2022・10・8

頼山陽の「和田義盛論」最終回

 

 そもそもこの事件は何から起ったのか。泉親衡という者が千寿を奉じて兵を起こしたのだ。千寿は元の将軍頼家の子で、実朝の競争相手だか


ら、実朝は嫌っていた。千寿に義盛の子義直、義重、甥の胤長が加勢した。北条義時は実朝が危機を覚えているを見て「頼家のために君に恩を仇を返そうとている」と讒言した。そのように考えなければ、強大な豪族の和田氏を前に、義時が公然と胤長を縛って恥をかかせたりはしない。

 人に唾をはきかけ、罵倒して平気な者は、必ず恃むところがある。義時がここまでしたのは、義盛やその子のしたことを、実朝が恐れ、憎んでいることを知っていたからではないか。鎌倉の将士がいずれに味方しようか迷ったのは、実朝が幕府にいなかったからで、それ故、実朝の手書出命令すると、いっせいに北条氏に加担したのである。

 義盛は実朝に忠義を抱いていなかったが、義時の奸悪を憎んでいたことは知っていた。義盛が滅びれば、義時の天下をはばかるものはなく、実朝は孤立するばかりになる。実朝を援助する者がいなかったから、義時の奸計の前に倒されたのだ。義時は実朝を倒すのに、頼家の子の公卿をつかった。すなわち義盛を讒言するのに用いた手段や、頼家の子が復仇するという口実を用いて実朝を倒したのである。

 

2022・9・29 

頼山陽の「和田義盛論」②

 

和田義盛は利己を追い求める余り、義理人情に欠ける。源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、海中を彷徨するなど困窮していたとき、侍所の別当にな


りたいと求めた。人の弱みにつけこみ、私利を図ろうとしたのだ。頼家の子の一幡が不満を抱えていたとき、頼家から北条氏の討伐を命じられると、密書を時政に見せた。このような人物が、どうして実朝の密旨をうけて義時を図ろうとするだろうか。

 実朝にしても、義時が邪悪なことをじゅうぶんに察しておらず、義盛を頼ろうとも思っていない。それでも義盛に目をかけていたのは、歴戦の経験があるという話を聞いていたからだ。義盛の孫朝盛を愛したのは、和歌をよくしたからである。その朝盛には「一族と同じく滅びるな」と戒めtりた。本当に密謀があるなら、このようなことは言わない。義盛も一族九十八人を率いて幕府に哀訴したりもしない。

 人を陥れてやろうと思っている者は、相手から唾を吐きかけられようと、罵倒されようと、怒りは顔に出さない。相手を怒らせようと策を弄するだ。つまり義時と実朝が義盛を陥れようとしたのだ。

 

2022・9・24 

頼山陽の「和田義盛論」①

 

 思うに、和田義盛が挙兵したのは実朝に叛くためだはない。実朝に忠義するためでもない。ただ、北条義


時を憎み、その権力を奪おうと思ったのだ。そのために実朝を味方に引き寄せて義時の罪をおさめようとしたが、成功しなかった。

 ある人が「義盛は実朝の密勅をうけて義時をとりこめようと図ったが、逆に義盛に陵辱されたので怒り、軽率に事を起こしたので敗れた。実朝は以前から義盛に目をかけ、孫の朝盛を寵愛した。それは実際に事が起ったときの鎌倉の武士がどちらに味方すべきか迷ったことからもわかる」といった。なるほど陵辱されたのはその通りだが、密勅を受けたというのは事実とはことなるのではないか。

 (頼山陽『日本政記』安藤忠男訳を、見延典子が要約しています。)

 

2022・9・7 

頼山陽の「北条義時論」最終回

 

 ある歴史家は、実朝も危害が迫り、逃れがたいことに勘づき、宗に逃亡しようと大船までつくらせたが、大きすぎで海に浮かべられず中


止した、また拝賀の有に惜別の歌「出でてゆかば、主なき宿となりぬとも、軒端の梅よ、春を忘るな」と詠んだといっているが、戯れ言である。

 もし本当なら、母の政子に告げないはずはないし、政子も義時を問い詰め、捕まえ、義時以外の一族には寛典を充てれば落ち着いたであろう。実朝が優柔不断でも、政子なら果敢な措置をとることができた。政子が父、子、弟のいずれに重きをおいているかは容易に想定できる。つまり政子はこの陰謀をまったく知らなかったのだ。北条氏は陰謀を蓄えること数十年、ついに発動して成功したのである。

 だがみずから将軍にならなかったのはなぜか。それは人を使ってたおしたから、人に代わって立たせたのである。もじ自分が立ったなら「自分が将軍になりたくて、源氏を滅ぼした」といわれる。だから2歳の赤ん坊(頼経)を見つけてきて、「この子は頼朝と縁続きだ」といって将軍に立てた。人形を立てたも同然である。人形が成長して知恵がつきはじめるや、引きずり下ろし、新たに知恵の働かない人形に代わらせる、これが北条氏の陰謀の本幹で、業を9代まで伝えたのである。

                (以上、『日本政記』順徳天皇順徳天皇より)

 

2022・8・31 

頼山陽の「北条義時論」②

 

 北条義時は曾我兄弟と兄弟の契りを結んでいたから、父時政の企てを知り、多くを学んだ。おそらく人を使い「今の将軍実朝はあなたの父の


仇だから、将軍の拝賀の隙に殺すがよい。そうすればあなたは前将軍の子だから将軍になれる」と公卿をけしかけた。そして公卿は暗殺が成功するや、三浦義村に自分を推戴させようとしたが、義村が義時に密告し、義時は公卿を殺させた。故に義時は時頼の陰謀を継いで成功したといえる。

 三浦義村は陰謀に加担し、大江広元も陰謀を知りながら、知らぬふりをしていた。歴史家の多くは、広元と義時が相談して、実朝が急に官位を勧められては禍がふりかかるであろうことを諫め、また実朝に「日の暮れないうちに拝賀を行ない、甲冑を身につけるように」と勧めたが、聴かれなかった、と言っているが、これらは事件後人々の手前を取り繕うためのもので、将軍殺害の陰謀をかくそうとしたものである。

 義時の狡猾なのは甚だしく、知恵者の広元まで腹心になっていた。周囲の老臣らは事情を察していたが、手の打ちようがなかった。政子の知能をもってしても、悟ることだできなかった。まして実朝のように世情に疎い者は自分が利用されていることに気づかなかったとしても不思議はない。

 

2022・8・25 

頼山陽の「北条義時論」①

 

北条義時は、北条実朝の兄頼家の子公卿の手を借りて実朝を殺し、その後で公卿も殺しながら、討賊の美名を勝ち取り、非難されなかった。昔


から弑逆の陰謀を行なった者はあるが、義時ほど巧妙な者はいない。

 義時はこうしたやり方を父の時政から学んだ。時政は陰謀を企て、実行しても拙さゆえに成功しなかったが、義時は巧みであった。

 時政は平氏から源頼朝を預かったとき、政子を頼朝のもとに走らせたのは、頼朝を利用して利益を得ようとしたからで、頼朝を推したてて事が成功するや、頼朝を亡き者にして、外孫を立て源氏の天下を掌握しようとした。なぜそう考えるのかといえば、曽我兄弟が父の敵を討ったなら満足すべきはずが、大将軍の頼朝の寝床を襲っている。十万の勇士に守られている頼朝の腹に刀を刺そうとするのは内部の助力があったからだ。

 時政は遺児である曾我兄弟を世話し、次男には己の一字を与え「時致(ときむね)」と名づけた。思うに、曾我兄弟の父の敵工藤祐経を討ち取る便宜を与え、祖父伊東祐親の仇として頼朝を討ち取ることも教唆したのだろう。政子は事件を知って驚き、泣いたのは、頼朝の身が危機一髪だったからだ。曾我兄弟の謀は、時政が企て、成就しなかったものである。

(頼山陽『日本政記』安藤忠男訳を、見延典子が要約しています。)

 

2022・8・17 

頼山陽の「北条時政論」③

 

 思うに、北条頼政が初め源頼朝を擁護したのは、頼朝のためではなかった。私利私欲であった。それ故、愛憎も変化する。


 頼朝の威力は頼政を圧し、没して後も子の頼家は時政を臣下として扱った。だから朝雅(後妻牧氏が生んだ娘婿)を担ぎ出そうとしたのだろうが、仮に朝雅が将軍になっても時政・朝雅の義理の父子は頼朝父子と格段の相違があり、畠山重忠(時頼の先妻に娘婿)などは従わなかったろう。だから重忠を排除したのだろうか。

 ある人が「これらの謀略はすべて北条義時から出た。時頼は七十になっても権力を手放さなかった。義時は四十を越え、権力を得ようとした。父が後妻に籠絡されているとは、政子を欺くためにいったのだった。朝雅を立てようとしていると吹聴することによって、頼家の弟の実朝を動揺させようとしたのである」といった。

 

2022・8・11 

頼山陽の「北条時政論」②

 

(頼山陽『日本政記』安藤忠男訳を、見延典子が要約しています。)


  北条時政が実朝を廃して平賀朝雅を将軍に立てようとしたのはどういうわけだろう。外孫の頼家を殺し、やはり外孫の実朝も廃し、その後を婿の朝雅に与えようとする。頼家や実朝は先妻につながり、朝雅は後妻につながる。後妻を愛したということか。

 だが婿というなら畠山重忠も同じ婿であるのに、殺したのはなぜか。ここでも婿に嫁いだ娘の出生が先妻か後妻かの違いによるというのか。この心のありようが迂闊で、筋が通っていない。

 朝雅が将軍に立っていたら、政子によって北条氏の台頭を許した源頼朝と同じになったところだった。それより実朝を残しておいて、外祖父として重位に拠ったほうがよかろうに、なんと耄碌して、思慮が浅いことか。奸智を使い果たして、馬鹿にかえったのだろうか。

 

2022・8・7 

 頼山陽の「北条時政論」①

(頼山陽『日本政記』安藤忠男訳を、見延典子が要約しています。)

 


  北条時政は比企能員を殺し、将軍源頼家を幽閉して殺した。

 時政の後妻牧氏は腹黒い女だった。牧氏の生んだ娘は平賀朝雅の妻で、時政の先妻の生んだ娘は畠山重忠の娘であった。

 あるとき、重忠の子と朝雅が酒を飲んで喧嘩した。それを聞いた牧氏は怒り、重忠が謀反を企てていると時政に讒言して、畠山一族を滅ぼした上に、女婿の朝雅を将軍にしようとした。その願いを聞いた時政は孫の実朝をなきものにしようとしたが、事が露見し、娘の政子によって伊豆に流され、代って息子の義時が執権になった。

 頼山陽が思うに、時政は姦邪で、狡猾だが、一方で本心のわからないところがある。頼家が危篤になったとき、天下を頼家の一幡(兄)と弟に与えようとしたのは、能員の権力を弱めようとしたからだが、これに能員が反発し、頼家と北条氏討伐の密議をしたときには、事態は逼迫していた。だから能員を誘殺し、頼家を伊豆に幽閉したのはわかるにしろ、頼家を殺すとはあまりに残酷である。これは曾孫の一幡を殺したことで、頼家からつけ狙われるのを恐れたからと、いっているようなものである。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら