事務局注 映像はこちらをご覧ください)

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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