特に記載のない場合は見延典子が書いています。
2021・9・29
石村良子代表「博士の疑問」
京都大学では、教員による学術論文が2015年より、ネットでオープンアクセスになっている。
陽明学者高瀨武次郎京大名誉教授の1919年(大正8年)の論文「飯岡義斎」には、頼春水の墓碑の訳が載っている。ちなみに原本掲載「春水遺稿」は早稲田大学の方、ネットで見られる。有り難い。
後ろ左義斎の甥鉄蔵墓 右義斎弟滄浪墓
博士は論文の最後に疑問として
① 飯岡義斎の龍淵寺墓裏の忌辰(命日)が天明4年甲辰7月21日になっていること
② 義斎墓の隣、慈室磯野氏は義斎の妻かどうか 後の君子の高学を待たんのみ。としておられる
石村の調査
① 「梅颸日記」をみると天明4年甲辰7月21日は義斎後妻の柔(静の母)の亡くなった日
② 「大坂訪碑録」によると磯野氏は、義斎の弟の妻となっている。
現在飯岡家の墓裏は見れないので、この論文は有り難いけれど①の疑問、なぜ義斎の墓裏が
柔の没年になっているのかは、謎のままである。
*他に参照は頼成一氏の「山房随筆―飯岡義斎―」昭和10年ごろの原稿で当時未発表、日本漢学論集掲載
2021・8・26
石村良子代表「砂場のそばや」
大坂新町廓西の、砂場は蕎麦屋等で にぎわっていた
梅颸1回目の東遊日記に 同行者小園(竹原春風の娘唯の夫,此の旅で医師竹中文輔に入門)も、「砂場を見たいと行く、そのまま篠崎家に泊まる」と記されている
一行は10日間大坂に滞在 浄瑠璃、文楽、墓参り、寺社巡り、親元篠田家との交流、旅を楽しんでいる
【摂津名所図会】砂場に有った蕎麦屋いずみや店内の賑わい、画上方店外の様子 鰹節の蔵、そばの蔵、麦の蔵、醤油の蔵 等が描かれている、北前船、三十石船等で賑わった大坂がしのばれる
2021・8・21
石村良子代表
「静の里 大坂立売堀裏町」
飯岡義斎の家塾は立売堀にあった。春水の江戸勤番に伴い、山陽は4歳から6歳の5月10日まで母の里で過ごした。
阿弥陀池のある和光寺は相撲、歌舞伎、縁日、賑やかな場所で、山陽の遊び場だった。立売堀と和光寺との間には遊郭があった。
摂津名所図会 |
2021・4・4
石村良子代表
4月4日清明節掃墓
4月4日は二十四節気「清明(せいめい)」、七十二候「玄鳥至(つばめきたる)」です。
「大坂訪碑録」という本があり、冒頭の語に「郷土先賢の墳墓を弔い、その碑文を読みて追慕の念に耽る」とある。
春水の家塾青山社の有った江戸堀より歩いて45分地下鉄で駅3ツ 八軒屋船着き場につく 遊覧船が復活している
2019・9・6
石村良子代表「八軒屋船着き場」
頼春水35歳 静21歳 頼亨翁74歳、大坂よりの京都旅行を追体験する
昔の船着き場跡は通り一つ中にある ここから船中泊12時間で京都に上ったという
春水の漢詩は 妻を携え老を扶け京華に向かう、、、、、百里家を離れ家に有るが如し
父親と妻との旅行に弾んだ様子
2019・5・25
石村良子代表
「住吉大社 頼山陽永代常夜燈②」
頼山陽の住吉大社の永代常夜燈の献燈主は「籃玉大阪積」
天保2年辛卯昏正月(1831)に藍玉大阪積み仲間により寄進されたもの(山陽52歳) 表の阿洲は阿波 藍玉は藍の染料である。阿波藩のものは良質として知られ、全国でも屈指の産地であったとか。
地図をもらいましたが、普通に分かりません。ここは例の勘でたどり着きました。
石村良子代表へ
さすがの「勘」。感服です。
いつか再訪したいと思います。
見延典子
2019・5・24
石村良子代表
「住吉大社 頼山陽永代常夜燈」
昨年11月「十旬花月帖」の写真を撮るのに行きました
結婚式場があり。左手の鳥居を入ると、一対になっている。前に貫名海屋の塔。
2019・5・23
住吉大社に
「頼山陽の灯籠」を探して
「頼梅颸てくてく」でも書いているように、梅颸、山陽母子は住吉大社を訪ねている。そこで今年2月現地訪問。実はもう一つ目的があった。
ところが、訪ねて初めてわかったが、広い境内には夥しい数の灯籠が立っている。100基や200基はあるだろう。
と思ったのも束の間、有名人が並んでいるマップに「頼山陽」の名前が見当たらない。雨も降り出し、今回は残念ながら、あきらめることに。どなたかリベンジしてください。
本欄、昨年8月1日付、梅庵さんの「住吉大社に頼山陽?」にあるように、頼山陽が書いたという灯籠を探そうと思ったのである。
自力で探すのはあきらめ、社務所で訊いたところ、「灯籠マップ」をいただくことができた。「やった!」
一瞬、足がすくむ。さびれているよいうより、荒れている。上空をカラスが飛び、ゴミが散乱している。
2019・3・13
浪速神社
1819年、梅颸が34年ぶりに故郷大坂に帰ったときに立ち寄った「稲荷宮」(浪速神社)を訪ねる。南海電鉄「木津川駅」で下車、徒歩3分。
そもそも「稲荷宮」(浪速神社)と書いてあったのは『頼山陽全伝』である。そこに間違いがあるのだろうか、と不安になるほど。
説明書きを見る限り、由緒ある神社であることは確かなようだ。江戸時代の大坂を調べてみれば、わかることがあるかもしれない。
ただ、土地勘がないので、今のところなんともいえない。ご存じの方がいれば、教えてください。
2018・8・1
梅庵さん「住吉大社に頼山陽?」
ある本を読んでいたら、「住吉大社の石灯籠の文字は頼山陽」と書いてありました。
難波や京都の神社仏閣にはまるで「文人家業」が席捲したように、揮毫石造物が幅をきかせているように思われますが…。
※頼山陽ネットワークからのお願い
この件、ご存じの方がいらっしゃったらご連絡ください。
2016・2・3
大阪市の龍渕寺
前回、浄春寺のあと、同じく大阪天王寺区にある龍渕寺に行く。ここには頼山陽の母方の祖父母にあたる飯岡義斎夫妻の墓がある。
以前は屋外にあったが、風化したので、現在はガラスケースの中に入れられている。
和尚さんが若い方になっている。
続いて、和光寺阿弥陀池へ。
ここは幼き山陽が毎日のように遊びに行っていたところ。大きな市が立ち 相撲なども行われていたという。
近くに木村蒹葭堂住居跡があり、今は大阪府立図書館になっている。
石村良子記(写真も)
2016・1・30
大阪市の浄春寺
上海旅行の帰り、大阪市天王寺区にある浄春寺を訪ねた。
飯岡義斎(頼梅颸の父)の前妻・淺川柳の墓があると知ったからだ。
門前には芭蕉の碑がある。
(写真右)
また境内には田能村竹田の墓と立派な碑があり、建碑者代表は高山堂池戸宗三郎。
さすが大正時代などには 一幅で家五軒が建ったという竹田だけのことはある。
だが残念ながら。肝心の淺川氏の墓は見当たらなかった。
山陽の母のお静さん(梅颸)は 父母の墓龍渕寺参りの折には浄泉寺に必ず参っている。
不思議に思っていたけど、ある時ここに義斎さんの前妻の墓があることを知った。
時に山陽をつれて、墓参りしている。舟で途中まで行き、籠で一日かけて、四天王寺、生玉にも寄る。
江戸時代の人の健脚には驚くばかり。
(石村良子記 写真も)