石村良子代表のブログです

2024・4・26 法圓寺、多家神社

2024・4・25 御三の丸の謎⑥ 本当は広い広島城

2024・4・20

広島城『御三の丸』の謎 ⑤ 重晟公、竹の丸にて御臨終

 

浅野重晟公(隠居して少将様)は竹の丸にて隠居され 別邸縮景園の整備、水主町にあった中屋敷の與楽園の作庭された。今に残る頼春水の「竹館小録」「縮景園記」「與楽園記、天青閣并序」により重晟公の事蹟や縮景園、與楽園の往時の姿をしのぶことが出来る。

工事中の三の丸博物館、土産物店併設(広島市)
工事中の三の丸博物館、土産物店併設(広島市)

 

「春水日記」では重晟公が大洲新開潮入りの地、御遊猟の際、御眩暈で竹の丸に入られたという事で、学館から駆け付ける様子、臨終の前後、御葬埋、にと 昼夜なく春水も出仕したこと書き残している。

妻の梅颸の日記には春水臨終前214「恭昭院様(重晟公1113日卆)御同日とならんと思いしに、今日先ず生きておると仰せられ」と記している。

         頼山陽史跡資料館古文書教室 石村良子 青山浩子

 

          

2024・4・14 石村良子代表 広島城『御三の丸』の謎④

                        文責 青山浩子

浅野あさの重晟しげあきらこうの別邸縮景園(泉水邸)

重晟公が隠居所とした竹の丸から東へ約500mの所に泉邸とも呼ばれた縮景園がある。

1620年に築かれたという歴史ある庭園であるが、現在の姿になったのは重晟の時からである。重晟は1763年二十歳で家督を継ぎ、四十歳の時に5年間かけて縮景園を大改修している。今シンボルとなっている石造りの太鼓橋である跨虹橋はこの時造られている。当時大名庭園では中国趣味がブームになっていたようで、重晟も中国西湖にある蘇堤を模して()(こう)(きょう)を造ったようだ。西湖蘇堤には南北に六つの橋が掛けられているが、北から入ると最初に()(こう)(きょう)、南から入ると最初に映波橋で縮景園には映波(えいは)(きょう)と名付けた橋もある。

重晟の縮景園への思い入れはかなり強かったようで、大改修後、春水や梅園太嶺、岡岷山らに命じて園内のすべての橋や島、池や茶室等65か所に中国趣味の雅号を付け、その中で34か所を縮景園名勝として選定している。そしてその名勝に題した詩文や和歌を何人もの儒官などに命じて作らせている。

 

頼山陽史跡資料館寄託「縮景園記 頼春水」より清風館
頼山陽史跡資料館寄託「縮景園記 頼春水」より清風館

春水も縮景園記を書いているが、歩くごとに素晴らしい景色が広がる庭園であると少々オーバーに賞賛し、重晟を喜ばせている。また同じ頃縮景園八勝も選ばれ、岡岷山一門がその八勝図を描いている。八勝は「長堤桃花」「池亭納涼」「松間明月」「連峯積雪」「前川行舟」「隴畝烟雨」「晴窓眺望」「宮岳彩雲」こちらは縮景園からの四季の眺望、借景としての景観が主に描かれているようだ。

 

「長堤桃花」が復元されているということで、この春写真に収めてきた。春水が「長堤桃花」の風景を縮景園記に表している部分がある。

「花の季節には、前の岸の桃の花を望むことができ、幾千株あるかわからない。其の上、その田野や山峰はことごとく美観を極め、奇勝が集まっている。

 

写桃の花が咲く対岸から縮景園を望む
写桃の花が咲く対岸から縮景園を望む
       縮景園から桃花を望む
       縮景園から桃花を望む

 今、岸の桃花は1516株位であろうか。田野はなく、マンションがドーンと建って山峰は見えない。

 

2024・4・12 石村良子代表 広島城『御三の丸』の謎 ③

 

人間力で道を切り開いた春水、39歳の4月には白川候(松平定信)へ招かれ意気投合、山陽が白川候へ外史献上の使者に頼んだ加賀藩市川米庵も春水江戸勤務からの縁であった。

春水は広島勤務においても藩主重晟公斉賢公の信頼を得ていく。学問所への出勤、三の丸、竹の丸の出勤、儒者として城の祭祀に当り又記文の作成(縮景園記、與楽園記等)揮筆などや重晟公臨終の際は御墓誌稿も作成した。

【享和3517日~文化12122日春水日記終筆まで】

春水58歳~70歳の広島城での三の御丸の勤務状況内訳

主なものは出勤とだけのもの29か所、三の御丸御会業()30か所 三の御丸御会読()17か所、三の丸とだけある物19か所等々である

重晟隠居所、()の丸についての記事も18か所あるが、重晟が大洲で眩暈により倒れた時の様子、亡くなった後の国泰寺の葬式の様子などは詳しい。

日記は主語がないので謎ばかりだが、三の御丸(御三の丸、御三の御丸)では会業、会読、講釈が行われ、誰かのお召があり、文化84月には剣術御覧、文化911月には御風疹の記事、学問所から直に三の御丸の記事もある。藩主は一年ごとの参勤交代をするが、帰城の記事は有っても藩主江戸行の記事はない。

 

註① 御会業  課題と期日を定めて研修の成果を個人ごとに発表し、互いに討論して疑問を明らかにしながら理解を深めようとする学習法

註② 御会読  数人で同じ書物を読んで その内容や意味を論じ合う事、儒学の教授法 素読、講釈、会読という三つの方法の一つ 

註③ 竹の御丸  春水の時代は藩主重晟の隠居所であった(広島県史、竹館小録 頼春水)

 

        頼山陽史跡資料館古文書教室 石村 青山

2024・4・3

石村良子代表

「広島城『御三の丸』の謎②」

 

竹原の紺屋の家に生まれた頼春水(頼山陽の父)36歳の天明51217日広島藩学問所儒員として召しかかられた。この時の広島藩主は浅野重晟公であった。『

写真/しろうや!広島城より
写真/しろうや!広島城より

春水日記は、この年1216日から始まって文化12年122日に終筆、商人の家から若殿様の侍読(教育係)になり、幕府学問所昌平黌(東大の前身)の教授に、重晟公の臨終に際しては「墓誌」を記すという栄、表では才と好学で裏では長男頼山陽の脱藩という波乱に満ちた日々34年の記録である。

「事実は小説より奇なり」読み進むと実に面白い が、ここでは寄り道せず「御三の丸」に焦点をあてる

春水儒員勤務105か月間、広島在住は25か月のみである(世子は江戸住みのため)期間1~7

そのⅠ、天明51217日~天明387

天明元年1223

天明2125

 

    126

    25

    217

天明3613

    726

二のお屋敷学問所、新設お仕構えにつき同所にでる

新お屋敷稲荷社来月2.3日拝参のおりは御音楽の間に拝礼、御三の丸表御門より新お屋敷御菜園口より往来の事

殿様 御三の丸へお入りに付き、出仕およばず

二のお屋敷(学問所)開席

お触れ 学問所入学は御家中一統其の外農工商まで可能とする

二の丸屋敷御女中 御女子誕生につき稽古止む 物静かにとて読書

二のお屋敷でお誕生お姫様お宮参りで稽古止む 明星院に招かれ行く

        頼山陽史跡資料館古文書教室 石村 青山

 

 三の丸といえば頼山陽の父親頼春水が仕えた浅野家7代当主重晟公8代当主斉賢公にゆかりの場所ではないか 重晟は城内に学問所を開設し隣接する竹の丸で亡くなっている

 さっそく広島城迄行ってみる 入り口でもらえる「しろうや!広島城」肝心の春水の仕えた重晟、斉賢公の所は利用状況不明となっている

頼春水の残した「春水日記」妻の「梅颸日記」をひもといてみる 

  頼山陽史跡資料館古文書教室 

  石村 青山  文責石村

          つづく 

 

2024・3・29 

石村良子代表

「広島城『御三の丸』の謎 ① 」

 

 令和810月に「広島城三の丸歴史館」が開館予定であるという

広島城天守の展示.収蔵機能を 令和7年度後半をもって閉館し拡充移転するもの


       広島城内展示物から  学問所 竹の丸 下方三の丸
       広島城内展示物から 学問所 竹の丸 下方三の丸
ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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