貯水池(写真上)や排水溝(写真右)、そして人の力によって積みあげられた石やレンガ。
幸いにもというべきか、室浜砲台は日露戦争が始まっても、使用されることはなかった。
先生から資料をいただき、海岸線を左手に見ながら下山する。宮島桟橋まで6キロをクロックスで(笑)
帰りの連絡船から室浜砲台方向を望む。瀬戸内海を挟み、対岸との距離が最短であることから、室浜が選ばれたことがわかる。(了)
2016・5・18
宮島の室浜砲台跡③
とうぜんながら、室浜砲台跡には兵士が暮らしていた名残がある。
当時の土木の技術力は高く、全国からコンクリートやレンガの専門家が調査に訪れているという。
宮島自然植物実験所に戻ると、ある方が描いたという当時の砲台周辺の想像図が掛けられていた。
道なき道を歩いた110年前の兵士を思えばどうということはない。
先生によれば、室浜砲台は深い森林に覆われて、全貌がつかめなかったが、平成12年の台風で多くの樹木が倒れ、撤去する過程で、周辺の様子が明らかになったという。
やがて広場のような空間が開ける。目的の室浜砲台跡であった。
いずれも100年以上深い森林に覆われていたにしては保存状態はよいという。
弾薬庫の中に入ると、ひんやりした空気が流れ、時が止まったように感じられた。
続きます。
2016・5・16
宮島の室浜砲台跡②
広大の「宮島自然植物実験所」を訪ね、電話に出てくださった先生の案内でいよいよ室浜砲台跡へ向かう。
室浜砲台は日露戦争を視野に入れて明治31年(1898)から設置作業がはじまった。周辺には兵士が移動し、滞在できるように橋がかけられている。その下を前日の雨の影響で、川が勢いよく流れている。先生はもっと川に近づいて写真をとるようにおっしゃるが、なにぶんクロックスを履いているので、滑らないかとヒヤヒヤしている。
弾薬庫(写真左)を左手に見ながら、瀬戸内海のほうに進むと、砲台跡が2基ずつ4基並んでいる。
砲台跡に入ってみると、シーンと静まり返ってどこか不気味です。私もこれまでに、何回か立ち寄ったことがあります。
1回目は、宮島の南にある岩舟岳へ山登り行ったときです。もちろん楽して、車でも行ったことがあります。
※写真はいずれも、ひろしまフォト歩きさんが写された宮島の鷹ノ巣砲台跡。
2016・5・14
ひろしまフォト歩きさん
「宮島の鷹ノ巣砲台跡」
宮島の室浜砲台に行かれましたか!女性一人でよく行こうと思われましたね。
砲台は宮島の南にもあるのですが、何といっても「鷹ノ巣砲台跡」が凄いです。
すでに調べておられると思いますが、海水浴場の包が浦の先に鷹ノ巣山があり、そこに大きな砲台跡があります。こちらも近くまで車で行けます。
写真も撮っていますので、ご参考までに添付しておきます。
宮島の奥深い山中に、当時の海軍省の名入りの道標が立てられていたのも印象に残っています。
インターネットで調べて、そこに書かれていた広島大学の「宮島自然植物実験所」の先生に電話。すると案内をしてくださるという。急いで車を運転して宮島口へ向かったまではいいが、降りたところでクロックスを履いて出てきたことに気づいた。
もちろんタクシーに乗る。この選択は正解であった。にぎやかな土産物屋街とは一転、宮浜砲台のある宮島の南西は鬱蒼とした原始林が生い茂り、人っ子一人歩いていない。出会ったのは一頭の鹿だけ。一人で歩いてきたら、不安になって引き返していただろう。
2016・5・13
宮島の室浜砲台跡①
『汚名』で日清戦争を書き、次は日露戦争を書こうと考えている。実は以前から訪れたいと思っている場所がある。日露戦争の際に造られたという宮島の宮浜砲台だ。
な、なんてこった。先生からは「宮島桟橋から6キロ、1時間半歩く」と教えられているというのに…。
引き返すわけにもいかず、ともかくやってきた船に乗り、宮島に渡る。…と、桟橋にタクシーが止まっているではないか。
右手に、時折り瀬戸内海が見える海岸沿いに南下する細い道。対抗車が来てもぜったいに離合(広島弁で車と車が擦れ違うこと)できない一本道の先が少し明るくなったと思ったとき、ようやく「宮島自然植物実験所」の建物が見えてきた。
続きます
2016・3・24 「明治の広島」の写真②
明治時代の広島、貴重なの写真の続きを紹介する。
宇品港のメガネ橋 明治41年
宇品御幸通り 明治41年
千田貞暁像 明治41年
2016・3・17 「明治の広島」の写真①
明治時代の広島の写真がほしくて広島県立文書館に問い合わせたところ、同館のホームページに掲載されている写真は、自由に使用できることがわかった。
新刊『汚名』を読む際のご参考に。
明治27年(1904)日清戦争の際に建てられた臨時帝国議会仮議事堂。現在の広島市中区の中国電力基町ビルの敷地内にあった。
明治41年の宇品港。宇品港の写真としては最も古いという。
宇品には海水浴場もあった。女性たちが写っている。彼女たちも泳いだのだろうか。
他にも興味深い写真があるので、次回ご紹介しよう。
2015・9・20 安保法案、成立に思う。
集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案が、19日、成立した。
集団的自衛権の行使から、日本の近代戦争は幕を開けたといっていい。(7・16 安保法案、強行可決に思うをご参照ください)安保法案が「戦争法案」といわれる所以である。
おそらく2、3年先はまだ日本は直接、戦争に巻き込まれていないだろう。だが2、30年後はわからない。
日本で徴兵令が出されたのは明治6年。その後、幾たびか改正され、明治22年に法制化された。
当初は拘束力はゆるく、免れることもできたが、最終的にはすべての男子に兵役が課せられた。これが昭和の「兵役法」につながる。
安保法案は違憲の声がある。
今後も注視していく。
2015・7・16 安保法案、強行可決に思う。
今年は太平洋戦争終戦70年であると同時に、日清戦争終戦120年にもあたる。
日本の最初の近代戦争である日清戦争はなぜ始まったか。
日清戦争といいながら、日本も清国も戦場にはならなかった。戦場は朝鮮である。
発端は朝鮮で起こった内乱だった。そこへ支配力を強化したい日本と清国がそれぞれ兵を送った。
この出兵は当時日本国民には「朝鮮は清国にイジメられている。だから助けに行く」と説明されたという。
そう、集団的自衛権の行使である。
一度タガが外れると、いろいろなものが崩れていく。国の形も崩れていく。
それは歴史が証明している。
2015・6・15
軍港「呉」
明治22年、呉鎮守府が開庁し(開庁式は翌年)、呉は横須賀、舞鶴、佐世保とともに軍港となった。
軍港になる前、呉は小さな漁村だった。
上の写真は、戦艦大和が造られた呉海軍工廠があった場所(但し、これは昭和の話)
写真はすべて大和ミュージアムの南側にある公園で写した。
この公園の板敷の部分は、戦艦大和の甲板を実寸大で再現したもの。
呉が軍港の候補になり、調査が始まったのは明治16年。翌年に正式決定。
明治天皇は翌22日、江田島の海軍兵学校の卒業式に行幸したあと、佐世保鎮守府の開庁式へ。
日清戦争が始まったのは5年後の明治27年である。
2015・5・29
明治の広島30
「軍都の意味合い」
月刊ウェンディ広島に連載中の「明治の広島」の第30回(6月号)は「軍都の意味合い」
2015・2・28
「陸軍幼年学校」の記念碑
月刊ウエンディ広島に連載中の「明治の広島」の第27回(3月号)は「陸軍幼年学校」に通った知人の話を書いている。
(すべてのページをお読みいただけます)
広島城から近く、付近は公園になっている。ブランコや滑り台で遊ぶ幼児の横に、この記念碑は建っている。「幼年」の文字が目に染みる。
2015・2・3 明治の広島26 歩兵第十一聯隊記念碑
月刊ウエンディ広島に連載中の「明治の広島」
第26回(2月号)は歩兵第十一聯隊記念碑について書いている。
(すべてのページをお読みいただけます)
「歩兵第十一聯隊記念碑」が建っているのは、広島市中区基町の広島城そばで、池田勇人の立像(左の写真)のすぐ近くだ。
中国放送本社の南側。
聯隊は「れんたい」と読み、現在では「連隊」と書かれることが多い。
あるところで軍都広島の話をしたら、「軍都、軍都いうな」とおっしゃる方がいた。
どうしてなのか?
引き続き「戦争とは何か」について考えていく。
〇「明治の広島23 呉海軍工廠の誕生」の掲載2014・11・4
月刊ウエンディ広島に連載中の「明治の広島」
第23回(11月号)は呉海軍工廠の誕生の経緯です。
今月号から日露戦争を見据えます。
(ここから11月号の全ページをお読みいただけます)
〇「明治の広島21 西郷隆盛の明治」の掲載 2014・9・1
月刊ウエンディ広島に連載中の「明治の広島」
第21回(9月号)は「西郷隆盛の明治」
明治維新の立役者として、西南戦争の敗者として、今も語り継がれる西郷隆盛の意外な一面…。
〇「明治の広島20 明治の集団的自由権」の掲載 2014・8・1
以前も書いたが、今年は日清戦争から120年目
宣戦布告は明治27年(1894)8月2日
今の状況は120年前と似ていないか?
〇「明治の広島19 宇品築港③」の掲載 2014・6・27
月刊ウエンディ広島に連載中の「明治の広島」
第19回(7月号)は「宇品築港③」
日清戦争で兵站基地となった広島。中でも兵士、物資を送るすべての窓口となった「宇品港」について考える。
(03の項を拡大して、お読みいただけます)
〇安倍晋三首相の「言葉」 2014・7・2
日清戦争について調べてきた。
わかったのは、明治5、6年頃には明治政府が戦争を想定していたということだ。
明治27年、日清戦争がはじまる。
一握りの人々の意志で国が動き、国民が動かされた。
遠い昔の話だと思っていたが、21世紀になっても同じことが起きている。
福島原発について首相が「コントロールされている」と胸をはる映像を見たとき、この人の言葉の根拠はどこにあるのだろうと思った。
残念ながら、今回も同じ感想を抱いた。
「自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことはこれからも決してない」……。
憂うべき事態である。
日清戦争から、今年で120年。
写真でたどる「明治の広島」1
2014・8・6
日清戦争から120年。
そこで兵站基地となった広島に遺る、日清戦争の爪痕を辿ってみようと思う。
宇品は、明治に入るまで宇品島と呼ばれる島であった。そこを干拓したのが千田貞暁なる人物。
その前に書いておきたいことがある。
頼山陽が著した『日本政記』は日本初の総理大臣にもなった伊藤博文の愛読書であった。
頼山陽にとってはあずかり知らぬ話であろうが、私が明治や日清戦争を調べるきっかけは、その点にある。
「明治の広島」の項目を「頼山陽ネットワーク」に加えたのも同じ理由からだ。
心配なのは広島市民以外、興味がないかもしれないということ。
いや、広島市民でも興味がないかもしれないということ(笑)
千田貞暁は元薩摩藩士。
明治13年、広島県令として赴任し、半年後には宇品築港にとりかかる。
〇写真でたどる「明治の広島」2
2014・8・8
広島は幕末の第2次長州征伐の際、幕府軍の前線基地となった。
また明治になって鎮台(後に第五師団)が置かれた。
宇品港に加え、山陽鉄道が延長され、広島が軍都となる下地は整った。
明治27年(1894)の日清戦争では大本営が置かれた。
第七回臨時帝国議会が開かれ、1億数千円の臨時軍費が可決された。
帝国議会が地方都市で開かれたのは、広島だけである。
自由民権運動の盛んな東京では臨時軍費を可決することは難しかったのだろう。
ここで一句…
夏草や大本営の上に立つ
そういえば、正岡子規は明治28年、従軍記者として、宇品港から朝鮮国に赴いている。
日清戦争の10年ほど前、呉に鎮守府が置かれた。
明治天皇は呉を訪れ、現在の広島市にも行幸した。
広島市南区に残る「御幸橋」はそれに由来する。
大日本国帝国憲法下、明治天皇は大元帥であった。
当時、広島市には水道布設はされていなかった。
明治天皇のために掘られた井戸(広島城近く)
〇写真でたどる「明治の広島」3
2014・8・9
日清戦争に勝利すると、凱旋碑が建てられた(写真左)。その後、「平和塔」と名称が変更になったのは、いかにも平和都市ヒロシマらしい。
右の写真は同じ敷地内にある「東松原停車場跡」の標柱。広島駅から宇品港まで敷かれていた軍用鉄道の名残であろうか。
その後、比治山に登った。ABCCをご存じだろうか(写真左)
Atomic Bomb Casualty Commissionの略。
右手脇の細い道を進むと、陸軍墓地がある。
〇写真でたどる「明治の広島」4
2014・8・10
比治山にある陸軍墓地は、明治5年(1872)広島に鎮台が置かれた際に作られ、日清戦争から太平洋戦争まで戦死した、沖縄県以外の都道府県の戦死者3500柱がまつられている。
但し、国からは陸軍墓地として認められず、比治山南広場として扱われているという。この墓地が消えている地図もある。
私は墓石にカメラを向けることすらできなかった。
比治山を下りていくと「頼山陽文徳殿」がある。
昭和9年(1934)頼山陽没後100年記念として建てられた。
時代的に戦意高揚の目的があったであろうことは否定できない。
「頼山陽」が最ももてはやされた時代の遺物だ。
この場所は私にとって『頼山陽』執筆の原点である。
広島市内に戻る。
広島平和記念公園では翌朝の式典に向けての準備が進んでいた。
人がいる。
車が走っている。
〇写真でたどる「明治の広島」番外編
2014・8・12
同じく8月5日、広島市内にあるアステールプラザで、こまつ座公演(井上ひさし作)「兄おとうと」を観た。
民本主義を唱えた吉野作造と、官吏になった弟との確執を描いた物語で、大日本国憲法の是非を問う内容であった。
観劇を終えて外に出ると、県外ナンバーの黒塗りの車が行き交い、「被爆を風化させてはならない」といっている。
最近は右も左もないらしい。
〇写真でたどる「明治の広島」
もう一つ番外編
2014・8・15
全世界、全国から広島に寄せられる千羽鶴は毎年トン単位で貯まっていくという。
その利用法として名刺が考えられたそうで、私も勧められて「頼山陽ネットワーク」入りの横書きの名刺を作ってみた。
ところどころに色が見えるのが折り紙の跡。
一枚につき、一円が「広島市原爆ドーム保存事業基金」に寄付されるという。
お問い合わせはは 文華堂