2024・4・27 久保寺辰彦さん「的場復斎について調べました」
⇒ 見延典子
見延典子様
原稿用紙のことから的場復斎のことを調べ始めました。
ネットではほとんど情報を得られませんでしたが、国立国会図書館のデジタルコレクションで少し見つけることができました。
黒岩一郎著「香川景樹の研究」1957年や井上通泰著「南天荘雑筆」1930年によれば、的場復斎は名を健といい、備中早島(倉敷)の儒者、医者であり、香川景樹の妻、包子の妹が的場の妻のようです。天保6年5月19日63歳没ということで、山陽より9歳も年上だったのは意外でした。香川景樹の門人というので、山陽より年下だと思っていました。
左「頼山陽書簡集下巻」
中「南天荘雑筆」 右 原文(南天荘雑筆より)
また、「南天荘雑筆」の中に、先日引用した山陽の手紙の釈文がありました。これが添付画像のとおり、山陽書簡集で「京儒に、外に」となっている部分が「京儒之外に」となっていました。これだと大分意味が違ってきます。前者の書簡集ならば、京の儒者でもこれほど書ける人はいないという最大限の褒め言葉になりますが、後者の方だと京の儒者並みという意味になってしまいます。
そこで、原文はないかと探すと、同じ「南天荘雑筆」にありました。画像の通り、「京儒ニ外ニ」となっています。書簡集が正しく、京の儒者より
よくかけていると褒めています。
その他にも先日送った原稿用紙の文が掲載されていましたが、「最楽軒」についてはまだ調べ中です。またなにかわかりましたらご連絡致します。
久保寺辰彦
2024・4・25 見延典子「よろしくお願いします」 ⇒ 山根兼昭さん
見延典子「的場復斎の原稿用紙?」 ⇒ 久保寺辰彦さん
山根兼昭さん
写真をよろしくお願い致します。ホームページに掲載できる許可が下りればいいのですが。
見延典子
久保寺辰彦さん
「頼山陽書簡集」を確認しました。寄せられた写真の原稿用紙は的場復斎(原稿用紙にある「最楽軒」は復斎ゆかり?)の原稿用紙で、それに山陽が朱を入れたのではないでしょうか。そうであっても、山陽が生きた時代に、オリジナルの原稿用紙をつくる趣味人がいたことがわかります。
見延典子
2024・4・24 久保寺辰彦さん「頼山陽、朱書き入り原稿用紙」
⇒ 山根兼昭様 見延典子
山根様、見延様へ
画像の原稿用紙は天保元年3月、山陽51歳の時に香川景樹へ送ったものだと思われます。ただ、文は香川景樹の門人である的場復斎が書いたもので、朱書きの方が山陽の書いたものです。ご参考までに送ります。縦字数は20字で統一されているようです。
これは、山陽が景樹のために作った「土佐日記新解序」に対して門人である復斎がこの批判文を送り、それに対して山陽が朱書きで答えているもの
だと思います。
詳しくは「頼山陽書簡集 下巻」279ページを参照して下さい。
面白いのは、この原稿に添えた、景樹への手紙に批判した復斎に対して
「何分小言を申され候処の文、甚だおもしろく、京儒に、外におそらく是程に書け候人はあるまじく候」と批判を喜んで褒めているところです。山陽の大きさを改めて感じました。
久保寺辰彦
2024・4・23
山根兼昭さん「紙の博物館に利用申請を準備」⇒ 見延典子
見延典子さん
色々貴重な情報、ありがとうございます。せっかく乗り掛かった舟なので、もう少し追求してみたいと思っております
紙の博物館 東京都北区のHPより
今「紙の博物館」宛てに、「収納資料利用申請書」を準備しております。「頼山陽ネットワーク」の関係記事をつけて申請すれば、「日本外史の原稿用紙」の現物を確認出来そうです。
縁者が東京に居り、写真も本格的にやっているので、写真を撮ってきてもらう予定です。閲覧日時に双方のスケジュールの調整が必要ですので、一カ月以内に実現したいと思っております。
山根兼昭
2024・4・22
見延典子「頼山陽直筆『日本外史』の原稿」 ⇒ 山根兼昭さん
左は安藤英男著『頼山陽日本外史』(昭和57)の口絵に載っている「頼山陽直筆『日本外史』の原稿」(京都頼家所蔵)です。
中央に「日本外史」とあり、片側は9行。文字数は17字~19字くらいで、まちまちです。ご参考になさってください。
2024・4・18 見延典子「川越版『校刻日本外史』の版木用?」
⇒ 山根兼昭さん
山根兼昭様
「紙の博物館」にお問い合わせ下さり、ありがとうございます。
「原稿用紙を最初に使ったのは頼山陽」という話は以前聞いたことがあり、少々調べたことがありますが、よくわかりませんでした。
今回、山根さんからの情報提供で、改めてネット検索したところ、日本出版学会の会報(2015年)に三村泰一さん(当時の肩書き 東北大学大学院情報科学研究科博士課程後期)という方が「紙の博物館」に所蔵されている頼山陽の原稿用紙を見たとして、次にように書かれています。
「 川越版『校刻日本外史』は,22字詰めで表裏各10行であり,紙の博物館の「原稿用紙」に字数・行数が一致する。すると,これは板本を作成するさいに使われたものと考えられないだろうか。(略)
板下の紙は板木に貼り付けられ彫られてしまうので,使用後は残らない。これは,『日本外史』の板下を作った時,その板下の書式を一定にするために作られた板木がたまたま残り,それで刷られたものの可能性が高い。そうだとすれば,今日の意味での原稿用紙ではないが,江戸の整版印刷の歴史を考えるうえでの貴重な史料といえる。また,本資料のような用紙の形式が,後世の原稿用紙に影響を与えた可能性も考えておく必要があると思われる。」
このあたりが真相のように思われます。
見延典子
2024・4・17
山根兼昭さん『山陽の原稿用紙」 ⇒ 見延典子
「楮を手すきした和紙に、朱色の罫線二十二詰め、二十行の原稿用紙」につきまして、4月16日東京王子の「紙の博物館」に照会致しました。
学芸員曰く「確かに和紙にマス目の罫線があり、余白に「日本外史」と書かれている。しかし中は白紙である。」現物は収納されていて手元にはなく、写真等もないので送れない。
浅草、満寿屋紙店のブログ。現存する最古の原稿用紙は藤原貞幹作(1797年)好古目録の草稿である『日本外史』の専用原稿は少し後であるが、マス目の用紙で朱色の罫紙である。
満寿屋店主曰く「自分の仕事の源流をたどって、昔の原稿用紙も調べた。紙の博物館で見つけたのは、頼山陽が『日本外史』をこの原稿用紙に書き上げたことだった。
山陽の原稿用紙が変わっているのは、マス目の両側にルビ欄がある事。これは漢文の性格から、本文の左側に返り読み記号、右側に送り仮名をつけるからこうなったらしい。以上。
2024・4・15
見延典子「頼山陽の原稿用紙」 ⇒ 山根兼昭さん
文中にある「楮を手すきにした和紙に、朱色の罫で22文字詰め20行」「マス目の両側にルビ欄」があるという「頼山陽の原稿用紙」の写真をぜひ送ってください。よろしくお願い致します。
見延典子
楮を手すきにした和紙に、朱色の罫で22文字詰め20行。この用紙に山陽は、全22巻の野心作「日本外史」を書き上げたのである。
山陽の原稿用紙が変わっているのは、マス目の両側にルビ欄がある事。これは漢文の性格から、本文の左側に返り読み記号、右側に送り仮名をつけるからこうなったらしい。このマス目模様の原稿用紙は、山陽が「日本外史」を記したものが日本最古である。
江戸時代以前は、縦線のみを刷った罫紙であったが、山陽が上記の書式を注文したと思われる。
2024・4・14
山根兼昭さん
「マス目模様の原稿用紙は、頼山陽『『日本外史』が最古」
ある原稿用紙店の人が、昔の原稿用紙を調べた。東京・王子紙の博物館で見つけたのは、頼山陽の「日本外史」の原稿用紙だった。
また紙は和紙であったが、山陽は美濃遊歴により美濃和紙の優れた紙質を知っており使ったと思われる。
このような歴史を経て後、原稿用紙店が書式を工夫して、此のルビ欄をつけた原稿用紙が現在の主流になったのであります。
また、日本外史の原稿用紙の研究は、頼山陽史跡資料館の花本哲志先生がされておられると聞きました。
2024・3・13
久保寺辰彦さん「小林よしのり氏の公式ページで頼山陽」
漫画家の小林よしのり氏の公式ページで頼山陽のことを書いた投稿が掲載されたので紹介します。
人を動かし、時代を作る本 | ゴー宣DOJO (gosen-dojo.com)
小林氏は以前にもコロナ論の紹介で書きましたが、個人的には頼山陽に似ていると思います。
2024・2・15 赤松昇さん
「『私の易の学び方』のホームページを立ち上げました」
昨年の10月より、正しい『易経』を知っていただく為に『私の易の学び方』のホームページを立ち上げました。易と歴史の項目に頼山陽の記事も掲載しております。
また、昨年の12月に頼山陽史跡資料館様にご協力をいただいて「頼家に伝わる占筮用具」の取材をさせていただき、ホームページに掲載しております。皆様にご高覧いただければ幸いです。
掲載する内容が多く、日々学びながら掲載を継続しております。
よろしくお願い致します。