石村良子代表のブログ
山陽詩碑は鶴見橋西詰 修路記の左
「猴子橋頭生暮煙 已看両岸市燈懸
同人莫恠吾行疾 欲及萱堂未就眠 己酉帰省到以即事」
鶴見橋を渡り、被爆柳、多聞院、文徳殿 後は電車道伝い猿猴橋まで
2017・12・6
頼山陽資料館から猿猴橋までウォーキング➀
後半は信号が有るので40分のウオーキング
詩の訳「猿猴橋のほとりには夕煙りがかかっている。すでに、川の両岸には町の燈火が見える。同行の人よ、わたしの足早やなのをあやしみなさるな。母上が休まれる前に、家に帰りつきたいのだから。文政八年広島に帰省して作る 頼襄」
白神社の灯篭は天保9年(参考、梅颸79歳の時)
2017・12・4
頼山陽資料館から猿猴橋までウォーキング➀
広島市中区にある頼山陽史跡資料館から猿猴橋まで歩いてみた 全行程1時間 まず前半20分
この詩に興味を覚えた桂月は、孫輔より山陽の詩巻を借り受け、画巻を制作することとなった。構想を練り直したり、描き直したりで三年余りをかけてようやく完成したという。(以上萩の菊屋のホームページより)
2017・11・26
頼山陽の十聲詩の依頼主
頼山陽の十声詩は、萩藩士内藤昌盈が有栖川宮家に勤仕中、すでに詩を通じて親交のあった山陽に依頼してつくってもらったもので、その後萩の菊屋孫輔宅に伝来していた。
23日頼山陽史跡資料館での「遊心茶会床に掛けられた頼山陽筆茶聲」ゆかりの菊屋に 庭.雪舟破墨山水が特別展示されている。
宇治茶を飲み剣菱に酔い、かっての山陽の文人サロンに思いを馳せた
2017・11・24
山陽と茶と酒と
頼山陽史跡資料館茶室にて「遊心茶会」が開かれた。茶も酒も楽しもうという初めての試み。
湯島聖堂で不思議なものを見た
柄杓で水を汲みいれていくと、壷が真っ直ぐになっていく。しかし、入れすぎると、ひっくり返って、水が流れてしまう仕掛け。何事もやり過ぎは良くないという中庸の徳を教える道具とか。
2017・11・20
湯島聖堂で不思議なものを見た
湯島聖堂内に「宥坐の器」というものがある。「宥座」とは、常に身近に置いて戒めとするという意味。宙吊りの壷は、空の状態だと傾いている
大真面目にこんなものを作り 戒めにするほど中庸は出来にくいらしい なんともである 子曰く「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
山陽が焦りに焦って、三都に出なければと思いつめたことは築山奉盈あての書簡によく表明されている。これを揚州の学者が、悠々として大を成し清朝一代を代表する屈指の大家となったのと比べて、何という違いであろう。揚州の経学と文学は,塩業を背景として清朝文化の一方面を代表した。」とし最後「筆者はこれ以上、何も記す気持ちは持たない」と締めくくっておられる。
最後は江戸行きも試みた山陽だけれど 竹原の山陽も悪くないかも
2017・11・6
頼山陽が竹原にいたら
頼惟勤先生の 「日本漢学論集」安芸の国竹原文化の一側面の項「又十郎亨翁から数えて三代の後、久太郎山陽が現れた。
頼山陽,文政4年五聲五影中の一 「茶聲」
禅搨愛し聞く茶鼎の鳴るを。
細は寶瑟のごとく大は笙の如し。
十年一に覚む揚州の夢。
何ぞ知らん人間に此の聲有るを。
*揚州夢:杜牧詩にあり 揚州の
妓楼で、酒色に耽って過ごしてい
た時の思い出を謂う
今はネット印刷で居ながらにして頼むことが出来るのは大変楽。 底本は見延さんの会員用チラシ 新聞折り込みで いささか研究して取り掛かる ナルほど チラシも作る側からみると 又別の事が見えてくる。キーワードはメインテーマと日にち 花月さんに見せたら卓袱料理のところ初めのデータをくださった
あくまで品よく賢げな文人旅
目的は卓袱料理に有って卓袱料理に非ず の雰囲気出てますかね
2017・10・21
チラシを作る
2018年頼山陽ネットワーク九周年、今年の3月ひな祭り茶会で話をしたら流れで「近くなったら配布用チラシを置きます」という事になった。
献立表を見せていただく 表紙に式者の名前「年は61歳にして白髪なり」中は式の様子 献立が事細かにかいてある
私が注目したのは 最後 次の間として 煎茶道具の展観がしてあり道具名も書いてある
「次の間 煎茶道具 飾りつけ 瓶掛け桐の台大なる分 古木の盆 茶具は籠組 茶入れ古錫 茶台は古錫にて大型 取り合わせの台の急須は朱泥 茶合唐物」と書かれている。
2017・10・14
明治時代 竹原から広島へ婿入り
明治34年10月16日 広島M家に竹原頼家より婿入りが有った 屋形船5艘を仕立てたという
M家の水楼にて3日3晩の婚儀
Mさんのお爺さまは、婚礼の席に道具を飾るほど 煎茶家であることを(私の流儀 賣茶流の手書きの指南書が残る)誇りに思ってくださっていたのだろうか。会った事のないお方だけどなんだか親しみを感じる。
両社とも宝仏殿などに頼山陽に関する物が残っているという(両社宮司さんの言 お二方とも親切やさしいお方でしたが 残念ながら時間の関係で 山陽の物は見ることが出来なかった)
2017・10・6
生田神社と湊川神社
生田神社で献茶祭が斎行され茶席担当するために神戸に 前日湊川神社に参拝する
湊川神社で茶席の下見をする、あいにく宝仏殿は休み ここは楠木正成を祭神としており正成は1336年5月25日、この湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。
その墓は長らく荒廃していたが、徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬されたという。