見延典子が、明治期に石川県羽咋郡滝谷から北海道札幌市白石区に

  移住した母方の祖父長濵家のルーツについて書いています。

   北海道に渡った曽祖父が長濵久松。曾祖母がよん。二人の長男が万

  蔵(好博さんの祖父)、次男が久蔵(典子の祖父)です。

   岡本久美子さんは長濵十助(重助)の系列で、札幌に渡ったあと長  

  濵久松と同じ住所に住んでいた。血縁関係については調査中。

   荒木陽子さんは、久松生家の中駄家の子孫。

   小樽の弘子さんは大伯母ハル(よんの連れ子)の縁戚の子孫。

2023・4・30 小樽の弘子さん「播磨家、北出家、中田家」

                           ⇔見延典子

見延典子さん   

 母八重子からの情報によると、母のすぐ上の姉の富子(T11)は、播磨金八郎(T8生)S19に結婚。終戦後満州から引き揚げて、小樽で家業である豆腐屋を引き継ぎました。その金八郎の父は、五平・キンの次男(末っ子)です。五助は、姉のますが利尻の北出幸太郎に嫁いだのですが、幸太郎が鱈漁で転覆し亡くなりました。3人の小さい子供がいるため、石川県から手伝いに行くように言われ、利尻に渡り、そのまま姉ますの長女(姪・きよ)と結婚。のち、小樽に出てきて豆腐屋を開業したようです。きよは、生まれつき、目と足に障害があり、2男4女の子供がいるため、きよの妹(次女)が利尻から手伝いに来て、そのまま小樽で八百屋に嫁いだようです。ますの長男は利尻で漁師をしており、その子孫も漁師でした。時折 病院受診のため、よく小樽の播磨家に泊まっていたようです。そのとき、金八郎の娘もその叔父から編み物を習ったと聞いています。利尻の人は男女問わず、編み物が上手でした。中田金蔵の嫁ハルも編み物が上手だったそうです。また、約65年前に金八郎一家は檀家である石川県の日蓮宗のお寺に行き、墓じまいして、お骨を小樽の日蓮宗本妙寺に収め、墓地も小樽朝里に移しています。5月1日に小樽市役所に行って、播磨家、中田家の除籍謄本を取ってくる予定です。また詳細がわかりましたら、ご報告いたします。                   小樽の弘子

 

小樽の弘子さんへ

 どんどん範囲が広がっていきますね。今回、私の曾祖母よんの実家北出家や母方の播磨家もまた、親族間の婚姻によって北海道内に定住していく一端がわかりました。引き続き、よろしくお願い致します。

                      見延典子

 

2023・4・23 小樽の弘子さん「ハルさんについて②⇔見延典子

 

見延典子さん、

 ご報告です。4/21中田家のお墓に行って、墓誌を確認しましたが、残念なことに、墓誌は、中田作蔵さん以降のご逝去された方々の記載だったため、亀田豊作さんに妙龍寺(亀田家も同じ檀家)に連絡して調べてもらいました。早速,4/22連絡がありました。中田ハルさんがご逝去されたのは、昭和191221日 享年(行年)62歳です。

                      小樽の弘子

小樽の弘子さん

 調査結果をお知らせくださり、ありがとうございます。終戦前に亡くなられていたとは。ハルにも子がいるようですが、生い立ちについては伝わっていない可能性が高いかもしれませんね。

                          見延典子

明治15年、開山の妙龍寺(小樽市)
明治15年、開山の妙龍寺(小樽市)

2023・4・20 

小樽の弘子さん「ハルについて」

⇔ 見延典子

 

見延典子さん

 ご丁寧に色々ありがとうございます。中田家の子孫の方とは会えないようなので、近日中に中田家の墓に


行って墓誌を確認してきます。それで、ハルさんの行年がわからなければ、中田家が檀家である日蓮宗の妙龍寺に行年を確認したいと思っています。わかり次第ご連絡いたします。 

                        小樽の弘子

小樽の弘子さん

 よろしくお願い致します。

                        見延典子 

2023・4・19 小樽の弘子さん「好博さんとお会いしました」

                     ⇔ 見延典子

見延典子さん

 はじめまして。先日、長濱家のルーツをお調べになっているとのことで、長濱万蔵6男様と長濱好博さんに、小樽の母(八重子)の実家でお会いしました。母は亀田仁太郎(父は羽咋郡志賀町大島出身の亀田仁右衛門)の5男4女の末っ子で、兄妹で存命しているのは母だけです。今年97歳です。おかげ様で認知症状なく、よく昔に祖母から聞いた話をところどころ、おぼろげですが、話してくれます。

 今回、長濱好博様からも色々わからなかったことを教えていただき、新しい発見がありました。今後こちらからの情報で何かお役に立つことができればと思メールさせていただきました。よろしくお願いいたします。

                        小樽の弘子

 小樽の弘子さんへ

  ご連絡をいただき、ありがとうございます。

  好博さんと私からみて、弘子さんは大伯母ハル(よんと前夫との子)

 の子)の夫(中田金藏)の、妹(ヤス)の孫に当ります。弘子さんから

 みれば、弘子さんの母方の祖母(ヤス)の兄(中田金藏)の妻ハルの義

 父長濵久松の曾孫が好博さんと典子になります。壮大な話ですね・笑。

  残念ながら弘子さんと、好博さんや典子の間に血縁的なつながりはあ

 りませんが、先祖が同じく石川県羽咋周辺の出身で、かつ婚姻関係を結

 ぶ仲でので、結束のつよい関係だったと推測できます。

 

長濵好博さん作成の家系図の一部
長濵好博さん作成の家系図の一部

 

  好博さんと私が目下知りたいのは次の2点です。

   1 ハルの父(長濵よんの前夫)は誰だったか。   

      ※長濵よんは旧姓北出、よんの母方は播磨という姓

   2長濵家、中駄家、中田家、亀田家が北海道に渡ることになった背

    景や朝里に定住した背景。

   3長濵久松とよんの出会いから白石に定住するまで。

 

 おそらく弘子さんにも、亀田家のルーツについて知りたいことがおありと思います。近々父祖の地羽咋を再訪する計画があります。何かわかりましたら、お知らせいたします。今後ともよろしくお願い致します。

                           見延典子

 明治のころ、北前船は手宮に入港した。今の小樽で、朝里は小樽からやや札幌寄りにある。好博さんの調査によれば、朝里のある一帯には播磨(よんの母方)、中田、亀田姓の家が点在している。いずれもよんの親戚ではないかという。

2023・4・17

好博さんの「朝里」大調査

 

 好博さんや典子の曾祖母旧姓北出よんは、曽祖父長濵久松と結婚する前、一女ハルを生んでいる。ハルは長じて朝里の中田家に嫁いだ。ハルの情報を求め、好博さんが本家のおじさん(万蔵の6男)と朝里まで調査に行き、結果を送ってくれた。

朝里は小樽からやや札幌寄り
朝里は小樽からやや札幌寄り

今や高級魚のニシン。ネットより
今や高級魚のニシン。ネットより

 明治からしばらく、朝里ではニシンの大漁が続いた。曾祖母の縁者はニシン漁で生計を立てるため朝里に定住したと考えられるが、曽祖父長濵久松もまた朝里を足がかりにし、やがて白石を目指し、レンが工場に辿りついたのだろうか? このあたりは今後、精査する必要がある。


老母の証言では、長濵万蔵の長男久男も白石から袋(かます)をもって朝里にニシンを捕りに(もらいに)いっていた。みなで「うまい」と焼いて食べ、食べきれなかった分は開いて干したとのこと。昭和初期の話である。

 

 

かます
かます

2023・4・13

曽祖父が夢見た牧場

 

 曽祖父長濵久松が夢見た牧場ということで、牧場の写真を探していたら、妹が送ってくれた。母方の叔父一家が経営している。40年前の写真だが、今も北海道内の同じの場所にある。子孫の何人かは酪農家になったが、酪農をめぐる国家の愚策のため、続いているのは2軒だけである。

2023・3・1 

人気者との接点②

 

 またまたまた好博さんからビックすぎる情報!! 

 大泉洋の先祖(曽祖父か高祖父だろう)、私たちの曽祖父長濵久松、小池嘉一郎(万蔵の岳父、好博さんの母方の曽祖父)は同時期、白石村議会議員を務めていたとのこと。

 白石村の未来を話し合っていたのでしょうね~

 

大泉家との接点は明治時代
大泉家との接点は明治時代

大泉洋自身は札幌近郊、かつて白石と同じく煉瓦生産が盛んだった江別市出身。写真はネット
大泉洋自身は札幌近郊、かつて白石と同じく煉瓦生産が盛んだった江別市出身。写真はネット

2023・2・27

人気者との接点

 

 またまた好博さんからビックな情報! 大泉洋の先祖は、私たちの故郷札幌市白石区に入植した仙台藩白石城主の片岡小十郞の家臣だと、白石郷土資料館のテレビ取材で答えている。好博さんが取得した明治19年の土地台帳に、大泉洋の先祖と思われる大泉安定が、鈴木煉瓦工場のあった土地を鈴木佐兵衛に売却したことが載っているというのだ。


 私たちの曽祖父長濵久松一家や親族は長く、大泉安定が売却した土地で暮らしていたのである。

 

 大泉洋の祖父は銀行員、両親は教育者、兄は今年函館市長選挙に出馬予定で(この程度の情報は北海道民の常識らしい)、そもそも先祖は幕末の負け組ながら、蝦夷地にわたって札幌郊外の開拓にいそしんでいたことが想像できるのである。

 

2023・2・25    

中駄のおばさん③

 

 なんと、好博さんが「中駄のおばさん」との系譜を突き止めるだけではなく、晩年の写真まで送ってくれた。二重橋の前で、夫の利一さんと並んで写っている。モノクロ写真なので、1960年代か。

 逆算すれば、60代で、今の私とあまり変らない。私の記憶の中では、背中の丸い、昔ながらのおばあさんの姿で残っている。この頃のシゲさんは背筋も伸び、上京する元気もあったのだ。ご自分で縫った着物や羽織だろう。帯揚げの結び方は端が垂れている。おしゃれ?

 


2023・2・18    中駄のおばさん②

 

 なんと、好博さんが「中駄のおばさん」を突き止め、家系図まで送って

くれた。

 

 中駄シゲさん。明治32年(1899)生まれ。夫利一とのあいだに3男1女。絵がうまく、書道は段持ち、着物は師範、95歳まで縫い物をして、平成8年(1996)98歳で亡くなったという。

好博さんが送ってくれた家系図の一部。青は久松、赤はシゲさん
好博さんが送ってくれた家系図の一部。青は久松、赤はシゲさん

 久松と血縁的に近いとはいえないが、夫利一は同じく白石に入植している。一族ということで、助け合いながら苦難の時期を乗り越えていったのだろう。

 

 それにしても好博さんの調査力に脱帽。

 

2023・2・14 

中駄のおばさん①

 

「中駄のおばさん」というのは、典子が幼いころ暮らしていた札幌市白石区の近くに住んでいた女性で、母は着物を縫ってもらい、典子も幼いころ会った記憶がある。

   この羽織も中駄のおばさんが    縫ってくれたのだろうか。
   この羽織も中駄のおばさんが    縫ってくれたのだろうか。

  その「中駄のおばさん」と、母や典子は縁戚関係にあることを最近知った。94歳の母でさえ知らなかったのだから、典子が知ろうはずもない。

 

 そもそもは曽祖父が中駄久松であったのに、姉の嫁ぎ先の長濵家に養子に出され「長濵久松」になったところから、長濵家と中駄家の枝分かれが始まった。

 

 本ページ掲載22・11・14付けの集合写真に、中駄家の人々も加わっているのはそういう事情からなのだ。

 

妙成寺(石川県羽咋市)にある前田利家の側室寿福院の墓。寿福院が帰依して、妙成寺は大きく発展した。中駄家の先祖は寺侍として仕えた。

2023・1・9

荒木陽子さんとのつながり

 

 荒木陽子さんの先祖が、好博さんや私と同じ中駄家の出身であることはわかったが、どのようなつながりなのか、よくわからない。

 好博さんに尋ねたところ、家系図を送ってくれた。で、好博さんと私の曽祖父久松の、さらに曽祖父と、陽子さんの曽祖父の、さらに曽祖父が兄弟であることがわかった。

 なるほど、簡単にはわからないはずだ(笑)

 卒業以来会ったことのない高校時代の同級生も、家系の一人であった。話はどんどん遠大になっていく。まさに北海道開拓史を紐解くような話である。

 


2022・1・5 荒木陽子さん「父方の祖母の実家が・・・」

 

父方の祖母の実家が中駄家(注・見延の曽祖父長濵久松の生家)です。

漠然と、中駄家のルーツを知りたい、いつか、石川県羽咋市滝谷を訪問したい、と検索していたところ、このHPをみつけました。

札幌 白石能登滝谷会 渡道100年記念の写真に父とその叔父、叔母等見つけて感動しました。よろしくお願いいたします。

 

     荒木陽子さんへ

   お伝えくださった内容から、荒木さんが、現在長濵家のルーツ探し

  をしている長濵好博さんや私の縁者であることは間違いないことがわ

  かります。お会いしたこともないのに、不思議な気分です。今後とも

  よろしくお願い申し上げます。

                       見延典子

 

明治、大正の記録が詰まったUSB
明治、大正の記録が詰まったUSB

 原本は札幌白石区役所の郷土資料館に寄贈されているが、解読されてきたかは不明。解読されていたとしても、事情を知った子孫が読めば、新たな発見があるもしれない。

2022・12・5

曽祖父の手帳

 

 曽祖父長濵久松が残した手帳の解読がすんだと、好博さんがUSBを送ってくれた。解読は、好博さんと交流のある久松の孫の千恵子さん。

USBをパソコンで開いたところ。
USBをパソコンで開いたところ。

札幌白石区役所の郷土資料館 2021/7/21に掲載の写真
札幌白石区役所の郷土資料館 2021/7/21に掲載の写真
先祖が代々守っている薬師堂        石川県羽咋市滝谷
先祖が代々守っている薬師堂       石川県羽咋市滝谷

 薬師堂、観音堂など「日本昔話」に出てくる話と思っていた。複数の僧侶を輩出した先祖や、現在も薬師堂を守り続ける現在の当主に感謝。

 

2022・12・1

薬師堂と観音堂

 

 10月末、父祖の地石川県羽咋市滝谷を訪ねたとき、先祖が代々守っているという薬師堂にも参った。(11月に紹介済みだが、再掲)

 長濵家の先祖が観音堂も建て、妙成寺に寄進したことが地元の市史に載っているが、残念ながらそちらは昭和初期までは確認できるものの、倒壊したのか、現在はないという。

10月29日薬師堂前、札幌から参加、二従兄弟の長濵好博さんと長濵清さん。左が典子
10月29日薬師堂前、札幌から参加、二従兄弟の長濵好博さんと長濵清さん。左が典子

2022・11・24 大伯父も読んでいた『日本外史』

 

 すでに紹介したように、大伯父(祖父の兄)長濵本布(認知前は山田本布)は日蓮宗の僧侶であった。明治32(1899)年~33年の15~16歳の頃は日蓮宗の京都松ヶ崎小檀林というところで学んでいた。

 このたび長濵好博さんの申請によって、当時の学科表の写しが届いた。宗学、仏学、修身、読書、作文、習字、算術を学び、読書には『日本外史』と書かれている。大伯父が読んでいた『日本外史』を今、典子も読んでいると思うと、大伯父にますます親しみを感じる。

 日蓮宗一致派では16世紀末に,関東および関西の根本檀林と呼ばれた下総飯高檀林(飯高寺)と京都松ヶ崎檀林(本涌寺)が開かれたが,のち甲斐身延山の西谷檀林(善学院)などの関東の八檀林と鷹峰檀林(常照寺)などの京都六檀林ができた。同宗勝劣派でも上総宮谷(みやさく)檀林(本国寺)などの七檀林を設立した。

日蓮宗、京都松ヶ崎小檀林の学科表 明治30年代か?
日蓮宗、京都松ヶ崎小檀林の学科表 明治30年代か?

2022・11・20

熱が冷めないうちに

 

 父祖の地羽咋市滝谷を訪れてから20日余りになる。熱が冷めないうちに、長濵家のルーツをまとめていく。すべてがわかったわけではないが、現時点で判明したことは書き残していく。私たちの子孫のために。

 

試し刷り
試し刷り

2022・11・14 ルーツを思う心

 

 父祖の地羽咋を訪れたあとも「チーム長濵」としての調査は続いている。好博さんからの情報をもとに調べるうち、「札幌 白石能登滝谷会 渡道100年記念」として、1984年(昭和59)に長濵家、中駄家を中心に57名が集まって、祝いの宴を開いている写真がみつかった。

 一番驚いたのはこのとき、好博さんと典子の母が同じ写真に写っていたことだ。好博さんは20代、母(旧姓長濵)は50代。今年の3月、札幌で会ったときは「初めまして」なんて挨拶していたのに、なんと、なんと、38年前に会っていたのである。(好博さんのお父さんも!)

 それにしても38年前の写真には、祖母や叔父など故人も写っている。ルーツを大切に思う心は、こんなふうにつながっているのである。

 「札幌 白石能登滝谷会 渡道100年記念」1984年(昭和59)2月

 写っている57名全員の個人情報が載っている名簿も伝わっている。これは特筆すべきことであろう。

               ※写真は若干の加工を施しております。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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