特に記載がない場合は見延典子が書いています。
2021・4・7「尊」と「噂」
「𣾇」の漢字に始まった「八」か「逆八」かの考察。だんだんわかってきた。
たとえば「尊」という漢字を知らべると、上の大きな漢字で示した「八」を使った漢字が旧字として出てくる。
何に対しての「旧」なのかを考えるに、日本が戦争に敗けた1945年までさかのぼる。日本はGHQの占領政策下におかれ、漢字に関しても大きな制限をうけた。
敗戦後、1850字の当用漢字が定められ、さらに漢字の簡素化が進められる。いわゆる新字の出現である。当用漢字に入っていた上の「尊」(八)の漢字はもろに影響をうけ、「尊」の漢字(逆八)が生まれる。
ところが例えば当用漢字に入らなかった「噂」は、旧字のまま残された。だから今でも我々は上が「八」の「噂」の漢字を使っている(ネット上でもこの漢字ばかり)
その後、当用漢字から常用漢字になり、JIS第一基準、第二基準など に分類されて、話は複雑になっていく。背景にあるのはパソコンやメールなど電子化に伴う活字(フオント)の問題だが、原点は敗戦後の漢字政策にあるわけだ。
フオント(活字)としては上が使われても、手書きとなれば、現代人は下の「逆八」を書く。手書きならどちらでもOKというわかるような、わからないような決まりがあるんだって。
ちなみに江戸時代、つまり「旧字」といわれるものが「旧」でもなんでもなく普通に使われていた時代は、「新字」と呼ばれる漢字も共存していたという。だから宮原節庵は「𣾇」の漢字を使っているのである。(かなり簡潔に書きました)
2021・4・3 続「𣾇」
三吉幸子さんが教えてくださったサイト。「𣾇」の漢字は出ているけれ
ど、その下の漢字構成には「氵奠」と出ていて、この時点で作りの上部が「逆八」から「八」に変わっている…その理由が知りたかったのだ。
その後、石村良子代表から別の漢字サイト(ウイクショナリ一日本語版)を教えていただくと、「尊」についての説明が出ている。(三吉さんが教えてくださったサイトに「𣾇」の異体字として「澊」(作りが「尊」)が載っていることからの流れ)
「尊」は八と酉と寸を合わせた会意文字で、香り(八)の出ている酒樽(酉)を手(寸)で持つ様子を示す、としたあとで、「尊」の異体字の一つとして「奠」が紹介されている。
これらから判断するに、「𣾇」と「氵奠」は異体字ということが推測される。ただ、どちらが「正字」なのか。宮原節庵が書いている「𣾇」が正しい字のように思うが…
もう一つ、石村良子代表が教えてくれた別のサイトに、以下のように書かれている。「近世前後には、隅田川に「濹」(ボク)、淀川に「氵奠」(デン、テン)桂川に「さんずい+桂」、そして相模には「湘」、四日市には「泗」、徳島には「渭」など、各地で「さんずい」の漢字が造られたり当てられたりしたものだった。漢学者たちが雅を求める余り、中国めかそうとしてかえって和臭を強めたものである。それがまた日本らしい地域色を示す地域文字となったものもある」
新しい漢字(国字)をつくった近世の人々の発想は自由であった。彼らに比べ、活字という窮屈な世界に閉じ込められている現代人。おそらく大多数の人々はそのことに気づいていないだろう。
2021・4・2
三吉幸子さん「お尋ねの『さんずい+奠」⇔ 見延典子
HP上でお尋ねの「𣾇」はお探しの文字でしょうか? インターネット検索でヒットしましたので、もしお役に立てればと添付させて頂きます。
𣾇
https://jigen.net/kanji/147335
三吉幸子
三吉幸子様
ありがとうございます! ただ、お示しの「𣾇」つくりの上「酋」の部分が「八」ではなく、「尊」のつくりの上のように「逆八」になっている点に違いがあります。宮原節庵の原本はまさに「逆八」です。どなたでもかまいません。「八」と「逆八」の違いを教えてください。
見延典子
2021・3・29
助けてください!
先日紹介した宮原節庵賛入り頼山陽の肖像画(呉市所蔵)。「全国頼山陽史跡めぐり」に収めるため、山陽の漢詩を入力しようとしたが、どうしても一文字だけ入力できない。
「さんずい+奠」(右)である。
「この脚母の輿に侍し 二たび芳山に躋り 三たび大湖に踔さし 四たび「奠+さんずい」湾を上下すれども」の下りで、意味は淀川。
上に「例えば、江戸時代の歴史家・頼山陽は、大阪の淀川に『さんずい+奠』を当てました」と書かれている。
JIS漢字水準には入っていないということなのか。もしこの漢字をお持ちの方がいらしたら、送ってくださいますようよろしくお願いします。
〇印は誠之館同窓会が所蔵ている頼山陽肖像画と差異がある箇所。義亮が試行錯誤しながら描いた様子が伝わる。
2021・3・21
宮原節庵賛の頼山陽肖像画➁
頼山陽の門人で画家の大雅堂義亮は、頼山陽が亡くなる直前に山陽の肖像画を描いた。
山陽の息子の三樹(三樹三郎)の賛が書かれた肖像画は、誠之館同窓会(広島県福山市)が所蔵し、同ホームページで見ることができるが、残念ながら転載は禁じられているので、ここではご紹介できない。
誠之館同窓会が同肖像画を所蔵している理由として、頼山陽の門人の江木鰐水(または子孫)から寄贈されたと聞いたことがある。
今回紹介した肖像画の賛を書いている宮原節庵も山陽の門人で、こちらは経緯は不明ながら、原本は呉市在住者が所蔵している。
誠之館同窓会所蔵肖像画と今回の画像を比較すると、主に〇印の辺りに違いが認められる。完成度が高いのは誠之館同窓会同肖像画のほうで、そちらには「天保三年」ではなく「門人大雅堂義亮写」と記されている。下書きとして数枚書き、最も完成度の高いものに署名をしたのだろう。
2021・3・19 宮原節庵賛の頼山陽肖像画
呉市のホームページに「市有形文化財 昭和47.10.1 この画像は天保3年(1832年)8月門人にして画家の大雅堂義亮によって画かれました」と紹介されながらも、なぜか画像が掲載されていなかった頼山陽の肖像画(宮原節庵賛)。このほど呉市の許可を得て、皆様にご紹介できることになりました! まずはご覧下さい。
2021・3・16 「広邑新墾碑」はいつ建てられたか?
「広邑新墾碑」はいつ書かれたか? これについては頼山陽が母と聿庵に
宛てた手紙から1819年5月とわかったが、「広邑新墾碑」がいつ建てられたかについてはまだわからない。石村良子代表、進藤多万、見延典子が引き続き調査をしております。
一般人「あの一、それって何か問題でも?」
マニア「それがわかれば、ほかにもわかることがあるんですよ」
「頼山陽全伝上巻」(1931年発行)の口絵に載っている「広邑新墾碑」の碑面(下)と碑文拓本(右)。全伝掲載の解説文は木崎好尚が書いたと思われる。
2021・3・13
広邑新墾碑(広島県呉市)
石村代表の友人が「広邑新墾碑」の写真を送ってくれた。
開墾に尽力した多賀谷武兵衛の求めに応じて書かれ、石碑は頼山陽の筆による。1819年5月、九州遊歴後に書かれたが、石碑には前年3月としている。理由について調査中。
碑文の内容は、すでに山下幸太郎さんが打ちこんでくださり、『全国頼山陽史跡巡り(仮称)』に掲載予定。
「安芸灘大橋」は、「安芸灘とびしま海道」の1号橋で、本土と下蒲刈島の間の急流「女猫の瀬戸」に架かる姿の美しい橋です。
「安芸灘大橋」を渡ったところにある休憩施設「白﨑園」と、橋の下あたりからも眺めてみました。
「白﨑園」では、海道の向こうに立つ橋げたや、陶器のオブジェ等・・・。そして、静かに佇む「頼山陽歌碑」から、「女猫の瀬戸」の思い出が蘇ってきました。
2021・3・2
ひろしまフオト歩きさん
「女猫の瀬戸」
上蒲刈島の河津桜を見物するために「安芸灘大橋」へと向かいました。
2018・12・5
石村良子代表「音戸の瀬戸、五勝楼があったあたり」
写真を紹介する。
五勝楼は春水の命名。現在、飲食店のある裏あたりにあった。
「広村の大庄屋 多賀谷武兵衛が独力で文化8年(1811年)に、弥生新開の開拓事業を竣工し、39町(約4,720平方メートル)あまりの新田を造成した功績を、文化15年(1818年)に頼山陽が選書したものです」(呉市ホームページ)
2017・8・28
広邑新墾碑
広島県呉市広町の広市民センター前に「広邑新墾碑」がある。