明治の広島① 明治の広島②頼山陽文徳殿を考える もお読みください。

この連載は記名がない場合以外、見延典子が執筆しています。

 

2017・8・21 「山陽文徳殿」を考える⑱ 頼山陽に「従三位」

 

前回、書き忘れたが、比治山公園内には早速整爾の銅像もあり、現在は台座だけが残っている。早速整爾は明治元年広島市で生まれた実業家、政治家で、農林大臣、大蔵大臣を務め、57歳で亡くなった直後の大正15年、「従三位、勲一等瑞宝章」が贈られている。

 

そういえば、加藤友三郎も62歳で亡くなった直後の大正12年、「正二位、大勲位菊花第綬章」が贈られている。

 

日本における位階は7世紀の冠位十二階に始まり、その後途絶えたが、明治になって復活した。明治政府は江戸時代の身分制度「士農工商」を否定し、「四民平等」を掲げたが、実体はかくのごとくであった。

(「四民平等」という言葉を浸透させるために「士農工商」という言葉を作ったという説さえある。真偽のほどはご自身でご確認ください)

 

昭和6年発行『頼山陽全書』より
昭和6年発行『頼山陽全書』より

実はこの位階制の中に、頼山陽のみならず、父の頼春水(弥太郎)、叔父の杏坪(万四郎)、子の三樹(三樹三郎)も組み込まれている。

 

頼山陽は明治24年に正四位を贈られたあと、100年祭を記念して「山陽文徳殿」ができた昭和6年、従三位を贈られた。

 

左の「御贈位の頼家一門」をご覧ください。この中で、特に頼春水の名前があることに違和感を覚えのは私一人であろうか。


代表作『日本外史』は大義名分論によって貫かれているなどといわれているものの、実生活においては常に「ナンバー1」を目指してきた頼山陽にとって「従三位」などという中途半端な位階はほしくもなかっただろう。

 

 

比治山公園の「比治山公園案内図」
比治山公園の「比治山公園案内図」

明治に入り、広島に鎮台が置かれ、陸軍墓地がつくられた。私が『汚名』のモデルとした伴資健が広島市長であった明治27年、日清戦争が起き、広島は兵站基地になった。戦死(又は戦病死)した兵が多く、陸軍墓地は拡張され、併せて比治山は公園として整備された。

 御便殿跡広場
 御便殿跡広場

移築した御便殿には皇太子時代の昭和天皇も訪れているが、昭和20年の原爆投下により破壊され、現在は「御便殿跡広場」になっている。

 

 戦中の金属供出により、加藤友三郎の銅像の台座だけが残る。写真 / 加藤友三郎顕彰会
戦中の金属供出により、加藤友三郎の銅像の台座だけが残る。写真 / 加藤友三郎顕彰会

2017・8・19 

「山陽文徳殿」を考える⑰

比治山とは?

 

話は前後するが、比治山とは広島の人々にとってどのような地であったのだろうか。頼山陽の従兄弟で、春水の義子になった景譲、春水も比治山の安養院に葬られ、頼家の人々は比治山に墓参に通っている。安養院は現在は存在しない

まんが図書館(手前)の後ろが御便殿跡広場
まんが図書館(手前)の後ろが御便殿跡広場

日清戦争時、広島市中心部には国会議事堂が建てられ、帝国議会が開かれた。天皇も半年ほど滞在した。その住まいが御便殿で、後に払い下げられ、明治42年、比治山に移築された。比治山は当時から桜の名所で、遠足で訪れる子どもも多かったようである。

 御便殿跡広場にある昭和天皇関連の碑
 御便殿跡広場にある昭和天皇関連の碑

周辺には、昭和10年建立した加藤友三郎の銅像の台座だけが残っている。加藤友三郎は広島県出身の初の総理大臣で、地元では軍縮=平和を推し進めたとして顕彰活動が進む。


だがはたして加藤友三郎はほんとうに「軍縮=平和を推し進めた」のか。もしそれが正しければ、その時点で戦争終結に向かっていってもいいではないか。むしろ戦況が悪化したのはいったいなぜなのだろう。

                          続きます。

 

 

 

現在は建っている「頼山陽文徳殿」の案内柱が傾いていた時期もある。また「頼山陽文徳殿」の玄関前は雑草が生い茂り、廃屋の様相を呈していた。広島県や広島市の観光マップにはのせられず、広島県民、広島市民は「頼山陽文徳殿」があることさえ知らない人が多い。

2017・8・18

「頼山陽文徳殿」を考える⑯

入れなかった頼山陽文徳殿

 

頼山陽を調べ始めて20数年。全国にある頼山陽の史跡はずいぶん巡ったが、「頼山陽文徳殿」は何十回と訪ねこそすれ、一度も内部に入ったことはなかった。

 頼山陽文徳殿につながる石段               写真 / 見延典子
頼山陽文徳殿につながる石段     写真 / 見延典子

20年ほど前であったか、何人かの方に、なぜ「頼山陽文徳殿」があのように放置されているのか訊いたことがある。なんらかの事情から係争中で建物に触れることが出来ないという話であった。

 

そのまま歳月が流れ、12、3年ほど前であったと思うが、頼山陽記念文化財団(広島市)の研修会で「頼山陽文徳殿」に入れるという機会があり、参加したところ、「頼山陽文徳殿」の鍵をもっている方が、これもまたいかなる事情からか鍵を開けてくれず、参加者60名余りが「頼山陽文徳殿」から引き返すという前代未聞の出来事があった。

                      

それからさらに1、2年たったころ、私が中国新聞に連載していた『頼山陽』(2004年~2007年)が終了したあとだったと思うが、「頼山陽文徳殿」を訪ねてみると「被爆建物」の立派な看板が広島市によって建てられていた。

         続きます。

 


昭和4年発行の『頼山陽書翰集』 写真は復刻版
昭和4年発行の『頼山陽書翰集』 写真は復刻版

昭和6年の頼山陽100年祭を一つの区切りとして出版された頼山陽関連本は出版ラッシュの様相を呈す。

昭和6年発行の木崎愛吉著    『百年記念頼山陽先生』
昭和6年発行の木崎愛吉著    『百年記念頼山陽先生』

2017・8・16

「頼山陽文徳殿」を考える⑮

頼山陽関連本の出版ラッシュ

 

頼山陽といえば、幕末に競うように読まれたような印象があるが、それは正しい認識であろうか。

昭和6年発行の『頼山陽全書』全8巻の一部
昭和6年発行の『頼山陽全書』全8巻の一部
昭和6年発行の『先哲遺墨集』(上下巻)
昭和6年発行の『先哲遺墨集』(上下巻)

昭和に入っての頼山陽の見直し作業は何を意味するのであろうか。

 

 

 


広島市比治山にある頼山陽文徳殿。昭和9年完成。写真 /  見延典子 2017・8・9
広島市比治山にある頼山陽文徳殿。昭和9年完成。写真 / 見延典子 2017・8・9

2017・8・14

「頼山陽文徳殿」を考える⑭

「頼山陽」から「頼山陽先生」へ 

 

前回、紹介した『浅野長勲侯の生い立ちと年譜』の引用部分には、実は省略した箇所がある。以下、省略していない全文をご紹介しよう。

 

尚、同書は昭和45年に刊行されたが、内容は昭和13年、当時の広島教育界が発刊した「浅野長勲号」を転載した、という記載がある。


「頼山陽の百年祭があった際、かつて芸藩の士論(原文ママ)は君父の国を脱したるにより釈然たらざるものありしにかかわらず、長勲公が自ら祭文を読み、しかも恭しく頼山陽先生と称したる一事は、世人をして驚嘆せしめたる所である」(赤色で書いた部分が前回省略した箇所)

 

昭和6年時点でも、広島の人々はかつて脱藩を図った頼山陽に対して釈然としない思いを抱いていた。にもかかわらず広島藩主であった浅野長勲が恭しく「頼山陽先生」と呼んだものだから驚嘆した、というのがこの文章の全体の趣旨なのである。

 

頼山陽に対する民衆と浅野長勲の思い、認識の差に大きな隔たりがあることがわかる。

 

ところで浅野長勲が発した「頼山陽先生」という言葉は、9月25日、東京の日比谷公園公会堂で行われた「頼山陽先生百年記念会」ですでに使用されている。そう、内閣総理大臣若槻禮次郎が祝辞を読み、NHKラジオ第二放送で5時間余りにわたって生放送された時である。

 

頼山陽の著作、中でも『日本外史』の「桜井駅の訣別」はすでに国定教科書に掲載されているようになっていたが、「頼山陽」が「頼山陽先生」として日本中に広く認知されたのはまさにこの時であった。

 

頼山陽の生前から、弟子をはじめ私的に「頼山陽先生」と呼ぶ者はいたであろう。だが昭和6年以降の「頼山陽先生」という言葉は単なる尊称ではなくなる。総理大臣まで登場する「頼山陽先生百年記念会」という国家的プロジェクトを経て、「頼山陽」は「頼山陽先生」して権威を帯びていくのである。

                         続きます。

 

以前「なんでも鑑定団」で、鑑定士の安河内さんが頼山陽の書の鑑定をした際、「『山陽』ではなく『山易』と書いてあるので贋作」とこともなげに言い放っていた。この表紙を見て何というであろうか。

広島でも10月16日、広島西練兵場(現在の広島県庁の辺り)で「頼山陽百年祭」が行われている。主催は広島県庁内におかれた頼山陽先生遺蹟顕彰会。その折に出されたのが『頼山陽の百年祭を迎えて』(写真上)だ。(現代仮名遣いに直しています)

2017・8・12 

「頼山陽文徳殿」を考える⑬

旧藩主が「頼山陽先生」と…

 

寄り道してしまったが、昭和6年(1931)に戻ろう。

 「頼山陽100年祭」が昭和6年5月17日、大阪の桜井駅址と、9月25日、東京の日比谷公園公会堂で行われたことはすでに書いた通りである。だがこれだけではない。

この時、総裁を務めたのが広島藩最後の藩主だった浅野長勲である。

『浅野長勲侯の生い立ちと年譜』には興味深いことが書かれている。

「頼山陽の百年祭があった際(略)長勲公が自ら祭文を読み、しかも恭しく頼山陽先生と称したる一事は、世人をして驚嘆せしめたる所である」 かつて脱藩を図り、士籍を剥奪された頼山陽を、旧藩主が「頼山陽先生」と呼んだのだ。人々が「驚嘆」するのも無理はない。

          続きます。

 

 


2017・8・11 「頼山陽文徳殿」を考える⑫頼山陽の立ち位置

 

楠木正成が出てきたので書いておこう。

 

子どもの頃から軍記物に親しんできた頼山陽にとって楠木正成は大好きな武将の一人であった。ただ、長じて『日本外史』を書いた時には「好き」か「嫌い」を超越する思いはあったろう。

 

『日本外史』における「楠氏論賛」は足利尊氏VS後醍醐天皇+楠木正成+新田義貞という対立構図で語られてきた。頼山陽が足利尊氏をこれ以上はないというほどの強い言葉で非難するのを読み、頼山陽は天皇を擁護していると教えられてきた。

 

しかし果たしてそうだろうか。『日本外史』を読んだことがある方はおわかりのように、頼山陽は「〇」か「×」かではなく、あくまで複眼で『日本外史』を書いている。

 

「楠氏論賛」で注目したいのは後醍醐天皇への言及だ。

「さきに帝をして其の新田氏に任ずる所のものを以て公に任ぜしめんか、なんぞ犬羊狐鼠の賊をして。わが朝廷を蹂躙せしむるに至らんや」

 

これに対する塩屋氏、多田氏の訳文。

「最初から、大楠公にご一任あそばしたならば犬羊狐鼠にもくらぶべき足利尊氏に、わが朝廷をふみにじらせるような、へまなやり方は決してしなかったであろうになあ」

 

頼山陽が後醍醐天皇を批判をしているのをわかっていただけるだろうか。さすがのお二方もこのように訳すしかなかったようだ。

 

「〇」か「×」かの二者択一ではなく、三番目の視点「天皇」を加え、必要に応じて批判していることは従来ほとんど取りあげられてこなかった。実はこれが頼山陽の立ち位置なのである。

 

 

こういう本を読むと、昭和12年という時代が書かせているのだろう、と思う記述に出会うことが多い。

 

また頼山陽が書いた原文を読み、続けて両氏の訳文を読むと「はて、そんなことがどこに書かれているのだろう」と思うこともある。

2017・8・10

頼山陽文徳殿を考える⑪ 

頼山陽のレトリック

 

8月6日付「頼山陽文徳殿を考える⑩」に、堀尾哲朗さんが情報を提供してくれたのは塩屋温、多田正知著『楠公と頼山陽 附日本外史楠氏新釈』(昭和12年)である。


同書に掲載されている「楠氏論賛」の一部「蓋し朝廷大に楠氏に任じる能わずして、而も楠氏自ら任ずる所以は、以て加うるなし」を、お二方は「総収」として傍点を振って以下のように訳出している。

 

「思うに、朝廷では、大いに楠木氏に任じ用いたまうことが出来得なかったにも拘らず、楠木氏が自分自身に、みずからの責任があるとして居たところのものは、これより以上は無いといわれるほどまでに、重且つ大なるものがあったのである(現代仮名遣いに直す。「楠木氏」と書くようになったのは明治以降。頼山陽は「楠氏」と表記している)

 

漢文に精通しているお二人をもってしても、このようにしか訳せないところに山陽なりのレトリックがある。 

 

 

2017・8・8 山根兼昭さん

            「頼山陽100年祭 真山青果『頼山陽』」

 

真山青果「頼山陽」について。

安藤英男著「頼山陽・人と思想」(1975年12月 白川書院)に、新制作座(主宰・真山美保)創立20周年記念公演として、真山青果作、「頼山陽」 が昭和47年(1972)4月から2か月間全国173か所を巡回し、230回上演されたことが紹介されている。

主演の頼山陽・キャスト杉原正治氏。右は第1幕「芸州、海田町のある休み茶屋」     山陽脱藩の報に驚愕し辛労する関係者たち。
主演の頼山陽・キャスト杉原正治氏。右は第1幕「芸州、海田町のある休み茶屋」     山陽脱藩の報に驚愕し辛労する関係者たち。
写真上ー広島頼家の茶の間ー 山陽が幽室で寄稿した「日本外史」を読み、毅然として膝を打つ頼杏坪、「姉上(静子)書きましたよ、書きましたよ、あの気違いめ・・・・・とうとう天下無類の文章を書きましたよ」  (差別表現があるが、原文のままとする)
写真上ー広島頼家の茶の間ー 山陽が幽室で寄稿した「日本外史」を読み、毅然として膝を打つ頼杏坪、「姉上(静子)書きましたよ、書きましたよ、あの気違いめ・・・・・とうとう天下無類の文章を書きましたよ」  (差別表現があるが、原文のままとする)

このドラマは、山陽が寛政12年(1800年)9月に脱藩してから、広島の自宅に監禁され、「日本外史」を寄稿するまでの約2年間で、暗い封建制度のもとで、自由に羽ばたこうとする若き日の山陽と、山陽をめぐる人々の愛情と苦悩と葛藤をえがいた哀切の名編である。

広島頼家の奥座敷、帰国した春水が杏坪と静子を書斎に招き、山陽の処分については善悪ともに任せてもらいたいと宣言する。
広島頼家の奥座敷、帰国した春水が杏坪と静子を書斎に招き、山陽の処分については善悪ともに任せてもらいたいと宣言する。

昭和47年と云うと私が35歳ですが、記憶はありません。その後上演されなかったのですかね。

 

山根兼昭さん 🔁 見延典子

 

山根兼昭さんへ

真山青果「頼山陽」の情報をありがとうございます。

頼山陽ネットワーク公式ホームページ会員のKさんは「頼山陽」で主役をつとめた杉原正治さんのご親戚とのことで、以前、印刷物をいただきました。また6月の旅猿ツアーの際も、Kさんがご尊父がガリ版刷りでつくられた資料を配布され、移動中のバス内で盛り上がりました。

広島では「頼山陽」を観劇したという方が何人もいらっしゃいます。しかし近年は上演されていないのと思います。時代の流れでしょうか。

                          見延典子

               

 

2017・8・6  頼山陽文徳殿を考える⑩ 頼山陽と楠木正成

 

昭和6年5月17日大阪 9月25日東京で開催された「頼山陽先生百年祭記念会」。そのうち9月25日東京で行われた記念会の参加者に配布されたと思われる式次第を入手した。

 東京で開催された「頼山陽先生百年祭記念会」式次第表面
 東京で開催された「頼山陽先生百年祭記念会」式次第表面

左側には「頼山陽百年祭記念」として10月帝国劇場で『頼山陽』を上演することが書かれている。作者は劇作家の真山青果、主演は市川左団次。10月3日初演で、1カ月間上演された。この作品は戦後も新制作座によって日本各地で上演されたようだ。私も台本を読んだ記憶があるが、青年期の頼山陽が抱える苦悩が描かれていたように思う。続いて式次第の裏面もご覧いただこう。


 同裏面
 同裏面

裏面には『日本外史(抄)』、同じく『日本外史』から「楠氏論賛」、頼山陽の漢詩「謁楠河州墳有作 」が載せられている。当日、塩谷温の講演で読まれたり、詩吟の朗詠に使われたのだろう。

 

『日本外史(抄)』は桜井駅で楠木正成、正行父子が訣別する場面が描かれている。このあと正成は湊川の戦いで戦死する。後醍醐天皇のために身を捧げる忠臣楠木正成の姿は戦前さかんにもてはやされた。

 

                          続きます。

 

奥付には「山陽先生百年記念祭仮事務所」が「東京府立第六中学校内」(東京市四谷区内藤町一番地)に置かれ、編集発行人は阿部宗孝と書かれている。同中学校の校長という。注目していただきたいのは、同書に書かれている式次第(下の写真)

2017・8・5

頼山陽文徳殿を考える⑨

桜井駅址(大阪)でも

       「頼山陽百年祭」

 

「桜井駅址頼山陽先生百年祭記念」をご紹介しよう。これも昭和6年に発行されている。


同書によれば『日本外史』の記事により大楠公小楠公父子訣別の日を5月16、7日と推定し、17日の日曜日を選び、大楠公小楠公の霊前で(大阪の桜井駅址のこと)山陽先生百年祭を行うと定めたこと、例年5月16日は楠公祭を行っているが、山陽先生百年祭を兼ねて17日に挙行するのも差し支えないと主催者が快諾したことが書かれている。

5月17日除幕の碑に刻された 東郷平八郎による書
5月17日除幕の碑に刻された 東郷平八郎による書

「山陽先生百年記念祭仮事務所」が

公立中学に置かれていることから教育界が関わり、乃木希典、東郷平八郎の名前から軍部も関わっていることがわかるが、経済界からは渋沢栄一が「日本外史の教訓」を寄稿している。東京での記念会も含め、「頼山陽先生百年記念会」が国家的な事業であったことが類推できる。

(引用文の旧漢字は新漢字に改めています)

            

大阪の桜井駅址に建つ「楠公父子訣別之所」の碑。乃木希典の書。
大阪の桜井駅址に建つ「楠公父子訣別之所」の碑。乃木希典の書。

5月17日、桜井駅址の式典では新たな碑の除幕式もあった。表面には明治天皇の和歌を東郷平八郎が書いたもの、裏面には頼山陽の「過桜井駅址詩」の漢詩が彫られた。(この冊子が出た時には、まだ碑はできていなかったようで、同書には元になった東郷平八郎の書が掲載されている。写真左)

渋沢栄一「日本外史の教訓」
渋沢栄一「日本外史の教訓」

          

     続きます。

 


日比谷公会堂。インターネットより。現在は改修工事のため休館中。
日比谷公会堂。インターネットより。現在は改修工事のため休館中。

2017・8・4

頼山陽文徳殿を考える⑧

「ラジオが、ジャズと、ジャズとの間に『日本外史、日本政記、頼山陽』と声高く叫んだ…」

 

「頼山陽先生100年記念会」が開かれた「日比谷公園公会堂」は現在「日比谷公会堂」と呼ばれている建物のようだ。昭和4年、当時の東京市が350万円の寄付を得て建てた。収容人員は2000名余。


 

ラジオの普及は急速に進み、昭和5年に70万台を超える。パナソニックは昭和6年からラジオ生産を始めた、と同社のHPにある。NHK第二放送ができたのがこの年、昭和6年である。

 

もっとも放送エリアは東京、大阪、名古屋の3都市だけだった。ということは「頼山陽先生百年記念会」こそ開かれたものの、大衆に浸透するには至らなかったのか。いや、そうではないようだ。

 

右の写真は「國學院雑誌 頼山陽100年祭記念」の編集後記。

「日本外史日本政記の著者、頼山陽の百年祭が各地で行われ、記念講演、遺墨展もまた盛大に催され…(略)街頭のラジオが、ジャズとジャズとの間に『日本外史、日本政記、頼山陽』と声高く叫んだのは痛快でもあり、皮肉でもあった」

(現代仮名遣いに直す)


 

ラジオの実況の様子が彷彿とするようだ。

注目すべきはその前に書かれた「頼山陽の百年祭が各地で行われ」である。頼山陽の百年祭は東京でのみ行われたわけではないのだ。

                        続きます。

 

2017・8・3

頼山陽文徳殿を考える⑦ 頼山陽先生百年記念会

 

にわかには信じがたい、頼山陽にまつわる驚くべき話である。

昭和6年(1931)、頼山陽の没後100年を記念して「頼山陽先生百年記念会」が同年9月25日午後1時から日比谷公園公会堂で開かれた。

まず驚くのは東京でこのような記念会が開かれていることだ。しかも内閣総理大臣が祝辞を述べている。調べてみると若槻禮次郎である。

 

ありがちな「代読」かと思ったが、注目すべきは左下の記載である。「頼山陽先生百年記念会」はJOAK(NHKのこと)の第二放送(ラジオのこと)によって、開始の午後1時から講演終了までの約5時間の長時間に渉って、その全部を全国に中継放送された、と書かれている。「代読」であろうはずがない。

          続きます

 


①多聞院 ②頼山陽文徳殿 ③頼家墓所
①多聞院 ②頼山陽文徳殿 ③頼家墓所

頼山陽文徳殿がこの地に建てられたのは頼家墓所に近いことを考慮してである。(にもかかわらず現在、頼山陽文徳殿と頼家墓所が分断された状態になっていることについては機会があれば書きたいと思う)

「國學院雑誌 頼山陽100年祭記念」(昭和6年10月1日発行)
「國學院雑誌 頼山陽100年祭記念」(昭和6年10月1日発行)

2017・8・2

頼山陽文徳殿を考える⑥ 頼山陽廟 

 

訪れた方はおわかりのように、頼山陽文徳殿は頼家墓所を見下ろす位置に建てられている。(左の地図)

頼家墓所 2017・7・15
頼家墓所 2017・7・15

だが頼山陽の墓は京都の長楽寺にある。なぜこの地に「頼山陽廟」を作ろうとしたのか。

 

「國學院雑誌 頼山陽100年祭記念」(昭和6年10月1日発行)で頼山陽の玄孫頼成一氏は興味深いことを書いている。

「明治御維新となって、戸籍法が新に設けられ京頼は広島へ復籍することとなり、従って山陽も本籍に復したのである。旧幕時代の廃嫡者も


明治の聖代の明るい御政治のもとに本籍に復した事は誠に有り難いことで、これは山陽の熱望していた天皇御治世の理想の実現せられた御代の御処置である以上おそらく地下に九拝したことと思惟する。その後、支峰が柏村龍三を養嗣子とするに就て遂に広島から分家して改めて京頼を築上げるに至ったのである」(現代仮名遣いに直す)

 

頼家にとって、かつて廃嫡になった山陽が新たな戸籍法のもと、広島に復籍になったことは名誉回復であり、何ものにも代えがたいほどの喜びであったにちがいない。そこで改めて山陽の霊を祭る建物である「廟」を建てようとしたが、なぜか立ち消えになり、結果として「頼山陽文徳殿」と改称された。今のところ改称の理由は不明である。

 

ところで「國學院雑誌 頼山陽100年祭記念」(昭和6年10月1日発行)には、にわかには信じがたい、頼山陽にまつわる驚くべき話の数々が掲載されている。

 

                         続きます。

 

2017・8・1 頼山陽文徳殿を考える⑥ 昭和産業博覧会

 

さて、頼山陽文徳殿である。

「新修広島市史」(昭和33年)には次のように書かれている。

 

昭和6年の頼山陽100年祭の記念行事として建設される予定であった山陽廟は、途中において山陽文徳殿と改称され、比治山本町多聞院の上手に地を定めて、広島市が昭和産業博覧会の益金の一部をもって建設することになり、同9年5月着工、同年10月完成した。これらの事業はもっぱら山崎楠岳らの斡旋による。

 

廣島市鳥瞰昭和産業博覧会会場分布図(鳥瞰図)◎広島市 昭和4年 ※カタクラ 画
廣島市鳥瞰昭和産業博覧会会場分布図(鳥瞰図)◎広島市 昭和4年 ※カタクラ 画

ここに書かれている言葉の一つ一つを検証していこうとすれば、かなりの時間と労力を要するであろう。昭和産業博覧会は昭和4年3月20日から5月13日までの期間、広島市が主催して開催されたそうだ。左の画はネットに出ていた会場分布図の一部である。産業奨励館や西練兵場で開催されたという。


いずれにしろ昭和産業博覧会による益金があり、頼山陽文徳殿のような当時としてもお洒落であったろうと思われる建物が建てられたことがわかる。さらに言えば、時代的に困窮しているイメージがあるけれども、広島市の収入はそこそこあったのかもしれないことも連想される。このあたりはいずれ調べたい。

 

「頼山陽文徳殿」は当初「頼山陽廟」として考えられたという点も面白い。頼山陽の墓は京都にある。にもかかわらず、なぜこの地に廟を建てようと考えたのだろうか?

                        続きます。

 

 「玄孫 元孚拝書」と見える。
 「玄孫 元孚拝書」と見える。

「頼山陽ネットワーク」の力を結集して、少しづつ疑問を解決していきたいですね。

2017・7・31

石村良子代表

「頼山陽文徳殿 正面玄関の額を揮毫したのは…」

 

文徳殿の正面玄関の額に書かれた文字、写真でよく見てみると「山陽文徳殿 玄孫元孚拝書」となっていました。

 

山陽 → 聿庵(子) → 誠軒(孫) → 古梅(曽孫) → 成一(玄孫)

 

額を揮毫したのは頼成一先生でした。先生の号は「元孚」です。

文徳殿内部の写真
文徳殿内部の写真

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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