いよいよ第4集。

引き続き、石村良子代表による解読でお届けします

 


2016・10・24 秋蝶

 

南華夢覐已秋霜    南華の夢覐めすでに秋霜

 

金翅誰憐褪紛光    金翅誰ぞ憐む紛光褪むるを

 

一尺黄花飛不到    一尺黄花飛びて到らず

 

尋春曾是過鄰墻    春を尋ねかって是鄰墻を過ぎるに

 

  秋蝶        襄

 

 

 

南華真経荘子」(書名)の別名。荘子(荘周)の著書とされる道家の文献

 

覐   さめる

 

隣墻  墻は垣根。隣の垣根   

 

2016・10・19

頼立斎への手紙


頼立斎 名は綱、字は子常、通称は常太。山陽の門に学び、詩文・書・篆刻も能くした。文久3年61歳歿
山陽37歳 立斎22歳


本文


外史原本早々下シ可申と存候所 少し見合候てと存 今便も不能其儀 何連近便ニ上申候 何分先頃之一筆書写ハ忝次第ニ候 可惜 足下之名 一筆写と云事 後ニ無之候 外の紙ニても よく候 御書可披下候
年號月日 族弟綱謹謄写畢 □□
一クダリニ被成可下候     襄
子常様
尚々 何分飛出ス事ハ遅保とよろしく候 御辛抱被成ねハ此度の一帰むた事ニ相成候 三次の事委敷被仰下 如見候
遅々屈首讀書 腹ニため候越もふけと可披思召候 何程
もふけてもよろしき事ニ候 京坂てハそれや誰可誘ふ 其れや花 それや楓ニて 腹のもふけため不出来アマツサへ
腹外のもふけもの迠無之するてハなき可
大事の義ニ候不獨孝字也

 


読み下し


外史原本早々下し申すべくと存じ候所 少し見合候てと存 今便も其儀あたわず いずれ近便に上げ申し候 何分先頃の一筆書写は忝き次第に候 惜べし 足下の名 一筆写と云事 後にこれなき候 外の紙にても よく候 御書き下さるべく候
年號月日 族弟綱謹謄写畢 □□
一クダリニなされ くださるべく候     襄
子常様
尚々 何分飛出す事は遅ほどよろしく候 御辛抱なされねば此度の一帰むだ事に相成り候 三次の事委敷仰下され 見るがごとく候
遅々首を屈し書を読み 腹にため候を もおけと思召さるべく候 何程もおけても よろしき事に候 京坂ではそりゃ誰が誘ふ そりゃ花 そりゃ楓にて 腹のもおけだめ出来ずアマツサへ腹外のもおけもの迄之をなくするではなきか大事の義に候 独つ孝字のみならず也

 

 

大意


外史原本早々にお送りするところ 少し見合せてと 今便も送って居りません いずれ近便にお送りします 先頃の一筆書写は忝ないことでした 惜しいことに 足下の名 一筆誰が写したという事が ありません 外の紙でも よろしいので 御書き下さい
年號月日 族弟綱謹謄写畢(おえる) □□印ニ顆
一くだりになさるのがよろしい     襄
子常様
尚々 何分竹原を飛出す事は遅いほどよろしく 御辛抱なされねば此度の一帰もむだになります 三次杏平叔父の事くわしくおかきくだされて まるで見るがごとくです
遅々首を屈し書を読み 腹にためることを儲けとお考え下さるよう これは何程儲けても よろしいです 京坂ではそりゃ誰が誘ふ そりゃ花 そりゃ楓にて 腹の儲けだめ出来ず それどころか腹外の儲けもの迄なくするようになりそうです ひとつ孝ということばかりでもありません

 

 

2016・10・10

小島彤山への手紙 

 

本文


此間ハ御来話匆々之義 遺憾ニ御座候 元祐古銅缾ㇵ挿梅

花 日々とぎニいたし候て喜び申候


無千匹の外利息ハ又拙書ニても可仕 御遠慮可被申仰下候 同研取ニ被遣是も 欧陽公之語ニ符候て 是迠未見妙品と存候へとも 銅缾ニ傾嚢候故 乍遺念返上候 志かし去状ハ未書候故 縁あらば又寄会可申候 一咲
  二月十日      山陽叟
彤山々人

 

 

読み下し


此間は御来話匆々の義 遺憾に御座候 元祐古銅缾は梅
花挿し 日々とぎにいたし候て喜び申し候 千匹の外利息は又拙書にても仕るべく 御遠慮無く仰下し申さるべく候 同研取に遣わされ是も 欧陽公の語符候て 是まで未だ見ざる妙品と存候へども 銅缾に嚢を傾け候故 遺念ながら返上候 しかし去状は未だ書ざる候故 縁あらば又寄会申すべく候 一笑
  二月十日      山陽叟
彤山々人

 


大意


此間はあわただしい御来話 遺憾におもいます 元祐からの古銅の花瓶は梅花を挿し 日々あれこれして喜こんでおります 千匹の外利息は又拙書の揮毫料で弁済いたします なんなりと御遠慮無く仰せください 硯の方は取に遣わしください 欧陽公の語が彫にあり 是までみたことのない品と思いますが 銅花瓶にお金を使い 遺念ながら返上いたします しかし 縁切は書きませんので硯も又いただくかもしれません        一笑
  二月十日      山陽叟
彤山々人

 

 

 

語釈


小島彤山  1794-1845 江戸時代後期の彫刻家。篆刻家

      精密な細工を得意とし,書画骨董の鑑識にもすぐれた
千匹    約20万円

 

 

 

2016・10・6

頼立斎への手紙


山陽37歳 頼立斎は年譜によると伊賀上野一代とある
春水の父亨翁の兄弟伝五郎の子養堂の長男常太(子常)篆刻家、細川林谷の弟子、墓は長楽寺にある


本文


外史一筆写御卒業御揃御差越 扨々刮目年来之宿志相遂 長座右ニ差置 相親炙之意ニて相楽申候 令尊御正も
以外之愛ニ候
此一部ハ私ニ被下候由 誠ニ忝き事ニ候 夫故態と御挨拶ケましき事ㇵ不仕候
原本近便ニ可差上候 暫御待可被下候 餘期其節早々頓首 孟冬既望            襄
子常賢弟

 

 

読み下し


外史一筆写御卒業御揃御差越し 扨々刮目年来之宿志相遂げ 長座右に差し置き 相親炙の意にて相楽しみ申し候 令尊御正も以外の愛に候
此一部は私に下され候由 誠に忝き事に候 それゆえ態(わざ)と御挨拶がましき事は仕まつらず候
原本近便に差上ぐべく候 暫御待下さるべく候 餘期其節早々頓首 孟冬既望            襄
子常賢弟

 

 

大意


外史一筆写し終え揃えてお寄せ越しくださり 目を見張りました長年の宿志を遂げられ 常に心に留め 座右に置かれたご様子 御尊父の校正もまた思いもかけぬ愛でございます 此一部は私にくださるとか 有り難いことですが これについて御挨拶がましいことは致しません
原本近便に差上げますので しばらくお待ちください 後の所は又のお便りの時に
早々頓首 孟(10がつ)冬既望(16日)            襄
子常賢弟

 

2016・9・28 

月瀬観梅 雲華上人宛て 

 

雲華上人59歳宛て 山陽52歳
雲華は不参加 同行は小竹、竹田、小田百谷、関藤藤蔭細川林谷、宮原節庵、小石玄瑞、浦上春琴


本文


よき所へ慶公御越被下候 篠崎より急用事申参候て 自此使可上と存候所に御座候 小石より人やとひもらひ 御志らせ申候 行違ニ相成候哉も難計候 廿日之早朝 伏水へ出會 看梅之約申来候 十九日夜船ニて 小竹ゝ田伏水西養寺迠参居候よし 自此方ハ 僕ニ師と小竹春琴なと誘 廿日早朝 伏水へ出可け 出會看梅可申と申事ニ候 外へは皆々志らせ申候 それゟ廿一日直ニ月瀬へ可参 小石ハ廿一日朝豊後橋ニ出會候様ニ 自朝来筈ニ候 何分廿日快遊と奉存候間 外の者ハとも可くも 私ㇵ師へ向 参候歟 大佛ニて出會候様ニ早朝可参候 彼方ニて緩々可仕ために極早朝可参候 師寓へ参候てㇵ損被存候間 大佛に可仕候
春琴ハ師寓ニ参候歟 是ㇵ跡ニなり候とも 被仰置候て大佛前山城屋ニ御出可下候 其夕 豊後橋商店ニ一宿 直ニ奈良へ参 廿ニ日ニ月瀬と可仕 其御積ニ御拵可被下候
○御答跡ニ相成候 先日ハ頗殺風景 不類師之平昔候 十四日ニ既一過梅渓被成候よし 残花却有餘香と奉存候間 御再遊可被成候 不必梅也必小竹ゝ田山帰也 両絶 皆おもしろく候へども 是亦不類師平生候
鮒 忝奉存候 明夕例の麦飯とろろ越可仕哉と存居候へとも 廿日之遊有之相止候 鮒ハ携可申候 令息浄書如何さ満上達相見於僕も喜入候

雲華師          襄

尚々月瀬花信は 廿日過廿四五日ニも可成哉と申来候 行厨ハ奈良ニて可申候 廿日伏水の肴ハ少々私持参候 師も有合ものあらば 御持可被成候 鮒庄のよりは其方可妙

 

 

読み下し


よき所へ慶公御越下され候 篠崎より急用事申参り候て 此より使上ぐべきと存候所に御座候 小石より人やとひもらひ 御しらせ申し候 行違に相成候やも計り難く候 廿日の早朝 伏水へ出会い 看梅の約申し来り候 十九日夜船にて 小竹竹田伏水西養寺まで参りおり候よし 此方よりは 僕に師と小竹春琴など誘い 廿日早朝 伏水へ出かけ 出会い看梅申すべきと申事に候 外へは皆々しらせ申し候 それより廿一日直に月瀬へ参るべく 小石は廿一日朝豊後橋に出会い候様に 朝より来る筈に候 何分廿日快遊と存じ奉り候間 外の者は ともかくも 私は師へ向 参り候か 大佛にて出会い候様に早朝参るべく候 彼の方にて緩々仕べくために極早朝参るべく候 師寓へ参り候ては損存じられ候間 大佛に仕るべく候
春琴は師寓に参候か 是は跡になり候とも 仰せ置かれ候て大佛前山城屋に御出下さるべく候 其夕 豊後橋商店に一宿 直に奈良へ参り 廿ニ日に月瀬と仕るべく 其御積に御拵らえ下さるべく候
○御答へ跡に相成り候 先日は頗る殺風景 師の平昔類ならず候 十四日に既に一過梅渓成され候よし 残花却って餘香ありと存じ奉り候間 御再遊成さるべく候 必しも梅ならず也 必小竹竹田山帰也 両絶 皆おもしろく候へども 是亦師平生類ならず候
鮒 忝く存じ奉り候 明夕例の麦飯とろろを仕るべくやと存居候へども 廿日の遊これ有相止め候 鮒は携へ申すべく候 令息浄書如何さま上達相見僕においても喜び入り候

雲華師          襄
尚々月瀬花信は 廿日過廿四五日にも成るべくやと申来り候 行厨は奈良にて申すべく候 廿日伏水の肴は少々私持参候 師も有合ものあらば 御持成さるべく候 鮒庄のよりは其方妙なるべし

 

 

大意


よいところへ慶公おいでくださり 篠崎から急用事を言ってきました こちらから使いを出そうと思っていたところでしたが 小石から人をやとってもらひ 御しらせいたします ひょっと行違に成るかもしれません 廿日の早朝 伏水へ出会い 看梅の約束を言ってまいりました 十九日夜船にて 小竹、竹田、伏水西養寺まで出かけてくるとか 此方からは 僕に師と小竹、春琴など誘い 廿日早朝 伏水へ出かけ 出会い看梅するつもりのようで 外へは皆々しらせました それより廿一日直に月瀬へ行き 小石とは廿一日朝豊後橋で出会います 朝から出かけて来るようです 何分廿日は快遊と思います 外の者は ともかく 私は師へ向い参ります 大佛のところで出会えるよう早朝参ります 彼の方にてゆっくりしたいので極早朝参ります 師寓へ参っては時間の損ということで 大佛のところでお出会いします 春琴は師寓の方に参るかもしれませんが 是はあとになっても 春琴が来ることを、言い置かれ大佛前山城屋にお出で下さい 其夕 豊後橋商店に一宿 直に奈良へ参り 廿ニ日に月瀬へとの お積になさってください
○御答へあとになりました 先日は頗る殺風景 師のいつもと違いました 十四日に既に梅渓なされたよし 残花却って餘香あり 御再遊くださいますよう 必しも梅見ばかりではありません 小竹、竹田 三人とあうのが面白いとおもいます
鮒 有難うございました 明夕例の麦飯とろろをと思いましたが 廿日の遊があります 鮒は携へてまいります 令息浄書すばらしく上達なさり僕も喜んでおります
雲華師          襄
尚々月瀬花信は 廿日過廿四五日にもできるかと言ってきました 行厨は奈良でと思います 廿日伏水の肴は少々私持参いたします 師も有合せもの有りましたら 御持ちください鮒庄のよりは其方がよろしいかと

 

 

語釈
行厨  携帯用の食物、弁当

 

 

2016・9・21

梅颸第2回京遊 帰路中の宿


小原梅坡は江戸時代後期の備前岡山藩士。安永4(1775)年~天保3(1832)年への山陽の手紙 
山陽45歳 第7回目の帰省


本文


老母又アチコチ仕候も大儀カリ候且其方隠居留守外同居も
有之候 如何しく候
此方宿混雑候申内 楼上ニ而頗ヒッソリ致居候 肴も魚屋ニて自由ニ候 カノ大瓢私架帽添此者ニ御持せ早々此方へ
御越可被成候
其餘如何とも可致候 其路不甚遠候  早々 以上
十月十三日          魚甚ニ而
小原大之助様            頼久太郎
 尚々家内へよろしく被仰可被下候

読み下し
老母又アチコチ仕り候も大儀がり候 且其方隠居留守
外同居もこれ有候 如何しく候
此方宿混雑候申す内 楼上にて頗るヒッソリ致し居り候 肴も魚屋にて自由に候 かの大瓢私架帽を添へ此者に御持たせ早々此方へ御越し成さるべく候
其餘は如何ともなさるべく候 其れ路甚だ遠からず候  早々 以上
十月十三日          魚甚ニ而
小原大之助様            頼久太郎
 尚々家内へよろしく仰せられ下さるべく候

 

大意


老母は又アチコチ出かけるのを大儀(たいぎ)(めんどう)がり またお宅の隠居は留守、同居もおありの様子 お宅への宿はいかがかとご遠慮しました
こちらの宿も混雑いたしますので 楼上(魚甚)にてヒッソリ致しております ここは肴も魚屋なので自由にしております かの大瓢私の架帽を添へ使いに持たせ、こちらへ御越しください
あとはどのようにでもなさってください ここはおたくまでは遠くはないはずです  早々 以上
十月十三日          魚甚(倉敷)にて
小原大之助様            頼久太郎
 尚々お宅の御家中へよろしくお伝えください

 

2016・9・12

雲華への手紙

 

本文(年月不詳)


如諭再昨之沙川盤真美哉 御庇ニて口之正月越いたし候のミ奈らす適意之天気適意之伴ニ而食適意之肴飲適


意之酒ニ不可忘候 御作亦適意唯譍ㇵ不好話聲僻言高ニて對すへし 班竹簡妙 忝奉存候 奥歌越試ニ仕候 毛先妙
大小之掛札ハあき物越用立なと之趣向俗気ニも任命揮筆
候所数作数不適意ニテ なる迠書候處大費帋費染費腕費墨候 此燈炫座 起處 目鏡之事慶公ニ委曲托しよろしく奉頼候
黄色萱草ハ可妙拙方白百合古しくれ とんとさき不申候
    十四日
雲師         陽復

 

 

読み下し


諭の如く再昨の沙川は真美かな 御庇(おかげ)にて口の正月をいたし候のみならず適意の天気適意の伴(とも)にて食し適意の肴で適意之酒を飲み忘るべからず候 御作また適意 唯、譍(おう)は話聲僻言高きを好まずにて對すべし 
班竹の簡(かん)妙 忝存じ奉り候 奥歌を試に仕り候 毛先妙
大小の掛札は あき物を用立るという趣向俗気にも命に任せ揮筆候所 数作数不適意にて なる迠書き候ところ大費帋、費染、費腕、費墨候
此夕燈炫に座し 起(おき)る處 目(め)鏡(がね)の事慶公に委曲(いきょく)托しよろしく頼み奉り候
黄色萱草(かんぞう)は妙なるべし拙方白百合こしくれ とんとさき申さず候
    十四日
雲師         陽復

 

 

大意


仰るとおり先々日の沙川は真美でした おかげで口の正月だけでなく適意の天気のもと 適意の伴(とも)と食し 適意の肴で適意之酒を飲み 忘れがたいことです 御作また適意 唯 譍(おうずる)は話聲僻言高きを好まずで對するべき 班竹の軸の筆は妙です 有難うございます 奥歌を試(ためし)に書いてみました 毛先素晴らしいです
大小の掛札は あき物を用立てるという趣向、俗気にもご命のまま揮筆いたしましたが 数作数不適意で できるまで書きましたところ大費紙、費染、費腕、費墨となりました
―この夕べより燈下のもと 座しておりました― 目(め)鏡(がね)の事は慶公に細かいところは托しましたので お頼みいたします
黄色萱草は妙なるものです 私方の白百合はねじれ とんとさきません
    十四日
雲師         陽復

 

 

語釈  

 

沙川:滋賀県湖南市
黄色萱草:わすれぐさ6~7月ごろ咲く 南画の画題 
宜男百合 萱草と百合を描く
掛札:聯 門札 看板の類

 

2016・9・4

樋野謙堂の帰国

 

年不明911日 篠崎小竹 後藤松陰への手紙


読み下し

 

毎々短簡下され候へとも (おおよそ)近況(りょう)じ候 灸は(おこた)らず成され候よし妙に候 其餘養を(とり)し皆々此意を称じ候や 流行坎止(りゅうこうかんし) 願わくは其言を()つ 戯言(ざれごと)にあらず也 世間儻来儻去(とうきとうきょ)の事皆妄 唯此の一把骨有り眞意のみ 此をもって妄と為す則ち佛之徒也

樋野(そしり)に遇い候よし古より大将外に在り 此患を受ざる者(すくなし)と為す (たと)へ其寃の能白を教へしむるも 武家の習い 双方まけにせぬ様の計になるものに候へば 一応は帰国との様にて相成るべく候 獨(かれ)不運ならず 僕に波及 此好行窩(こうか)を失う されとも必ず樋野ならず 又妙策御出し置き下さるべく候 月末一下御邪魔仕まつるべく御覚悟なさるべく候 それは不急也 急者先日政を乞う二文にあり何卒御細閲 急に御投還下さるべく候 昨日もせがまれ浪華へ相談に遣り置たと申し理置候 其次に丹醸来るとて来ぬ一條別詩帋稿其の為也 併せ近況おしらせ 其御許(ちょう)()

如何御渡り候や 此方柿栗小鳥なとにて毎夕仕り候(此物皮を剥ぎこれを(はつり)下にす□生姜幾杯賄うべし 其甜をかり 甜酒化頚也或一試也)

松菌 此節所謂おんざに相成 又々昴價然るといえども一日此君なくべからず也 鰻は此方にて色々賞玩仕り候事申上候ておわんぬ 敢て益請うにあらず也 早々不乙

 

    重陽後二日        襄

 

小竹老兄     世張同覧

 

尚々 世張詩稿 扨々おもしろく同載淡に遊び想を為す此度看了返投 又一夕之飲を(まかない)にたるのみ 僕不適意之旅行も大分詩あり 猶録示批正を乞い申すべく也 兎角此方言過し 其方よりは及ばず必ずこの間彼忙あらざる也 性然()() 書来亦然

 

 

語釈

 

 

流行坎止:流れに従って行ない自然に順応することを形容する

儻来儻去:たまたまき来たり たまたま去ったり 

重九:重陽の節句九月九日

 

 

大意

 

いつもいつもお手紙いただき (おおよそ)の近況はわかっております 灸は(おこた)らず されておられる様子よろしゅうございます 灸の養生をなすこと皆々称えております 自然に順応することが大切です 戯言(ざれごと)ではありません 世間の出たり入ったりすることはすべて空言で 唯此の身体のみ眞意です これをかりそめというのは則ち佛之徒です

樋野が(そしり)に遇ったということです 古くから大将外に在り これ災いを受ける種となるようです (たと)へ寃罪をのがれようとしても 武家の習い 双方まけにしない計らいなので 一応は帰国と成るようです 不運は彼一人ではありません 僕に波及 良い弟子を失います けれど樋野は無実 又いい考えをお出しください 

月末御邪魔いたします御覚悟の程お願いします それは不急で 急は先日の比正を乞う二文にあります何卒御細閲 いそいで御投還おねがいします 昨日もせがまれ大阪へ相談に遣り置たと申し断りを言ったところです その次に丹醸来るといって来ないのは何故か別帋稿其のうかがいです

併せ近況おしらせです あなたは重陽の節句はどのように過ごされましたか 此方柿栗小鳥なとにて毎夕酒をいただいておりました(此物皮を剥ぎこれを(はつり)下にす□生姜これで数杯いけます 其甜味をかり 甜酒にして一つお試しください)

松たけ 此節所謂おしまい近く 又々高値ですが一日も此君がなかったらすみません 鰻は此方で色々賞玩していることお伝えしておきます これは何かの役にというものでもない話です 早々不乙

 

    重陽後二日        襄

 

小竹老兄     世張同覧

 

尚々 世張詩稿 おもしろく「淡に遊び想を為し」此度看終え返投いたしました 又一夕之飲を誘うのには十分です 僕不適意の旅行も大分詩が出来ました 批正をお願いします 兎角私は言過し あなたに及びません この間あなたが忙しいということでもありません   性はしかるのみ 書来もまた同様です

 

2016・8・29

印の交換 

 

篠崎小竹(承弼)への手紙
文政十年

山陽48歳 小竹49歳

大窪詩佛61歳

後藤松陰(俊公)31歳 


読み下し


この間有書状、無書状の信、連綿座右に至り申すべく候
浪速五日の飲 恍隔世のごとし 日々申出し相楽しみ候 我兄有り十三里南に在す 強差人意 此生虚しからず候 老狐精帰便に二十二史箚記相托し候 囂々印 語御気に入らぬ様に仰せられ候 小生においても矢張寧静(致遠)同様 戒之意にて 同時刻賜わり候遺物に候へば 又々後悔生じ候ては 不義理に相成り候 其代わりに此瑪瑙材白文 自然二字 是も家翁刻にて 生涯相用ひ候ものに候 出来は此方よろしく相見へ候 是を呈上候
詩佛詩相達し候 佛と申すほどにも之なきか
上陸短古の和章は所望候
一枝氷蕚は 併せ材呈上候 文作に其段申聞せ置き候 何卒御用ひ下さるべく候 御名字印もたんと直し過ぎぬ様仕りたく候 氷蕚は印面に高下(凸凹)之あり候か
二度押しならねば付きかね候と覚へ候 猶再会を期し直し申すべく候
貴彫の小生印三顆は早くほしく候 是亦角を直し牛を殺すの恐れあり
賃先払にて急々御上ぼせ下さるべく候 射覆も御添下さるべく候
俊公にもよろしく 差越され候もの一々落手
筑梁 甲柳へも同様託し奉り候
芋は上カ下カ知るべからずと申越し候 子成所贈無芋に上ならずと御伝へ下さるべく候
言欲するところ一つにあらず 楮に臨んで遽出せず 閣筆
   閏六月廿五日
             襄
承弼老兄
尚々 寧静摹刻は良材を得候節と存じ候 其内 別によき語も候ハバ仰せ下さるべく候 関防印は材これあり候 氷蕚よりは頗小

 

大意


この間有書状、無書状のお便り、続いてまいりました
大坂での五日の飲の事 この世ならぬ恍惚日々思い出し楽しんでおります 我兄が十三里南にいらっしゃる事で 私は心強く満たされております 
老狐精 帰便に二十二史箚記を托しました 「囂々(ごうごう)」印の語御気に入らぬ様にいわれましたが 自分も「寧静」(致遠)同様 自らの戒めとなるもので 父春水より同時刻にいただいたものであり 又々後悔しそうですので その代わりに瑪瑙材白文 「自然」二字 是も家翁春水の刻で 生涯使用しておりました印 出来は此方がよろしいようで 是を呈上いたします
詩佛詩とどきました 佛というのは いかがでしょう
上陸短古の和章は所望いたします
「一枝氷蕚」は 併せて材も呈上いたします 文作にそのこと言い聞せて置きます どうぞお使いください 御名字印もたくさん直し過ぎぬ様お願いします 氷蕚は印面に高下(凸凹)あり
二度押ししなくては付かないかと思います 猶再会のとき直します
貴彫の小生印三顆は早くほしいものです 是も角(つの)を直し牛を殺すの恐れがあり代金先払で急々御上ぼせ下さい 射覆も御添え下さい
俊公にもよろしく 送ってくださったもの全て落手致しました 筑梁 甲柳へも同様にお願いします
芋はどちらを上カ下カと言ってきました いわゆる芋に上下なしと御伝へ下さい
言いたいことは一つだけではないはずが 紙を前にしてでてきません 閣筆
   閏六月廿五日
             襄
承弼老兄
尚々 「寧静」摹刻は良材を得たときに そのうち別によき語も出てきましたら仰っしゃってください 関防印の材はあります 「氷蕚」よりは頗小です

 

語釈


囂々    正論を吐いて屈しないさま
寧静    安らかで静かなこと
射覆    せきふ 印の覆い
閣筆    筆を置いて書くことをやめる
二十二(史箚記にじゅにしさっき) 

      頼山陽が序文を付した和刻本が出版されており、頼山陽はそ

      の序文の中で、歴代正史を読まなくても、この本を読めばあ

      らましは分かると述べ、日本では正史の概要を知る本として

      知られた、中国の正史二十二史の編纂形式や構成・内容につ

      いて考証し論評した書。清代の趙翼の作。
関防印   作品の右肩に書き始めのしるし、飾りとして、作品のしまり

      をよくする ために押す印。関防とは中国の関所のことで、関

      所を出入りするさいに書類に押した印が始まり

 

 

2016・8・25

「飛耳長目」 

 

後藤機謹書「飛耳長目」

「管子 九守」より。遠くのことをよく見聞き する耳目の意  物事の観察に鋭敏であること。転じて,知識を広げる書物のこと。


後藤松陰   

江戸後期の儒者。美濃生。名は機、字は世張、通称は俊蔵、別号に兼山・春草。篠崎小竹の娘婿。はじめ菱田穀斎、 のち頼山陽に学ぶ。詩文に優れた。元治元年(1864)歿、68才。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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