「頼山陽の手紙」③もご参照ください。

 

2019・6・28  藤一郎「ありがとうございます」

 

石村良子様

ありがとうございます。

何月?のこと長く疑問だったことが「文政元年10月29日」の日付と解りすっきりしました。

佐々木剛三・宗像健一の両氏の大分県先哲叢書「田能村竹田」p157記述です。

「(10月)29日。春曦楼で別れの宴。会したのは山陽・竹田・九華・岡仲達・加島富上と春曦楼主人。六人の他には雲樵・沙堂・金作・そして太一が左右隋侍し、別に了鬟が3人。・・・・・」

「春曦楼」が岡城下のどこにあったか?その主人の名前を調べてみます。

                                        衞藤一郎

 

2019・6・27 石村代表藤一郎さんへ 至冬は孟冬」

 

衛藤さんへ 至冬→孟冬

春曦楼

寅孟冬廿又9

書於崗城為

衛藤君

山陽外史

 

冬至にとらわれてました 以上だと思います「春曦楼」と揮毫してもらった意味が依然謎です 衛藤家と関わり合いの有る場所なのでしょうか

頼山陽全書を見ると 1029日に春曦楼で送別の宴が開かれています

 

 

2019・6・21   藤一郎さん 「ありがとうございました」 

 

詳しく解読いただきありがとうございました。先祖の考えや言葉を伝えいきます。

今回答えていただいた中で一番うれしかったのは、「戊寅至冬廿又九日」の日付を賛同?していただいたことです。「至」を「潤」と判断して暦では閏年ではないこと気づきました。「至冬」は何月?暇をみつけてはネット検索をしたり、江戸期の風習を調べましたが不明でした。送別会で揮毫したのではないかと想像すると愉快です。(一部を掲載)

 

藤一郎さんへ

 こちらこそ貴重なご家宝の公開をいただき、ありがとうございます。

 今後も何かあれば、ご投稿下さい。

                          頼山陽ネットワーク事務局

 

2019・6・20

藤一郎さん 

「冠冒印がありました」 

 

「春曦楼」の扁額、れがひどく気付かなかったですが、楕円形印がうっすらありました(右)

  ※下は漢詩の朱印と白印



藤一郎さんへ

 

頼山陽の印については、ある程度インターネットに出ており、ご自分でも確認できます。

 

例 A、国会図書館デジタル B、落款、印検索サイト 

       

ただ、AとBとで、同じように見える印でも、見比べると、微妙に差異があるものも含まれているように思えます。

                           見延典子

 

2019・6・19 石村良子代表「漢詩の扁額について」

※漢詩の扁額について

「衛藤家扁額」漢詩(文政3年 この時山陽の住所は木屋町2条下る)

詠蘭詩画奪蘭芬  真個催人筆研焚 
醒眼看花応仔細  東山獨不酔紅裙 
割愛曾分香祖葩  伝来妙墨幾行斜(手紙は行斜になっています)

痴情知被君詩賺  更向盆中剪一花     
庚辰霜月

書於山紫水明處

頼襄

石村雑話  

衛藤家の漢詩は額だけあってはっきり書いてあり 以前の山陽の手紙の漢詩の部分は 衛藤家額のように訂正します 以前紹介した雲華、小竹、山陽の合作の詩の解説部分も判読間違いがあるようです(3点見比べました)

良い勉強になりましたこと感謝いたします 山紫水明の山の書き方が気になっております。又お調べ御教示ください。

 

2019・6・18 

※『春楼』の扁額について

藤一郎さん 「『春楼』がわかりました」

「春曦楼」がわかりました。
佐々木剛三・宗像健一両氏の大分県先哲叢書『田能村竹田』「頼山陽来遊」の

157に記述がありました。10月29日に「春曦楼」で別れの宴が盛大に開かれたことが書かれていました。「至冬」が10月であれば一致するのですが。

 🔄 石村良子代表「冬至と至冬」

「十旬花月帖」によれば、杏坪が広島を出発した時、広島にある「楼」で送別会を開いているので、そこのことかと考えておりましたが、『田能村竹田』に書かれているのであれば、岡藩の「楼」ですね。

扁額では「至冬」とあり、範囲は10月から12月に跨ると考えてもいいと思います。

 🔄 見延典子「気になること

気になること

①字体

②冠冒印がない(消えているのか) 

③「至冬廿又九」と書く意味

④「於崗城」の意味 

⑤「君」という表記

 

2019・6・17

石村良子代表「年代日付について」

 

年代日付については、以下のように書かれています。

御参考になさってください。

 

①漢詩

庚辰(文政3年)霜月 書於山紫?水明處 頼襄

 

②春曦楼

戌寅(文政元年)至冬廿?又9日 書於崗城為 衛藤君 山陽外史

 

2019・6・16  藤一郎さん 「再度写真を送ります」

 

再度写真をおくります。不鮮明なら写し直して送ります。

山陽の扁額と伝え聞いていますが、内容や真贋は不明です

2019・6・15 藤一郎さん 「写真を送ります」

 

石村良子様 

会員登録をしないでのいきなりの質問に回答していただきありがとうございます。我が家の先祖は岡藩の御典医だったと聞いています。屋号を『帰一堂』といいます。

頼山陽の作と伝えれた扁額がニ副あります。質問の文政3年扁額です。

もう一つについても年号日付が気になります。

 

文政元年の11月(至冬)29日ではないかと思いますが、『至冬』表現する月あるのでしょうか? 本物であれば、岡城と春が結びつくと面白いと思います。よろしくお願いいたします。

 

一郎様

写真をありがとうございます。

石村代表に代わってのお願いです。

扁額2点について、拡大しても文字が不鮮明です。もっと鮮明な画像が必要です。何枚かに分けて送ってくださってもかまいません。

それと「春曦楼」はどの建物を指しての名称でしょうか? 岡城を指すということでしょうか? よろしくお願いします。

               頼山陽ネットワーク 見延典子

 

2019・6・14 石村良子代表藤一郎さんへのご回答」

 

藤一郎様

ご質問ありがとうございました

拙文がお目に留まり こちらも良い勉強になります

頼山陽の扁額をお持ちだそうで羨ましい限りです

 

改めて山陽の手紙3巻「頼山陽先生手簡」を見ました 以下推論です

年不明 山陽が竹田に蘭2株送る 詩を添える(詩中に東山の文言あり) 竹田より返歌+添画(蘭2株と竹の画)

この間 雲華上人 山陽家にある「竹田の蘭竹図」を欲しがる

頼山陽の手紙3巻に の内容の、山陽詩と竹田詩がのる(こののち 山陽、雲華のために竹田に蘭画を画くよう頼む)

 

文政6年7月竹田「蘭竹図」雲華上人に送る 

蘭竹図の画賛に の画の経緯、文政67月の記載あり 竹田は在京中

 

結論:山陽が蘭の詩を作った年は不明です 盆(盆栽)中の蘭 とありますので蘭は京都の住まいのだと思います

 

藤一郎さんへ

 よろしければ、ご所蔵の扁額の写真を送ってください。

 何か手がかりがあるかもしれません。

                  頼山陽ネットワーク事務局

 

こういうものもあります。

         (石村)

 

左   全体の写真

下   漢詩の部分

その下 文字部分の翻刻

 


2019・6・13 藤一郎さん「作成の年代についての質問」

 

回答いただきありがとうございます。我が家の扁額の七言律詩はほとんど同じです、庚辰霜月とあり山陽が竹田(2度目)を訪れた時文政3年の書ではないかと思います。文政6年の雲華上人への手紙や蘭竹図の賛より前のお気に入りの七言律詩で添削しながら手紙や賛に書いたということでしょうか? よくあることでしょうか?

 

2019・6・13 石村良子代表「田能村竹田『蘭竹図』」

 

田能村竹田 「蘭竹図」

この幅は,雲華上人が非常に大切にして楽しまれた軸である.或時頼山陽先生が蘭の花二株を竹田翁に送った。翁は大変喜んでそれをデッサンして山陽先生に送った。それを雲華上人が御覧になり、これは良いおれにもかいてくれるよう申され、この幅が出来たのである。その由緒が賛に書き入れてある。白鶴荘主人の箱書。


2019・6・12 藤一郎さん「『頼山陽の手紙3』と同じもの」

 

豊後大野市三重町伏野(岡藩)の衞藤です。山陽の書と伝えられた扁額があります。インターネット検索で解読しようと最初の二行「題雲詩画奪蘭芬」を入力したところ、「頼山陽ネットワーク」の「手紙3」の雲華上人の手紙、「蘭竹図」の賛と同じものでした。庚辰 霜月とありますので文政3年の書ではないかと思います。

 

事務局注 

頼山陽の手紙③「2016・8・1文人の交情は詩画で」ご参照)

 

 

本文


竹田と毎々周施御噂とも申出候 此反古硯辺ニ有之状カサニ致候て汚覧候 状アマリ薄ケレハ飛脚馬鹿ニ致可申カ存候故

2016・8・1

文人の交情は詩画で                                                                                                                                                                        

 

文政6年雲華上人への手紙 宛名はないが 竹田の画賛による蘭竹図が残っている 画賛に以下の次第が載る 頼山陽44歳 竹田47歳 雲華上人50歳


余剪送斎中盆蘭二茎於君彜兄ニ
兄謝以詩画依韻 却寄聞其己凋謝又贈一茎 
題 詠蘭詩画奪蘭芬 真個催人筆研焚 
醒眼看花応仔細 東山獨不酔紅裙 
割愛色分香祖葩 伝来妙墨或行斜
痴情却被君詩画 更向盆中剪一花     襄
君彜詩
暁露濃ゝ作緑葩 香風度處影漸斜
喜君割愛手分送 證出交情似此花
素質瓶頭吐蘭芬 従今沈□不須焚
為憐香祖有仙骨 金剪裁来翠鳳裙
戯折竹枝配挿故云 


読み下し


竹田と毎々周施御噂ども申し出(いだ)し候 この反古(ほご)硯辺ニこれ有り状カサニ致し候て覧を汚(けが)し候 状あまり薄ければ飛脚馬鹿に致し申すべくかと存じ候ゆえ
余剪(き)り(書)斎中の盆蘭二茎君彜(くんい)兄に送る
兄 謝するに詩画韻に依り以てす よってそれ己(すでに)に凋(か)るるを寄聞す 謝し又一茎を贈る 
題 
詠蘭詩画奪蘭芬(えいずらんしがらんふんをうばう)   

真個催人筆研焚(まさにこれひとをしてひつけんふんをもよおしむ) 
醒眼看花応(せいがんかんかしさいおうず)仔細(しさい)  

東山獨不酔紅裙(ひがしやまひとりこうくんによわず) 
割愛色分香祖葩(かつあいのいろそはかおりをわかつ)   

伝来(でんらい)妙(みょう)墨(ぼく)或(あるいは)行(ななめに)斜(いき)
痴情却被(ちじょうかえって)君(きみの)詩画(しがにせらる)  

更(さらに)向(ぼんちゅう)盆中剪(いっかをきりに)一花(むかう)     襄
君彜(くんい)詩(し)
暁露濃(ぎょうろのうのう)ゝ作緑葩(りょくはをなし)  

香風度處影漸(こうふうわたるところかげようよう)斜(ななめたり)
喜君割愛手分送(よろこぶきみがかつあいわけおくる)  

證出交情似此花(しょうしつこうじょうこのはなににる)
素質瓶頭吐蘭芬(そしつへいとうらんぷんをはく)    

従今沈(いまよりじん)□不須焚(すべからくたかず)
為憐(あわれむとなす)香(こう)祖(そ)有(せんこつ)仙骨(あるを)  

金剪(きんせん)裁来翠鳳裙(さいらいすいおうくん)
戯折竹枝配挿故云(たわむれにいにしえにゆうちくしをはいそうす) 

 

語釈


蘭芬  蘭のかおり
紅裙  着物の紅色のすそ 美人 蘭の花を例える
葩   はなびら
沈   沈香 
仙骨  非凡な風貌 非俗な風采

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大意


いつも竹田とあれこれお噂いたしております
硯の近くに私と竹田の詩がありましたので送りします
わたしが書斎の中の蘭二本きり送りましたところ 君彜(くんい)兄(田能村竹田の字)が喜んで詩と画にして送ってきました
詩によれば涸れたようですので 又1本切って送りました

題 
詠蘭詩画奪蘭芬(えいずらんしがらんふんをうばう)   

真個催人筆研焚(まさにこれひとをしてひつけんふんをもよおしむ) 
醒眼看花応(せいがんかんかしさいおうず)仔細(しさい)  

東山獨不酔紅裙(ひがしやまひとりこうくんによわず) 
割愛色分香祖葩(かつあいのいろそはかおりをわかつ)   

伝来(でんらい)妙(みょう)墨(ぼく)或(あるいは)行(ななめに)斜(いき)
痴情却被(ちじょうかえって)君(きみの)詩画(しがにせらる)

更(さらに)向(ぼんちゅう)盆中剪(いっかをきりに)一花(むかう)     襄
君彜(くんい)詩(し)
暁露濃(ぎょうろのうのう)ゝ作緑葩(りょくはをなし)  

香風度處影漸(こうふうわたるところかげようよう)斜(ななめたり)
喜君割愛手分送(よろこぶきみがかつあいわけおくる)   

證出交情似此花(しょうしつこうじょうこのはなににる)
素質瓶頭吐蘭芬(そしつへいとうらんぷんをはく)     

従今沈(いまよりじん)□不須焚(すべからくたかず)
為憐(あわれむとなす)香(こう)祖(そ)有(せんこつ)仙骨(あるを)  

金剪(きんせん)裁来翠鳳裙(さいらいすいおうくん)
戯れに竹の枝をさしました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

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