2016・6・20 頼山陽 2つの生年月日

 

先日、ちゅぴCOMのホームページで、頼山陽(1781-1832)となっているのに気づき、(1780-1832)の間違いではないかと連絡した。すると、担当者から次のような返事がきた。

 

「頼山陽の生年月日は、安永9年12月27日です。

安永9年はご指摘の通り1780年なのですが、当時の和歴(例えば安永9年)を現在の新暦(グレゴリオ歴)に直すと、安永9年12月7日が、1781年1月1日になります。

つまり、頼山陽の生年月日を西暦で書けば、1781年1月21日。

中国新聞の過去記事では「1780~1832」が多いのですが、「1781~1832」としているサイト等もあります。

紛らわしくなるので、削除しました。」

 

和暦の年月日を、新暦に直そうとする動きでもあるのだろうか。

 

インターネットには和暦を新暦に、新暦を和暦に変換できるサイトがある。これを利用すれば、頼山陽の没年の「和暦1832年9月23日」は「新暦1832年10月4日」などと、いとも簡単に変換できる。

 

ただ、こういうことは教養的に覚えておけばいいのではないか。少なくとも私たちが知る日本史は和暦がもとになっている。これらをすべて新暦に直すなんて、天文学的に不可能な話だと思う。

 

大阪の「肥後橋」近くに 建つ頼山陽生誕地の石碑
大阪の「肥後橋」近くに 建つ頼山陽生誕地の石碑

2015・12・27

12月27日は頼山陽の生誕日

 

頼山陽は安政9年(1780)12月27日、大坂で誕生した。(但し、当時は太陰暦)

 

父の春水は竹原から大坂に出て、青山塾という私塾を開いていた。この時、35歳。母の梅颸は大坂の儒医者の娘で、この時、21歳。

 

春水が広島藩儒として広島城下に居を移すのは、翌年。頼山陽の幼名は久太郎(ひさたろう)。頼宗家を継ぐ大切な子として慈しみ、育てられた。

 

今年は生誕235年にあたる。

 

頼山陽生誕地(大阪市)

 

 

2015・12・16 石村良子さん「おのおの方 御油断めさるな」

 

そう 12月14日は赤穂浪士討ち入りの日 冒頭長谷川一夫の 漫才のねたにもなった 名台詞 思い出すあなたは 、、、

最近では キムタクのも あったような 

赤穂浪士の真実 なんと 山陽の父春水が大坂時代に中井竹山や吉良の隣家に住んでいた者に聞いた話しを 「在津紀事」に書いている 

それによると 赤穂浪士の討ち入りの話は噂にになっており 月夜のなか討ち入りが始まったときは見物人が一杯集まってきていたとか 隣家より燈をとってみた話しなど 春水は人が 想像で書いた話しと真実は違うようだと書いている

「在津紀事」は 他にも面白いことが色々出ている 興味ぶかい 春水の交友が山陽を京都へつなげたのが よくわかる

 

 

2015・12・9 頼梅颸 没後172年

発行日は2000年12月9日 梅颸日記から生涯を描く
発行日は2000年12月9日 梅颸日記から生涯を描く

頼山陽の母の梅颸(ばいし)は天保14年12月9日に生涯を閉じた。数え年84歳であった。

 

「命日」とか「享年」という言葉を使いたいところであるが、儒教家庭なのではばかられる。


ところで梅颸が嫁ぐ際、父親から贈られた言葉が「すっぽらぽんのぽん」

語感だけで、およその意味が察せられるのでは?

 

現在、放送中のNHK朝ドラ「朝がきた」では、大阪生まれの大阪育ちの主人公のあさが「びっくりぽん」など「ぽん言葉」を連発している。

 

大阪生まれの梅颸も「ぽん言葉」を使っていたのだろうか。

 

 

 

 

土饅頭は儒教式の墓。手前は頼春水、向こうは梅颸の土饅頭。広島市の多聞院。
土饅頭は儒教式の墓。手前は頼春水、向こうは梅颸の土饅頭。広島市の多聞院。

2015・11・24

田能村竹田との友情

 

11月22日、頼山陽史跡資料館主席学芸員 花本哲志氏による「友と交流の中で~山陽と竹田」の講座が、広島市まちづくり市民交流プラザであった。

花本氏は、頼山陽、田能村竹田の書簡、絵などを紹介しつつ、二人が育んだ深い友情について語った。

 

頼山陽がいたから田能村竹田がいた、田能村竹田がいたから頼山陽がいた、ということを再認識した。

 

 図録 期間中だけ1000円で販売中
 図録 期間中だけ1000円で販売中


その後、頼山陽史跡資料館に場所を移して現在開催中の「風流才子の交わり」の解説会へ。


ここで、ものすごい発見をした。


竹田の絵は着色したものがほとんどということ。水墨画のモノトーンの世界とばかり思い込んでいた身には、目からウロコであった。


しかもその着色の仕方に、竹田なりの美意識がある。

 

では山陽の絵は着色しているのか? それこそが二人の「交わり」なのか? これはご自分の目で実際に確かめていただきたい。

 

大分県立美術館から特別に借りてきたという国の重要文化財指定の作品もある。11月29日まで。ラストチャンス。GO!

 

 

2015・11・13 石村良子さん「育メンだった杏坪」


今回の古文書研究会は、頼杏坪(山陽の叔父)に長男佐一郎がうまれた様子を、杏坪が江戸の春水に知らせる手紙を読みました。

杏坪の奥さんは どうやら逆子だったようで心配した様子。

奥さんの実家に杏坪も泊り込んで、たくさんの医者 穏婆(産婆)など皆が心配した様子をこまごま書き送っております。結果、超安産だったようです。

奥さんは子供が乳を飲むようになって、初めて自分の家に帰ったようです。

 

2015・10・26 石村良子さん「孝子万吉について」


昨日、書いた、「孝子万吉」について 研究論文が発表されていました。

近世中期における「孝子」顕彰の実態とその意義-孝子万吉を事例に-  京都大学 ファン・ステーンパール・ニールス」です。


それによると、万吉を最初に紹介したのは 石門心学者 植村康済「勢州鈴鹿孝子万吉伝」という本とのこと。


当時 竹原では石門心学がはやっていたと頼先生に聞いたことがある

先の論文のむすび部分ではないが、春水も竹原への手紙に 万吉宅の

菊を押し花にして送ったところなど 観念としての「孝」から活きた「孝」

への実践者で、世に言われる「四角」でない情の人を感じます。



2015・10・25 石村良子さん「江戸人は好奇心が強い?」

 

古文書教室では前回に引き続き山陽の叔父杏坪の春水宛寛政二年十月十日の手紙です。


春風館で男子出生正次郎と名づけたこと(後の景譲)お順さんの産後が思わしくないという事を大変心配している。

 

又春水の留守宅ではお十が(山陽の妹)具会い悪くなっていたので、竹原の叔父が広島に来ていたが、よくなり無事帰った事。

 

春水が江戸行の途中、孝行で有名な鈴鹿万吉母子に会いに立ち寄り、菊の花(押し花)をもらい竹原まで手紙に同封したことなどを伝え聞いたと春水に報告している。

 

一族の濃密な関係や.孝子への今のアイドルへのおっかけのような熱狂ぶりが伺われる内容でした。江戸人は好奇心が強い?

 

※事務局から


古文書の会は広島市の旧日銀ビル3階で、広島大学名誉教授頼祺一先生のご指導のもと、月に2回、行われています。来月から「頼山陽先生手簡」を読む予定だそうです。


ご見学を希望の方はメールをください。詳細をお伝え致します。

 

 

2015・10・17

お歯黒の素

 

明治時代以前、既婚女性は歯を黒く染めていた。お歯黒である。

 

女性だけでなく、『平家物語』には平敦盛もお歯黒をしていたと書かれている。

 

頼山陽の母の『梅颸日記』にも「かねつけ」として出てくる。

 

  これが五倍子。ふしとも読む。
  これが五倍子。ふしとも読む。

「五倍子とは虫こぶで、ヌルデという木に昆虫が寄生して出来るコブのことで、 その中に含まれる成分のタンニンが黒色の染料として使われる」と物の本にはある。


 歯医者さんから、お歯黒にすると虫歯ができにくいと聞いたことがある。

 

昔の人の知恵にはいつもながら感心させられる。

 




 

お歯黒のもととなる五倍子(ごばいし。ふしとも読む)を広島県廿日市市にお住いのIさんが見せてくださった。

 

  この鉄漿はIさんのお手製
  この鉄漿はIさんのお手製

作り方は、五倍子に水と鉄(折れた針など)を入れるだけ。


歯を染める以外、インクや染料として使用されるそうだ。


いったいどうやってこんな方法を思いついたのだろうか。

 


 御祭礼のシンボル 「石引台花車」
 御祭礼のシンボル 「石引台花車」

2015・10・12

200年前 頼家の人々も御祭礼へ

 

2015年10月10日、通り御祭礼が滞りなく行われた。


ところで頼山陽の父の春水と母の梅颸(ばいし)が書き残したそれぞれの日記に、文化12年(1815)に行われた御祭礼の記載がある。

 

貴重な資料である。 関連個所のみ紹介しよう。

 


まず「春水日記」

 

文化12年(1815)

9月16日

東照宮御祭礼につき、今日より9日まで学問所、諸稽古相中止。

9月17日

雨。御祭礼延引、前夜分より拝見罷り越の用意。家内皆々大騒擾。(略)

9月20日

晴。御祭礼。家内ども拝見に罷り越。(略)

9月21日

夜分、(略)この頃、尾道、岩国、三津その他諸所、拝見の人多く(略)

9月23日

晴。御祭礼滞りなく済なされ候につき(略)今日御祭礼、石引台、町々へ罷り越候につき、お宮よりその町々へ引戻る道々、芸いたし候よしにて、人々群衆、往来相成らず候ほどの事。家内皆々見物罷越。


見物客の中を行く「石引台花車」
見物客の中を行く「石引台花車」

次に「梅颸日記」

 

9月17日

雨。今暁七つ(午前4時)前より室小(有力商人)へ御祭礼拝見に行く。南家内、進藤家内、一緒に行、雨にて御祭礼延引、すごすごかごに乗り帰る。(略)

 


9月18日

四つ(午前10時)頃日影さし、後雨。

9月19日

陰、少雨。(略)。曇天にても御祭礼相止めと云う事。

9月20日

晴、曇、折々バラバラ雨。天気よく、御祭礼拝見に行く。(略。久我質店で拝見)。御祭礼相済み、暮て帰る。

9月21日

(春水が)藤屋にて御祭礼御拝見に御出、昼八つ(午後2時)頃相済み、御帰、朝も五つ(午前8時)前御出、(手島)伊助御伴。

9月23日

晴。(略)昼八つ(午後2時)頃、室屋へ石引台、引帰るを見に行。(略)

9月24日

晴。(略)東照宮へ参詣途中、進藤、菅野家内に行きあい、一同に遊行、帰。(略)

 

雨で9月17日に予定されていた御祭礼は延引となり、9月20日に行われた。二人の日記から21日も行われたことがわかる。

22日は不明だが、23日は「春水日記」にあるように「人々群衆、往来相成らず候ほどの」賑わいとなった。

 

この年、春水は70歳。広島藩の儒者(300石)

梅颸は56歳。

山陽は36歳で、京都で暮らしている。

同年2月養子の景譲が亡くなり、聿庵が頼家を継ぐことになった。

 

尚、徳川家康の命日は同年4月17日


2015・10・10 石村良子さん「襄 命名について」


今日は 杏坪さんから春水さんへの手紙 

胎児の時から男子の名を考えておくようにと.言われた杏坪さん いい名前が浮かばないとの返事 襄は良い名だとほめてますが

一家男子の名は 本家の家長が考えるらしい

女子は論外なのか 

かといって 春水さんは結婚した娘が里帰りしてるからといって お城休んだり 娘のお十も 広島にいながら 度々泊りがけで里帰り 

古文書の中の江戸人は 情味あふれ 興味深い


 

右は頼山陽の父・頼春水 深刻な話し合いが行われてている
右は頼山陽の父・頼春水 深刻な話し合いが行われてている

2015・5・1

なぜ「頼山陽の母」か

 

この紙芝居の絵はとても雰囲気があり、24枚すべて紹介した気持ちはある。

 

ただ、著作権の問題がある。

 

 

 著作権とは作者が亡くなってから50年(のはず)。この絵を描かれた西正世志さんについてはよくわからない。

西村緋禄史氏が描かれた頼山陽母子。もちろん西村先生はこの紙芝居の存在などご存じなく描かれた。
西村緋禄史氏が描かれた頼山陽母子。もちろん西村先生はこの紙芝居の存在などご存じなく描かれた。

ところで…

 

なぜ「頼山陽」ではなく、「頼山陽の母」なのか。

 

おそらく戦時中の、「銃後の母」「銃後の妻」のイメージとして、女性教育に使われたのではないか。

 

とすれば、山陽は著作だけではなく、母子関係まで戦争に利用されたことになる。

 

この想像があたっているとすれば、ちょっとショック。

 

歪められた頼山陽像のみならず、歪められた頼山陽母子像を本来の姿に返ししたいものだ。

 

 

2015・4・23

紙芝居「頼山陽の母」

 

石村良子さんから珍しいものをいただいた。

 

全24枚からなる紙芝居「頼山陽の母」

 

昭和18年発行。文部省監修とある。

 

頼山陽関係の本は多数出版されているが、紙芝居を見たのは初めて。

 

一枚目はこんな感じだ。

 

  母の静子(梅颸)から文字を教わる幼き頃の山陽(久太郎)が描かれている。
  母の静子(梅颸)から文字を教わる幼き頃の山陽(久太郎)が描かれている。

 

子ども用にしては難しい内容に思えるが、すべてについて幼稚になったのはごく最近のことで、ちょっと前までは子どもにも、少し背伸びさせるようなことを教えていた。

 

山陽が子どもの頃はもっと厳しく教育されたのだろう。

 

それにしてもタイトルが「頼山陽」ではなく、「頼山陽の母」になっているところに興味をひかれる。

 

                  続きます。

 

 

 

会場は広島市の袋町市民交流プラザ
会場は広島市の袋町市民交流プラザ

2014・9・21

第4回頼山陽文化講座

 

頼山陽文化講座も4回目。

 1回目は頼山陽の父・春水

2回目は頼山陽の母・梅颸

3回目は頼山陽の叔父・春風

 

今回は頼山陽の第一子・聿庵

(いつあん)。

 講師は大学講師で、頼山陽ネットワーク事務局の一人である進藤多万氏。

 

講師の進藤多万先生のご専門は漢詩
講師の進藤多万先生のご専門は漢詩

演題は「頼聿庵江戸状」

 

天保2年(1831)から3年にかけ、広島藩儒として江戸勤番を命じられた聿庵が、広島で留守をあずかる祖母の梅颸や妻の皐(さわ)ら家族に宛てた書状をユーモアをまじえて紹介。

 

 

お殿様の肉声や、門限の午後6時に遅れまいと帰宅を急ぐ聿庵の様子など当時の様子が彷彿とする。

 

頼家の人々は皆、筆まめだ。

 

定員は60名。欠席は極めて少なかった。



 

2014・8・30

中国放送ラジオ「小さなパテイオ」で頼山陽の父母の話

 

以前、ご紹介したように、中国放送ラジオの人気番組「山野秀子のちいさなパティオ」で8月30日(土曜日昼12時30分~55分)頼山陽の父母の話がとりあげられた。

 

この日のテーマは「名前」

 

山陽の母の静子に「梅颸」の号を与えたのは、余命短い夫(山陽の父)春水であった。そのエピソードが「夫婦愛」と絡めて語られた。

 

「山野秀子のちいさなパテイオ」は、パーソナリティの山野秀子さんのおだやかで、知的な語り口が人気をよび、20年の長寿番組に。

 

山野秀子のちいさなパティオ ホームページ

http://www.1350.jp/patio/



2014・8・24

第3回頼山陽文化講座

 

8月23日の広島は晴れ。

 

頼山陽文化講座が「広島市まちづくり市民交流プラザ」で開かれた。

 

講座前には今回の災害の犠牲者を悼み、黙祷が行われた

   講師は日比野貞勝先生
   講師は日比野貞勝先生

講座は広島文教女子大学日比野貞勝教授による「頼春風の書」

 

春風は頼山陽の叔父にあたる。

 

書の書きぶりから、性格まで読み解くという内容。

 

山陽の性格についての分析も面白かった。

 

電子文字全盛の今、手書き文字の魅力を見直すひと時であった。




   講演する見延典子
   講演する見延典子

2014・7・20

頼山陽文化講座で講演をしました。 

 

19日に開催。頼山陽文化講座の一環で、演題は「山陽の母ー梅颸の和歌」

 

会場は頼山陽史跡資料館近くの広島市まちづくり市民交流プラザ。

 

梅颸が84年の生涯に詠んだ数千首の和歌から、50余首について解説。梅颸の和歌が講演で取りあげるのは珍しいのではないか。

 

聴講してくださった皆様、ありがとうございました。

 

2014年度の同講座は「頼山陽と家族」のテーマで、毎回講師を変えて全6回。定員60名。但し、申込みはすでに終了。




2014年6月22日

頼山陽文化講座の開催

 

本年度のテーマは「頼山陽と家族」

 

山陽は愛にみちた過程で育った。

 

第一回目は「頼山陽の父春水」。以後、母、妻、子、叔父と続いていく。

 

申し込みは終了。


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら