見延典子が、明治期に石川県羽咋郡滝谷から北海道札幌市白石区に

  移住した母方の祖父長濵家ルーツについて書いています。

   北海道に渡った曽祖父が長濵久松。久松の長男が万蔵(好博さんの

  祖父)、次男が久蔵(典子の祖父)です。

   岡本久美子さんは長濵十助(重助)の系列で、札幌に渡ったあと長  

  濵久松と同じ住所に住んでいた。血縁関係については調査中。

2022・8・22

チームながはま

 

 長濱家のルーツ探しで、連絡をとりあっている長濱好博さん、長濱清さん、岡本久美子さん、典子。

 今秋、4人で父祖の地「石川県羽咋市」を訪ねる計画が進んでいる。

 岡本さん以外の3人は同じ長濱久松、よんを曽祖父母とする二従兄弟。久美子さんの先祖も長濱一族。

 典子は清さん、久美子さんとは初対面になる。どんな旅になるのだろうか。楽しみ!

 

母の手作りシソジュースの炭酸割り。
母の手作りシソジュースの炭酸割り。

 金崎宮
金崎宮

 「絹掛神社」は1897年金崎宮摂社として御鎮座祭が執り行われた。 

 祀られているのは、藤原行房卿、新田義顕卿、気比氏治命、気比斎晴命、瓜生保命、瓜生義鑑命、里見時成命、里見義氏命 、由良具滋命、長浜顕寛命、武田与一命など金崎城の戦いで命を落とした将士。

 繰り返すが、長浜顕寛と見延典子のルーツとのつながりは不明だ。

2022・8・19

長浜顕寛を祀る神社

 

 長浜顕寛を調べていたら、顕寛を祀る神社に辿りついた。

 福井県敦賀市金ヶ崎町1-1にある「金崎宮」は1890年(明治23)尊良親王を祀る官幣中社金崎宮として創建、92年恒良親王が合祀され、93年現在地に社殿が竣工して遷座した。

 絹掛神社
 絹掛神社

 ただ、明治時代には南朝方の将士が国家によって祀られていったことを改めて認識する。とともに彼らの働きが『日本外史』によっても伝承されていったであろうことも想像し得る。(説明文、写真はネットより)

 

 長浜氏居館跡の碑埼玉県上里町)

 写真/ネットより

2022・8・17

長浜六郎左衛門光経

 

『日本外史』の「新田氏」に「長浜顕寛」なる人物が出てくる。新田義貞の信任が厚い東国の武将で、1337年(延元2年・建武4年)新田義貞率いる南朝方の籠る越前金崎城が落城し、恒良親王が生け捕りにされ、尊良親王が自害した場面では人肉を喰って前門を守った猛者だ。


 この人物が「長浜六郎左衛門光経」で、『日本外史』のほか『太平記』のも登場していること、縁の地に石碑が建てられていることがわかった。

 もっとも見延典子のルーツと関係あるかは不明。石川県の隣り福井県の金崎城で亡くなっている点が少し気になるが。

長 浜 氏 居 館 之 由 来

この地、大字長浜字城は、鎌倉時代より武威を振るった丹党の名族、長浜氏が居住した館跡と伝えられ、浮浜城とも呼ばれています。長浜氏は新里恒房の子三郎信光を祖とし、長浜の地名をもって家号としました。太平記によれば一族の長浜六郎左衛門光経(顕寛)は、南朝の忠臣新田義貞に仕え、最高軍事指揮官である侍所としての重責を担い鎌倉攻略をはじめ全国各地を転戦し、建武4年(1337)新田義顕と共に越前金ヶ崎城で討死しました。  平成1012

長浜氏館(埼玉県上里町)

名 称:長浜氏館(ながはましやかた)

別 名:浮浜城

形 態:館

時 期:平安末期

築城主:長浜三郎信光

城 主:長浜氏・笠原掃部

遺 構:土塁・空堀

指 定:-

現 状:住宅地

所在地:埼玉県児玉郡上里町長浜字城

 

2022・8・3

残念!「萬藏祭」は中止

 

例年8月第1土日に開催しております本郷夏祭り「萬蔵祭」について様々な対策の実施や規模/開催時期の変更などを含めた開催案を模索しておりましたが、最近の全国的な新型コロナウイルスの感染拡大なども勘案した上での対応が困難であるとして、正式に開催を断念することと致しました。

文と写真/本郷商店街face book

 (札幌市白石区本郷)


検討に時間がかかり正式な公表が遅れましたことと合わせて、お詫び申し上げます。3年連続での中止ということになり実行委員会としても非常に残念ではありますが、引き続き本郷商店街を応援頂ければ幸いです。

       萬蔵祭実行委員会(事務局:本郷商店街振興組合内)

 

 

 

 

2022・7・21 

岡本久美子さん(埼玉県在住)「白石移住ヒストリー」

 

 札幌に帰省し、せっかくなので今回は白石神社、万蔵像、白石区役所の郷土資料館へ行ってみましたが、今回訪れたことによって私自身の考察もほんの少しですが深まりました。

 郷土資料館には鈴木レンガ工場関連の資料もあり、白石の工業の歴史においてこの工場が重要な存在であったことがよくわかりました。正さんが寄贈された久松さんの手帳も展示されていましたよ。

札幌白石区役所の郷土資料館
札幌白石区役所の郷土資料館

 また、大正7年頃のレンガ工場の職員一覧もあり、久松さんを筆頭に、就業年数、出生地、生年月日等の記載があり、当時の人員構成の様子が伺えました。そこにはもう十助の名前はありませんでしたが、出生地羽咋と記載のある方も数名おり、久松さんが羽咋からの移住者の後ろ盾となり面倒を見ていたのであろうとのストーリーが浮かびました。十助もその一人だったのでしょう。

長浜久松が工場長をつとめた鈴木煉瓦工場のレンガは、旧北海道庁舎(赤レンガ庁舎)、サッポロビール工場の建設に使われた。
長浜久松が工場長をつとめた鈴木煉瓦工場のレンガは、旧北海道庁舎(赤レンガ庁舎)、サッポロビール工場の建設に使われた。

 万蔵さんもレンガ工場の地で生まれ、そこで働いていたのですね。日本各地から移住してきたレンガ工場の労働者たちは、工場内の敷地で生活を共にしていたのでしょう。十助は北海道に移住し久松さんにお世話になり、そこからまた新たな人生を踏み出していったのだと思います。私なりに十助の白石移住ストーリーに納得することが出来ました。若い十助が久松さんにお世話になったこと、本当にありがとうございました、時を超えて感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

 

2022・7・19 農地解放 畑の中につくった商店街

 

 なぜ長浜万蔵の胸像が生前に建てられたのか。万蔵の業績は畑の中に商店街をつくったことにある。現在の札幌市白石区本郷通あたりが、札幌市のベットタウンになるであろうと予測された昭和30年代初頭、人口の増加を見越して、まず商店街をつくろうとしたのだ。

 

 この話は夢物語ではなく、身を切る話でもあった。長浜万蔵の父久松は明治10年代に石川県から白石に入植。運も味方して、広い土地を有する地主になっていた。万蔵はこの相続した土地の多くを想像を越えた安値で提供したのだ。周辺の地主にも協力をもとめた。

 

 想像を越えた安値とは、サラリーマンの初任給が6、000円の時代一坪1、800円。貸し付けの地代も一月5円という破格の安値であった。

 現在の値段に換算すれば、初任給を仮に200、000円とすれば一坪60、000円になる。このため申し込みが近隣の市町村はもちろん、遠くは北見、稚内からも殺到したという。商店主や住民たちの感謝の思いが、生前の胸像設置という形で表されたのである。

 参考/4集ほっかいどう百年物語 編者:STVラジオ 発行:林下英二

 

2022・7・17  生前に建てられた「長浜万蔵翁像」

 

「長浜家のルーツ」の執筆にとりかかっているが、あらためて札幌市白石区の本郷商店街にある「長浜万蔵翁像」を調べるうち、この胸像が万蔵(典子の大伯父)69歳の時に建てられていることに気づいた。

 生前に胸像が建てられる? あまり聞かない話である。

 真相を確かめるために万蔵の孫の長浜好博さんに問い合せたところ、以下の写真がのっている本(4集ほっかいどう百年物語 編者:STVラジオ 発行:林下英二)の記事を送ってくれた。

 記事には、万蔵が地元民から感謝されている具体的な内容が書かれているので、次回紹介したい。

昭和40年、本郷商店街10周年の年、地元の人々200人によって建てられた「長浜万蔵翁像」の前で長浜万蔵(69歳)妻の花恵。

 

2022・6・24  長浜久松、「ひさまつ」か「きゅうまつ」か。

 

   曽祖父長浜久松(1863~1929)のことを、私は「ひさまつ」と呼んでいた。一方母はとこどき「きゅうまつ」と呼ぶことがあった。「ひさまつ」か「きゅうまつ」か。長浜好博さんが正解を教えてくれた。

 長浜久松の手帳のレプリカから。中央「白石村」はスペルが書けている部分もある。
 長浜久松の手帳のレプリカから。中央「白石村」はスペルが書けている部分もある。

 久松の手帳のレプリカにローマ字で「Nagahana Kiumatu」と書かれている。読みは「きゅうまつ」だったのだ。

 

 正確な読みがわかった以外に、手帳はいくつかのことを教えてくれる。

 

1、久松の手帳に書かれているので、ローマ字を書いたのは久松の可能性

  が高い。

 

2、手帳のレブリカということは、どこかに本物があるはず。好博によれ

  ば本物は札幌市白石区に寄贈されているという。札幌市白石区は資料

  的価値が高いと判断して受け取ったと推測される。

 

3.手帳の存在によって他にも判明することが出てくる可能性がある。

 

   曽祖父「長浜久松」

2022・6・16

感動! 曾祖父の写真

 

 長浜好博さんが「曾祖父長濱久松」の写真を見つけ出して、送ってくれた。北大北方資料室が所蔵する写真帖(1920年・大正9)に収められていた写真という。

 話にしか聞いたことのなかった曾祖父の風貌。長い髭。親族さえ持っていなかった写真に対面して感動! 『長浜家のルーツ』ではこの久松や周辺の親族の人生と向き合うことになる(都合により写真の一部を加工)


2022・6・15

長浜家のルーツ

 

「頼山陽史跡詩碑めぐり」が一区切りついたので、母方の祖父「長浜家のルーツ」の執筆に本腰を入れる。「曾祖父長浜久松」を同じくするふたいとこ(はとこ)の長浜好博さんとの共著の予定。目的は子孫に伝え残すこと。加賀前田家や北海道開拓史にも関わる話。先は長い。

 

6月11日消印、94歳の老母からの手紙。水疱瘡にかかったが、その後完治。


老母の杖
老母の杖

 母は好博さんの父(母の従兄弟)とは交流していたが、好博さんと会うのは初めて。もろろん私も。

2022・3・28

長浜好博さんに会う

 

 2022年3月、札幌市に行った最大の目的は、札幌市在住の長浜好博さんに会うことだった。3月27日、93歳の母の家で初対面がかなった。

実家の庭。残雪。
実家の庭。残雪。

 好博さんと典子は「曾祖父長浜久松」を同じくするふたいとこ(はとこ)。好博さんはルーツに関する夥しい資料を持参して、おだやかな口調であれこれ教えてくれる。どのように長浜家のルーツの話をまとめていくか、スタートラインに立ったところだ。

 

2021・12・31

初めて知ったこと

 

 長浜好博さんとのやりとりはその後も続いている。長浜家のルーツについてここには書き切れないほど多くの事柄を教えていただき、玉手箱を開けるような日々を送っている。最も驚いたのは、長浜家から僧侶になっている人物が何人か出ていることであった。

 

 妙成寺の寺領に住んでいることから、寺との結びつきは強いだろうとは思っていたが、僧侶になった先祖がいたとは・・・。

 

 もっとも皆、自分の意思でその道を選んだとはいえないようだ。生まれながらに寺に預けられる者もいた。写真の「浄法院日箴(にっしん)上人」もその一人。好博さんや私の曾祖父の第一子ではあるものの、好博さんや私の祖父(兄弟)とは異腹の子であった。

 

 それでもこうして写真(大正10年12月10日撮影、40歳前後)が残り、「若くして亡くなったが、もし長生きしていれば日本一のお坊様になっていただろう」と伝わっている。感動。

   かなり前、老母が作った            クリスマスリース
   かなり前、老母が作った            クリスマスリース

2021・12・23

好博さんと老母が

 

 老母の父の長浜家のルーツを、長浜好博さんや岡本久美子さんと調べている話は老母にも報告している。

 すると老母が「好博さんと電話で話してみたい」と言い出した。好博さんの亡くなったお父さんは老母の従兄弟。しかし息子がいたことは知らず、話がしてみたいというのだ。

 


 好博さんと私は二従兄弟(曾祖父が同じ)の関係だが、それを知ったのはつい最近、このホームページを通じてであり、当然、 好博さん会ったこともなければ、話をしたこともない。年齢も知らない(笑)

 

 しかしメールで事情を話したところ、心よくひきうけてくださり、先日、老母から好博さんに電話をかけて、話をすることが実現した。思いがけず長電話になったようで、老母の願いは叶ったのだった。

 

 長生きには、肉親や友人を失う喪失感も伴う。昔話ができる好博さんと出会ったことは、老母にとって大きな喜びであったようだ。

 

 好博さん、ありがとう。

 

2021・12・1

家系図と写真

 

 母方の祖父「長濱家」に関してあればいいな、と思っていた家系図を長濱好博さんが作成して送ってくれた! うれしいというより、現実とは思えず、しばらく放心状態(笑)

昭和52年左が長濱とよさん。石川県。
昭和52年左が長濱とよさん。石川県。

 家の事情から、札幌から石川県に戻った長濱万蔵、久蔵の長姉「長濱とよ」さんの写真もある。感動。

 

長濱好博さんと見延典子は「曾祖父母長濱久松、よん」を同じくする「ふたいとこ(はとこ)」の間柄になる。

 送ってくれた写真には、長濱久蔵に嫁いた祖母カツヱ(旧姓中山)が長濱家の縁者とともに写っている。

昭和37,8年東京。右端が典子の祖母で長濱久蔵の妻カツヱ 。左が好博さんの祖母で、萬藏さんの妻の花恵さん。カツエと花恵さんは義理の姉妹。仲良く上京したようだ。
昭和37,8年東京。右端が典子の祖母で長濱久蔵の妻カツヱ 。左が好博さんの祖母で、萬藏さんの妻の花恵さん。カツエと花恵さんは義理の姉妹。仲良く上京したようだ。

2021・11・24

長浜万右衛門の過去帳の写し

 

 同じ先祖「長浜万右衛門」をもつ長浜好博さんから、先祖の過去帳をまとめた本の写しが届く。ほんとうは10日前には届いていたのだが、呆然として手がつかなかったのだ。


過去帳に載っていた最初の「長濱万右衛門」は1616年(元和2)に没している。

 送っていただいた資料は目下、読み込み中である。

 それにしても・・・ルーツ探しを始めて、父方の祖父の「見延」、母方の祖母の「中山(井川)」の調査でも、同じように一族の系譜が残っていた。そして今、母方の祖父「長浜家」でも同様のことが起き、400年前の先祖と向き合っている。長浜家はたかが百姓だ。そうであってもこうした記録が残っている。いや、残している人がいる。そのことに胸が熱くなる。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

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