2021・9・18
久保寺辰彦さん
「知恩院三門と銀閣寺」
千葉の久保寺です。
知恩院三門と銀閣寺の写真送ります。昨年11月のものです。
銀閣寺(上と右)
取手市教育委員会所蔵 山紫水明處が文政十一年前にあった事だ
2021・9・2
石村良子代表「山陽と光格天皇②」
「頼山陽全書」には、光格天皇御幸について山陽の言葉が出ている。御幸前日9月20日常陸取り手在の豪農海老原喜右衛門が山陽宅に何よりの老父への土産にと揮毫を所望に訪れた。折しも母に孝養中の山陽は 書斎まで導きいれ「私事も、国元より母人上り居り候、何かよろこばせ度、日々存じ居り候、親を喜ばしむるは、その好む品より,外にはこれなく候さゝ何なりともお出しなされ度 と先生至極のご機嫌にて、少し眼中に泪をさえふくまれ候様に相見え候」 さらに御幸拝見は如何と問い「御幸は後白河法皇の時に御座候いし以後,誠の御幸、これまでなく御座候,百五十年前三代将軍上洛の節、、御幸の形御座候も、本式にはこれなく候、この度は、古典、古礼、古法式の通り、段々お調べにて典礼の書も散乱いたし居り候を漸く綴り合わせての御幸に御座候間、古の太上天皇御幸通りに御座候。然れば、源平の乱後、これ無きことにて実に珍しき事に御座候」ただただ京中は御幸の話ばかりに御座候と記している。
山陽も御幸に興奮、揮毫料もいらないと断っている。揮毫の書は「待母津城」三月大坂へ母を出迎えに下った時の七絶であった。左の書が興味深いのは「甲申秋杪、於鴨水山紫水明處」とある所。
2021・8・30
石村良子代表
「光格天皇と
松平定信、高山彦九郎」
天皇のお膝元に住むという事は、天皇観に少なからぬ影響を与えそうである。光格天皇(1771~1840、在位1780~1817)は後桃園天皇崩御の後、(閑院宮第6皇子)9歳にして帝位についた。
三条大橋東詰 徳富蘇峰揮毫による
「高山彦九郎先生皇居望拝之」
松平定信筆「渉成園十三境」和歌
嵯峨本願寺蔵
父母とも天皇でなく先代と2親等離れ、傍系継承した天皇であったが故か、朝儀の再興(新嘗祭等)や朝権の回復に熱心であった。
天明の飢饉の際は禁中並公家諸法度をおかして、幕府に民衆救済を申し入れた。幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
尊号一件では天皇の意向は入れられなかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。幕末の志士に影響を与えた高山彦九郎(1747~1793) は京都で尊号一件に遭遇し、公家中山愛親の知遇を得たことが老中の松平定信(1759~1829、頼山陽『日本外』を松平定信に献上は1827)、幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。彦九郎の友人で、尊王家竹原の磯野宮宮司唐崎常陸之介②も3年後に自刃している。
梅颸2回目の東遊 文政7年9月21日 光格天皇修学院御幸があった。
2021・8・27
石村良子代表
頼山陽と光格天皇①
梅颸日記9月14日 拝見場所頼みに 久太郎両所を借り頼みに往く
9月20日 御幸拝見のため 出町という所まで往き 二間半ばかりの家にて人 二百人あまり 二階などへもつまり夜一夜ねぶらず待ち居る
9月21日 とよさかのぼる日長閑也。御幸,日出でて、五つ共ならんかし、拝見の家、東側にて、御簾の日輝き,御影も見えず、西側にて拝見の人は、御すき影,拝みしと云う
(次回 光格天皇と松平定信、高山彦九郎)
2021・6・20
石村良子代表「京都頼家の食卓」
現在 梅颸日記の4回の東遊を読んでいる、京都の山陽家では職業柄もあり 毎日のように人が訪れ酒を呑んでいる、時には献立がかいてある 今時分なら「ひがいの焼いたもの、はも、ふ、しいたけ等のたまごとじ。大平、いも、とうふ、干しエビ、うに」など肴を書き留めている。仕出しを取ったり外食も多い。
糺すの森で涼みがてら,あらい鯉、川雑魚焼き、ウナギ、アヒル吸い物、四人で16匁(約2000円)歌の先生香川景樹を招いた時はつぐみ五羽焼き、鴨と芹抱き、鏑風呂吹き、其の外かまぼこ、ウニ、小うおやき、辛し和え、凝ったものが出る。節句 誕生日も丁寧に祝う。
私方は いつもながら竹原(旧を祝6月14日)よりの配り物で他力で厄除けを済ませた。
2020・6・2
山根兼昭さん
「石村良子代表の『砂川』に題す」
「頼山陽、江馬細香 砂川に遊ぶ」
門玲子著「江馬細香」の年譜、1822年(文政5年)江馬細香3月初旬上洛、山陽、浦上春琴、小石元瑞らと砂川に遊ぶ。この時山陽43歳、細香36歳。
「砂川飲賦 呈山陽先生」 江馬細香
好在ナレ 東郊 売酒ノ亭 秋 残シテ 疎雨 簾旌ヲ撲
市燈 未ダ点ゼズ長提暗ク 同傘 帰リ来タル 此際ノ情
(大意)砂川の料亭から三本木の山陽の住居までの、小半時もかからぬ道のりである。木村力山の招待で、砂川での酒宴の果てに雨となり 傘と提灯を借りた。着物の裾を少しからげて、梨影が梅しに傘をさしかけた。もう一つの傘には山陽と細香。影を連ねてひたひたと帰った。
その夜、細香は此の詩を作り、此の詩を山陽は、細香の洒脱な座興と評した。その日の「梅し日記」には、「予州の幾右衛門という人のふるまいで砂川へ行く。
細香同伴、帰り雨降り、砂川にて傘、提灯かり、ぬれぬれ帰る。」
(感想)細香が生涯で7回、その4回目の上洛で、山陽も一番充実していた頃、一族の幸せ感あふれた状況が伺えます。
2020・5・31
石村良子代表
「沙河(砂川)がわかりました」
「沙河(砂川)」について判明したことを紹介します。やはり京都市左京区の出町柳付近(山紫水明処の前、鴨川を北に進み、鴨川の分岐点の東側付近)を指したようです。
かつてこの付近は河原の砂地で、砂川と呼ばれる小河川が流れていて、萩の寺で有名な常林寺、子どもを背負った子育地蔵が微笑ましい正定院、そしてオカメ桜が咲く長徳寺を加えた三つの寺は、砂川のそばにあったお寺として砂川の三軒寺と呼ばれていたそうですが、現在は砂川も姿を消し、お寺もしっかりとした土地の上に立っていますとのことです。
以上、ネットで紹介されていた情報です。この記事を書かれたブロガーに御礼申し上げます。
大文字焼が行われる如意ケ岳と思われる
2020・5・30
石村良子代表
「沙河(砂川)」について
山陽の周辺を調べていると、「沙河(砂川)」という地名が出てくる。
京都市左京区の出町柳付近にあったというが、地形や町並みが変わっているのか、よくわからない。ご存じの方は、教えてください。
「頼山陽全書」に、三田尻の医者(松平定信の娘の侍医)南部伯民が帰郷の折 京都に立ち寄った際 山陽達が歓待するのに 沙河か清輝楼か迷うところがあり
結局 三本木の清輝楼(今年の1月コロナで閉店)を伯民がえらんだ そこに山陽が魚を取り寄せたとある。伯民は春水の知友で広島の家で 玉堂の古琴を一緒に楽しんだという。
2016・6・21 山根兼昭さん「敵は本能寺にあり」
新暦1582年6月21日(和暦天正10年6月2日)未明 「敵は本能寺にあり」
本能寺 頼山陽
本能寺 溝の深さは 幾尺なるぞ
我が大事をなすは今夕にあり
藁粽(こうそう)手にあり 藁を併せて食らう
四簷(しえん)の梅雨 天 墨の如し
老坂 西に去れば 備中の道
鞭を揚げて 東を指せば 天 なお早し
吾が敵は 正に本能寺に在り
敵は備中にあり 汝 よく備えよ
*藁は包皮、粽はちまき
*四簷の梅雨ー軒に降り注ぐ梅雨
合戦描写が巧みな頼山陽、「光秀よ、手ごわいのは備中にある羽柴秀吉である、その備えが無ければ直ちに撃たれてしまう」と。
日本外史に曰く、「6月人あり、京師の使者と称し曰く。光秀反し、丹波の兵を以っ
て、信長を本能寺に攻めてこれを弑(しい)す。」
ある歴史家は「歴史にー汚名ーを残した一人」と評しております。
織田信長の菩提寺は京都の阿弥陀寺で、今も旧暦6月2日に「信長忌」が行はれているようです。
この本能寺の変が原因で、二年後大事件に発展いたします。外史氏曰く、次回をお楽しみに。
2016・6・1
湯谷祐三さん「詩僧稀鈍の墓」
湯谷祐三さんから、これまでほとんど知られていない詩僧稀鈍に関する玉稿と写真2葉が寄せられた。
以下、湯谷さんの玉稿より抜粋。「稀鈍は土佐国間碕(現四万十市間崎か)の人で、本姓中島氏、幼時に高智真如寺で出家した」
「稀鈍は『春水遺稿』の刊行(文政十一年刊)に際して、その浄書を担当したようである」
「文政九年十二月四日、稀鈍の一周忌に展墓した頼山陽は、「詩僧希鈍周忌詣其墓」と題した七絶で、「痩骨飄蕭尚宛然、風輪不住忽周年、霜紅已敗池中樹、落葉深辺葬浪僊」と、その風貌を追憶している」
玉稿の全文は、本日6月1日付発行予定の「頼山陽ネットワーク通信 第18号」に掲載される。配信を受けるには会員登録が必要。
2016・3・15
本願寺さん
「小野湖山の渉成園十三景」
京都の本願寺で「渉成園と頼山陽」展が開催されることはすでにお伝えしているが、本願寺の川村伸寛さんからメールと写真をいただいた。ご許可を得てご紹介する。
「ホームページを拝見しておりましたら小野湖山さんの話が出ておりましたので・・・・
実は、今回は展示しませんが、小野湖山さんの「渉成園十三景」も発見いたしました。
私、詩はわかりませんが、素晴らしい字を書かれておいでです」
ありがとうございました。
「渉成園と頼山陽」のご成功をお祈りしております。
別に参考にも資料にもならないかと思いますが・・・・・
頼山陽インスパイアの作品であることは間違いないと思いますので。
2016・2・4
京都市の本能寺
上海旅行から帰国して、大阪をめぐり、最後に立ち寄った京都寺町にある本能寺。ら頼家や山陽と親しかった浦上玉堂、春琴父子の墓が仲良く並んでいる。
この界隈は、頼山陽の額がある寛延年間創業佐々木古書店や鳩居堂、また伊藤組みひも店などど「おたく」御用達の店が軒を連ねている。
嵯峨の法輪寺には玉堂琴士碑がある(この写真はなし)。
「頼山陽遺稿」に、春琴に依頼され書いた文章があります。その一節。
人邪琴邪 抑 水耶山耶 山水之韻 寓於琴 而著於人
(人か琴か そも水か山か 山水の韻 琴に寓して 人にあらわる)
上海、大阪、京都の旅は終わりましたが、「旅猿」はまだ続きます。
次回竹原にて玉堂琴譜の演奏会でお会いします
石村良子(写真も)
頼山陽が、京都旅行中の母を案内したという三文字屋はこの近くにあり、古地図には書かれている。
残念ながら、角屋に頼山陽が訪れたことを示す資料はないが、可能性としては考えられる。
ご紹介できる写真が少なくて、ごめんなさい。
2016・1・9 角屋
島原花街にあった置屋。現在は「角屋もてなしの文化美術館」となって見学もできる。
庭もあり、贅沢な造りに目を奪われる。
2016・1・7 渉成園
渉成園は真宗大谷派の本山真宗本廟(東本願寺)のいわゆる庭園。
頼山陽の友人 雲華上人が東本願寺の僧侶であった縁から、頼山陽も訪れたようだ。
見延が初めて訪れたのは2005年ころ。荒れていた庭園を整備したと聞いた記憶がある。
JR京都駅から徒歩圏内にこんなに静かな庭園があることに感動した。
あきらめかけた時、入場料を払うときにいただいた『渉成園』というパンフレットになんと頼山陽の詠んだ「渉成園十三景詠詩」の一部が載っているではないか。
嬉しくなって受付の方に「ここに頼山陽が出ています」と伝えたが、ポカンとされるばかりであった。
ほんとうの話である。
※現在もこのパンフレットがいただけるかはわかりません。
ところが受付の方に雲華上人について尋ねると、まったくご存じない。とうぜんながら頼山陽など知ろうはずもない。