2017・5・27

宇津志眞砂子さん 🔁 山根兼昭さん 🔁 平本成美さん

「魅力発進を~」

 

「福山未来づくり100人委員会」の平本成美様からのメール、福山の方々が広域に将来に向けて考える委員会を立ち上げられていらっしゃること、大変興味深く拝見いたしました。

 

山根兼昭様、尾張の地からエールをありがとうございます~ 

いつも行動力のある山根様の言われるとおり・・・ 私も以前、神辺には頼山陽資料館の企画で訪ねたことがありますが、とても有意義だったことを覚えています。特に、川のある周辺の自然には魅了されました。

 

福山は、海から山へ広域で~ また古くから文明も栄え歴史的にも懐の広いところだと拝察いたします。

地域巻き込んでの観光ルートを整備され、魅力発信を~ 願います。

 

岡崎市市政100周年記念誌   「福山の文化財」(2016)
岡崎市市政100周年記念誌   「福山の文化財」(2016)

私は、3年程前、頼山陽の足跡を求めて福山神辺へ行きましたが、福山駅からローカル電車で神辺駅に降り立った印象は、田舎の殺風景な感じでした。そこからタクシーで「廉塾」と言ってもすぐには分かってくれませんでした。

2017・5・26

山根兼昭さんから平本成美さんへ

「行政、各種団体の連携を」

 

福山藩開祖、水野勝成は徳川家康の従兄弟であることから、愛知県岡崎市と福山市は親善都市提携をしておりますが、昨年(2016年)両都市が市制100周年で、岡崎市では「親善都市福山の文化財展」をしております。

 廉塾前にて(2014)
 廉塾前にて(2014)

神辺には神辺本陣、神辺歴史民俗資料館、菅茶山記念館など素晴らしい史跡があり、頼山陽、頼杏坪、広瀬淡窓他蒼々たる儒学者、文人たちの歴史が刻まれているわけであります。

江戸後期の福山藩主・阿部正弘は老中として日米修好通商条約を締結したわけですが、その状況は「敗れざる幕末」見延典子著に詳しく書かれております。また鞆の浦には「いろは丸事件の坂本龍馬」、頼山陽筆「対仙酔楼」の扁額、など観光材料は沢山あると思います。

将に見延先生ご指摘の通り、行政、各団体が連携し、整理すれば一級の観光地間違いないと思います。(愛知県在住)

 

2017・5・25 平本成美さん 🔁 見延典子「廉塾に観光客を」

 

福山市の文化観光振興部のA学芸員から紹介されて連絡させていただいています。私は,平本成美と申します。「福山未来づくり100人委員会」の一員です。これは,枝広市長さんの公約です。「福山の30年後を見据えた街づくり」を市民からアイディアを出してもらって,各グループごとに話し合い,集約して来年3月にはまとめる予定です。私は「観光部会」に属しています。鞆の浦,福山城,福山駅前,ばら公園,神辺の菅茶山の廉塾など数カ所を周遊していただきたい(長く福山に滞在してほしい)というのが,部会10人の総意ですが,それぞれが推薦する場所をもっと掘り下げていく必要があると思いました。実は,私は福山市に住んでいませんので,いろいろな場所に行ってみて魅力と課題を見つけてきました。鞆の浦,福山城,ばら公園には,多くの観光客を引き付ける魅力があります。福山駅前はその部会があるので,そちらで考えていただこうと思います。大きな魅力と潜在力を持ちながら,今一つ観光客を呼び込めていないと思うのは,菅茶山の廉塾です。まず,県立図書館で福山の歴史の本を借りて読んでみましたが,菅茶山の廉塾で学んだ人たちとの交流が,一つのドラマのように思い描けないのです。そこで,福山の歴史に詳しいA学芸員を紹介していただき,今日お話を伺って来ました。いろいろ教えていただき,話し合いもできました。見延典子さんの「頼山陽」を読んでみなさいとのことでしたので,読んでみます。いろいろ読んで学んで,最終的には菅茶山(主役か脇役かはわかりません)のストーリーを描けないものだろうか?と考えています。史実を基にしたドラマなら,より多くの人々にアピールできるのではないかと思います。大河ドラマや朝ドラは無理としても,単発ドラマかアニメが紹介されると,認知度があがると思うのですが…。今後ともよろしくお願いします。返信をお待ちしています。

                         平本成美

 

平本成美様

 

初めまして。「頼山陽ネットワーク」公式ホームページにメールをくださり、ありがとうございます。また「福山未来づくり100人委員会」に関する情報もお寄せいただき、重ねて御礼申し上げます。

 

さて菅茶山についてですが、私は平山さんとはまったく異なる印象を持っています。メールに書かれているA学芸員をはじめ、福山の、特に神辺にゆかりのある、心ある人々は菅茶山をとても大切にされて、よく調べられられていると思いますよ。もし問題があるとすれば、菅茶山にかかわりのある団体間の連携不足かもしれません。それぞれが良い活動をしているのに、つながりが持てないため大きな力や流れに発展していないのです。

(頼山陽ネットワークを立ち上げた理由はそのあたりにあります)

 

もう一つ、「廉塾」をとりまく環境についても考える必要があろうかと存じます。私は何度か廉塾を訪れましたが、残念ながら内部には入ったことがありません。ご子孫の方がお住いと伺いました。多くの観光客を呼ぶには「廉塾」を公開することが前提になるのではないでしょうか。ただ、結論からいえば、ご子孫にそれを求めるのは無理な気が致します。

 

甚だ粗略ではございますが、ひとまずお返事と致します。「福山未来づくり100人委員会」の皆様とご議論され、よりよい道筋を見つけられますことを願っております。

                          見延典子

 

 

四角く掘られているのはプール?

(写真右)いえ、正解は養魚池。石碑には「廉塾養魚池政酉杪冬為」とあるそうだ。政酉は1789年。

菅茶山は簾塾の前身として「黄葉夕陽村舎」(こうようせきようそんしゃ)を開いた。その名は塾の裏側を流れていた高屋川から眺める美しい夕日から名づけられたという。

 

2017・3・1

ひろしまフォト歩きさん

「廉塾ならびに菅茶山旧宅」②

 

講堂の近くにある「槐寮」は塾生の寮舎だった所。(写真左)

菅茶山の部屋の屋根(写真左)

菅茶山旧宅(写真下)


これも縁なのかと見学することに。

用水路には「洗硯場」(写真右)

「廉塾(講堂)」(写真下)

「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は、神辺で生まれた漢詩人の第一人者である菅茶山の塾と旧宅として知られ、高屋川沿いの宿場町の面影を残す古風な町並みに溶け込んでいた。

 

詳しくはひろしまフオト歩きをご覧下さい。

 

 

2017・2・26

ひろしまフォト歩きさん

「廉塾ならびに菅茶山旧宅」①

 

所用で福山市を訪ね、「廉塾ならびに菅茶山旧宅」の案内板に遭遇。

「方円の手水鉢」(写真下)


「福山文化財展」は2016年発行、岡崎市親善都市100年記念誌。
「福山文化財展」は2016年発行、岡崎市親善都市100年記念誌。

 

鞆の浦の名酒「保命酒」-ほうめいしゅーの醸造元・中村家の日記、現在これが「中村家文書目録」として発行され、頼山陽の石碑もこの記述をもとに建てられた。(鞆歴史民俗資料館談)

 中村家日記
 中村家日記

 

石碑「頼山陽、日本外史起稿史跡」、「対仙酔楼碑」設置の経緯

 

1989年(平成元年)7月8日~10月29日 「広島海島(うみしま)博」が行われ、鞆の浦も協賛する。

その時、町の有志が「中村家文書目録」を見、また頼山陽が門楼に滞在し歴史書を書いたという話を聞き、うみしま博のをアッピールするために、山陽の石碑を立てたようだが、個人の特定はできない。(福山市教育委員会文化財課談)

 

2016・10・8

山根兼昭さん

「鞆の浦・頼山陽石碑の検証」

 

文化11年(1814)頼山陽は鞆の豪商大坂屋の主人である三島怡齊の求めに応じて、海に面した邸宅の門楼を「対仙酔楼」と命名し、自ら揮毫した。

「対仙酔楼記」はその経緯を書いたものであり、この両者が存在することは珍しく、史料価値も高い。

上、頼山陽筆 「対仙酔楼」      下、頼山陽筆「対仙酔楼記」
上、頼山陽筆 「対仙酔楼」      下、頼山陽筆「対仙酔楼記」

頼山陽は、文化11年(1814)9月11日広島港を発ち、鞆の浦に入港、神辺の菅茶山を訪ねる。その後招かれて、大坂屋に逗留、10月19日鞆の浦を発つ。

頼山陽作「鞆を発す。菅徴卿(茶山の親戚)諸人送って仙酔山に至って別かる」・・・頼成一訳注・頼山陽詩抄

 菅茶山と廉塾
 菅茶山と廉塾

*頼山陽の年譜

 1814年3月    江馬細香、武元登々庵と嵐山へ行く。

   8月23日    春水病気の報に、広島の父を見舞う。

   9月11日        海路、竹原、尾道、鞆の浦(神辺)、倉敷・・・・・12月2日帰京

 この時が山陽の帰省第1回目で、これから毎年にように広島に帰っている。

 

*日本外史の起稿

1807年(山陽28歳)竹原の石井豊州に書簡を出している。

1801年(山陽22歳)修史の志を始む。

1802年        緒に就く

1804年        起草

1807年        草創、ほぼ定まる。  

足掛け6年かけ書き上げ、後は何度も書き改めた。

 

以上の結果、頼山陽が鞆の浦で「日本外史」を起稿した事は無いと思われる。

 

山根兼昭さんへ

鞆歴史民俗資料館や福山市教育委員会に問い合わせてくださったのですね。ありがとうございます。

ポイントは「中村家日記」に『日本外史』起稿に関する決定的な記述が書かれているのかという点であると思いますが、福山市教育委員会の談を読む限り、詳しく検証しないまま「日本外史起稿史跡」の石碑を建てたことになりますね。頼山陽が対仙酔楼と命名し、対仙酔楼記を書いたのは事実なので、大坂屋と頼山陽が親交を結んでいたという歴史的な事実を大切にする意味でも、きちんと検証してから建ててほしかったと思います。

 

 

 

2016・10・5 山根兼昭さん「石碑に関する一考察」

 

1、鞆の浦の石碑 「日本外史起稿史跡」のほか近くに「対仙酔楼碑」があり、これは平成4年3月15日設置、また説明文に「頼山陽が日本外史の構想を練ったところ」とあります。

 

2、日本外史の起稿

仙台藩医 大槻平泉が1805年長崎の帰り広島で山陽(26歳)に会う、そのとき平泉に見せた草稿は「神武」から始まっている。1807年に石井豊州に示した構想は「源氏から徳川」であった。

 

日本外史引用書目を見ますと「神皇正統記から読史余論」まで159編、一般的には22歳から書き始めたとありますが、これだけ膨大な資料を集める等事前の準備をするには、14歳で「通願綱目」をよみ、成長とともに次第に歴史書を書かねばと思う、19~20歳ころ鞆の浦で構想を練った(推定)、資料を集めた、そして脱藩に至った。だから屋敷牢にいながら書き始めることが出来た。

 

鞆の浦の豪商 大坂屋の門楼に山陽が命名し、石碑まであるということは、新たな足跡、史実を期待します。

 

山根兼昭さんへ

 

いつもありがとうございます。

あくまで「起稿」の言葉に引っかかります。頼山陽自身が何かに書き残しているのか、知りたいところです。

対仙酔楼は通常非公開ですが、平成17年(2005)に一度だけ一般公開されました。石碑はその13年前の設置になりますね。どなたが設置したのでしょうか?

これをご覧の方で、鞆の浦に行かれるご予定のある方は、石碑の側面、裏面の写真を送ってください。対仙酔楼の門の脇にあるようです。よろしくお願い致します。

 

 

2016・10・2

『日本外史』起稿の石碑?

 

あるサイトで紹介されている「頼山陽先生 日本外史起稿史跡」と刻された石碑。福山市鞆の浦に建立されているという(左の写真)

「起稿」が原稿を書き起こしたという意味とすれば、頼山陽は鞆の浦で『日本外史』を書きはじめたという意味になるが…。


「脱藩後、囲いの中で草稿を書いた」という通説とは異なる見解だ。

何かご存じの方は教えてください。ご意見でもかまいません。

 

 

菅茶山は頼山陽にとって、師であり、父のような存在であった。

2016・8・19

会員様「菅茶山記念館」

 

会員さんが菅茶山記念館( 広島県福山市神辺町)の写真を送ってくださった。

記念館前にある菅茶山座像
記念館前にある菅茶山座像

それにしても…菅茶山記念館はすでに紹介していると思い込んでいた。

 

まだ紹介すべき個所はあるようだ。引き続き、皆様からの情報をお願い致します。

 

 


菅茶山は頼山陽(1780-1832)にとって師であり、父のような存在。一方、茶山も山陽の文才を認め、二人は長きにわたって親交を結んだ。

抹茶を使った生地で、国内産手亡豆(てぼまめ)と白インゲン豆を使用した上品な甘さの白餡を包む。意匠を凝らしつつ、噛みしめるほどに素朴な味わいが広がる。

 

茶山饅頭総本舗谷口屋のホームページはこちら

 

2016・6・13 茶山饅頭

 

広島県福山県神辺町の茶山饅頭総本舗谷口屋さんから「茶山饅頭」をいただく。神辺は儒者で詩人の菅茶山(1748-1827)の故郷で、廉塾を開き、後に福山藩の郷学となった。

「茶山饅頭」は70年ほど前、仲のよかった茶山の子孫と谷口屋の四代目が茶山をイメージして完成したという。菓子博覧会などでなんども受賞している同店の看板商品。

   「ご馳走様でした!」
   「ご馳走様でした!」

※頼山陽に関して、神辺町での情報があれば、お願い致します。

 


  頼山陽史跡資料館の旧パンフレットから
  頼山陽史跡資料館の旧パンフレットから

2014・6・1

福山誠之館同窓会


福山にある名門の福山誠之館高校。その同窓会には頼山陽の肖像画が保管されている。


頼山陽の弟子だった江木鰐水は、師である頼山陽の肖像画を譲れらた。やがて福山に藩校の誠之館を建てることになり、鰐水も尽力。その縁で現在の誠之館同窓会の所蔵となったようだ。



     福山誠之館高校
     福山誠之館高校
 徳川斉昭が書いた「誠之館」の扁額
 徳川斉昭が書いた「誠之館」の扁額

     誠之館記念館
     誠之館記念館
        御諭書
        御諭書

福山藩の藩校誠之館は 福山藩主にして、老中首座であった阿部正弘により創建された。


それにしても、頼山陽の弟子である江木鰐水、関藤藤陰、門田朴斎が譜代大名の阿部家に仕え、幕末の動乱期、薩長と敵対したという話は歴史の真実とは何かを伝えて興味深い。


詳しくは見延典子著『敗れざる幕末』をご一読ください。


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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