特に記載がない場合以外は見延典子が執筆しています。
参考文献 /「頼山陽全伝」「梅颸日記」(木崎愛吉、頼成一編昭和6年)
「頼家百年の軌跡」(小原千秋編 平成10年)
「頼山陽」(見延典子 平成19年)
2018・3・4
舟遊び、ねり酒、居眠り
3月3日、頼山陽の勧めで母の梅颸(ばいし)は舟遊び。山陽の息子聿庵(いつあん)と山陽の門弟後藤松陰も同伴。梅颸の友人の映雪も加わる。梅颸は男児が夭折して悲しみの
底にいる娘の三穂に、菱餅、ねり酒(白酒の一種)を贈っている。この日は五節句の一つ上巳。
3月4日、この年の日記には書かれていないが、梅颸は例年、3月4日には飾っている雛人形を片づけている。山陽は揮毫に追われる。依頼者も多かったのだろう。この時点で、広島を発ち、長崎に向かうのは3月6日と決めていたようだ。
3月5日は雨。山陽は旅の支度に余念がない。夜。杏坪宅に招かれるが、支度に時間がかかってしまい、杏坪、菜真父子が逆にやってくる。持参の酒を深更まで飲む。映雪もやってくる。梅颸は眠くてかなわず、居眠りをしてしまう。
2018・3・2 広島での日々
文政元年(1818)2月は30日まであった。その2月30日、竹原から客があり、叔父の杏坪(きょうへい)にその他の客も加わり、深更まで語らう。
3月1日、いつもながら朔日の祭りごとを済ませ、夕方には近くの白神社、国泰寺に皆で参る。この頃、国泰寺は頼家の前にあった。そのまま杏坪宅で明け方まで飲む。
3月2日、さらに客が加わり、杏坪の別荘である牛山園に船で行く。牛山園は現在の広島駅の北西の牛田にあったというが、残っていない。料理や酒樽など到来品が運びこまれる。
頼山陽の長崎行きは、杏坪とともにもう一人の叔父の春風からの許可が下り、出立を控えて酒宴が開かれたのではないか。書き忘れていたが、この頃、頼山陽は通称を「徳太郎」としている。
2018・3・1
石村良子代表「3月6日、頼山陽長崎出游式」
頼山陽が長崎に向けて、広島を発つ3月6日、頼山陽ネットワーク事務局有志で出游式を予定しています(募集は致しません。ご了承下さい)
3月6日
場所 頼山陽史跡資料館和室(椅子式)
供茶(春水先生3回忌をしのんで) 景譲院希張新甫霊祭 参考
次第 10時30分 供茶15分(石村)
11時 直会 酒あり
11時40分 西国街道の説明(見延)
12時 頼山陽が歩いた西国街道へ出発 望月山登山
2018・2・27
麻生由紀さん「不動院にも沢三石」
🔁 見延典子
先日頼山陽ネットワークの記事を見ていたら、沢三石のことが書いてありましたが、不動院に沢三石の書があります。
頼山陽と親交があったのは知りませんでした。
ちょっと身近に感じました
麻生由紀さんへ
五言絶句。三石の人柄が感じられるような書ですね。何が書いているかわかりませんけど(笑)梅花と見えるので、今ころ掛けるといいかも。古文書研究会で読んでください。
見延典子
「赤飯」はもち米で作るのに対して、「赤小豆飯」はうるち米を混ぜるとか。
2018・2・26
妹のお三穂、男子出産
頼山陽の帰省を知り、24日尾道から金屋幾右衛門(熊谷挹翠)、25日築山為蔵が訪ねてくる。為蔵は頼山陽の武芸術の師で、幽閉中世話になった築山捧盈の縁者だろうか。
山陽が来訪者と歓談を楽しむ一方で、息子の聿庵は登城し務めを果たす。
26日、広島藩士の進藤家に嫁いでいる山陽の妹の三穂が巳の刻(午前10時頃)、男児を出産。30歳にして初めての出産で、頼家からは聿庵、続いて母の梅颸が祝いに行く。梅颸は一泊。赤小豆飯三升、めばる15匹、いりこを贈る。だが、喜びもつかの間、男児は28日夭逝する。
2018・2・23
舟遊びで川上桃林へ
1818年2月23日は曇りがちながら、山陽は母の梅(ばいし)、その友人映雪、従兄弟の菜真らと舟遊びを楽しみ、川上桃林までいく。
太田川のやや上流、広島市安佐北区八木の辺りに川上という所がある。そこまで行ったのだろうか
梅、桜、桃の開花時期を調べと、梅、桃、桜の順に咲くという。中国地方で桃が開花するのは3月上旬から4月中旬にかけて。「頼山陽てくてく」で紹介している1818年の日付は陰暦による表記で、太陽暦では一カ月ほど先、つまりこの頃は3月下旬なので、当たっている。
菅茶山の塾で学んでいた後藤松陰が神辺からやってくる。
沢三石の梅図 『江戸~明治期・広島の絵画展』2003年頼山陽記念文化財団発行
2018・2・22
沢三石の屋敷で書画鑑賞
22日夕方、体調が回復した頼山陽は、息子の聿庵(いつあん)とともに沢三石の屋敷に書画を鑑賞に行っている。三石は広島藩士で、書画をよくした。山陽より8歳年上で、このとき47歳。後に年寄になる。
どのような経緯から沢家に招かれることになったかはわからないが、程なく聿庵が梅園詩会(不明)に行ったのに対し、山陽が沢家に留まり続けたところをみると、書画をめぐって大いに話が盛りあがったろうことが想像される。
かつて脱藩をした山陽も、この頃には広島藩内にも理解者がいたことがわかる。ただ、それも春水、杏坪、聿庵と連なる頼家の人々の広島藩への忠義があったからだろう。
2018・2・21 堀尾哲朗さん「春水と山陽の確執の原因」
山陽と春水の確執の原因は信仰以外にも多くあったと思いますが、私は、春水や朱子学者の儒教の歴史観に山陽は同意出来なかった事が最大の原因ではと思います。
2018・2・20 頼春水の三回忌②
2月8日付、堀尾哲朗さんからご指摘があったように、広島藩の儒者は儒教に基づく格式のある行事をこなしていた。
広島藩にこうした儒教の形式をもちこむことに尽力したのが頼山陽の父の春水であった。その春水の三回忌であれば荘厳に行われたであろう。
頼山陽の宗教観についてはわからないことが多いあるが、死の直前に書き残した自身の墓についての記述を思い起こすと、少なくとも儒教は受け入れていなかったようである。とかく形式ばったことが苦手で、この辺りにも父子の確執の原因があったようにも思えるが、いかがであろうか。
2018・2・19 頼春水の三回忌
頼春水の三回忌が頼家の祠堂で行われる。祠堂とは先祖の位牌を祀ってい堂を指す。いわゆる仏間であろう。
多くの参拝客が訪れる中、頼山陽は体調を崩し、翌20日は朝食も食べられない。かかりつけの医者を呼び、薬を処方してもらう。京都からの旅の疲れ、三回忌を迎える緊張が体調に影響したのかもしれない。しかし21日には墓参できるまでに回復している。
2018・2・17
頼春水の三回忌逮夜法要
文政元年(1818)2月17日晴、風。頼春水(山陽の父)の命日は2月19日だが、比治山の安養院で、三回忌逮夜法要が営まれる。「梅颸日記」には「斎に付人18名。家来共26名」とある。
(注)「逮夜」とは法要の前夜を指すらしいが、多少ずれてもよかったのかもしれない。「斎に付人」とは斎場(安養院)に列席する人というほどの意味だろうか。今回、頼山陽が頼家に帰省したのは、亡父の法要に出席するためであった。亡父との確執の日々を、万感の思いで振り返っていたのではないか。
2018・2・16 頼春水の三回忌近づく
頼家のような儒教家庭では、毎月1日、15日は家祭を行う。2月15日も供え物をし、杏坪が来拝。杏坪の長男菜真の嫁かねが腹痛を訴え、菜真は欠席。
16日、山陽は聿庵とともに山陽の妹三穂の嫁ぎ先進藤家に招かれる。
そして17日は頼春水の三回忌逮夜法要。
2018・2・14
雪、帰藩届、またまた塩風呂
文政元年(1818)
2月11日~14日
11日から12日にかけては寒く、特に11日は雪がチラついている。
聿庵(いつあん 山陽長男)は11日から13日まで学問所に出ている。
一方、山陽は12日、帰藩届書を持参している。城か町役人宅に届けたのだろう。当時の旅の手続きの一端が伺える。山陽は京都に住んでいても安芸の人であることがわかる。親戚や知人が挨拶にやってくる。
14日には再び大手町6丁目の塩風呂へ聿庵と行く。
15日、三度、塩風呂へ。しかも座敷で「少々弁当をつかひ」と「梅颸日記」にある。風呂上り、座敷で自前の弁当を食べたのだろうが、梅颸(ばいし 頼山陽の母)がいっしょに行き、入浴したようにも読める。
石村良子様
当時は混浴で、女性も塩風呂に入れたのでしょうね。以前、忠海にある石風呂に問い合わせたところ「混浴なので、女性はTシャツを着て下さい」と言われた記憶があります。都合が悪くなり、行きませんでしたが(笑)
2018・2・11 石村良子代表 🔁 見延典子
「頼山陽は丹那の潮風呂へ行っていた?」
「頼山陽てくてく」は面白いです。楽しみにしています。頼山陽は丹那(広島市南区)の石風呂、潮風呂に行っていたとか。今もあるのでしょうか
石村良子代表へ
平成15年廃業したとか。かつて瀬戸内海沿岸にあったこのような文化は今はほとんど残っていないようです。
見延典子
2018・2・10
妹に会い、塩風呂に入る
文政元年(1818)2月10日
臨月を迎えた妹の三穂が駕籠に乗って遊びにくる。その後山陽は聿庵(いつあん 前妻との間に生まれた長男)と鳥屋町にある塩風呂へ。執事の手島伊助が煮しめをもってきてくれたので、それで一献傾ける。
(注)鳥屋町は現在の大手町1~5丁目で、元安川東岸に位置する。もとは豆腐屋町と呼ばれたが、承応~天和年間に改称。町年寄を勤めた鳥屋八右衛門にちなみつけられ、昭和40年まで使用された。
また塩風呂は、石風呂もしくは岩風呂とも呼ばれるものではないかと思う。この中で火を焚き、いわゆるサウナ状態にして汗を発散させる。かつて瀬戸内海には自然を生かしたこのような風呂が数多くあった。
2018・2・9 蚊、日の内から酒、茶を煮る
文政元年(1818)2月8日
曇り。夜半より雨。2、3日、蚊出る。暖かいのだろう。千蔵から鮓をもらい、日の内から酒を飲む。夜更け、山陽は道中持参した茶を煮て、菓子を食べさせる。煎茶のことだろうか。
2月9日、聿庵は滞りなく丁祭行う。山陽は杏坪(叔父、きょうへい)の屋敷で昼飯をご馳走になり、夜には杏坪が頼家に来て、酒を飲みつつ会話を楽しむ。
2018・2・8 堀尾哲朗さん「丁祭について」
山陽の西遊について、楽しく拝見しています。
7日付、聿庵の学問所の教授拝命と「丁祭」の担当を命じられたとの記事がありました。読者は、広島藩の儒者の役割、その地位等に余り関心を持たれていないのではと考えます。今回の記事は良い機会なので、「丁祭」について補足説明をされては、如何でしょうか?藩主や家臣の前で、「孔子を祀る」大切な儀式である事が判れば、春水や聿庵が如何に広島藩に重用されていたかが判ると思います。参考として、『頼山陽を想う』(堀尾著)213頁のコピーを添付します。
丁祭とは陰暦2月と8月の上の丁(ひのと)の日に孔子を祭る儀式。
藩主は束帯して家老、年寄り以下家臣を率いて学問所に臨み、大成の間(聖廟)に入る。
儒者の正献官は布の直垂をつけて、拝礼の式を執り、学問所の職員儒員はみな縦肩衣を着し、各々の職を分掌する。
丁祭(釈采の典)は、儒教・儒学を学ぶ者にとっては大切な行事。
春水は江戸詰を解かれた享和三年(一八〇三年)以降、毎年、丁祭の正献官を務めた。
2018・2・7
春水の墓に参る
頼山陽の長男聿庵(いつあん 18歳)は1月27日学問所で初めて講釈を勤め、2月4日日勤を申し付けられ、教授を拝命。丁祭(2月、8月)の役も申し渡される。この延長で2月7日、学問所に出ている。
山陽は小園と比治山の安養院の春水の墓に参る。その後、杏坪宅を訪ね、夜は杏坪の息子の采真が頼家にきて、話をしている。
2018・2・6 竹原の小園、杏坪と再会
5日、頼家に帰省した山陽は風呂に入り、長旅の疲れを癒す。
6日は朝から雨。竹原から春風の婿養子の小園が夜船に乗り、安着祝いにやってくる。頼家に着いたのは午前10時ころ。石工の義兵衛が山鳥を持ってやってくる。また夕刻には近所に住む杏坪も加わり、話の花を咲かせる。ちなみにこの頃、山陽の通称は徳太郎。
2018・2・5 広島頼家着
2月4日、四日市(東広島市)の脇黙斎宅に宿泊した頼山陽は5日朝に出立。西国街道を歩き、同日暮れ六ツに広島城下の頼家に到着する。
山陽は2年前の2月、春水危篤の知らせを受けて以来の頼家への帰省になる。前日、山陽からの荷物が届き、母の梅颸は山陽の到着を心待ちにしていた。このときの家族の年齢。梅颸59歳、聿庵18歳、達堂4歳。近くに住む杏坪60歳。2年ぶりの再会を喜びあっただろう。
(注)脇黙斎は頼家と家ぐるみのつきあいがあった。東広島市に墓所がある。四日市から頼家までは30数㎞。暮れ六ツ午後6時ころ。
山陽と松陰の二人旅と書いてきたが、実際には荷物持ちを雇っている。山陽は三原もしくは四日市で宿泊後、最小限の荷物だけを残し、あとは広島の頼家に送る。その荷物が頼家に届くのは2月4日である。
2018・2・2 三原まで
「頼山陽全伝」によれば、後藤松陰は廉塾に「一時留塾」とある。頼山陽は将来のある門人に菅茶山の指導を受けさせようとしたのだろう。
2018・2・1 神辺、尾道まで
1月中旬、京都を発った頼山陽と後藤松陰は西国街道を歩き、広島を目指している。「頼山陽全伝」によれば、1月末には神辺の菅茶山邸を訪ね、また尾道では橋本竹下ら地元の文人と交流している。
尼崎に船着き場がどこにあるのか探したことがあるが、地形の変化が激しく現在ではわからなくなっているようだ。
ところで武内確斎は、頼山陽より15歳年上の戯作者。小竹の父の篠崎三島に学び、豊臣秀吉の一代記「絵本太閤記」を書いた。画は岡田玉山。7編84冊という大部であるが、文化元年(1804)に絶版を命じられたという。改めてこの時代の検閲について考えさせられる。『日本外史』を書く際、山陽が細心の注意を払ったのも頷ける。確斎は9年後、亡くなる。墓は大阪天王寺区の伝長寺にあり、題字は頼山陽、碑文は小竹によるという。
2018・1・25
武内確斎について
頼山陽と後藤松陰一行は大坂で篠崎松竹、武内確斎と会い、土佐掘り川を下り、尼崎まで見送られる。
大坂で二人は篠崎松竹、武内確斎に会う。ちなみに後藤松陰が「松陰」と号するのはかなり後で、この頃はまだ通称の「俊蔵」を用いている。
また後藤松陰は後に小竹の娘まち子と結婚して大坂で暮らすことになる。小竹と松陰との初対面がこの時であったのか、それ以前であったのかは検証が必要であろうが、少なくとも小竹は師である山陽につき従い、過不足なく行動する青年松陰に
2018・1・19
大坂で小竹、確斎と会う
伏見から三十石船の夜船に乗った頼山陽(39才)と後藤松陰(22才)は翌朝、大坂に着く。
好印象を抱いていたであろうことが推測される。と共に、この時、篠崎家に宿泊していたなら、松陰は娘まち子と顔を合わせていたことになる。山陽のみならず、松陰にとっても今回の九州西遊は人生を大きく変える旅になったのである。
2018・1・15 伏見で観梅
文政元年(1818)1月15日、頼山陽(39歳)は美濃出身の門人後藤松陰(22歳)と共に伏見で梅を見ている。
この時代は太陰暦。太陽暦なら1月15日は2月19日にあたる。そろそろ梅も開花する時期である。
京に居を移して以降、山陽が広島の実家に帰省するのは4回目。伏見から三十石船の夜船に乗り、大坂の八軒家に向かうことが多い。この時も夜船を待っていたと考えられる。