見延典子訳『日本外史』足利氏(中)

参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931) 

2024・4・27 畠山政長と畠山義就が争う

 

 これより前、畠山政長、畠山義就は河内国でいがみ合っていた。足利義政が二人と話し、京都に帰らせた。

 寛正元年(1460)9月、足利義政は伊勢貞親に命じて、畠山義就を追放させた。義就は「私には罪はない。将軍は讒言を信じられたのではないか」といい、河内国に走った。足利義政は畠山政長に畠山義就を攻めさせ、若江城を陥れた。

 細川勝元が畠山義政に加勢したいと申し出た。寛正3年(1462)細川勝元は一族の細川成之に仮の管領とならせ、二十余カ国の兵士を率いて赴かせ、畠山義就を攻める畠山政長を加勢させた。畠山義就は数百人を率いて嶽山、金胎寺の2城にたてこもり、京都の軍を討って退けた。しかしそのうち金胎寺は陥落した。

 寛正四年(1463)3月、京都軍は獄山の城を取り囲んだ、このとき山名是豊が備後国の兵を連れて先がけして畠山義就と戦い、七度勝って七度負け、互角の勝負であったが、城兵はすっかり疲れて退却した。山名是豊が「おれは山名宗全の子である。城を落とすまで戦う」といって、城兵は出てこようといなかった。

 しかし畠山義就が刀を振りかざし、士卒に先立って出てきた。山名是豊は「畠山義就は勇士で、惚れ野よき敵相手だ」といった。日暮れまで戦ったがけりがつかず、双方とも互いに退却した。

 翌日、獄山の城もついに陥落した。畠山義就は自害しようと思った。湯浅二郞なる者が身代わりで死んだ。畠山義就は逃げ走って、高野山に入った。

 畠山義政は追っかけて攻めた。畠山義就は吉野に逃げ隠れた。畠山政長は凱旋した。山名是豊は国に帰って、畠山義就の武勇を父山名宗全に話した、山名宗全は、心中畠山義就は見所のある男だと思った。

 

2024・4・24  将軍足利義政の優柔

 

当時、三管領では細川氏だけが隆盛で、四職では山名氏だけが隆盛であった、また伊勢氏の権勢は七頭のなかで第一であった、これより前、斯波義将、斯波義重、斯波義淳、斯波義継は父子で継いできたが、斯波義継は享徳年間に若死にしたので、子がいなかった。それで同族の斯波義敏をもらい、跡目とした。斯波義敏は斯波義将の弟、斯波義種の曾孫である。

 もともと斯波氏の家には家老が三人いた。甲斐氏、織田氏、朝倉氏といった。この三家老は、後を継いだ斯波義敏を好まず、「こんどの新主人は新米のくせに、旧家臣に無礼なのはどうなっているんだ」とひそかに罵った、

 三家老は七頭の伊勢貞親に、斯波義敏を廃したいと請うた、伊勢貞親は甲斐氏から嫁をもらっていた。そのため家臣の甲斐氏の力添えをしたいと思って、将軍足利義政に請うた。義政は両方を和睦させようと思った、しかし三家老は承知しなかった。しかたなく足利義政は斯波義敏を諭して、子の斯波松王に跡を譲らせ、隠居させた。長禄三年(一四五九)斯波義敏は官職を辞任した。

 そこで伊勢貞親は斯波義廉を立てたいと願いでた。許した。斯波義廉は斯波義胤の孫である。斯波義敏は自分の子が相続できなかったので失望し、大内教弘を頼った。

 伊勢氏は代々が会計を司り、たいそう権力があった。特に将軍足利義政の時代に甚だしくなった。

 将軍足利義政の妻は日野富子といった。藤原(日野)重政の娘である。ずいぶんかわいがられて、何をいって将軍はいいなりになっていた。奥向きの請願がおおっぴらに行なわれ、政府の号令もまちまちになっていた。

 伊勢氏は政府と奥向きとの中間をとりもって権力をほしいままにし、足利義政は遊蕩、酒宴ばかりやっていた。足利義政は贅沢を好み、高倉の屋敷の障子は一間の値段が二万銭もした、その他も高価なものばかりであった。そういうわけで租税は前代の十倍もとりたてていた。前代は畿内の豪商から銭を借りたのは年に数回しがなかったが、義政は月八、九回借りることもあった。また先例にならった大儀式が行なわれる時には、いつも諸将に割り当て、費用を出させた。これまでは十年に一度くらいであったが、義政になって五年に九回も大儀式を行なった。そのため天下は衰えてしまった。近江国の武士で、熊谷某という者は学問を好み、道理に通じていたが、ひそかに幕府に上書して義政を激しく讒言した、義政は怒り、「言うことは道理が通っているが、そんなことをいう身分ではない」といった。伊勢貞親に命じて熊谷の領地を没収して放逐させた。

 

山名宗全と細川勝元の反目

 細川成之は、山名宗全のいない間をつけこみ、赤松氏の後裔を取り立ててもらいたいと願い出た。将軍足利義政は許した、細川成之は持常の子である。

 康正元年(1455)夏、赤松教祐の弟の赤松則尚を呼びだして、播磨国を与えた。

 山名宗全は怒り、赤松則尚が播磨国へ行くところを討って殺した。山名宗全は「細川勝元はなぜ赤松則尚の邪魔をしなかったのか。赤松則尚に代わって、舅の腹に刀を刺すつもりだったのか」と怒った。(細川勝元は山名宗全の女婿)細川勝元はそれまで子がおらず、山名宗全の子を養って跡目としていた。そのうち子が生まれたので、養子をやめた。それで山名宗全は細川勝元を恨んだ。山名宗全は罪を許されて京都に帰り、威勢は盛んになった。山名宗全は背が高く、赤ら顔であった。人は「赤入道」と呼んだ。

 その頃、赤松氏の遺臣は諸方に隠れていたが、山名宗全を恐れてことを起さなかった、石見という者がいた。内大臣藤原実量に仕えていた。いつも赤松氏を再興させようと思っていた。あるとき藤原実量に志を語った。

石見は「細川氏、山名氏は内輪でありながら不和になっています。私はこの時期を外さず、細川氏についたら、平生の志が成就するかもしれないと思っています」

 そこで昔の足利尊氏が赤松則村に与えた書面を出して見せた。藤原実量はそれを見て「その先祖(則村)は将軍の親となり、子孫(満祐)は将軍の仇となった。将軍足利義教を殺した罪をおまえはどのように償うのか」と嘆息した。石見は「今の将軍が職についた年、南朝の者が皇居に攻め入り、三種の神器の御璽を奪い、今は吉野にあります。私がとりかえしてきましょう」といった。そこで同僚の中村某らを吉野に行かせ、偽って南朝の皇子に仕えさせた。

 長禄元年(1457)中村某はついに南朝の皇子を殺して、御璽を取り返し、北朝の皇室に返すことができた。足利義政はその功を賞した。細川勝元も賛成したので、赤松政則は加賀の半分を賜った。政則の父の赤松性存は義雅の子で、満祐の甥である。嘉吉の件では性存は幼かった。建仁寺の僧の竜沢に頼って難を逃れた。彼が赤松政則の父である。政則はまだ五歳で、加賀の半分の領地を賜ったのである。山名宗全は赤松氏の再興を恐れ、赤松氏を支援した石見を刺殺した

 

 

2024・4・5 細川勝元、山名宗全と結ぶ②

 

畠山持国には子がなかった。甥の畠山政長を養って跡取りとし、尾張守に任じられていた、そのうち畠山義就が生まれ、右衛門佐になった。畠山持国は実子の義就を愛するようになり、畠山政長を廃そうと自然におもうようになった。畠山氏の家令の遊佐某は、たびたび南朝の兵を討って手柄を立てた。畠山持国は、その遊佐に命じて実子の畠山義就を補佐させた

遊佐の同僚の神保某は遊佐の権威を妬んでいたので、畠山政長のほうを立てて、遊佐を押しのけようとした。そこで畠山政長を指導して、山名宝全、細川勝元の二人のところに行かせ、身の振り方を頼み込ませた。

 享徳3年(1454)4月、畠山持国は将軍足利義政に請うて、畠山政長を殺そうとした。畠山政長は細川勝元の家に逃れて、神保某らに山名宗玄に助けを求めさせた。

 8月、畠山氏の将士のほとんどは畠山政長の味方をし、京都は大騒ぎになった。幕府では諸将を呼び出し、万一に備えた。ただ、山名宗玄、細川勝元は行かなかった。その夜、畠山持国に屋敷に火を放った者がいた。畠山持国は叔父の畠山満則の屋敷に入り、畠山義就は山名教之を頼った。ところが山名教之は義就を入れなかった。仕方なく家来の遊佐の家に入った。遊佐の家もまた焼けた。それで河内国に逃げた。畠山持国は建仁寺に隠れた。そこで細川勝元が畠山政長を連れて幕府に出向き、将軍足利義政に会って「このたびの放火は私の下僕の磯谷なる者仕業です」と挨拶した。9月、磯谷を誅して、謝罪した。結局、畠山政長は畠山氏の跡目になれた。兵を遣わし、畠山持国を建仁寺からつれ帰らせた、翌年持国は没した。

 将軍足利義政は、畠山持国の屋敷を焼いたのは実は山名宗全と聞き、11月、諸将を召集し山名宗全を討とうとした。細川勝元は部下をひきつれ、急に東山に赴いた。一族全員が従ったので、細川勝元は、山名宗全を許すように請うた。宗全も詫びの誓書を献上して誤った。それでわけなくすんだ。山名宗全を罷免し、領地の但馬に帰らせた。

 

 

 細川勝元
 細川勝元

2024・3・7 細川勝元、山名宗全と結ぶ

 

 以前に赤松氏が滅んだ時、畠山持国は「功臣のの子孫は絶やしてはならない。赤松満則の子、赤松則重に家を継がせ、先祖の祭祀をさせよう」と思った。また「赤松満則は明徳の役で討死し、赤松則重は嘉吉の反逆には関係していなかった。跡を継がせるべきである」


 赤松氏の遺臣はそれをきっかけに、播磨国で赤松則重を守り立てた。

 山名持豊はこれを聞き「私は功を立てて播磨国に土地をもらった。賊党どもは今それを奪おうとしている」

 そこで但馬国から兵を繰り出して、赤松則重を撃ち殺した。

 畠山持国は心穏やかではなかった。持国親子は三代にわたり将軍を擁護し、官位も従三位にまでなり、ずいぶん奢り、わがままであった。幕府に出勤するときも高貴な者が乗る網代の車に乗り、騎士を従えることがあった。部下も主人の威勢を笠に着て、法度を犯す者もいた。

 藤原(一条)兼良・藤原房嗣の二人は関白に就きたくて、かわるがわる畠山持国に賄賂を贈った。持国の威勢はそれほど盛んだったのである。

 山名持豊は持国と張り合って譲ることがなかった。持豊は髪を剃り、山名宗玄と名乗った。娘を細川勝元に嫁がせた。勝元は満元の孫である。

 細川勝元は父持元、伯父持之のときから畠山氏と交代で管領になっていた。それで宗全と結託して持国を傾けて倒そうとした。

 

2024・3・6 

乱後、関東の形勢

 

 文安2年(1445)関東の将士が願い出て、足利持氏の子、足利永寿をたてて鎌倉公方とし、上杉憲実の子の上杉竜若を管領とした。

 

古河公方足利成氏館跡 茨城県古川市
古河公方足利成氏館跡 茨城県古川市

 以前、足利永寿は信濃国に走り、母の一族の大井持光を頼った。上杉氏は逃げず、上杉憲実は髪を剃っていたが、結城を攻めることに関与したため、心中大いに恥じていた。結城が落ちてから二人の息子を坊主とし、彼らを連れて西に走り、世間から姿をくらました。もう一人伊豆に子どもがいた。これが上過竜若である。

 足利持氏が死んでから関東に平穏はなくなった。長尾昌賢が建議し、足利持氏の後胤を立てて鎌倉公方とし、人々の心を慰めようと思った。そこで足利持氏の子の足利永寿を見つけだし、鎌倉公方にもらいたいと京都の将軍家に請うたのである。将軍家では評議して許し、足利永寿は足利成氏、上杉竜若は上杉憲忠の名を賜った。

 やがて陸奥国から結城成朝がきて足利成氏に仕えた。成氏は彼と相談して、上杉氏に仕返しをしようとした。

 宝徳2年(1450)その謀が暴かれ、足利成氏は江ノ島に逃げた。上杉憲忠は追いかけ、海浜(七里ヶ浜)で戦った。将士が中に入ってなだめ、足利成持を連れて鎌倉に帰り、事件のもつれがようやく解けた。

 

 しかし京都では毎年変事が続き、南方諸国の兵が隙をついて並び起った。赤松教祐は朝鮮にいた。乱が起ったと聞いて日本に帰り、自分の家を再興しようと思ったが、発覚して誅せられた。

 

第7代将軍足利義勝
第7代将軍足利義勝

2024・3・1

山名持豊、赤松満祐を討つ②

 

 赤松満祐が自害したので、その領地播磨国、備前国、美作黒野三国を山名持豊に賜った。持豊は山名時煕の孫である。

 赤松満祐の長子、赤松教康は北畠氏に走って助けを求めたが、受け入れられず、死んでしまった。


 大内教世は大内持盛の孫で、命を奉じて少弐嘉頼を撃ち破った。

少弐嘉頼と亜亜末教祐は対馬に逃げた。ここで少弐嘉頼に土地を大内教世に賞賜された。

明徳、応永の役の二役ののち、山名氏・大内氏は衰えていたのだが、ここに至って再び隆盛になってきた。

 文安二年(一四四二)将軍足利義勝は没した。義勝は幼少の頃から馬に乗ることが好きで、とうとう落馬して死んだ。その官位は、四位左中将に止まった。足利義勝の母は小弁で、一色義貫を讒言じて殺した女である。世間では足利義勝に変死は一色義貫に祟りである、といった。

畠山持国が管領となった。相談の結果、足利義勝の同母弟足利義成を将軍とした。この時八歳であった。にちに足利義政と改めた。

 

2024・2・26

山名持豊、赤松満祐を討つ

 

 一四四一年(嘉吉元)八月、畠山満家の子、畑山持国は管領の細川持之らと相談して、足利義教の子の足利義勝を立てて将軍とした。わずか8歳であった。

 後花園天皇は将軍足利義勝に詔して、赤松満祐を討たせることにした。細川餅常、赤松貞村、武田信貫をやって播磨国から進ませ、山名持国、山名教之、山名教清らを美作国から進ませた。兵は五万人であった。

 赤松満祐は、赤松貞村が攻めにくると聞いて大いに喜び、「あの小僧がやってくるとは願ったりかなったりだ」といい、兵を遣わし、蟹坂で迎え討って戦った。細川持常は赤松満祐と縁続きであった。自ら一軍を率いて前方にいたが、わざとぐずぐずして進もうとしなかった。

 九月、山名持豊は指針で法華山まできた。山はたいへん険阻であった。赤松満祐の兵は狭い道を抑え守り、大きな材木を吊り下げて待っていた。山名持国は心配して、夜、土地の農兵数千名に銘々一本ずつの松明を持たせて側らの山に登らせた。

室町幕府第六代将軍足利義教。義満の子。もと青蓮院門跡義円。正長元年(1428)正月、義持の死後、将軍職後継者に指名されて還俗。義宣(よしのぶ)と名乗る。翌、永享元年(1429)義教と改名。同一二年受衣。嘉吉元年(1441)6月24日赤松満祐によって在職中に暗殺された(嘉吉の乱)。応永元~嘉吉元年(1394‐1441


 赤松満祐の兵は、山名氏の軍勢は険阻な山のほうから攻め入ったものと思い、走っていって防いだ。そのため狭い道を守っていた兵の多くが減った。ため狭い道を守っていた兵の多くが減った。

 山名持豊は数百頭の牛を徴収した。藁を縛り付けて人の形にし、牛の背に跨がせ、敵兵に向けて追いやった。その後から精兵数百人が太鼓を鳴らして騒ぎ立て、明け方にその狭い道から進んだ。赤松満祐の兵は藁人形を敵兵だと思いこんで、吊していた材木を全部落とした。牛は死んだが、兵士があとから攻め入り、赤松満祐の兵は驚き潰えてしまった。山名持豊は播磨国に進み、つじつぎと諸方の砦を攻め落とし、諸軍に先立って白旗城に押し寄せてきた。城兵は逃れ去り、いなくなった。赤松満祐は渥美某とともに自害した。

 

2024・2・19 赤松満祐、将軍足利義教を弑(しい)す③

 

赤松満祐の甥に赤松教祐という者がいた。幕府に近侍として仕えていた。満祐の領地を割くという話を小耳にはさみ、満祐に告げた。満祐は非常に怒った。長子の赤松教康、家臣の渥美某を呼び寄せて相談し、「わが一族は将軍家のために功を積んできた。しかし将軍家はわれわれに無礼なのは一度や二度ではない。将軍のいいなりになっていれば、無礼はとどまりことを知らない。われはまずこちらから兵を出して事を起こそうと思う。お前たちもわが家のために尽くしてくれ」といった。赤松教康らは賛同した。そこで鎧武者三百人を屋敷内に隠しておき、足利義教を招待した。

 足利義教はさっそく出かけた。供の兵士を門外に待たせ、公卿や諸将といっしょに屋敷に入り、たいそうなご馳走をいただき、能楽を鑑賞した。能楽の曲数も進み、鵜飼の曲になった。日暮れになっていた。屋敷内で突然「厩の馬が逃げた」と叫ぶ者がいた。門を閉めた。鎧武者がいっときに繰り出してきた。足利義教が座から立とうした。赤松教康、教祐が左右から進み出て、足利義教に手をつかんでねじり伏せ、「今日殺されるのは、あなた自身が招いたことだ」。渥美某が衝立の後ろから飛び出して、刀を振るって足利義教の首を落とした、

 一座の面々が刀を抜いて立ちあがった。同士討ちで死んだ者が数十人いた。斯波義康、大内持世も刀創を受けたが、塀を乗り越えて逃げ出した。門外の供の兵士もみな崩れ去った。

 赤松満祐は足利義満を殺してしまったからには、いずれ幕府の兵がやってくるはずだから、その兵とたたかって討死しよう、と決心した。ところが全諸将士は危急の知らせで集まったが、あわてふためいてどうしてよいかわからなかった。

 

 ある日、赤松満祐は三百騎を引き連れて京都を出て、摂津国の中島村に至り、足利義教の首を崇禅寺に葬り、西の播磨に帰って白旗城に立て籠もった、この時から幕府では「能楽の鵜飼」を縁起の悪い曲として、能楽の番組には加えなかった。将軍足利義教の官位は左大臣、右近衛大将、従一位にまでなった。没したのは四十八歳であった。七月、危うく逃れた大内持世も受けた刀創がもとで亡くなった。

 

2024・2・18 赤松満祐、将軍足利義教を弑(しい)す②

 

 以前赤松満祐は同族の赤松持貞と戦ったとき、持貞が自害したので、その領地を合せもった。持貞の兄の子・赤松貞村は幼い頃に父を亡くし、知行を取り上げられていた。

 足利義教は赤松貞村の美しい容貌を気に入り、呼び戻して小姓とし、寵愛した。足利義教は「兄義持は分家の赤松持貞をかばったが、私は本家筋の貞村を愛する。とうぜんその間には区別がある」といった。それで赤松満祐は疎んじられ、退けられたのである。

 赤松満裕は背が低く、風采もあがらなかった。足利義教はたわむれに「三尺入道」といった。あるとき満祐は宴会で酔っぱらい、舞った。「背が低くてもバカにするな。これでみ三カ国の領主だ」と歌った。足利義教はますます満祐を憎んだ。

 義教は猿を飼っていた。満裕が幕府に来るごとに、いつも人にその猿を放させて、満祐の顔をひっかかせた。満祐は刀を抜いて猿を切り、義教を深く憎んだ。しかし決して顔には出さなかった。

 その頃、幕府には奇っ怪な出来事が次々起っていた、夜、狐が屋根のうえで鳴いたこともある。また当直していた者が、空き部屋を覗くと、人形が数十鵜飼いをやっていりのを見たことがある。鵜飼とは能楽の曲名である。それが消えて見えなくなったのである。

 足利義教はこれらの出来事をさほど気にかけなかった。そのうち赤松貞村が成長し、壮年になった。義教が彼を溺愛することは衰えなかった。ついに赤松満祐の土地を割いて彼に与えようと思い、満祐の屋敷にいって説得しようとした。満祐に「その方の庭園にいる鴨が子を生んだと聞く。一度見にいきたいがどうか」と訊いた。満祐は悦んだふりをして「いついらっしゃるのか」と聞き、六月二十四日という答えを得た。

 

「日本外史を読む会」(頼山陽史跡資料館 第1,3金)でも「足利氏」を読んでいる。登場人物が多く、内容が細かいので苦戦している。現在会員は10名

2023・10・7 

足利持氏の余党を滅ぼす③

 

以前、足利尊氏が弟の直義と相談し「足利義詮は勇武ではないので、将軍の重職を任せられない。関東を足利基氏に領有させ、守らせたほうがいい」といった。そこで基氏を立て、関東管領(鎌倉公方)として、義詮を助けさせた。そのとき「両家が子々孫々まで助け会い、背いて仲違いしないこと」と申し合わせた。


 

 しかしながらその後の将軍家の足利義満、義持には「鎌倉を滅ぼそう」という意思があった。義教のときついに成就したことになる。鎌倉の基氏を元とする家系はこれで途絶えたが、京都の将軍足利義詮を元とする家系もこの頃から乱れ始めてきた。

 

赤松満祐、将軍足利義教を弑(しい)す

 将軍足利義教は疑い深く、気性が荒く、怒気で臣下を追い回した。鎌倉の足利持氏を滅ぼしてからは、ますます奢り、父祖がやれなかったことをやろう、天下にはもはや恐れるべき者はない、と思うようになった。

 足利義詮が将軍職を継いで三年目のころ、腰元三人が悪事を働き、自害を命じられた。赤松満祐の娘もその一人であった。ある人が「満祐は娘の死により君主を怨み、謀反心を抱いている」といった。義教は満祐を捕らえようとした。満祐は播磨に逃げた。義教は兵をやり、攻めさせた。満祐は力尽き、髪を剃って降参した。それで義教は彼を許した。

 また足利義教が将軍を継いで7年目のこと、一色義貫、土岐持頼に越智氏の高島城を攻めさせた。ところが義教の寵愛している小弁という美女の家の者が、一色氏に怨みを抱いていた。小弁は一この機を利用して「一色義貫が越智氏と内通している」と讒言した。義教は武田信栄に命じて陣中で一色義貫を誅させ、一族も全部殺させた。また土岐持頼も疑い、細川持常に命じて殺させた。以上のことから、諸将の多くは自分の身を不安に思っていた。中でも赤松満祐は最も不安を抱いていた。

 

2023・9・25 足利持氏の余党を滅ぼす②

 

 将軍足利義教の末弟が坊主になっていた。足利義昭といった。後亀山天皇の皇子で、嵯峨の大覚寺に居られた方(良泰親王)がいた。義昭はこの方と仲がよかった。義昭は皇子に「近ごろは西も東も兵乱が起っています。もし皇子が南朝の旧業を再興しようとお考えなら、今が良い時期です。北畠氏は足利氏と和睦しましたが、皇子が挙兵したと聞いたらまた兵を起こすでしょう。土岐氏、一色氏なども将軍を怨んでいますから、すぐ馳せて味方するに違いありません」。

 また足利義昭はひそかに人をやり、九州の菊池、大村の諸族に挙兵させ、加勢させようとした。菊池氏は「もし結城氏の城が今後2年も陥落しなければ、天下は動揺するに違いない。そのときに乗じて兵を起こした方がいい」といった。そこで義昭は門を閉じて外部との交流を絶ち、髪を蓄えて還俗の準備をした。将軍足利義教は彼が長い間出てこないのを怪しみ、調査をして事実を知った。そこで兵をやって捕まえようとした。義昭は逃げて、行方知れずになった。義教は肖像画を描き、諸国にばらまいて探し、千両の懸賞をつけた。

 嘉吉元年(1441)3月、将軍足利義教は伊勢国の太新宮に参詣した。北畠氏が義教を隠しているのではないかと疑い、探すための参詣であった。4月、結城、古河の城がみな陥落し、結城氏朝父子は討死し、城兵もことごとく戦死した。足利持氏の子の春王丸、安王丸の二人は落ち延びたが、上杉氏の兵に捕まえられた。ただ、足利持氏の末子永寿王丸だけは信濃に逃げた。結城氏朝の末子の結城茂朝は常陸国に走った。上杉氏の兵は、春王丸、安王丸を檻つきの乗り物に入れて京都に上っていった。

 5月、薩摩国の人が行方不明だった足利義昭の首を取って東に上り、首のほうが春王丸、安王丸より先に京都に着いた。首は腐って見分けがつかなかった。将軍足利義教は義昭がかわいがっていた小姓を呼び出し、首を見せた。小姓は「これがご本人なら、歯が二本欠けているはずです」といった。調べると、その通りであった。義教は非常に喜び、使者をやって春王丸、安王丸を出迎えたあと、殺させることにした。使者は二人と垂水で会い、護衛の大将長尾某が道ばたの寺の入り、二人に行水を勧めた。二人は殺すためであることを知り、正座して、刀をうけた。春王丸十三歳、安王丸十一歳であった。二人の首が京都に届いた。義教は二人の乳母を呼び出し、「足利持氏には他に子どもはいるか」と問うた。乳母は答えず、舌をかみ切って死んだ。

 

2023・9・21 足利持氏の余党を滅ぼす

 

 永享12年(1440)正月、春高丸、安王丸がひそかに使いを遣わして、結城氏朝に「上杉を討ち、父の仇をとる協力をしてほしい」と頼んだ。氏朝は部下の将士に「私は足利持氏からたいそう恩顧をうけたが、最後を救うことができなかった。今、二人の若者から報復を頼まれた。武士としての名誉だ。生きても死んでも力を尽くし、報復しなおわけにはいかない」。そこで子の結城光久に命じて二人の孤児を迎えに行かせ、一族を集めて結城、古賀の二城を修繕させ、兵を分けて二城を守った。足利持氏の家来で生き残っていた一色、野田、大井、吉見の諸族も味方した。

 このことが京都に聞こえた。将軍足利義教は上杉持房に旗を授けて鎌倉に行かせ、もう一度東国の兵を繰り出して鎌倉の上杉清方を助けさせることにした。7月、上杉清方は諸軍の大将になって、結城の城を取り囲んだ。結城氏朝は力戦して防ぎ、たびたび上杉清方の軍をやぶった。足利義教はますます兵を繰り出し、上杉憲実を軍の監督にさせようとした。辞退したが、許さなかった。そこで上杉憲実は東北三道の兵を率いて、結城氏朝を攻めた、氏朝は士卒を励まし、結城城に立て籠もり、固く守ったので、上杉憲実らは容易に陥れることができなかった。この時には越智氏の高鳥城は落ちてしまった。しかし北畠氏がまた挙兵した。

 足利義教は人をやり、和を講じさせた。義則は「まず関東を平定し、そのあと北畠氏を滅ぼすつもりだ」といった。

 

2023・9・11 本享の乱

 

 翌日、足利持氏は早速一色時永に兵を率いらせ、上杉憲実を討たせることにした。持氏も三浦時高を留めて子の足利義久を助けさせて鎌倉を守らせ、自ら大将となって武蔵国の国府に出かけて布陣した。

 上杉憲実は京都の将軍足利義教に危急を告げた。義教は天皇に足利持氏征伐の詔を願い受け、その詔書に将軍としての下文を添え、昔から知っているの上杉氏実の二子、上杉持房、上杉教朝に持たせて東北の三道(東海、東山、北陸)に触れまわらせた。

 東海道、東山道の兵は上杉持房に従って箱根から進んだ。北陸道の兵は上杉教朝に従って平井城に直接赴き、上杉憲実と合流して南方の鎌倉に向かって攻め下り、分陪原に陣取った。足利持氏は兵を分けて、二方面からくる敵を防いだ。9月、上杉持房らは足利持氏らの兵と箱根で戦ったが、勝てなかった。しかし綾川尻では勝ち、鎌倉に攻め寄せた、10月、三浦時高が足利氏に叛き、子の足利義久を攻めた。義久は、大伯父の足利満貞と一緒に逃げて扇谷に隠れた、このとき家来の梁田某、名塚某が力の限り奮闘したが、討死した。その他の将士は、ほとんどが上杉憲実に味方した。足利持氏は身動きがとれなくなった。11月、持氏は髪を剃り、降参を申し入れた。

 上杉憲実は、長尾芳伝をやって持氏を永安寺に移し、兵をつけて見張らせ、上杉憲直、一色直兼に迫って自害させ、家来はみな殺した。上杉憲実自ら関東の将士と一緒に将軍足利義教に連判状を差し出し、足利持氏の死だけは許してもらうよう願い出た。使者は京都と鎌倉を十余回往復した。将軍は許さなかった。

 本享11年(1439)正月、上杉憲実は将軍足利義教の命令で兵をやり、諸軍に足利持氏のいる永安寺を囲ませた。持氏は寺の塔に火をつけ、妻とともに自害した。子の足利義久、叔父の足利満員も死んだ。幼子二人は春王丸、安王丸といい、七、八歳だった。乳母の長尾氏に連れられ、下野国の日光山に向けて逃げた。

 将軍は鎌倉に使者を遣わし、諸将を慰労し、上杉憲実に東国を管領させた。憲実は主君足利持氏殺しの悪名を負うのを恐れ、自ら永安寺にいき、持氏の肖像画の前に伏して謝罪し、刀を抜いて自害しようとしたが、従者に止められ果たせなかった。そこで髪を削って隠退して国清寺に入り、弟の上杉清方に上杉憲朝と一緒に管領の事務を行なわせ、自分は足利氏の残党を捜させた。

 

 

2023・8・18 鎌倉公方足利持氏、将軍足利義教に逆らう

 

 この年(1429)、年号を永享と改めた。朝廷の評議では「生長という年号は皇室にも武家にも縁起が悪い」といった。だが鎌倉公方の足利持氏は将軍になれなかったのを怒り、秘かに生長の年号を用い、「どうして還俗の将軍(足利義教)に屈することができようか」といった。足利義教は、天下には自分に服従しない者が多いことを知り、懸命に政治に励んだ。諸将にも言葉遣いと顔色を厳格にして、少しも斟酌しなかった。軍国の事務も改訂することが多かった。

 永享2年(1430)鎮西の豪傑らを京都に移した。また東南(関東、南朝の遺臣)の見当をつけようと、永享3年(1431)には伊勢国や紀伊国に、永享4年(1432)には駿河国に遊びに出かけ、今川範政の家に泊まり、富士山を見物してきたと宣言した。この時、越智氏は高鳥城に立て籠もっていた。その城は堅固で数年も落ちなかった。将軍足利義教は兵を派遣して攻め立てた。義教は武芸を小笠原政康に習い、射術も稽古してもらっていた。永享8年(1436)小笠原政康が村上頼清と信濃国で戦った。頼清はすぐ負け、鎌倉に助けを請うた。鎌倉公方の足利持氏は頼清を助けようと思った。山内の上杉憲基の子、憲実が関東管領になっていた。憲実は「村上頼清は、わが管轄の国の者ではない。なぜ鎌倉に関係あろうか。それに頼清を助ければ、将軍は小笠原正康を助けるだろう。それでは兄弟の国(京都と鎌倉)が天下の騒乱をおこすことになる」と諫めた。持氏は憲実の権力を恐れて渋々従った。上杉則直、一色直兼は持氏にかわいがられていた。彼らは憲実の諫止を利用して、持氏に諫言した。翌年(1437)四月、足利持氏は上杉憲直、一色直兼に、村上頼清を助けることを口実に武蔵国で兵を集めさせ、管領の上杉憲実を誅しようと思った。鎌倉府中は大騒ぎとなって、兵士が山内の憲実の屋敷に集まってきた。持氏は恐れて自ら山内に行き、憲実を面前で諭した。罪をみな諫言した直実になすりつけて追い払った。憲直は藤沢の寺に逃げ込み、この件は落着した。

 永享10年(1438)足利持氏は子の賢王を元服させるとき鶴岡八幡宮で儀式を行ない、先祖源義家の旧例のようにしようと思った。管領の上杉憲実が「京都室町の屋敷で元服して、将軍の名から一字もらうが礼式。先代からあなたに至るまで慣例となっている。あなたが変えるのはよくない」と反対した。持氏は「還俗将軍では我が子に元服させるには不足だ。我が子を元服させるのは今の天皇か伏見、亀山の二皇族よりほかはいない」といい、ついに鶴岡八幡宮の前で元服させ、名を足利義久とつけた。諸将は持氏の邸に赴いて祝いを述べた。ただ憲実だけは病気を口実に欠席した。持氏は怒って兵を出し、攻めようとした。憲実は上野国に逃げ、平井城にたてこもった。

 

2023・7・28 皇位継承で紛乱

 

 生長元年(1428)7月、称光天皇が南軍に捕らえられたとき、皇太弟の後光厳天皇が位に就かれた。ところが崇光天皇は吉野から還御して伏見殿に居て、子の栄仁親王を立てようと思い、細川頼之に頼んだ。頼之はその話を聞かず、後光厳天皇の皇子後円融天皇を立て、ついで後小松天皇から称光天皇へと伝えたのである。こうして伏見殿の崇光天皇の血筋は日増しに衰えていった。そこで後小松上皇は哀んで院宣を下し、栄仁親王の子の貞成を無品親王とされた。宮中内が「もし称光天皇が崩御になれば貞成親王が即位されるだろう」と評判した。称光天皇はこれを聞いて機嫌が悪かった。貞成親王は髪を削り、野心のない意思を示した。貞成親王の子に彦仁親王という方がいた。称光天皇が病気になったとき、後小松上皇は将軍足利義教と相談してお世継ぎを決めた。管領畠山満家に彦仁を迎えさせて、位に就かせた。これが花園天皇なのである。このときも、南朝の後亀山天皇の皇子が位に就くことを希望したが、果たせなかった。皇子は怒って伊勢国に敗走した。翌1429年(生長2)北畑氏、越智氏など元の南朝の諸氏がこぞって挙兵した。将軍足利義教は土岐持数の北畠氏を攻めさせて破り、皇子を捕らえて京都に帰り、皇子を嵯峨においた。また畠山氏は高鳥城の越智氏を攻めさせたが、まだ下すところまでは行かなかった。

 

2023・7・20 将軍の交代

 

 足利義持(室町幕府第4代征夷大将軍 在任応永元年1394年~ 応永301423年)は生まれつき不精者であった。折しも京畿地方は太平だったので、日々游山宴会を仕事とし、三管領、四職の者どもに交代でご馳走を準備させ、招待させた。これより1年前、将軍職を長男義量に譲り、自分は髪を剃りおとし、道栓と称していた。応永32年(1425)将軍数量は没した。義持は再び政治を執り行い、赤松持定をかわい

 足利義持
 足利義持

がった。持定は貞範の孫である。始め貞範の弟則祐は尊氏、義詮を助けた手柄で、播磨、備前、美作を領有し、これを子の義則に伝えた。34年、義則は死んだ、四人の子があり、則友、満祐、祐之、義雅といった、則友は若死にし、次男の満祐が跡取りとなり、三カ国を領有することとなった。ところが義持が満祐の領地を削って、持貞の与えようと思った。満祐は怒って、自分で屋敷に火をかけ、播磨に走り帰った。義持は細川持元、山名満煕を使わし、撃たせることにした。諸将の多くは満祐と縁続きになっているので、皆往くことを好まなかった。10月、連判状を差し出して持貞の不始末を訴え出た。義持はやむを得ず、持貞を自殺さえ、満祐を赦し、京都に帰らせた。義持は病気が出て生長元年(1428)正月2没した。義持は内大臣、右近衛大臣にまで登り、従一位になった。彼には六人の弟がいた。弟の一人足利義嗣が野心を起こしたという嫌疑から殺してしまった一件に懲りて、残りの弟は皆坊主にした。そのため義持の病気がわるくなったとき、跡取りはいなかった。幕府の評議は坊主になった弟の一人を跡取りにしようとした。幕府の中には鎌倉公方の足利持氏に心を寄せている者もあった。持氏も将軍になりたがっていた。しかるに管領畠山満家は「これは神様にお伺いをたてるのが一番だ」と嫌疑した。そして自分で石清水八幡宮にいって御籤をひいたところ、足利義円がよいということであった。義円というのは義持の三番目の弟で、当時青蓮院の僧正となっていた。義円は髪を伸ばして還俗し、義持が没すると室町の屋敷に入って葬主となった。3月、義円は将軍の位を賜り、まだ髪が伸びていないため頭を布で包んで諸将に面会した。名を足利義宣と改め、後の足利義教室と改めた。

 

足利持氏
足利持氏

2023・7・7 

上杉氏憲、足利持氏に反す

 

 足利持氏(第4代鎌倉公方。第3代鎌倉公方 足利満兼の子)のとき、上杉氏憲が政務を執っていたが、持氏とは不仲であった。そこで氏憲は辞職し、上杉憲基に代えた。憲基は憲定の子で、憲房の玄孫である。氏憲は重顕の玄孫である。持氏の叔父は満隆といい、世間の評判は


大層よく、甥の満仲を養子としていた。氏憲は満隆に「公方(持氏)は酒や女に耽り、溺れている。あれでは軍勢を統括などとうていできない。憲基が政治を行なっているが、依怙贔屓ばかりやっている。邪なものを匡正し、世の難儀をしずめるのにあなた以外誰がいるでしょう。もしあなたが事をお挙げになるのなら、及ばずながら私が助力いたしましょう」。そこで義持の命令と偽り、秘かに将士を召集した。将士は争って従った。応永23年(1416)12月氏憲は兵の将として満隆、満仲を守り立て、持氏を取り囲んだ。持氏は非常に驚き、あわて、馬に乗って逃げ、憲基の佐介の屋敷に逃げ込んだ。憲基は、一族の氏定に防がせた。しかし多勢に無勢で、とうていかなわなかった。持氏は夜、西に逃走した。お供の者の多くは追っ手に殺された。藤沢の寺まできたところで、氏定は自殺した。憲基は越後に逃走した。 

 敗北した諸敗軍は持氏が伊豆の国清寺にいると聞き、みなそこに集まってきた。すると狩野介某は氏憲に味方して攻めてきて、討ち破った。持氏は駿河に逃げ、今川憲忠を頼り、今回の出来事を京都の将軍に知らせた。京都では「大納言義嗣は将軍になれないので、秘かに怨み心を抱き、氏憲と示し合わせ、義持を討とうとしている」といいふらした。そこで義持は義嗣に迫って髪を剃らせ、相国寺に押しこめる一方、関東の将士に命令を下して、持氏を助けさせた。そこで憲基は越後で挙兵し、江戸氏、豊島氏、二階堂氏らはみな武蔵で挙兵して氏憲を討った。氏憲は兵をやって攻めたが、敗れ帰ってきた。氏憲の婿岩村持嗣は上野で挙兵し、氏憲に味方した。

 応永24年(1417)正月、氏憲は持国とともに武蔵を挟み撃ちし、勝って諸氏を平らげた。そのうちに持国は心が奢り、わがままになってきた。将士はみな愛想を尽かした。結局、氏憲は負けて帰ってきた。一方、持氏につくものは日増しに多くなった。そこで持氏は今川氏、大森氏、葛山氏の兵を率いて鎌倉を攻め、取り戻した。満隆、満仲、氏憲、及び氏憲の家宰長尾氏春らは皆雪下の寺で自殺した。持国は残兵を集めて、持氏の大将舞木宮内と戦い、負けて、擒にさせられた。翌年、義嗣も急死した。

 応永29年(1422)佐竹某が持氏に叛いた。持氏は比企谷で戦って、斬った。小栗満重、宇津宮持綱がまた叛いて、結城に立て籠もった。持氏は上杉氏、小山氏に討たせた、翌年、持氏は自ら大将になって、結城を攻め、陥れ、満重、持綱を斬った。京都からの援兵は駿河まできたが、すでに平定したと聞き、引き返した。かくして持氏は凱旋して、武蔵の国府まできた。義持がもとの叛臣氏憲の孤児某を庇っていると聞いたので、これを怨み、謀反の心を起こした。そこでそのまま兵を起こして西、京都に攻め上ろうとした。応永31年(1424)3月、義持は服西堂という僧を派遣して、武蔵に至り、持氏を諭して兵をやめさせようとした。持氏は承知しなかった。西堂は武蔵と京都を往復して説得した結果、義持、持氏両人に頼み、親子になってもらう約束をした。9月になって、和睦がなり、持氏は鎌倉に帰った。

 

2023・7・6 幕府、東西に基礎を固む②

 

 当時、関東管領の兵力は京都の将軍の倍はあった。天子を廃したり、立てたり、公卿の官職を置き換えることは将軍が独断でやっていて、将軍の威権は比べるものがないほどであった。世間では将軍を公方と呼んでいた。初め足利義満は幕府の官政を制定した。武衛、細川、畠山の三氏が代る代る管領になった。これを三管領といった。山名、一色、京極、赤松の四氏は代る代る侍所の別当になった。これを四職といった。武衛というのは斯波氏で、京極は佐佐木氏である。この他、武田、小笠原の両氏は代る代る馬礼式を掌り、吉良、今川、渋川の諸氏は代る代る武者頭となり、伊勢氏は奏者となった。これをを合わせて七頭といった。関東でもこれにならい、自ら公方と称した。上杉憲房の子孫が代々鎌倉の山内に居た。憲房の兄は重顕である。その子孫は代々扇谷に居た。これを両上杉といい、代る代る管領となった。そして氏満の弟満直は陸奥出羽を支配していた。これを合わせて三管領といった。千葉、小山、長沼、結城、佐竹、小田、那須、宇津宮を八館といった。

 

2023・7・1  幕府、東西に基礎を固む

 

 応永5年(1408)5月、足利義満は没した。義満は初め従五位下に叙せられ、左馬頭に任ぜられ、従一位左大臣に累進し、右近衛大将、右馬寮御藍をも兼ね、ついには太政大臣にまでなり、三宮に准じる待遇をされた。久我氏は源氏の長者になり、淳和弉(しょう)学両院の別当に任じられていた。義満の代になって、この二つの別当が足利氏につけられることになった。代々将軍に任ぜられた官爵叙任は、足利氏の最後まで義満にようにされた。しかし太政大臣になったのは義満だけである。義満が薨じた時、詔して太上皇の尊号が贈られた。嗣子の義持はあまりにもったいないと恐れ、辞退して頂戴しなかった。明の天子は義満に諡して「恭献王」といった。義持はこれを受けた。翌年(応永16)6月、鎌倉の満兼(鎌倉公方第2代足利氏満の子、尊氏の曾孫)が死んだ。氏満は従三位左兵衛督にまでなったが、満兼は従四位下左兵衛佐で一生を終えた。以後、鎌倉管領の官爵叙任はこれが例となった。

 

 満兼には二人の息子持氏、持仲がいた。持氏が跡目となった。以前、宇津宮氏広が乱をなした。斯波持詮は陸奥の探題であったが、これを撃って斬り、氏広の首を鎌倉に献じた。満兼は持詮に氏広の領地を与えて、功を賞した。次いで伊達政宗が乱をなした。満兼は執事上杉氏憲を派遣して、撃って平定させた。18年、飛騨国司藤原尹綱の兵が騒いだ。義持は京極高数を派遣して、撃って平定させた。19年、後小松天皇は位を皇太子に譲った。称光天皇である。南朝の多くの遺臣らは約束通りに後亀山天皇の後に立ててほしいと願い出た。足利氏は評議して「南朝の後胤を立てることは、わが足利氏の志ではない」とし、願いを聞きいれなかった。約束が違ったので、諸国の兵が騒ぎ出した。20年、伊達氏、懸田氏は陸奥で乱をおこした。持氏は畠山国詮をやって、攻めさせた。21年、北畠氏、関氏は伊勢で乱をおこした。義持は土岐頼益に攻めさせた。翌21年みな平定した。

ホームページ編集人  見延典子
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