『日本外史』「足利氏」 見延典子が書いています。

 参考文献/頼成一『日本外史解義』

2023・6・21 義満の奢侈

 義満は生まれたときから奢侈贅沢で、たびたび反乱を平定して、志はいよいよ増長し、部下の大将を扱うにもひどく横柄であった。朝廷の公卿衆であっても、家に行き来する者は家来同様に扱うこともあった。彼は髪を剃った1395年(応永2)比叡山にのぼった。その儀式は法皇の行幸になぞらえたものであった。また建築が好きで、宝幢、相国などの禅

足利義満
足利義満

寺を建て、五山と定め、僧録司という役人をおいた。僧の中津、妙葩、祖阿、周信などは皆手厚く待遇せられた。これより先、西南地方で不平をいう者が外国を侵犯し、その地は乱れていた。義詮のとき、元の天子が朝鮮人を日本に来させ、取り締まりを厳重にしてもらいたいと頼ませた。そのうち元は滅び、明が興った。明主の朱元璋もまたたびたび僧に依頼して来させ、請わせた。1401年(応永85月義満は勅許を請わず、勝手に祖阿を遣わして明と交際を結ばせた。参議の菅原秀長が書面の下書きをした。文面ははなはだ丁寧だった。1402年(応永9)明主は僧道彛に書面と明の冠を持参させ、義満を日本国王とならせた。義満はこれを受け入れた。足利氏の中世に至るまで、日本と明は使者が行き来して、みな足利を王と称した。

 義満にはお気に入りの妾が多かった。末っ子の義嗣を生んでからはこれを寵愛し、後嗣の義持を廃そうと思った。しかしまだ仕遂げなかった。これより前、天皇が二度までも室町の屋敷に行幸した。1408年(応永153月、義満は北山に別邸金閣寺への行幸を願い出た。義満はみずから法衣をまとい、義嗣を連れて迎えた。帝は義嗣を正五位左馬頭に叙し、また四位少将に昇進させた。四月宮中で義嗣の元服の式をあげた。その儀式は親王になぞらえたものであった。これから後、惣領(義持)と妾腹の息子(義嗣)との仲が悪くなった。見識のある人は皆義満を譏った。しかし尊氏、義詮のころには諸将は恩恵につけあがって叛いたり、服従したりで、さだまりがなかった。ところが義満のときに山名氏清、大内義弘が誅戮せられてからは、服従しない者はいなくなった。世間では、義満の生まれ年は戊戌である、戊も戌も文字はみな戈という字に従っている。だから義満は戈で天下を平定したのであると噂した。(足利氏上巻了)

 

2023・6・13 応永の役、余塵

 

 土岐栓直らも皆平定された。栓直の母方の叔父に土岐康行というものがいた。頼康の子で、天授年間に美濃の守護職をついだ。ところが弟の満貞は京都で、兄の職を奪おうとして「栓直は叛を図り、康行は助けています」と讒言した。そこで義満は土岐満貞および甥の土岐頼益をつかう、討って降参させ、一方康行を許して、栓直を追放した。そういうわけで、栓直は謀反人の汚名を着せられて死んだのである。

 畿内は平定された。そこで足利満兼は兵を伴い、鎌倉に帰った。義満は間者から謀を探った。ある人はそれを利用して、今川貞世に「貞世は子弟で、遠江に残っている者は満兼の謀反に加わっていました。先に君の命を受けながらも来なかったのは、このようなことからでしょう」と讒言した。貞世はおそれをなし、遠江に馳せ帰った。義満は怒って貞世を征伐し、満兼も討とうとした。満兼の執事上杉朝宗は、手をつくして和睦を図った。義満は満兼に足利の庄を与えて、謀に加わった者はみな赦免して不問にした。貞世は退いて藤沢にいた、上杉憲定は貞世に人をやり「藤沢にいるのはかえって誤解を招くでしょう」。貞世は遠江に帰った。憲定は上杉憲方の息子である。そのうち義満は貞世の功労を思い、京都に呼び寄せ、以前のように待遇した。しかし貞世は翌年病死した。貞世は多くの本を読み、書物を著わし、当時の政治を痛烈に批判した。往々にして道理にかなっていたという。貞世の父の範国は尊氏に仕え、駿河、遠江の守護になっていたが、貞世に命じて相続させた。ところが貞世は、自分はもらわず、兄の範氏の駿河を領させ、甥の氏家、その子泰範につがせた。義満のとき、駿河の数郡を分け、貞世に与えた。ところが泰範は貞世が願い出たと思い大内義弘とともに貞世を讒言した。貞世が死んだので、義満は貞世の養子の仲秋に遠江を相続させた。細川頼元が兄の後をうけた例に従ったのである。7年、大内義弘の子持盛が降参してきた。持盛は父の謀反を諫めたことがあるので、赦し、代わりに半地を減らした。

2023・6・9  

大内義弘の反乱

 

 

室町時代の応永6年(1399年)、守護大名の大内義弘は室町幕府に対して反乱を起こす。大内義弘は堺城に拠るが、幕府軍が堺城を陥れ、大内義弘が戦死する

 

 大内義弘はかつて今川貞世に「いまの形勢では弱い者は誅せられ、強い者は禍を免れることができます。

 大内義弘
 大内義弘

 

貴公は私と大友氏の兵を連合して自強の策を講じられませんか」といったが、貞世は承知しなかった。義弘は斯波義時とグルになって貞世を讒言した。義満は貞世がかつて述べたいろいろな掟を変え改めた。そのため九州はみな危ぶみ、疑うようになった。菊池、大村の両氏は兵を起こした。義弘は討って平定した。だがその兵力はますます強くなってきた。ひそかに鎌倉管領足利満兼と謀を示し合わせ、東西で助け合い、義満を滅ぼそうと計画した。六年(1399)満兼はひそかに貞世を招いた。貞世はその書簡を開かず、義満に奉った。義満は義弘を呼び出したが、来なかった。十月、義弘はついに周防、長門、諸国の兵を率いて界(堺さかい)城まできた。土岐栓直は美濃、京極五郎左衛門は近江、山名氏清の二氏は丹波で、それぞれ挙兵し、みな義弘に味方した。そじて満兼も武蔵の国府に陣取り、義満を助けるのだと宣言した。義満は急に貞世を呼びつけて「余は貴公に会わせる顔がない」といった。当時、幕府に兵士の数が少なかった。土岐頼益、六角満高らは美濃、近江を討ちに出かけていた。だから京都に残っていたのは戦争の役にたたない者ばかりであった。義弘は「山名氏清は一図に京都を攻めたて、自ら兵や馬を疲れさせてしまった。だから敗北したのだ」といった。そこで守備の方策を立て、掘や城壁を修繕し、二階や物見櫓をつくり、自ら見回って「百万の軍勢で責めても、到底落とすことはできない」といった。義満はまず僧の中津をやって、なぜ兵をやったかと責め問わせた。義弘は「私は十六歳から大小二十八回も戦争をし、氏清を倒し、南朝と和を結ぶようにし、功労は少なくないのです。去年菊池、大村を討ったとき、大事な弟は討死しました。しかるの将軍は孤児に不憫の情をかけてくださらなかった。そのうえの私の領地が削られるという話で、さらにはひそかに少貳の菊池に命じて私を誅させようとしていると聞きました。実際、たびたび私を呼び出しました。不審に思わないではいられません。私は鎌倉殿と約束して、京都に入り、将軍の暴政をお諫めしようと思っているのです」。中津は帰ってきて報告した。義弘は笑って「あいつは自分の強いことを鼻にかけ、おおきなことをいっているが、実はすべて私がそのようにやってやったのに、知らないのだ。ひどいやつだ」。そこで自ら管領以下の諸将を率い、東寺を陣取り、ついには男山までいった。畿内地方の将士で集まったのは三万余騎であった。細川頼元ら十一人に大将をさせ、堺城を攻めさせた。城は甚だしく堅固であった。義満は諸将に戦いをやめさせ、長囲いを築かせた。そのうち十二月になった。そこで四方に火をつけて進んだ。二階の物見はみな倒れた。かなり長い間大合戦をした。義弘は走り出て、間違って管領畠山基国の陣中にはいりこんだ。基国の子の満家は戦ってこれを切った。そこで義満は紀伊を満家に与えた。頼元の子満元の功労があった。和泉を与えた。これを応永の役という

 

2023・5・31 北朝、神器を受く

 

かくして四方がだいたい平定した。ただ、楠氏の子孫が大和、河内の辺りを維持して、吉野の垣となり、南朝を保護していた。義満は畠山義深、大内義弘に命じ、義深は楠氏のすべての城や砦を攻め落とした。かくして吉野は孤立状態になった。そこで義弘は義満の内意を南朝に伝え、お願いをした。それは和睦をして戦争をやめ、陛下が京都に帰り、三種の神器を北朝に授ければ、以後は南北交互に天位につくように、ちょうど北条の時代のようにしましょうという申し出だった。後亀山天皇は許可し、帰京した。義満は北朝の内意で南朝から降参するような形式にしようと思った。後亀山天皇は禅譲の礼を用いようとした。世上の噂は騒々しかった。六角満高は義満に「神器は先様(後亀山天皇)にある。なんといっても先様は真の天皇です。あなたは先様のするようになさい」。満高は義満の弟で、六角氏清の養子になっていた。義満は彼の言葉を受け入れ、大覚寺に駕籠が入るのを許した。明徳3年(1392年)閏10月5日、北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇から神器をうけとった。後亀山天皇は後醍醐天皇の曾孫である。後醍醐天皇が南の吉野に遷ってから約57年。その間北朝は五帝が即位し、年号は歴応から明徳に至るまで17度改められた。天下は足利氏にあったので、たいていは北朝の年号を用いた。ここに至って南朝と合併し、天下の人心はいっそう足利氏に服することになった。
 後小松天皇の応永元年(1394)義満は天皇に頼み、征夷大将軍の職を義持に譲った。2年義満は髪を剃って道義と号し、北山に別邸を建て、諸将に工事を助けさせ、金閣寺を作った。応永4年(1397)そこに移った。義持は室町の屋敷にいた。だが内外の出来事の決定権はみな北山の義満にあった。11月、義満が没した。子の満兼が関東管領の職を継いだ。

 

当時、足利氏の威は外国まで及んだ。朝鮮はたびたび使者鄭夢周らを派遣して、鎮台探題今川貞世のところに来させ、隣国の好誼を結びたいと申し出た。ついに使者が京都にやってきた。義満は大内義弘に接待させた。

2023・5・24 明徳の役、余塵②

 

 三月、足利義満は諸将を引き連れて、男山に参拝し、勝利の祝いをしようと思った。ちょうど細川頼之の病気が重体に陥った。義満は男山にいくのを中止して、頼元に命じ、言いたいことを問わせた。頼之は「山名氏の一族はなにかにつけ将軍の命令を軽んじ、私は日頃より心配していました。しかし山名氏は滅びました、今後、将軍を煩わせる者はおりません。安心して死ねます」といって息をひきとった。義満は葬儀に望み、涙を流して送り、頼之のために経を写し、内野で法要を営み、陣没した将士までも葬った。初め足利氏満は氏清が謀反を起こしたと聞いたので、兵を繰り出し、京都にのぼって加勢しようとしたが、氏清が負けで死んだと聞いたので、そのままになった。

 これより先、新田氏の余党小山義政は宇津宮基綱を殺した。そこで関東管領足利氏満は上杉憲方を遣わし、攻めて、義政を降参させた。その後義政はまた背いた。そこで氏満は自分が大将になって撃ち殺した。みなしごのわかいぬが陸奥で兵を起こした。再び攻めて殺した。その党の田村則義、小田五郎という者がまた兵を起こした。上杉朝宗を遣わし、平定した。新田の子孫で生き残っている二人を捕らえ、京都に送って斬った。そこで義満は氏松に陸奥、出羽を加増してやった。今川貞世らもまた少貳冬資らを撃って平定した。

 

2023・5・15  明徳の役、余塵

 

山名満幸が逃げ出したとき、後から悪口を行って、逃げるのを止めようとする者がいた。満幸は聞かないようにして逃げた。1391年(明徳2)二月、伯耆に帰り、将に塩谷師高に出雲を守らせた。足利高詮の隊将、役人がきて利益を持ち出し、降参を進めた。師高は「山名氏がこんなことになったのは、足利氏に対して義理を失ったからだ。しかし私は義理を失いたくない。親父は佐々木氏に仕えていたので、山名氏との関係は私とは異なったいます。親父ならご命令を承諾するでしょう。何とぞ親父に目をかけてください」。そこで師高は父親を諭し、降参させ、城下まで送った。師高は父に別れをいい、「自分は父と戦うのはしのびない」と自殺した。かくして、白は陥落した。兵が満幸に報告した。満高は、氏冬が因幡にいると聞き、そこに逃げた。山名氏冬には降参の意思があった。そこで満幸を迎え討ち、申し訳にしようとした。満幸は髪を削って九州に逃げた。氏清より遅れること五年のちにつかまり、殺された。

山名氏着には二人の子がいた。満氏、時清といった。父の命令で逃げて、満幸のところへ行こうとしたが、会えなかった。満幸は九州に逃げ、母に会おうとしたが、母は「臆病者」といって会わず、刃物で自殺した。二人の子は仕方なく、紀伊の義理のもとに身を寄せた。義理は降参を申し入れたが、義満は許さなかった。そして新たに紀伊の領主になった義弘に国を任せた。紀伊の人は皆義弘についた。義理はいられなくねり、船で逃げた氏冬は降参を願い出て、謀反の志がなかったことを申し述べた。特別に許してやった。事件は落着した。

 

2023・5・7  義満、山名氏清・満幸を討つ③

 

山名義数、満幸はすでに敗れた。負けた卒兵は走り、山名氏清に報告した。氏清は氏冬と進軍した。赤松義則は迎え討った、弟の満則は討死した。山名時煕はこんどの戦は自分から起こしたのだからと戦い、氏清に向かったが、みなその兵をなくし、大内義弘の陣に逃げ込んだ。義弘、赤松義則は代わる代わる使いをやって、足利義満に救いを請うた。義満は左右を見回したが、もはや派遣すべきものはいない。一色詮範は軍吏となって旗下にいた。自分から願い出てでかけた。しかし勝負は決まらない。そこで義満は大将の旗を推したて進んだ。氏清の兵はこれを望見し「将軍がきた」というので崩れるように逃げた。詮範は子の満範とともに氏清に目をつけ、戦って斬り、義子の辰房も斬った。辰房は氏重(氏清の弟)である。かくして氏清の首が義満の旗下に送り届けられた。義満は大勢を前に「諸君、謀反を起こした者の末路はご覧の通りだ」といった。十二月晦日であった。翌年正月、山名氏の領土を諸将に分けて、賞した。和泉、紀伊を義弘に、出雲を高詮に、美作を義則に、丹波を頼元に、山科を基国に与えた。詮範には今富の荘を与えた。義則は則有の子で、高詮は道誉の曾孫である。時に北朝の元号は明徳といった。そこでこの戦いは明徳の役という。

2023・5・4  義満、山名氏清・満幸を討つ②

 

 初め、山名氏清、満幸はこの月の二十七日に京都に討ち入る約束であった。然るに遊佐河内守が河内の岳山に砦を築き、氏清の兵を待ち受け、遮った。そのため氏清の兵は期日に二日遅れ、二十九日に男山に到着した。かくして男山にいる氏清は家老の小林時直を呼び「余は新田氏の分家筋だ。足利氏にとってかわっても、反対する者はいないだろう。余がもし将軍になったら、おまえを執事にしよう」といった。時直は涙を流し「今回のお企てにご意見を申しあげようと思っていましたが、長い間疎んじ、避けられてきたので、申し上げる機会がなく、今日やっとお目にかかることができました。今、諸将のなかで君のように裕福な人はいません。然るに恩に背いて謀反をされるなら、どうして神が助けましょうや。またもし勝つことができたとして、少将がわが山名氏につくでしょうか。私は自分をどのように処置すればよいか迷っております。進んで討死するまでです。執事の職は他の方にお命じください」。氏清は退き、義数に「時直の意気込みをみれば、討死の覚悟を決めているようだ。おまえは取っ組みあいをしてでもそばを離れず、犬死にはさせないように気をつけてほしい」と頼んだ。義数も心中でははやく討死したいと思っていたが、「はい」と退いた。満幸の家来、大足次郎左衛門もまた満幸を諫めたが、聞き入れなかった。その夜、氏清は二千騎をひきつれ、船橋をこしらえて淀川を渡り、氏冬に三百騎を率いて鳥羽街道からと軍を合わせ、また満幸の千余騎は根津を渡って、あとから応援しようとした。そのうち満幸は暗夜のため道に迷った。また氏冬の軍には案内する者がいなかったので、泥沼に踏み込んで通り過ぎようとした。互いに敵と思い、驚いて退却した。

 

 氏清は満幸、氏冬の約束の場所からの知らせを待っていたが、来なかった。そこで義数、時直を真っ先に進ませ、騒いで、足利の先鋒大内義弘に迫らせた。義弘は大宮に陣取っていた。部下の兵に「我々はこれまでたびたび九州で手柄を立てた。上方で戦をするのは今日が初めてである。おまえもしっかりやってくれ」といった。射手二百人を放ち、一方で三百騎が馬を下り、楯をもって進み、打ち合うこと数度、両軍の死傷者は互角であった。義数、時直は義満の陣に駆け込んだ。義弘は「敵の一騎たりともわが軍を通過して北にやるようなことがあったら、落ち度だ」といい、走って両人を遮り、みずから薙刀をふるって時直を斬った。義数はその隙に北に馳せ、敵を越えようとしたが、下に落ちて旗本の兵に生け捕りにされた。義弘は本陣に赴き、義満に「私は死に物狂いで戦っております。ところが氏清の大軍が次々やってきております。どうか援軍を送ってください。将軍が私を見殺しになさいますと、誰が私について、私ほどに戦いましょうか」。義満は鎧や馬が血みどろになっているのを見て、「勇壮なり」とし、手づから腰にさしていた刀を与え、「もう一度、この刀で戦え」といった。そこで義則を助けにいかせた。満幸は梅津に着き、土屋の党を皆殺しにし、大足を斬った。基国らの兵は負けてしまった。義満は自分で助け「なぜはやく小僧を討ち取り、獄門にかけぬか」と大声で叫んだ。これに諸将は励まされ、我先にと争い進んだ。満幸はとうとう負けて逃げた。

2023・4・21  義満、山名氏清・満幸を討つ

 

 十二月、丹波の人が変事を注進し、満幸が謀反したと告げた。幕府は信じなかった。畠山基国の大将遊佐佐河内守が河内から、氏清が大層武器の手入れをして戦の支度をし、今や出発しようとしています」と報告した。基国は義深の子である。そのうちに氏冬は男山に出奔し、義理も紀伊で挙兵し、皆、京都に向かって進発した。京都は大騒ぎであった。義満は書面で義理を諭してみたが、承服しなかった。そこで古山満藤の屋敷の出かけ、諸将を集めて戦の評定をし、諸将が自分につくかで気心を見ようとした。諸将は集まってきた。いろいろな議論が出て決まらない。ある人が「彼らの訴えをよく聞いて、赦してやればきっと無事に片付く」といった。義満は「氏清が謀反の心を抱いているのはずっと以前からで、今回の企てとて別に訴えるところがあるわけではない。もし今日これを許したなら、明日また謀反するだろう。聞くところによれば、彼奴は諸君を軽んじ、バカにし、幕府の諸将で誰が俺を敵にするものかなどといっているそうだ。余は諸君のためにこれを恥じている。どうしても誅さねばならない。思うに、彼はきっと余が東山か比叡山に立て籠もっていると思っているだろう。しかしそれに反して余は東寺に陣取る。諸君は兵を内野(京都の北)において、勢いをつけよ。かれは内野の陣を見て、そちらを攻めるだろう。そのとき太鼓法螺をならし合って挟み撃ちにしたら、一戦で滅ぼすことができる」。皆、いかにもそうだと思った。一色詮範が進み出て「私は敢えて別の考えを申します。総大将が後方にいて、諸将が前方に進むことは戦においてよい方法です。しかし今のご議論には反対です。というのも東寺と内野は距離があり、謀を示し合せるには都合が悪うございます。よれよりも諸将は内野に陣取り、一隊を東寺に駐屯させ、私の屋敷を本陣となされればよろしい。さすれば彼はきっと強い兵を引き連れてわが本隊を攻めてくるでしょう。そうすれば大将の氏清を討ち取ることができます。またもし彼が東洞院から京都に向かってくれば、諸将が代わる代わる町中で待ち受け、東寺の兵がそのあとからつけて撃てば、皆殺しにできます」。義満は「よし」といった。

 

 明朝早く、義満は今川泰範の堀川屋敷を陣取った。義満は烏帽子、直垂で刀をさし、鎧は着ていなかった。これは家来を討つときのやり方である。諸将もみな小具足で順を追って進んだ。細川頼之、頼元、畠山基国、赤松義則は西北方面に備え、佐々木高詮、斯波義重は西南方面に備え、大内義弘を先鋒となした。五千余りの兵で内野をぐるりと陣取った。

 

2023・4・19 山名氏の声威②

 

 満幸は恥じて怒り、秘かに堺城にいって、氏清に「近ごろの政治はどう思いますか。去年、私たちに時煕、氏幸を討たせたのに、今年は許し、逆に我々を討とうとしています。枝を切り、根を絶やし、われわれ一族を滅ぼす計略ではないでしょうか。今、わが一族が残らず力を合わせて謀反の旗をあげれば、在京の諸将のうちで我々にかなう者がいるでしょうか。もし京都をとることができれば、味方につく者も多いでしょう。土岐や富樫の諸将も、現に将軍に怨みを抱いています。きっと真っ先にやってきて我らに加わるでしょう。あなたは急いで挙兵し、管領細川氏を除くということを口実になされば、成功しないことはありません。きっと成功します」。氏清は元来謀反の心を持っていたのである。その上、自分の材能、武芸を鼻にかけていた。土岐康行は謀反したとき、義満は即座に討ち、平らげたことがある。氏清はそれを笑って「康行などわけはない。オレのような者になると、そうはいかないのだ」といったほどである。ここでついに満孝の言葉を入れて謀反することとなり、謀を示し合わせ、期日を約束して別れ、めいめい兵を集めて幕府を挟み撃ちしようと思った。幕府はこのことに気づかなかった。評議して「氏清の宇治一件の無礼な振る舞いを譴責しなければならない。しかしこのことは時煕、氏幸の旧領をもとのようにするということに端を発している。もし最初の考え通りに旧領を元の通りにしてやらなければ、指図が下のいいなりになったことになり、幕府の威厳は甚だしく落ちる」。そこで評議通り時煕、氏幸の邑を元通りにしてやり、ついに氏清を討つことを相談した。氏清はこれを聞き、わざと使いを再三差し出し、前日宇治一件の罪を詫びさせた。義満は誓書を出させて赦し、落着した。

2023・4・12  山名氏の声威

 

 有力守護大名山名氏清、山名満幸は1391年(明徳2年)室町幕府に反旗を翻す。それまでの過程が描かれていく。

 

 当時、四方はようやく平定し、古参の大将赤松則祐、佐々木道誉らが前後して死亡した。相続人はみな弱虫揃いであったが、山名氏の家声威望だけは非常に盛んであった。山名時氏は尊氏に謀反して五州を掠めとったが、後に降参したので、五州の守護にしてやった。時氏の八人の子、師義、義理、時義、氏清、氏冬、義数、高義、氏重らは皆世に現れ、富は諸将の中で第一であった。世間では「自分の家を大きくするには謀反が一番」と噂し合った。義理、氏清がまた南海を攻めとってからは、山名氏の領するところは十カ国に跨がった。世間ではこれを六分一氏といった。それは日本六十余州を六分してその一を所有していたからである。義満はこれを憎み、いつも秘かに根こそぎ滅ぼそうと計っていた。時義が師吉の跡を継いだ。その二子、時煕、氏幸は土地を分けてもらい、但馬、伯耆の守護職を継いだ。ところが師義の子の満幸は不平からだんだん讒言し、その国を奪おうと思った。

 七年(1381)、義満は氏清に命じて満幸と一緒になって時煕、氏幸を討たせた。氏清は出発するとき「彼らが降参すれば赦してやるお考えなら、征伐にいく前に、私が諭して降参するようにします。であれば、必ずしも征伐にいくまでもないのですが、いかが致しましょう」と訊いた。義満は「降参しても、決して赦さない」といった。そこで出かけて撃ち、敗走させたので、義満は但馬、伯耆を時煕、満幸に分けてやった。また細川頼之に備中を討たせ、平定させた。

 八年(1382)春、頼之を京都に呼び寄せて、養子の頼元を管領にした。だが実際は頼之が万事裁いていた。ちょうどそこへ時煕、氏幸がやってきて、無実を訴え出た。義満は赦してやろうと思った。十月、氏清、義満を宇治の別邸に招待して、紅葉見物の宴を開くことになった。前夜、氏清は和泉を出立して北上し、饗応の支度を見届けようとした。満孝は淀で迎え「聞くところ、幕府の評議では時煕、氏幸の旧領地を返してやるとのことで、明日の宴会で直にあなたに返すように命じられているそうです。あなたは病気といって宴をお断りになればよいでしょう」。氏清は怒り「去年の言葉とまったく違うではないか。そこまで軽蔑されている以上、出迎えるものですか」といい、人をやって義満を途中で待ち受けさせ「私は急に病気になり、お出迎えは致しかねます」といわせた。義満はすでに宇治にいたが、致し方なく、荷物を返して京都に帰った、一行の者は驚き、不審に思った。満孝は氏清の娘を娶っていたのである。特別に愛され、いうことはなんでもきいてもらっていた。満孝は京都にいて、四カ国を総監していた。その管内に後円融天皇の領地があった。彼はそれを奪い自分の領地とした。義満はたびたび教書を下して、返還させようとした。満孝はわざと上皇のお使えを迎えて、一方ではひそかに領地の人民にいいつけ、追い払わせた。義満は非常に怒り、満孝に命じて職を辞させ、故郷に帰らせ、「おまえは京都で勤番しても無益だ。領地に帰って引っ込んでいたほうがいい」といった。十一月、満孝は丹後に帰った。京都の人々はみな指さし、めくばせし、気持ちよがった。

 

2023・4・9  

義満頻に南朝を攻む

 

 建徳二年(1371)細川氏春に吉野を攻めさせ、藤原隆俊を討ち取った。この年、直冬は石見から降参してきた。義満は室町の屋敷を建て、花の御所と称し、四足門を造った。天授四年(1378)完成して

土丸城跡(大阪府泉佐野市)
土丸城跡(大阪府泉佐野市)
花の御所
花の御所

 移った。五年(1379、義満は東大寺に軍を出し、山名義理、山名氏清に南進させ、土丸城を陥れ、兵を近江、美濃に召集した。美濃の土岐康行が乱を起こしたので、鎌倉に兵を召集して討たせた。このとき鎌倉の執事は憲春だった。弟の憲方を大将として西に向かわせた。康行が降参したので、戦いはおさまった。


しかし氏満は、大将の義満を怨む者が多いと聞き、秘かに謀反の野心を抱いた。その謀が漏れてきた。そこで義満は南方にやった軍勢を呼び返し、ひそかに自筆の手紙を憲春に与えて、氏満を諫めさせた。氏満は聞きいれなかった。憲春はそれを心配して、怒って自殺した。氏満は驚き、悔い、逆謀を中止し、憲方を執事にした。

 上杉、細川の二氏は長い間東と西で執権になっていた。義満が大人になり、細川頼之を嫌うようになった。近侍の家来も頼之を悪ざまにいった。四月、義満は幕府に兵を集め、頼之の屋敷に死者を行かせ管領の職をやめ、領分に帰るようにいわせた。代わって斯波義将に管領を命じた。頼之はその日に出発し、坊主になり、常久と号した。詩を詠み「われは五十になったが、なんの功労もないのを恥じる。今、植物は春を過ぎ、夏半ばになった。ハエが部屋いっぱいに増え、はらっても逃げない。あまりにうるさいから、禅の腰掛けに腰をおろして風に吹かれた」。義満は頼之の功労を思い、南海道を総括管理させた。六年(1380)、山名氏清は南海で官軍に大勝した。弘和元年(1381)にまた官軍に大勝した。南海は北朝方に平定された。吉野が南朝に属するのみだった。この年、北朝の太子が位につかれた。後小松天皇である。三年(1383)天皇は室町の屋敷に行幸された。元中四年(1384)天皇は元服した。義満は髪をとりあげ、摂政良基が烏帽子親になり、冠を加えた。その後、これを例にするようなった。良基は六代の君に仕え、一党一派に偏らず、自分をまっとうして、義満とは最も仲がよかった。五年、義満は紀伊、駿河に遊んだ。単に遊びにいったのではなく、東の新田、南の吉野を図るためであった。六年(1386)また西海を図ろうと思い、厳島に遊び、頼之を呼んで会見し、船を命じて九州に出かけたが、風にあって引き返し、讃岐までいった。そこで人払いして、頼之と話した。だいぶたってから、頼之は感涙を流しながらでてきた。義満は京都に帰っていった。

 

細川頼之
細川頼之

2023・3・8 

細川・畠山両氏、東西に権を執る

 

 義満(父は第2代将軍足利義詮、母は側室紀良子)が次いで立った。やっと十歳であった。細川頼之が管領(将軍の補佐,全国の守護大名を統括)になった。義詮は死ぬときに義満の背中を撫で、頼之に「そなたに一子を与えるぞ」といった。また頼之を指しながら、義満に「そなたに一人の父を与えるぞ」といった。


頼之は遺言を委託され、幼主を助けることになった。内外の者はみな大平の治を望んでいた。そこで頼之は品行方正の侍で、文武備わる者を選んで義満の左右に侍らせた。ご機嫌取り数名を選び、髪を剃らせて大きな袴をはき、長い刀をさし、大きな頭巾をかぶり、童坊と名づけて幕府に出入りさせ、将士の玩弄物となした。将士の中に口先だけうまい者がいると、頼之はその将士と心やすい者どもにいいつけ、大勢で「髪のある童坊」といわせて辱め、互いに懲らしめ、いさめた。そのため士風は大いにあらたまった。頼之は五個条の訓誡の辞を作って、将士に捧げ「愛憎にかたよってはならぬ。恩仇に報いてはならぬ。是を非とし、非を是として曲げてはならぬ。僥倖を欲してはならぬ。悪事をしたものをかくすようなことがあってはならぬ」といった。また今川貞世、小笠原長秀、伊勢満貞の三人に将軍府の礼式を作らせた。尊氏、義詮の下した文書を取り調べ、高師直、佐々木道誉が取り扱ったものは不始末があるので、とりあげさせた。人は、基氏はよく人を知り、義詮はよく人を任じたといった。基氏(尊氏の四男)も死ぬときには氏満(基氏の子、母は畠山家国の娘 第2代鎌倉公方)を上杉憲顕に択して「慎んで室町の規則を遵奉し、背くことがあってはならぬ」といった。氏満は義満より一歳若かった。憲顕は心を尽くして助け、関東一帯は頼りにして安心していた。

 二十三年、義満は元服した。頼之は烏帽子親になった。義満はついに征夷大将軍を継いだ。この年、上杉憲顕は病気で死んだ。養子の能憲は執事になった。これよりさきに一揆があって、川越に立て籠もった。憲顕は氏満をもりたて、滅ぼした。また宇津宮氏が背いた。これを撃って平らげた。能憲が執事になったとき、新田義宗が兵をおこした。能憲は弟の憲春と義宗を殺した。

 建徳二年(1371)、菊池武敏が肥後で兵をおこした。頼之は今川貞世を鎮台探題とし、大内義弘に助けさせ、備えた。また弟の頼元に命じて南朝から降参してきた大将を助けて、吉野を攻めさせた。文中元年(1372)、北朝の太子がゆずりをうけ、即位された。後円融天皇である。

 

2023・2・21  義詮と基氏と関東・関西を鎮む

 

ここにきて降参する者が相次いだ。大内弘世は長い間官軍に従って周防長門を攻め、その二国も降参した。

 十九年、山名時氏、仁木義長、石堂頼房、吉良満貞なども降参した。義詮は皆の罪を許した。基氏は上杉憲顕が自分を育ててくれたことを思い、信濃に逃げていたのを呼び戻し、越後の守護職を授け与えて、もとの守護清禅可を追い払った、禅可は憲顕を拒んで入れなかったが、結局まけて下野に逃げた。そのうち基氏は憲顕を鎌倉に呼び寄せた。禅可は途中で待ち受け攻撃した。基氏は怒って自ら大将になっって大いに戦い、破った。禅可は逃走した。そこで憲顕を執事となし、畠山国清と交代させた。

 細川氏清がまけたとき、足利の家来衆は皆斯波氏因を推薦して執事にした。氏因は足利高経の子で、道誉の婿である。ところが高経は氏因の短所を言い立て、後妻の子の義将を推薦して執事とし、万事の処分は自分で裁いていた。高経は若い頃、北条氏が勢いのあったことを知っていた。皆、彼が天下を治め、平らかにすることを期待していた。だが高経は期待に反して、人望を失っていった。尊氏、直義のころは公卿、武家のあがり高の五十分の一を取り立て、戦争その他の軍事費に充てていた。高経はその2倍も取り立て、建武のころのようなやり方をした。皆、怨んだ、義詮が坊門の屋敷をつくるとき、諸将をわけ振って工事を手伝わせた。赤松則祐は手間取った。高経は罪として領地の一箇所をとりあげた。また五条橋をつくるとき、道誉が普請奉行となり、費用を得るため京都の戸別割を取り立てた。大分長い間かかったが、できなかった。高経は手もとの金を出し、即座に完成させた。その後、高経は諸将を幕府に呼んで馳走した。道誉は用があるといって来なかった。そしてひそかに女楽を大原でさかんに行なった。高経は道誉を怨んだ。おりしも道誉は二年間租税を納めなかった、そこで守護職をとりあげた。道誉はついに則祐といっしょになって高経を讒言した。義詮は兵士を徴集して乱に備えた。高経は義詮にあい、無実を訴えた。義興等はなだめて、越前に返した。

 二十一年、十月山名時氏、畠山義深らを派遣して高経親子を攻めさせた、二十二年七月、高経は病死し、子の義将は降参した。高経は死んだ。義詮は道誉を執事にしようと思った。基氏は細川頼之に代え、執事の呼称を管領と改めた、 

 十二月、義詮は病にかかった。幼子春王に政治の監督をさせた。義満である。かくして義詮は死に、正二位大納言までのぼった。この夏、基氏も病気で死んだ、基氏は従三位左兵衛督までなった。材能武術に長けていた。義詮のために関東を鎮め、尊氏の事業を失わないようにした。基氏の死を皆惜しんだ。その子金王が継いだ。氏満である。

 

2023・2・15 細川清氏・畠山国清の反②

 

 十二月、細川清氏、石堂頼房らは北上した。足利の諸将は迎えうつこともなかった。足利義詮と佐々木道誉は一緒に北朝の天皇をお連れして、近江へ逃げた。義詮の子の春王(後の義満)はまだ幼かった。従者に抱かれて南禅寺に逃げた。良法という僧が夜具の中に隠し、その夜、赤松則祐のもとに送り届けた。則祐は白旗城で守り、兵を連れて京都を助けた。別に弟氏範に吉野の仮御所を襲わせた。また甥の範実は足利高経と義詮に従い、近江へ行った。兵は約一万騎、清氏につくものはなかった。

 十七年正月に清氏は逃げ去った。義詮は京都に帰った。道誉は義詮の伴をして近江に逃げようとした。そのとき自分の屋敷を掃除して、水を打ち、大きな壺に酒を入れ、二人の僧侶を留め置き「もし誰か来たら、この酒でねぎらってやれ」と注意した。そのうち楠正儀がやってきた。僧は迎えて馳走した。清氏は屋敷を壊そうと思った。正儀は承知せず、鎧と太刀を残し、礼をいって立ち去った。当時の人は「道誉の老巧な手段で、正儀の鎧と太刀をうまくせしめたものだ」といい、笑い話として伝えた。

 細川清氏は「長尾(讃岐)が陥落すると、敵は味方の後ろにまわって出るだろう。だから極力長尾を救わなければならない」といい、氏春に千余騎を率いて長尾を助けに行かせた。直行は日暮れまで矢戦をして、いかにも軍勢がいるように松明だけをつけてこっそり帰り、夜明けに頼之とともに白峰(讃岐)を攻め、大声で騒ぎ立てて戦いを仕掛けた。清氏は軽い鎧をつけて出かけた。ところが馬が矢にあたって倒れ、敵の二騎と組み討ちをして討死した。氏春は直行が擬兵をおいて去ったことをさとって後を追いかけた。途中で白峰を望むと、みな頼之の旗や幟ばかりであった。そこで和泉に逃げた。かくして長尾を攻めずに陥落し、四国は平定した。そして国清、義深もまた基氏に降参した。基氏は二人を殺そうとした。国清は西に逃げて官軍に降参した。

1361年、細川清氏は執事職を解かれ追討軍を差し向けられ、南朝に投降。楠木正儀とともに京都制圧軍に参加するなど南朝軍として活動するが、すぐに奪還される。敗れた清氏は四国で再起を図るが、従兄弟の細川頼之の追討軍に攻め込まれ、白峰の戦いで敗死した。

    (写真はネットより)


2023・2・13  細川清氏・畠山国清の反① 

 

 十六年(一三六一)、山名氏は義長に応じて美作を攻めてとり、楠氏は摂津を攻めてとり、佐々木秀詮を殺した。秀詮は道誉の孫である。赤松範資は摂津の守護になったが、光範に譲った。道誉は讒言してその職を奪い、また加賀の富樫氏からも守護職をとりあげ、婿の斯波氏に与えようと思った。集会の席で細川清氏から「それはいけない」といわれ、争いになり、やめた。清氏は和氏の子で、執事であった。赤松則祐も道誉の娘を嫁にしていた。清氏は則祐の領地の一邑をもらい、部下の戦士に賞として与えようと思ったが、道誉は許さなかった。あるとき清氏は宴会をひらき、足利義詮を迎えようとした。ところが道誉は同じ日にもっと盛大な饗宴を設けて義詮を迎えた。義詮は清氏のところへ行くべきところ、佐々木のほうへいった。佐々木と細川は仲違いした。清氏は子を八幡宮で元服させ、八幡とつけた。源氏の例に倣ったのである、義詮は自分の家をのっとるつもりではないかと嫉み、憎んだ。

 祈祷の上手な志一という坊主がいた。ある日、鎌倉から来て道誉を訪ね、ゆるゆる話しているうちに、清氏が祈祷の願文を預けた話になった。道誉はその願文を貸してもらって読み、返さなかった。翌日、願文を懐に入れて伊勢貞行のところへ行き、義詮にさしあげるように頼んだ。伊勢氏は足利将軍に取り次ぐ役人であった。貞行は願文を読むと、義詮、基氏をのろい殺し、清氏が代わって将軍になりたいと認めてあった。貞行はそんなことはあるまい、清氏を陥れる計略だろうと疑い、義詮に奉らなかった。義詮は病気になった。道誉は見舞い、「清氏の願文をご覧になりましたか」と問うた。義詮は「まだだ」と答え、貞行を召して願文を奉らせた。義詮は八幡宮を調べさせたところ、清氏の願文を入手でき、比べると、前の願文と同じであった。そこでこっそり誅そうと思った、数日たち、清氏は大勢の鎧武者を率いて天龍寺に参詣した。義詮は企てが漏れたと思い、夜、新熊野に逃げ、橋を切り外した。清氏は非常に驚き、人をやって無実を訴えた。義詮はこたえなかった。清氏は自分の領地の若狭に帰り、弟の将氏を残しおいて、叛く意思のないことを示した。しかし義詮は承知しなかった。

十月、義詮は兵を遣わして清氏を討たせた。清氏は南に逃げ、石堂頼房を頼って官軍に降参した。畠山国清も基氏に叛いた。以前、国清が南朝を滅ぼそうと西上したとき、関東の将士は逃げて帰った者が多かった。国清は彼らの領地を取り上げた。将士らは名を書き連ねて基氏に訴えた。基氏は国清を責め、叱った。国清はおそれて伊豆に逃げ、弟の義深は信濃に逃げ、いずれも挙兵して官軍に味方した。清氏は南朝の天皇に「足利氏の兵は東で義長の兵を防ぎ、西は時氏の兵を防いでいます。私は空虚なところにつけこんで京都を取り替えしましょう」に奏上し、許された。

 

細川清氏は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府2代将軍・足利義詮の執事、伊勢国・伊賀国・若狭国守護。細川氏5代当主。

畠山国清は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名である。足利氏の支流畠山氏出身。和泉、紀伊守護を経て関東管領となる。伊豆守護家の祖。父は畠山家国。弟に義深など。子に義清、義晴。

 

 

 高知県室戸市にある義長神社の説明板

2023・2・8 仁木義長を討つ

 

 畠山国清は京都に入ってから、仁木義長の専横なるありさまを見て深く憎み、内々に諸将に「こんどの戦争は義長を殺すためのものだ。彼は西宮に陣したまま一度も戦おうとはしなかった。味方の敗軍に喜び、勝ったと聞けば心配した。余は諸君ら


とこの奸臣をなんとか誅したい」といった。細川清氏らは義長とは仲が悪かったので、この謀に賛成した。七月、楠氏は兵を摂津に送った。国清、清氏らは直ちに駆けつけ、義長を返り討ちすることを相談した。義長はこれを聞き、若い者を遣って方々の道を防がせ、自分は兵を率いて義詮を守護した。夜、佐々木道誉はこっそり小門から入って義詮に会い「諸将が殺そうとするものを助けるとは何ごとですか。しかし諸将の考えもわかりません。私は義長と相談します。そのあいだあなたはここを出て、西山に逃げなさい」といった。義詮は病気が起ったといって寝床についた。義長はやめて出ていった。道誉がやってきた。義長は彼と話し、夜中になった。道誉は帰っていった。義長は義詮の寝床にいって、事を報告した。返事をする者がないので探したが、見つからない。義長の兵は将軍がいなくなったのを知って散り散りに潰えた。義長は伊勢に帰った。官軍は破綻につけ込み、再び勢いを増した。軍衆は国清が悪いからこんなことになったと罪を国清に着せた。国清は恐れて東へ帰っていった。途中、俊長の領地を通り、危なかったが、やっと鎌倉へ返った。義長は弟の義住に命じて石堂頼房と葛木山に陣取らせた。義詮は六角氏頼、土岐直氏に義住を撃たせて降参させ、義長も征伐した。義長は官軍に降参した。

 

2023・2・6  尊氏薨去

 

十三年(一三五八)四月、尊氏は瘍という腫れ物ができて死んだ。五十四歳。北朝から従一位左大臣を贈られ、義詮に征夷大将軍の職を継がせ、基氏を左馬頭とした。官軍は足利の不幸につけこみ、諸方で兵を挙げた。鎮台探題一色直氏は菊池武光に敗れた。義詮は細川繁氏に代わらせたが、赴任の途中で病死した、小貳頼尚、大友氏時はたびたび武光を撃った。また一方では新田義興が鎌倉を襲おうと企てていた。基氏は畠山国清に義興を誘い出させて殺し、みずから入間川で兵を並べ、武威を示した。関東に者どもは大いに恐れ、服従した。国清は基氏に「故将軍尊氏公が亡くなられたので天下に者どもはあなた方兄弟が仲違いをしているのではと疑っている。私は兵の将として、南、吉野を平定し、義詮公の疑いをとくようにしたい」と説いた。基氏はもっともだと思い、関東八州の兵を繰り出し、国清に与えて西に上らせた。

 

 明年正月、義詮は諸将を率いて尼崎を陣取り、国清は筒山に陣取り、弟の義深に別の龍門を攻めさせたが、負けて帰ってきた。代わって弟の義煕に攻めさせ、龍門を落とした。赤松氏範は裏切る約束をしたが、成功しないで逃げてきた。諸将もまた三城を落とし、さらに赤坂の楠木氏を攻めて追い散らした。楠木氏は後村上天皇を奉じて金剛山に隠れた。五月、義詮は凱旋した

 

2023・2・3  直冬、京師を攻めて敗る

 

 一方、山名時氏の兵が毎日逃走するので、時氏は伯耆へ帰っていった。時氏は「軍勢が私に従わない理由はわかっている」といった。そこで直冬を探した。直冬は直義が死んだあと、長門にかくれていた。そんなわけで時氏は直冬をもりたてることになった。付き従う者は多かった、足利高経、桃井直常などよしみを通じた。

 高経が新田義貞に勝ったとき、義貞の指していた鬼切、鬼丸の二口に刀を入手した。尊氏はこれらを取り上げようと思い「それらは源氏の宝物で、本家に伝えるべものである」といった。高経は惜んで「長崎の寺(越前)に預けておいたところ、火事に遭って焼けました」と欺き、他の刀を献上した。尊氏は怒り、高経を排除した。高経は怨み、直冬についた。

 九年の冬、直冬らは兵を挙げ、京都に攻めのぼった。義詮と洞誉は播磨で防いだ。

 明年正月、直冬、時氏は丹波から攻め入った。このとき仁木頼章は新たに足利の執事に就任したが、待ち受けて撃とうとはしなかった。尊氏は後光厳天皇を連れて近江に逃げた。六角氏頼、仁木義長らが助けにきた。また細川頼之は四国の兵を率いて助けにきた。頼之は頼春の子である。そこで義詮は、神南山(こうない 摂津)に陣取った時氏、師儀は楠氏の兵と一緒に京都から引き返し、神南山に攻め寄せた。足利氏の諸将は防ぎ、戦って大敗した。師義は四つ目の旗印をみて、「あれは道誉ではないか」という、士卒を指図して詰め寄せた。このとき赤松則祐は義詮の傍らにいて、騎兵を呼んで激励し、高いところから馳せ下って敵をついた。師義は負傷して敗走した。尊氏は比叡山にいた。神南山で勝ったことを訊いて、東山に陣取り、義長、清氏を遣わして高経、直常と戦わせ、ついに直冬を東寺に攻めた、義詮は山崎、頼章は嵐山に陣取り、直冬の糧道を断ちきった。直冬は界裏に逃げ、途中八幡宮で神籤をひいて、戦いの吉凶を占った、神主は「神のお心では父に反抗する不孝者はお助けにならない」といった。諸将は兵を解いて立ち去った。尊氏は御光巌天皇を迎えて京都に帰り、また三上皇(光厳、光明、崇光)も吉野から帰京した。

赤丸が神南(こうない)現在の大阪府高槻市神内 神南から神内に変っている
赤丸が神南(こうない)現在の大阪府高槻市神内 神南から神内に変っている

神南の戦い

南朝 足利直冬 楠木正儀 山名時氏

 

北朝 室町幕府 足利尊氏 足利義詮

 

佐々木道誉 12961373

南北朝時代の武将。高氏ともいう。近江の豪族。京極氏。宗氏の子。嘉暦1 (1326) 年入道して道誉と号し,佐渡大夫判官入道といわれた。元弘の乱から建武中興の争乱が生んだ自由奔放な武人といわれ,室町幕府の要職につき,出雲,飛騨などの守護となり権勢をふるった。

2023・1・17 

義詮、京師留守に苦しむ

 

 

 八月、義詮は崇高天皇の皇太子を立てた。光明天皇が位につかれた時、後醍醐天皇は贋の神器を授けられた。この年の二月の乱の時、その贋の神器が壊れてしまった。そのため公卿衆は剣璽がないのに即位されるのはよくないと論議した。関白藤原良基が「尊氏が剣、良基が璽となる。何がいけないことがあろう」といった。ついに即位された。これが後光厳天皇(北朝四代)である。

 当時、政治は皆義詮がやっていた。義詮は佐々木道誉を寵愛していた。道誉とは高氏で、信綱五代の孫である。彼は尊氏の勧めで北条氏を


 

滅ぼし、新田氏をたびたび苦しめた。直義、直冬が叛いた時も、義詮のために志を変えず、たびたび救った、だから義詮は道誉を気に入り、政治を行なっていた。その子の秀綱、弟氏頼もみな義詮と親しく、信用されていた。山名時氏は自分の手柄を鼻にかけ、若狭に土地をもらおうと思い、息子の師義を道誉のところへやり、「将軍が約束されたことですから」といわせた。道誉は酒盛りをしていたところで、相手にしなかった。師義は立ったまま返事を待ち、夕暮れになった。「誰がおまえに頼むものか」と怒った。伯耆に馳せ帰り、父の時氏とともに足利氏に叛いて官軍についた。吉良満貞、石堂頼房は以前直義に組みしていた。赤松氏範は兄の則祐と仲が悪かった。皆、時氏に味方した。

 

 八年(一三五三)六月、時氏、満貞、義房、氏範らは同時に京都へ攻め込んだ。義詮は北朝の後光厳天皇を叡山にお移しし、自分は鴨川に陣取った。道誉は真っ先に負けた、細川雇用時は独り踏みとどまり、戦った。義詮は呼び戻した。そのうちに比叡山の坊主がまた敵方についた。義詮は近江へ逃げた、新田氏の残党堀口貞祐は土民を連れて、待ち受けて撃った。秀綱は討死した。義詮は塩津までいった。するとまた土民の一揆が起り、味方の兵は潰えてしまった。清氏は馬から下り、後光厳天皇を背負って東へ逃げ、垂氷に着いた。このとき尊氏は関東を平定し、基氏に鎮めさせ、畠山国清に補佐をさせ、自分は西に上って義詮と会い、一緒に京都を攻めいった。

 

後村上天皇は後醍醐天皇の7男。第97代天皇および南朝第2代天皇。後醍醐天皇の皇子の中でただ一人の天皇で、父の遺志を継いで戦い続けた武闘派であった。写真は後村上天皇陵。河内長野市。ネットより

2023・1・13 

南朝の一張一弛

 

 

七年二月(一三五二年正平七年)楠氏、北畠氏は千人の兵を率い、後村上天皇(後醍醐天皇の七男)を奉戴して京都を不意打ちした。細川顕氏は敗走し、細川頼春は討死した。義詮は百余人と勢多の橋まで来ると、橋はすでに落とされていた。渡るに渡れず、自殺しようと思った。曽我左衛門向こう岸まで泳ぎ、舟を取ってきて渡し、佐々木、土岐氏のところへ逃げこみ、頼った。このとき北朝の二上皇、一帝は皆擒になら


れた。また新田義興、義治もまた宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を奉戴して東国で挙兵し、鎌倉に攻め寄せた。その数十余万と称された。足利の諸将は兵が少ないから敵の先陣を安房、上総で避けようと相談した。尊氏は「余が鎌倉を逃げ出したと関東諸国の者が聞いたら、きっとこぞって敵方につくだろう。それより敵を迎え撃つにこしたことはない」といった。そこで基氏(尊氏の子)に鎌倉の留守番をさせ、自分は五百騎の将になって出陣し、途中で兵を集め、武蔵に入るころには数万騎を得た。饗場氏直は先鋒となり、新田義興の弟義宗と戦った。その部下の兵は皆年若く、勢いにまかせてやたらに進んで敗れ去り、尊氏の陣へ逃げこんできた。そのため尊氏の陣は乱れ、ついに大敗して石浜まできた。いよいよ急を要し、近習の士二十余は引き返して戦い、討死した。仁木義長は兵を伏せて、義興を討ち、大いに破った。

 

 はじめ石堂義房、三浦高道は足利に叛き、義興にこっそり味方した。戦いの最中に尊氏を刺し殺そうと約束した。義房はそのことを息子の義元に話した。義元は尊氏に知らせた。義房、高通は出奔した。両人は義興と兵七千人を併せ、鎌倉に引き返して襲った。基氏は戦い、負けた。逃げて石浜にいた尊氏と合併した。徐々に諸将が集まりきて、八万人になった。上杉憲顕は信濃で叛いて義宗に従い、合せて二万騎で碓氷に陣取った。尊氏は「まず人数の多い方を破れば、自然小勢の方が逃げ去るだろう」といい、義宗を進撃して敗走させた。義興らも逃げ散った。京畿の将士は尊氏の勝利を聞き、こぞって義詮についた。義詮は三万の兵を得て、京都に入った、官軍は退き、男山を保持することになった。三月、義詮は細川顕氏、赤松則祐と会して、官軍の兵糧の道を絶ち、男山をとりかこむこと数日に及んだ。ちょうどそこへ山名時氏が息子の師義とともに山陰の兵を連れて義詮を助けにきたので、大いに勢いを得て、淀口を攻めて奪い取った。四月に顕氏らの諸将は同時に進み、北畠顕能を園殿に、楠正儀を更科に攻めて、破った。五月、とうとう男山を陥れた。後村上天皇は南に逃げられた。

2023・1・5 尊氏、直義を討つ②

 

 十月、直義は越前から逃げて鎌倉へ行った、戸か氏は心配して、赤松氏に頼んで南朝に和睦を願い出て、義詮を京都に留めおいて守らせ、自分は大将いなって東方へ討って出た。遠江より東はすべて直義についた、尊氏は三千人を率いて薩埵山を維持した。直義は伊豆の国府に陣取り、上杉憲顕、石堂義房らを派遣し、数十万の兵を率いて尊氏を迎撃した。十二月に宇都宮氏綱は下野の兵を繰り出して尊氏に味方し、桃井直常に利根川で出会って戦って勝ち、足柄山の麓まで来た。松明の火が野原一面に広がり渡った。直義の兵はこれを望見して崩れ去った。仁木義長は三百騎をつれてこれを追撃し、伊豆まできた。憲顕は信濃に敗走し、直義は人義房とともに北条に隠れた。そこで尊氏は義長らを遣わし、直義を捕らえさせ、鎌倉に入った。基氏は直義を救うため懸命に弁解した。尊氏は承知しなかった。基氏は安房に出奔した。尊氏は人をやって、呼び返らせた、間もなく直義は急死した。尊氏は鎌倉に留まり、関東を鎮めていた。

(足利尊氏・兄、直義・弟、義詮・嫡男、冬直・庶子で直義の養子)

ネットより
ネットより

2022・12・28 

尊氏、直義を討つ①

 

 足利直義は平素から内情が表にでないように繕って評判を得ようとしたので、従う者が多かった。上杉顕能は一存で師直を殺したため、尊氏に逐われた。畠山、石堂、桃井の諸氏は勢いにつけあがって奢り、仁木、細川、土岐、佐々木の諸氏と仲が悪かった。毎夜、郊外で兵士を集める者があると根も葉もないことをいいふらす者がいた。二つの徒党は

八相山は虎御前山の別名(滋賀県長浜市付近。ネットより)。1570年から3年間にわたり、織田信長が小谷城の浅井氏を攻略するため、最前線基地を置いたのが虎御前山で、こちらのほうが有名。


互いに警戒した。少納言藤原有範は儒学ができるので、直義に信用されていたが、太公望と自分を比べていた。直義に「義詮の淫乱ぶりは殷の紂王以上です。貴公が周の文王のように徳を修められるのなら、心服しない者はいないでしょう」といった。直義はますます驕った。

 観応六年(一三五一)七月、直常、義房も直義に「聞けば、仁木頼章らは各々本国へ帰り、赤松則祐は南朝と内通しているそうです。皆、親子の御意を受けて貴公を滅ぼすためです。ですから貴公ははやく北国へ行かれ、私の領地の越中甲斐を合わせて堅固になさいませ」といった。直義は急ぎ京都から出奔した。将士もみな付き従い、京都は空になった。義詮はひどく怯え、翌朝、尊氏の屋敷へ行き「直義が引き返して不意打ちをするかもしれないから用心しておきましょう」といった。尊氏は「運命は天にある。心配には及ばぬ」といい、詩を吟じ、平素と変らなかった。八月になって尊氏は直義が敦賀にいると聞き、万人を連れて討にいった。九月、直義の兵六万が八相山を陣取った。互いに勝ち負けがあった。細川顕氏、畠山国清は直義に仲直りすることを勧めたが、承知しない。二人は怒って、尊氏に降参した。

 

  高師直の塚 兵庫県伊丹市    インターネットより
  高師直の塚 兵庫県伊丹市    インターネットより

2022・12・19 二高の自滅 

 

 

 師直、師泰は四国に逃げようとした。細川顕氏が四国で兵を挙げ、直義に応じたと聞いたので、海を渡って東の師冬のところへ行こうと思った。ちょうどそこへ甲斐の人が来て、「上杉憲顕が養子の能憲と上野(こうづけ)で兵を起こし、直義の味方になって師冬を討ち、師冬は甲斐に逃げ、諏訪の下宮の神主に殺された」といった。師直、師泰は非常に驚いた。とうとう髪を剃り、編み笠をかぶって顔を隠し、東に逃げて尊氏に追いつこうした。上杉憲能の兵はわざと邪魔をして、尊氏に追い


つけないようにした。二人が武庫川を渡るとき、三浦某が「顔を隠しているのはどこの坊主だ」と師直を叱りつけた。笠をとり、顔をのぞきこみ「確かにこれだ」と薙刀で斬り殺した。師泰は遠くで見ていて逃げようとした。すると吉江某が槍で突き殺した。師直の子師夏も皆殺しされた。そこで尊氏は播磨から、義詮は丹波から、直義は男山から京都に入り、酒宴を催した。しかし打ち解けず、ろくに物もいわず解散した。

2022・12・17   二高の専横と直義、直冬の離反②

 

観応の擾乱

1349年(正平4・貞和5)から52年(正平7・文和1)にかけて起きた室町幕府中枢部の分裂と、それによって惹起された全国的な争乱。この間の北朝年号が観応(135052)であったことから、この名がある。

原因

足利尊氏・直義兄弟による将軍権限の分割政治(二頭政治)のもつ矛盾が、擾乱発生の根本原因であり、新興武士団が実力によって旧体制を打破していくことを承認した高師直(尊氏執事)の急進的な行動が、この矛盾をいっそう拡大させた。

 

ネットより
ネットより

 

 正平四年(一三四九)八月、直義は、重能、直宗及び飯粟原清胤、齊藤利康らと相談して兵を伏せておいて、師直を召した。師直は三条の直義の屋敷にきた。途中で清胤が心変わりし、師直に目配せした。師直は悟ってすぐに立ち去った。その夜、清胤は利康と師直のもとへ行き、謀略を密告した。師直は一族郎党を集めて身を守り、師泰を石川から呼び返した。師泰は畠山国清に石川を守らせて、京都へ帰ってきた。直義はこれを聞いて、師泰を迎えに行かせ、「余は貴公を貴公の兄に代わって執政に取り立てようと思っている」といわせた。師泰は「まず枝を切ってから根まで切ろうという貴方のお心はよくわかっています。臣はお目にかかって御返答したく存じます」といった。騎兵三千、歩卒七千を率い、楯を一つずつ持たせ、その日のうちに京都に入った。師直は赤松則村に杉坂と舟坂とを食い止めて、直冬が入京するのに備えさせた。尊氏は驚いて、直義に使いをやった。直義は尊氏の東洞院の屋敷に入った。足利の兵は徐々に立ち去り、師直に従い留まった者は千人に足らぬくらいであった。

 翌日、師直、師泰は数万の兵を率いて尊氏の屋敷を取り囲んだ。尊氏は人をやって、なぜそんなことをするのか責めた。師直、師泰「讒言する者たちをとらえたいだけです」と答えた。尊氏は怒り、自分で戦おうとしたが、直義は「どうして家来と戦いますか。しばらく様子をみよう」と引き留めた。尊氏は従った。師直は囲を解いて引き下がり、兵を派遣して妙吉を捕らえさせようとしたが、できなかった。そこで重能、直宗を越前に流し、義詮を鎌倉から呼び戻して政治を行わせ、代わりに弟の基氏を鎌倉にやった。師冬と上杉憲顕とで補佐した。直義を退けて、錦小路に居るようにさせた。それからは直義のところへ行くものはなく、僧の玄慧がたまに訪ねるくらいであった。直義は頭を丸め、二度と政治に関係しないと意思表示して、師直、師泰を安心させた。師直、師泰は内々重能、直宗を殺させようとした。ところが直冬が肥後に逃げた。小弐頼尚は娘を直冬に娶わせた。三角某は石見で兵を起こし、直冬の味方をした。五年、師直、師泰は直冬の征伐にいった。ちょうど土岐頼明が謀反を起こした。尊氏は師直を呼び戻して、義詮の補佐をさせ、頼明を撃たせ、捕虜にした。義詮は参議に任ぜられ、左近衛中将を兼ねた。師泰は石見の五ケ城を攻め落とし、ついに三角を取り囲んだが、それ以上はできなかった。しかるに鎮西は悉く直冬に属した、師直は尊氏に自ら征伐に出かけ、どれを助け、どれに背くか道筋を示すように勧めた。尊氏は従った。

 

 師直は直義を殺していこうとした。直義はその晩奈良に出奔したが、受け入れられなかった。越智某を頼り、ついに南朝に降参した。石堂義房、その子頼房、畠山国清、上杉顕能らも南朝に降参した。顕能は重能の息子である。翌年、直義は京都に攻め入り、男山に立て籠もった。桃井直常は平素から師直が褒賞をくれなかったことを怨んでいた。そのため越中の兵を率いて京へ入り、比叡山に立て籠もり、直義と義詮を攻めた。義詮は西に逃げた。尊氏は備前から帰ってきた師直に出会ったので兵をあわせ、直常を討って敗走させた。しかし将士の多くは背いて直義についた。明くる日、義詮は丹波に逃げ、尊氏と師直は播磨に逃げた。直義は頼房に尊氏を攻めさせた。そのとき、師安は石見から帰ってきたところであった尊氏はその兵をあわせ、頼房を迎え討った。当時、赤松則村は死んで、息子の則祐が白旗城を保持して、出てこなかった。直義は清国に頼房を助けさせ、御影濵デ戦った。尊氏は大敗し、松岡城に入った。ところがその城は狭く、兵士でいっぱいになった。師直は雑兵を追いたて、城から追い出した。皆、怒って散っていった。将士も逃げだし、残ったのはわずか五百人であった。尊氏、師直は鎧を脱ぎ、自殺しようと思った。最後の酒宴を開き、夜中になった。このとき逃げた大将饗場氏直が門を叩き、「私はひそかに国清のところへ行き、和睦の相談をしました。国清は直義も同じ思いといっています。男山からきた直義殿の手紙も見せてもらいましたが、実際そのとおりでした」と報告した。尊氏は非常に喜び、一人抜け出して京都へ帰った。師直、師泰はどうしてようかわからなくなった。髪を剃って降参しようと思った。薬師寺公義は討死を勧めたが、聞きいれなかった、

源頼朝といわれてきた肖像画。足利直義ではないかという新説もある。真相は?

2022・12・13 

二高の専横と直義、直冬の離反①

 

 師直兄弟はしばしば功をたてたので、ずいぶん専横になった。その頃、世の中は大乱であり、親王や公卿で流浪しているものは多かった。そこで師直は彼らの若い娘を掠め取って妾にした。数十人はいた。またかつて塩冶高貞を讒言して殺し、妻を奪い取ろうとした。師安が別邸を建てるのに、菅原氏の墓を暴いたことがある。後裔の参義菅原在登が怨みがましいことを言ったと聞いて、秘かに人をやり、在登を殺させたの


である。世間ではこのことについていう者はなかった。上杉重能、畠山直宗は師直の権力威勢を妬んで直義を助けて、師直の力を弱めようと計画した。折しも直義は禅を疎石に学んでいた。疎石の弟子の妙吉は世間から最も崇められ、尊ばれていた。人は争って妙吉に仕えた。ただ、師直兄弟は軽蔑していた。そこで重能直宗は妙吉に結びついた。妙吉は泰然として直義に「昔から一家の安危はその家を切り盛りする家老の賢さに左右されるといいます。あなたは秦の趙高が、扶蘇、胡亥兄弟の仲を裂いて、秦を滅ぼした話を聞いたことはありませんか。あなたは早く師直を誅し、代わりに上杉、畠山を引き上げて若君を助けるようになさい」といった。若君とは直義の幼子である。直義は尊氏の妾腹の長子直冬を養子にして左兵衛佐に任ぜられていた。このときは中国の探題になり鞆津まで行き、役人の功罪を吟味することになった。一方、高師直、師泰の罪過はますます顕著になってきた。

 

2022・12・10 

足利氏の恩威行わる②

 

 足利氏の恩威行わる②

 だが吉野行宮の臣や、諸国に隠れている新田、楠、北畠、菊池らの残党は必ず足利に報いようと思っていた。興国三年(一三四二)、高師直の従弟師冬は北畠親房を陸奥に攻めた。四年、親房は行宮に走り帰った。新田義治は京師に隠れ、尊氏を襲おうと計画したが、成功しなかった。

足利尊氏像といわれた肖像画は、高師直を描いたものではないかといわれている。
足利尊氏像といわれた肖像画は、高師直を描いたものではないかといわれている。

 正平三年(一三四八)正月、楠正行らが兵を河内に起こした。そこで細川顕氏、山名時氏を摂津に送って戦わせたが、負け帰ってきた。さらに高師直に諸将を率い、撃たせた。四年、師直は正行と四條畷で戦った。県某は正行の全軍を撃ち、武田信氏は後軍を撃ち、佐々木高氏らはこれに続き、正行に大勝した。正行は死を決して進軍したので、足利の諸士らは散り散りに逃げ失せた。上山高元というものが普段着で従軍し、師直の旗下にいた。正行が突進してきたので、高元は急いで師直の控えの鎧を取り出した。左右の者が叱ってこれを止めた。師直は「叱るな。私に代わって死んでくれる男だ。鎧の一領くらいどうして惜しもうか」といった。高元はその言葉に感激し、師直だと偽って討死した。師直は危ないところを免れた。結局、正行を倒し、吉野の行宮を焼き、師泰に命じて石川に砦を築き、楠正儀を攻めさせた。この年、北朝の皇太子が三位の譲りを受けられ、即位された。崇光天皇である。

 

 

り、土地を与えなくてもよいようなものの、功績のある者に必ず賞を与えるという主意から土地を割いて、功を賞した。兵糧を取り立てるのに、公卿衆の領土でもいとわなかった。武家の勢いがさかんなので、公卿衆が関東武士の言語や様子を真似て、世間から侮られるのを免れようと計るまでになった。尊氏が光明天

2022・12・7 

足利氏の恩威行わる①

 

足利氏の恩威行なわる①

 足利尊氏は足利直義と高師直に政を行なわせた。尊氏は二人に「私はかつて源頼朝が賞すべき者には賞し、罰すべき者には罰したやり方を慕っているが、疑い深く、厳刑を処したことは遺憾に思っている。汝らはこの考えに従い、手柄のある者を妬んだり、賞を惜しんだりしないようにせよ。また昔からの仇でも強敵でも、降参したらいつでも受けいれよ」といった。当時、足利一族で財産があり位が高い者は四十三人お

天龍寺(京都市)
天龍寺(京都市)

皇を立てたとき、当時の人々は「親王は一度も戦争の手柄がないのに、天子の地位を将軍からもらわれた」と批評しあった。また光厳上皇がお出かけになったとき、途中で土岐頼遠に出会われた。上皇の先ぶれが「院で御在すぞ」と頼遠を叱って馬から下ろさせようとした。頼遠は少々酔っており、「院か犬かは知らないが、誰が私を馬から下ろせるというのか」と怒り、上皇の乗り物の周囲を犬追い物でもあるかのようにぐるぐる廻りながら、射かけて立ち去った。院と犬とは音では近いので、院を辱めたのである。直義はこれを聞いて頼遠を誅殺し、甥の頼康の家を継がせた。当時の人々は「院でさえ馬から下ろされるのなら、将軍に出会ったなら手で歩かなければならない」と言い合った。

 天下は足利氏の恩と威力に服し、なんとか平穏であったが、飢饉、疫病、天災地変は多かった。僧の疎石が尊氏に「これは先帝のお怒りよるのだろうから、寺を建てて先帝のご冥福を祈られたらよろしいでしょう」と進言した。このとき後醍醐天皇は吉野の行宮で崩御され、後村上天皇が即位されていたから、先帝といったのである。尊氏、直義は確かにその通りと思い、亀山殿の跡に寺を建てた。興国から正平の至るまで七年がかりでできあがった。天竜寺と名付けられた。疎石をそこの住持として、尊氏はその寺に出かけて供養し、しばしば法要を営んだ。また文をつくって先帝を祭り、旧恩に感謝する意を述べた。

 

2022・12・2 

新田氏を滅ぼす

 

新田氏を滅ぼす

 新田義貞は再び杣山で動きを見せた。足利髙経は防いだ。義貞の少子(末子)義興は、北畠顕家とともに関東で兵を起こした。当時足利義詮は鎌倉にいて、細川和氏、上杉憲顕を遣わして利根川を防がせたが、負け帰った。冬、顕家は十余万騎を率

図はいずれもネットより
図はいずれもネットより

いて鎌倉に帰ってきた。鎌倉の兵は一万ばかりであった。鎌倉の諸将は安房、上総の辺りに隠れようと思った。義詮はそのとき十一歳で、諸将は「勝ち負けは戦の常。敵を恐れるくらいなら、大将にならぬほうがよい。義詮がここに居るにもかかわらず、逃げ出したとなれば、人はなんというだろう。我が兵は少ないながら、まだ一戦はできる。もし戦を免れないのなら、討死するだけだ。もし免れたなら、避けて隠れつつ敵の後から西に上り、父上と挟み撃ちにするばかりだ」と叱りつけた。この言葉にみな発憤した。兵を四隊に分けて迎え、戦った。だが勝てず、諸将は義詮を連れて逃げ隠れた。顕家らは京都へ上がった。諸将はその後をつけた。

 明年(一三三八)正月、美濃に至る。土岐頼遠、桃井直常は顕家と戦って、また勝てなかった。顕家は人家に火をつけ、物を掠め取って進撃した。今日との足利方の諸将は宇治・勢多で防ごうと相談した。高師泰は「昔からそこで防いで勝った者はいない。理由は遠くから攻めてくる者は元気でぐんぐん伸びていくが、防ぐほうは逆に狭いところに押しこめられるようで気力が弱って行くからだ。それより畿内の外で迎え撃ったほうがよい」といいい、尊氏は「なるほど。それがよい」と頷いた。師泰に万人を与えて美濃へ行かせ、黒血川を背に陣取った。顕家はこれを避けて、伊勢路を進んだ。

二月、師泰は雲津で追い撃ち、破った。顕家は奈良に入り、京都を攻めようとした。師直は桃井直常を推薦して撃たせにやった。直常は兄の直信とともに命令を受けて直ちに出発し、奮激して顕家を打ち散らした。顕家の弟顕信は敗軍をまとめて男山に立て籠もった。直常は戦功があるのに、褒美をもらわなかったのを見て、援けにいく者はなかった。そこで師直は直常を助け、顕信を攻めたが、下すことができなかった。

四月、師直は顕家が和泉にいるのを聞いて、楠木氏と合併するのを恐れ、男山を攻めていた兵士を分けて南へ行き、顕家を阿倍野で撃ち殺した。五月、後醍醐天皇は遥か越前にいる義貞に命じ、男山を救わせた。義貞と高経とは睨み合いの状態が続き、自分で行くわけにもいかず、義助に男山を救うように命じ、二万騎を率いて比叡山に赴かせた。七月、尊氏は急に師直を呼び帰した。ある夜、師直は忍びの者に男山に積んであった兵糧を焼かせた。顕信はついに守りを捨てて逃げ出し、義助は比叡山からその火を見て引き返し、退いた。

 義貞、義助は三万騎を併せ、高経を足羽城(福井県福井市)に攻めた。城兵は三百に満たなかった。高経は「守ってみたところで勝つ目処はない。逃げたところで目的を達することはできない。いっそのこと守って討死しよう」といい、城主の朝倉広景は賛成した。梁や城壁を藤島城に連続させた。そこへ平泉の僧徒がきて「比叡山は藤島を取ろうとして、我々と戦っている。もし貴公が藤島を平泉の寺領にくれるなら、力


を尽くして加勢しよう」といい、高経はこれを許した。新田氏の兵は藤島を攻め立てた。僧兵は力の限り拒いだ。高経は細川高基、鹿草公相に三百人を率いて救わせた。途中、敵兵に出くわした。楯に身をかくして散々に射ち、一将を倒した。氏家、重国は首を持ってかえってきた。高経はそれを見て「ずいぶん義貞に似ているではないか。もし義貞としれば、左の眉に箭創の跡があるはずだ」といい、顔を洗うように命じた。果たして創痕が見えてきた。死骸を検査すると、後醍醐天皇の詔書を持っていた。二刀には鬼切、鬼丸という銘が入っていた。そこでいよいよ義貞であることが分かった。死骸を片付けて葬り、首を尊氏に献じた。獄門にかけて、となえ示した。北朝では功によって尊氏を正二位に昇せ、征夷大将軍に任ぜられた。四年、諸将を派遣して高経を援けて、新田義助を走らせた。興国元年(一三四〇)、義助は病に罹り、伊予で死んだ。細川頼春はそこへつけこみ、諸城を攻めて陥れ、一族郎党を悉く殺した。かくして官軍の諸将は大半が死亡し、官軍の諸将は次々降参した。尊氏は、家を興そうという最初の希望通りになった。

 

2022・11・22 現地を訪ねて

足利軍と新田軍の合戦の地「金ケ崎城跡」② 

 

 山道をさらに登っていくと「金ケ崎城跡 尊良親王御墓所見込み地」の看板が見える。

 ※尊良親王(たかなが、たかよし)は後醍醐天皇第一皇子。母は藤原為子。元弘の変のとき土佐国に流される。建武新政府の成立によって帰京し、東国管領として新田義貞とともに足利尊氏と戦ったが敗れる。1336年(延元元)皇太子恒良親王を助けて金崎城に拠ったが、1337年(建武4=延元2)足利軍のために落城、自害した。

 但し、説明板を読めば、あくまで「御墓所見込地」であって、京都市内には同親王の墓所があるという。

(下の説明板ご参照ください)

 明治という時代の歴史観に親しめないのは、こんな点にもある。


 さらに登っていくと、金ケ崎古戦場の碑がある。

 のぼりはじめて3、40分。ようやく最終目的地の月見御殿に到着。南北朝時代の金ケ崎城の本丸跡で、金ケ崎の最高峰。海抜86メートルというが、登ってきた実感では、もっと高いような気がする。


眼下には敦賀湾がひろがる。敦賀原発からも近い。

金ケ崎全景。ネットより
金ケ崎全景。ネットより

 金ヶ崎周辺は埋め立てによって地形も変っているが、当時は天然の要塞であったことがわかる。

 残念ながら頼山陽はこの地を訪れていない。合戦の地の多くを踏破していた山陽のこと、もう少し長生きしていたなら、訪ねたい地だったのではなかろうか。


2022・11・18 

現地を訪ねて

足利軍と新田軍の合戦の地

「金ケ崎城跡」

 

 10月末北陸への旅の途中で、頼山陽『日本外史』「新田氏」や現在ホームページで連載中の「足利氏」にも書かれている「金山城跡(福井県敦賀市)」を訪ねた。

福井県敦賀市は琵琶湖、京都にも近い。


金崎宮(敦賀市)
金崎宮(敦賀市)

 金崎山の麓には尊良親王、恒良親王を祀る金崎宮があった。気比大宮司氏治の居城であったという。1337年(延元2)ここで足利軍と新田軍の合戦があり、攻めた足利軍が落城した。縁起に書かれた由緒によれば、明治26年に造られた。明治という時代性が伝わる。

現在の気比神宮(敦賀市)
現在の気比神宮(敦賀市)

摂社絹掛神社
摂社絹掛神社

 金ヶ崎城を訪ねたのは、ここで討死した新田軍方の武将「長浜顕寛」に興味を抱いたからだ。見延典子の石川県出身の曽祖父は「長濵」姓である。この「長浜顕寛」と接点はないだろうかと思ったのだ。

 絹掛神社にはその長浜顕寛も祀られている。

摂社絹掛神社に参る。
摂社絹掛神社に参る。

 地元住民にも親しまれている格好の散歩コースというイメージがうかんだが、実際歩き始めると、日頃の運動不足を思い知らされるなかなかにハードな山道であった。

         続きます。

 さてここから金ヶ崎城跡を目指して歩く。

 周辺の住人だろうか。散歩にしてははやい足取りで山の上へとのぼっていく姿がある。

登りはじめはこんな感じ。
登りはじめはこんな感じ。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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