特に記載がない場合は、見延典子が書いています。

2024・2・9

上口雅彦さん

「『日本外史』の真意」

 

 歴史家の山内昌之氏の本「歴史を知る読書」(PHP文庫2023)の冒頭で、頼山陽「日本外史」の真意について、書かれている。

『日本外史』は源平の時代から多くの合戦が描かれるが、山陽の真意は平和を希求し、平和な世を築いた徳川家康を賞讃しているというもの。

 


『春秋遼豕録』は頼山陽が弟子に『春秋』について講義した内容をまとめたもので、原文は『頼山陽全書』「全集下」の冒頭に掲載されている。堀尾氏はすでに『春秋遼豕録を読む・隠公桓公』をまとめており、続編も予定しているという。

 

2022・10・19

堀尾哲朗さん『頼山陽を想う 春秋 遼豕録を読む 荘公』

 

 堀尾哲朗さんが『頼山陽を想う 春秋遼豕録を読む・荘公』(A4判 301頁 非売品)をまとめた。


  笠間書院 A5判 208ページ   

  上製 6000円+税

出版社からの紹介文

 江戸時代後期を代表する文人・頼山陽。『日本外史』の著者というイメージが強いが、「煎茶」を楽しむ風雅の心も持ち合わせていた。

 山陽の愛した煎茶がいかなるものであったのかを、漢詩文や書画、建築といった芸術作品の分析を通じて解き明かす。
 煎茶と言えば、江戸時代後期の文人たちにとって欠かすことのできない趣味。

2022・3・31

島村幸忠著『賴山陽と煎茶』

 

 2020年11月、賴山陽文化講座でも講師を務めた島村幸忠氏が『賴山陽と煎茶』を上梓した。

島村幸忠 煎茶家。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門は美学および日本文化論。共訳書に『ライフ・オブ・ラインズ』(ティム・インゴルド著、フィルムアート社、2018年)がある。現在、早稲田大学、京都芸術大学、岡山大学、桜美林大学非常勤講師。


 本書ではそんな煎茶文化にスポットライトを当て、山陽だけでなく上田秋成や田能村竹田なども取り上げながら、文人たちの煎茶の楽しみ方を紹介する。
 せわしない日常のなかに暇を見つけて、煎茶を淹れ、親しい者とともに喫する。そのような失われつつある喫茶の素朴な楽しみを、山陽まで遡ることで見つめ直すことのできる一冊だ。

 

2022・1・9

『頼山陽遺墨選』の紹介記事

 

中国新聞1月7日付けに、『頼山陽遺墨選』(公益財団法人頼山陽記念文化財団 2021年9月)の紹介記事が掲載された。

2021・12・9

山根兼昭さん

『頼山陽遺墨選』(公益財団法人頼山陽記念文化財団 2021年9月

 

内容は、頼山陽の書蹟、絵画、手紙、であるが、各作品の基本は頼山陽の書であると思う。山陽は、書の勉強を唐の偉大な書家「顔真卿」より学んだと聞いているが、本書に掲載されている作品はどれも見惚れてしまい素晴らしいとしか言えない。


「頼山陽の書蹟」は9歳の作「朝日山」から年代ごとに53歳までの作品が掲載されている。

私が日頃思っていたことは、山陽には「富士山」を詠んだ詩が見当たらないが、山陽は18歳の時江戸昌平黌に留学するとき、途中東海道を東進しながら、4月初めの壮麗な富士を見て強く印象に残ったはずである。

山陽をもってしても表現しきれなかったのかという思いがあったが、この遺墨選で発見した。

 

「望富士岳作」―ふじがくをのぞみてつくるー 頼 襄

大意・昔、天は東の夷敵と相模、武蔵の間に富士山を作って東門とした。吾、富士山の頂から見下ろせば関八州は大きな盆のように見えるだろう。

 

(感想)富士山を詠った漢詩は本当に少ないし、景色を表現した詩は柴野栗山の「詠富士山」他は殆ど見た事が無い。 山陽をもってしても景色を表現しきれないのかと思いながら、書(紙幅)を拝見しています。後半の「書風の変更」も素晴らしく、興味を持って拝見しました。

  (問い合せ先 頼山陽記念文化財団 082-542-7022)

 

2021・7・4

堀尾哲朗さん「紹介以上の内容」

 

「漢文脈と近代日本」に興味を持ち、図書館で検索・借用しました。

 

著述の中味は「ネットワーク」の紹介以上、頼山陽をこれほど知っていた人がいる事で世の中の広さと、「井の中の蛙」を知らされました。

 

2014年角川ソフイア文庫。2007年日本放送出版協会『漢文脈と近代日本 もう一つのことばの世界』の文庫化。
2014年角川ソフイア文庫。2007年日本放送出版協会『漢文脈と近代日本 もう一つのことばの世界』の文庫化。

2021・7・2

齋藤希史『漢文脈と近代日本』

 

「漢文」は言文一致以降、衰えたのか、日本文化の基盤として生き続けているのか。「もう一つのことばの世界」として漢文脈を捉え直す。


近代の漢文に大きな影響を与えたのは徳川封建体制と、その下での朱子学の発達であり、これを具体的に実践したのが頼山陽の『日本外史』であったという視点から、前半に多くのページが費やされている。

著者は1963年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授(比較文学比較文化)

 

2021・3・27

山根兼昭さん「頼山陽ネットワークの配信力」

 

頼山陽の歴史哲学―勢と機

 

今年の講書始の儀で頼山陽の3部作が講義のテーマになったことをいち早く取り上げ、その内容をYouTubeで配信いただいたことで、「頼山陽ネットワークの配信力」と改めて頼山陽を知る貴重な機会となりました。

 

特に、通議の歴史哲学―勢と機の概念は、初めて知ったことであり、また、社会全般に「江戸時代の偉大な文人・頼山陽」をアッピールできたのではないかと思います。

 

 丁度、春期尾張旭市民塾の通知が、教育委員会より来まして、68日より720日まで4「頼山陽、波瀾の生涯-誕生から戦前、戦後まで」と題し行うことが決まりました。

 

昨年はコロナ禍で中止となりましたので、「講書始の儀」の話も含め準備をしたいと思います。

 

備後福山藩主にして老中阿部正弘に仕えた、頼山陽の弟子関藤藤陰(石川和介)の生涯を描く長編小説。
備後福山藩主にして老中阿部正弘に仕えた、頼山陽の弟子関藤藤陰(石川和介)の生涯を描く長編小説。

2021・3・27

「勢」と「機」

 

講書始で語られた「勢」と「機」については、拙著『敗れざる幕末』(2012年、徳間書店)で主に「勢」について以下のように書いている。少々長いが引用したい。

 

P455

「天下の分合、治乱、安危する所以のものは勢なり。勢成毛には、漸をもって変じ、漸をもって成る。人力の能く為す所に非ざるなり


 天下が分裂したり、統一したり、治まったり、乱れたり、安定したり、危うくなったりするのは、「勢」による。「勢」なるものは次第に移り変わり、次第に成熟する。人間の力ではどうすることもできないという意味で、師の頼山陽の『通義』に収められている。」

 

P457

「実は先の頼山陽の『通議』の一節には続きがある。

『而れども、其まさに変ぜんとして、未だ成らざるに及んでや、困って之れを制為するは、すなわち人に在り。人は勢に違うこと能わざれども、勢も亦、或いは人に由って成る。苟諉して、これ勢なりと曰いて、あえて之が謀をなすも其の勢に因らざるは、みな勢を知らざる者なり。故に勢は論ぜざる可からず』

 けれどもそのまさに移り変わろうとして、また変わらないとことは、これを制御できるものは人間である。人の力では『勢』に逆らうことができないが、『勢』なるものも人間に頼って成就するのである。ところが往々、安易に責任を回避して、『これは自然の勢いである』などといって手をこまぬいていたり、あるいは施設するにしてもその『勢』に全く背き離れたのでは『勢』を知っているものとはいえない。だから『勢』の本質について、論ぜざるを得ないのである……。」

 

2021・3・25

3月23日の講書始、you tubeにUP

 

FNNプライムオンラインにより、CMのあと、講書始の映像に切り替わり、1分過ぎから17分過ぎまで約16分間、揖斐高・成蹊大名誉教授(74)による「『勢』と『機』の歴史哲学―『日本外史』」が流されます。

以下をクリックしてください。

 

 令和3年 講書始

 

2021・3・26

堀尾哲朗さん「サ一クルで読んだ『通義』が…」

 

皇居の講書始めて゛頼山陽が登場するとは !

 講義の内容は『日本外史』の概要に続き、『通義』の「勢」と「機」でした。数年前にサークルで『通義』を読みましたが、「かしこくも、天皇陛下に御進講とは ! 」感激の極みです。

 

2021・3・24

山根兼昭さん「戦後75年、頼山陽が公の場で」

 

今年の講書始の義、323日NHK正午のニュース

講師 成蹊大学 揖斐 高名誉教授

 頼山陽をテーマに取り上げ「江戸時代の歴史家で、資料や文学作品から得た歴史的事実を関連づけ、歴史の局面における人間の姿をダイナミックに描いたと評価した。」3人の講師による講義は1時間ほどにわたり、各皇族方も熱心に聴講された。

 (感想)

インターネットの「NHKラジオ」で検索、音声を録音して上記を確認しました。戦後75年間、頼山陽が公の場で語られることは少なかったと思いますが、皇室の講書始でテーマにされたことに注目したいと思います。

 

2021・3・23  

講書始の儀で頼山陽『日本外史』

 

天皇、皇后両陛下が各学問分野の第一線で活躍する学者から講義を受けられる「講書始の儀」が23日午前、皇居・宮殿の「松の間」であり、3人の学者が講義を行った。秋篠宮ご夫妻ら皇族方も出席した。

   読書始に向われる今上天皇、同妃       東京新聞から
   読書始に向われる今上天皇、同妃       東京新聞から

〇講義を行った順に、3名(肩書)とテ一マ

 

➀揖斐高・成蹊大名誉教授(74)=日本近世文学=は「『勢』と『機』の歴史哲学―『日本外史』

 

➁五百旗頭真・兵庫県立大理事長(77)=日本政治外交史=は「米中の新たな遭遇と日本」

 

➀ノーベル医学生理学賞受賞者の大隅良典・東京工業大栄誉教授(76)=分子細胞生物学=講義テーマは「細胞のリサイクルの仕組み」

 

※毎日新聞デジタルから一部引用しました。

 

2021・3・9

匿名さん「伊藤痴遊は後に政治家に」⇔ 見延典子

 

見延典子さんへ

伊藤痴遊『維新秘話』の件、確かにご指摘のように、激動期の後の新政権と言う事もあり少なからずありますね。伊藤痴遊は関東の出自ですが、後に政治家にもなっていますから、有り得ますね。有難う御座いました。

                            匿名

匿名さんへ

いわゆる言論統制は江戸時代にもありますが、近代国家といわれる明治以降も形を変えて引き継がれ、昭和に入ると加速度とつけて厳しさを増していきます。頼山陽をめぐる記述の変化はそのサンプルといえるでしょう。

                          見延典子

 

2021・3・8

匿名さん ⇔ 見延典子

「伊藤痴遊著『維新秘話』」

 

見延典子さんへ

伊藤痴遊(伊藤仁太郎)の『維新秘話』を読んでいると明治初頭、天皇が京都を御發輦される際、山陽が武門の跋扈を痛撃し勤王の大義を教えた事に対する忠節に長楽寺に参っておられますね。三樹三郎についても触れられており、グッと来ました。何分、昭和四年発行書なので旧漢字を引きながら()読んでいます。

            匿名

伊藤痴遊著の「維新秘話」
伊藤痴遊著の「維新秘話」

匿名さんへ

その時代の「勤王の話」は割りびいて考えたほうがよいでしょう。時の政権に都合の良いように作り変えられていることが多いですよ。山陽が「武門の跋扈を痛撃」した事実はありません。     見延典子

 


谷口匡著『西遊詩巻』について、『地方史研究409」の新刊案内で書きました。『西遊詩巻』の作成には阿久根の豪商河南源兵衛が大きく関わっています。

2021・2・17

山下幸太郎さん

 「谷口匡著『西遊詩巻』」

谷口匡(京都教育大学教育学部教授)『西遊詩巻』法蔵館2750円
谷口匡(京都教育大学教育学部教授)『西遊詩巻』法蔵館2750円

【目次】
まえがき
I章 漢詩人頼山陽の九州漫遊
II章 西遊する頼山陽と『杜韓蘇古詩鈔』
III章 「西遊詩巻」と二つの跋文
IV章 「西遊詩巻」訳注
V章 下関と頼山陽
VI章 頼山陽と下関の商人広江殿峰
附録
1 探訪・京都の漢学
2 入谷仙介先生の教え
3 「西遊詩巻」影印 附『山陽先生真蹟西遊詩』跋文
主要参考文献
初出一覧
あとがき

200年前、九州を旅した才気煥発の文人・頼山陽。旅行中に揮毫した墨蹟淋漓の漢詩紀行「西遊詩巻」に、その文人墨客の交往と山紫水明の風光をたずねる。
-------------------- 山陽が書き残した膨大な著作の中から、本書では特に「西遊詩」、すなわち九州漫遊中の漢詩に焦点をあてる。その大半は『山陽詩鈔』に収録され、さらに旅先で知人のために書いた「西遊詩巻」と称する巻子本はそれに漏れる詩も含んでいる。「西遊詩巻」の全作品に訳注を施してその価値を明らかにするとともに、九州行きの前後に滞在した下関での山陽についてもとり上げ、当地で作られた詩文から彼と下関の結びつきや、当地の商人広江殿峰(一七五六~一八二二)との交遊について概略を窺った。なお付録として山陽が生きた江戸時代の京都における漢学に関して概況を述べ、山陽に関する著書のある研究者入谷仙介(一九三三~二〇〇三)を追悼する文章も収めた。さらに巻末には「西遊詩巻」やそれにまつわる跋文を影印で示して参考に供した。
九州漫遊から約二百年を経た今、漢詩人としての頼山陽について、「西遊詩巻」を中心に改めてその存在意義を振り返る機会になればと願っている。
(「まえがき」より)
-------------------- 

2017年、新潮社
2017年、新潮社

同書は「明治維新で文明開化が始まったのではない。すでに江戸後期に日本近代はその萌芽を迎えていたのだ」との視点で書かれている。

2020・12・9

苅部直「維新革命」への道

 

「維新革命」への道~「文明」を求めた十九世紀日本 (新潮選書) には頼山陽の著作への言及がある。

あのウイリアム・グリフィスについても 若干ながら触れられている。
あのウイリアム・グリフィスについても 若干ながら触れられている。

荻生徂徠、本居宣長、山片蟠桃、頼山陽、福澤諭吉、竹越與三郎ら、徳川時代から明治時代にいたる思想家たちを通観し、十九世紀の日本が自らの文明観を成熟させていく過程を描くというが、山陽の著作に関する限り、特に新しい記載はない。

 


2020・4・13

湯谷祐三、廣森美枝子

「手紙より見たる雲華上人と

        小石元瑞の交流」

 

雲華上人研究家の湯谷祐三氏と廣森美恵枝子氏が「手紙より見たる雲華上人と小石元瑞の交流」(A5版、41ページ)をまとめた。

 


東本願寺高倉学寮の学頭だった雲華上人(1773〜1850)が京都の蘭方医小石元瑞(1784~1849)に宛てた書簡集「雲華師俗牘」(一巻)が究理堂に保管されていた。その全文を翻刻し、解題を加えた。

 

全部で26通あり、うち17通は山陽(1780~1832)が在世時のもの。雲華上人も小石元瑞も、頼山陽研究には欠かせない人物である。雲華上人研究のみならず、頼山陽研究にも新たな角度から光を当てた労作といえよう

 

2014年 KADOKAWA
2014年 KADOKAWA

2019・9・21

佐藤雅美「知の巨人」

 

7月に逝去した佐藤雅美による荻生徂徠伝。若き日の頼山陽は徂徠をずいぶん攻撃しているが、本書を読むと、そもそも儒者とは、異なる思想の持ち主と徹底的に戦うことがわかる。徂徠は、道徳や仁義にこだわる朱子学に対して、本来の孔子の教えに基づき「道」を求めることを自らの古文辞学の中心に据える。


後半一度だけ「頼山陽」が出てくる。明治に入り山崎闇斎、頼山陽が従三位、伊藤仁斎、熊沢蕃山、新井白石が正四位に叙されたのに対し、徂徠は贈位から外され、大正天皇即位大典に際しての大量贈位の際も、やはり贈位は見送られたという。

 

背景には朱子学に対する評価があるのかと思ったが、問題になったのは徂徠が孔子の肖像画に「日本国夷人」と署名したことが尾を引いているという。徂徠は中華崇拝主義者と捉えられていたのだった。

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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