文人墨客も数多くおとずれ太田南畝 頼山陽 田能村竹田 古賀穀堂 三か月逗留した頼山陽は花月を「養花山館」となずけて 江雲閣をまった
井原西鶴も日本永代蔵に「長崎に丸山と云う所なくば上方金銀無事に帰宅すべし」と書き残している
集古館には ゆかりの貴重な文物が残されている
右の写真は映画長崎ぶらぶら節モデル 丸山の名妓愛
2017・3・11
「長崎旅猿」予行編3
創業三百七十四年「花月」は丸山随一の太夫楼「引田屋」の楼号
幕末には坂本龍馬 海援隊の面々も出入りしたという
上海から大煕和尚、殷さん。坂田先生もご参加。心田庵で茶会。
坂田先生要望に応え「九連環」唐人と丸山芸者の俗謡を(写真右)
2017・3・7
「長崎旅猿」予行編2
二日目は長崎通事であった何兆晋の別荘心田庵で煎茶。
何兆晋は、当時興福寺にいた心越禅師から七弦琴を習った。
心越禅師を研究しておられる坂田先生、同行の篆刻研究家Mさんも 原本が見たい様子、殷さんも「この場所で当時も中国人と日本人が一諸にお茶や七弦琴を楽しんだと思うと感慨深い」と言われる。
昼から頼山陽が江雲閣に会うため3か月逗留したという史跡料亭花月に
これに倣い 頼山陽ネットワークも何かしなくてはととりあえず長崎まで下見に行ったのであります
先ずは1日目
2017・3・5
「長崎旅猿」予行編
来年は頼山陽西遊二百年 頼山陽ネットワーク九周(州)年にあたる。 (山陽39歳の時1818年(文政1)に西遊の旅にたち、約1年間九州各地を遊歴した)
礼記に70を耄と云うとあり 猫と音通で70歳は猫で表し、80は耋で蝶で表す これは長生きの画題
2017・2・27
山陽の煎茶入門料(束脩)
某家に本の整理のお手伝いに行く
お土産に詩箋やネコの本をいただく昨年の上海朶雲軒では詩箋は買えなかったのでうれしい
其の中に脩封と言う物があった、これは何か? 今度会う上海人に聞いてみたいと思う
論語の中に束脩という言葉が出てくる これは習い事の始めにだす入門料にあたるもので、今でも表書きは束脩として先生に差し出す。 礼物としては最低で脩は干し肉10本の事である 身分で礼品は違い人君は玉 卿は子羊 大夫は雁という具合に決まっていたようだ
で 36歳の時初めて煎茶を習いに行った時の山陽の礼物は 玉と檀香 梅に水仙を持参し 賦まで添えている
先生もさすがにギョッとなったのではと思う
2時間話は通じなくても 何かを得ようと来られた方に教えるのは楽しい 日本の若者もどんどん海外へ出ていろんな文化に接してほしいと思う が、その前に日本文化も
3月5日頼山陽史跡資料館ひな祭り茶会では大人も子供も煎茶点前体験無料席(客は有料)を設けている 山陽の愛した煎茶 何故そうなのか理屈でなく感覚で感じていただきたい
2017・2・15
北京からの煎茶体験
北京から医療関係の方9名が煎茶体験に来られた
旧正月の日 上海の殷さんよりお祝いメールが届いた 早速我が子にメール発信
とはいえ 70歳になってみると不思議なことに何を着ても似合わなくなることから物欲が消え 食欲も味覚の衰えとともに昔ほどでない 自分でも意外だけど旅が好きになった そして人の笑顔をみること 話題のピコ太郎を見ては1人受けている 世界中の人を笑顔にして すごいなぁと思う
2017・2・12
いきいきパス
呉市では古稀になると「いきいきパス」というのをいただける 老人の引きこもり防止とバス利用の促進が目的とか大和ミュージアムとか無料で利用できるところがたくさんある
まずは隗より始めよ これを機に機嫌のいい年寄りになりたい
茶会と云えば やはり床の掛け幅 今年は岡原太崋「三千歳の図」をかけ ひな人形を飾る ひな人形は江戸生まれの仏師 住吉主水作のお内裏様とお雛様
江戸時代淡路洲本には稲田家の学問所の益習館があり、大阪の篠崎三島・小竹の親子が客員教授として訪れ、親友の頼山陽やその門下の人たちも大勢この学校を訪れている
山陽の揮毫旅行(旅猿)のはじめも 春琴と一緒の淡路洲本訪問であった。
(敬称略)
2017・2・5 ひな祭り茶会
3月5日 頼山陽史跡資料館でひな祭り茶会をさせていただく事になった、昨年のお客様で「90歳になりました、今年もひな祭り茶会に来ることが出来ました、格別です」と喜んでくださる方がおられた。私も又元気で茶席を持てることを感謝している。
煎茶碗は淡路ゆかりの直原玉青が96歳の時描いた「若松図」茶碗を使う 淡路で育った玉青 淡路文化資料館には寄贈した 山陽や竹田の名品があり南画家玉青の見識の高さが伺える
日本人は創造力には疑問符でも取り入れて独自の形にする能力には優れているような気がする。この論文を読んで山陽の漢詩が和臭がするとかしないとか小さいことでなく むしろ日本人山陽にしかできない漢詩を,本家の中国人に示したかったのではと思えてきた。
2017・1・29
南山大学と頼山陽
長崎について予習しようと あれこれしているうちに南山大学のアジア太平洋研究センター長蔡毅教授の研究論文に行きついた「頼山陽の日本楽府がどのようなルートをへて中国に伝わったか」の考察で、最後江戸後期において日本漢学会は中国に追随するのみでなく独自色を出し、成果を伝えようとしていたなどと結んでおられる。
着物の着付けにしても外国の人の着付けは日本人の着付けに似れば似るほどおかしい 独自のらしいほうが良い。
日本のラーメンやカレーも最近では本家とは違うものとして中国、インドから食べに来ていると聞いた。食文化であれ、何であれ いいものは垣根を超える いかに人の心を動かすかだ。
このような研究論文を公開してくれる南山大学、研究センターの親切な対応に感謝いたします
頼山陽と丸山との関係は、彼の父頼春水が壮年時代、来舶唐人と丸山遊女のあいだに生まれた趙陶斎に師事したことによる。陶斎の父は清人の趙氏、母は長崎の日本人で、華僧竺庵が長崎の興福寺にやってきた際、禅師は陶齋を佛弟子として養育していた。竺庵は宇治萬福寺の堂頭となったので、また陶齋をつれて宇治黄檗にきた。
2017・1・22
頼山陽と江芸閣
頼山陽が文政元年5月中旬から8月初旬まで長崎滞在中、江芸閣(唐船主)に会うことを熱望していたが、その来舶が遅れそうであったので、彼のなじみであった袖笑を花月楼に招き、彼女に託して江芸閣をおもう感懐を残し、「戯代校書袖笑憶江辛夷」一詩を詠んだ(『山陽詩鈔』)。
趙陶斎は28歳まで僧籍にあったが、還俗して諸国を遊歴し、堺に移り、能書家として有名であった、又、陶斎は山水・篆刻に長じ文武の典故にも精通していたという。余談だが春風の息子で山陽脱藩後春水の後を継いだ景譲の子、三千三は維新後、売薬業のかたわら堺にある師範学校の先生になったり、山陽の母静も堺に縁があるような風であった。
今度訪れる花月、長崎文化歴史博物館、興福寺に我が煎茶に関係の深い江雲閣の資料が残っているようなので、楽しみにしている。
福寺の話をしたところ 来日するという 其処に古琴の坂田先生が加わり 心田庵という茶室にも行きたいといわれる、ここも東皐禅師ゆかりだという 今は市の管理になって居り3か月前に使用許可を受けなくてはいけないと云う事だが 何んとか借りそこでお茶をすることになった
2017・1・16
今年も口から出まかせ人生
昨年 上海の殷さんが来日した時 日本の観光の話になり「お勧めは」というので 「長崎でしょう」と答え頼山陽の滞在した「史跡料亭花月」の写真や 新装なった「出島」隠元禅師や古琴の東皐禅師ご縁の興
花月の卓袱料理 興福寺の精進料理 茶席 帰ったら頼山陽史跡資料館での「ひな祭り茶会」 又忙しい春になる 来年の頼山陽西遊200年記念に向け 下調べしてきます
※「心田庵」は創建 寛文~天和期(1660~80年代)江戸時代に中
国との通訳兼貿易業務を行う唐通事であった何兆晋(がちょう
しん)が 建てた別荘地。敷地面積 1,581.08平方メートル(茅
葺建物面積 149.79平方メート。
私事だが「ひな祭り茶会」では永井さんに色々とお世話になり感謝の気持ちで一杯である
これからも評議員として残られるということで一安心している 新任の山木さんは お若くこちらも可能性一杯で楽しみになった
2017・1・10 歓送迎会
永井孝志氏から山木茂氏へ
頼山陽記念文化財団事務局長の歓送迎会があり永井さんは平成16年より着任され途中三原の教育委員長になられたことは有るが退職後のほとんどの時間を頼山陽記念文化財団とかかわってこられた
内輪の歓送迎会は 和気あいあいとても楽しかった ネットワーク顧問の頼先生もご出席で 永井さんが大のカープファンだということからカープの話になり 先生も学生時代からのカープファンで昨年も応援しきりだったという 県の若い方も先生とカープの話が出来るんですね と喜んでいた
出席者全員頼山陽史跡資料館から文化を発信していくという意気込みが感じられ 微力ながらお手伝いできる幸せを感じた会だった
映画は「君の名は」「この世界の片隅に」鑑賞
後者は呉と広島が舞台 ぜひ皆様に見ていただきたいと思います
暗くない戦争映画です
2017・1・9
まったりと初詣に映画
正月はまったりと初詣に映画ですね
今年は「亨翁の厳島詣で」にあやかり 宮島に神社と大聖院にもうでました
2017・1・2
新しい年に新しい夢
皆さまいかがですか
新年の神頼み、初詣は済まされましたでしょうか?
写真の並び瓶子のお神酒口 神の申は雷で 神が人間の感性を通じその威力をみせるときの稲妻の光と音を象形したものであり 神意を受信するいわば アンテナの役目をするということです