見延典子が書いています。
2019・8・9
94歳が語る戦争
8日、94歳の末広一郎さん(広島市在住)「満蒙開拓青少年義勇軍とシベリア抑留」の講演会を拝聴した。東京都在住の元高校教諭竹内良男さんが都内で開催する「ヒロシマ講座」の一環。100名の参加。
末広さんは親孝行のため、昭和15年、15歳で青少年義勇軍に応募。
国策として、十代半ばの少年が日本から満蒙に渡った。その数は日本全国から約32万人。満蒙で待っていたのは「開拓」とはほど遠い生活であった。末広さんとは別に満州開拓団として家族で満州に渡った参加者の一人も「開拓なんでウソ。あれは侵略でした」生々しい証言が続く。
私の縁者にも満州からの引揚者がいて(『私のル一ツ』参照)、これから体験を書き残すのだという。人生の終盤で、語っておきたいこと、書き残しておきたいことが戦争の体験、記憶なのである。
写真 / 4月7日旅猿ツアー(頼山陽ネットワーク主催)文徳殿の内部見学会で。
左は頼山陽ネットワーク顧問頼祺一先生
2019・4・19
中国新聞に「頼山陽文徳殿」記事
4月7日付中国新聞(文化欄)に旅猿ツア一に同行した城戸良彰記者による記事が掲載された。戦前、頼山陽は国家的に顕彰された。頼山陽文徳殿はその様子を今に伝える数少ない史跡である。謹んでご紹介する。
2019・4・5
頼山陽は
なぜ元号を用いなかったのか
新しい元号が「令和」になった。
だが頼山陽(その周辺の人々も含め)の書や書状類の中で、署名の前に元号が記されているものがあった
だろうか。思い出されるのは十干十二支(辛亥とか庚午など)ばかりである。
頼山陽はなぜ元号を用いなかったのか。十干十二支を用いるのが当時の通例といえばそれまでだが、山陽を絶対的天皇主義者の範疇におさめようとするのであれば、元号が出てきたとしてもおかしくはない。このあたりを切り口に考えれば、新たな観点で山陽を見直せるかもしれない。
「大化の改新」という言葉はいつ、誰が作ったのだろう。「保元の乱」「平治の乱」はじめ元号が冠された歴史上の言葉は少なくないが、当時から使われていたのだろうか。
今回の元号決定プロセスの国民的な盛りあがりを眺めつつ、元号についてここまで国民の関心を集めたのは、日本史上初めてだろうと思った。若い世代の反応から、ネット社会の浸透と無縁でない。
2019・4・4 「知られざる頼山陽文徳殿」配信
会員の皆様には見延典子が書いた「知られざる文徳殿」を配信しました。
何卒ご高覧下さいますようよろしくお願い申し上げます。
最近、流行の言葉でいえば「平成最後の桜」でしょうか。
ひろしまフォト歩きさんは「桜は建物によく似合いますが、全体的にもう少し手入れが行き届いているとありがたいのですが」と書かれています。同感です。
2019・3・28
戦前の「頼山陽文徳殿」の写真➁
『ふるさとの戦争』』(1995青暢木之、畑矢健治、農村漁村文化協会)に掲載されている「頼山陽文徳殿」の写真は、残念ながら1枚しかない。ほかに猿猴橋(JR広島駅南口すぐ)を渡る写真がある。正直、軍隊の行進のように見えなくもないが…
… 山陽中のバスケットボールが全国優勝した際のパレードの様子という。彼らはゲームのときは英語で言葉かけをしていたという。英語が敵性語になるのは昭和16年の日米開戦以降だろう。そして少年たちは二重国籍故に、どちらの国からもスパイ容疑をかけられ、終戦後も過酷な人生を歩むことになる。日本では自室に御真影を掲げた途端、疑われなくなったというエピソードが印象的
写真に写る少年たちは、日系二世。両親は広島からハワイへ移民し、勉学のため故郷広島の山陽中学(現在の山陽高校)に入学した。
本のタイトルから考えて、戦争絡みの話かと思いきや、彼らは山陽中を全国優勝させたバスケットボールの選手たちなのだという。
2019・3・27
戦前の「頼山陽文徳殿」の写真①
図書館でたまたま手にした『ふるさとの戦争』(1995青暢木之、畑矢健治、農村漁村文化協会)に思いがけず戦前の「頼山陽文徳殿」の写真が掲載されていた。謹んで掲載する。
上の写真は昭和15年ころにとられたようだ。前列の2人の座り方、後列左端の少年の立ち方はアメリカナイズされている。この時代の日本の少年なら絶対にしないであろうポーズをとっている。しかも手足が長く、身長も高そうだ。
彼らは英語、日本が読み書きできるいわゆるバイリンガルであったが「漢文が苦手」と書かれている。
ただ、なぜ「頼山陽文徳殿」を訪ねたかについては触れられていない。また写真の石段は現在と若干異なるようだ。戦後、道路の拡張に伴い、変更したという話を聞いたことがある。
続きます
ご兄弟が収集しているビラだそうで、いつ、どこで、どのように入手したかは不明。勝てるはずのない戦争の早期終結を呼びかけている。
2018・12・12
敗戦直前、アメリカ軍からのビラ
「日本外史を読む会」(頼山陽資料館)で一緒に学ぶ会員の方から「敗戦直前、アメリカ軍が空から撒いたビラ」のコピーを見せていただく。
昭和34、5年ころ、札幌市郊外で成長した私もヘリコプター(たぶん)がビラをまいていたのを記憶している。どこかの団体のプロパガンダか、商店の宣伝チラシだったか憶えていないけれど、空から雪以外のものが降ってくるのは、なぜか楽しかった。以降、ヘリコプターを見ると「ビラまけ〜」と空に向かって叫んでいた。