見延典子が書いています。
2023・10・21
「田辺良平先生から
泊天草洋の漢詩入り扇子」
先日の頼山陽煎餅のイベントにもご参加くださった郷土史家の田辺良平先生。ご出席された皆さんは、田辺先生が「扇子」のお話をされたことを記憶されているだろうか。
1930年(昭和5)芸備銀行が創立10年にあたり、株主に配ったという扇子である。このたび譲っていただいた。感謝‼
芸備銀行は、現在の広島銀行の前身。創立には頼山陽の弟子であり、スポンサーでもあった尾道の豪商橋本竹下の子孫が関わっている。
そのため原本には橋本家所蔵の「泊天草洋」が使われたと伝わる。
1931年、没後100年を前に頼山陽の人気がうなぎ登りだったことを伝える貴重な資料である。
最後の藝陽堂店主さんが、戦前の頼山陽煎餅や藝陽堂についてはわからないとおっしゃっているので、見延が想像をまじえて書いています。記載に間違いがあり、正しい情報をお持ちの方はご連絡をお願いいたします。
2023・9・27 吉森晶子さん「頼山陽煎餅の新聞記事」
本日付け大分合同新聞に頼山陽煎餅の記事が掲載されていました。
2023・9・20
「頼山陽居室」の焼き印がない
頼山陽煎餅についての補足。「山陽外史」などの文字は「焼き型」で焼き、できあがったものに「焼き印」を押しているようだ。私がいただいた煎餅の中に、これまで紹介していない右の写真のような焼き型の煎餅があったが、見つからない。家族が食べてしまったらしい。
上の写真は、9日にご参加の田辺良平先生ご所蔵、10年ほど前広島で出された雑誌に掲載されていた藝陽堂の焼き型の写真。八雲、中電工などが見え、企業が記念品用に発注したことが伺える。
頼山陽文徳殿、頼山陽記念館の焼き型も、落成記念などで広島県や広島市が発注した可能性が考えられる。しかし頼山陽居室の焼き型が見当たらない。国の史跡になったのが1936年(昭和11)で、このときに広島県あたりが発注してもよさそうなものなのに、見当たらない。
もし私の見落としではなく、本当に作られていないとすれば「頼山陽居室虚々実々」の新ネタになる。
「頼山陽居室虚々実々」はこちら
2023・9・16
頼山陽煎餅の絵柄③
頼山陽関係の焼き印はこのくらいと思っていたら、まだあった。
左上は「山陽外史」の別バージョン。右上は「子成」。藝陽堂の本気度が伝わる(笑)。小さくて恐縮だが、文徳殿は「頼山陽文徳殿」と「頼山陽」が入っている。下は箱と包装紙。今まで紹介していない印も見える。
(いずれもネット上の写真をお借りしています)
藝陽堂に残る焼き印は、戦前に作られたものも少なくない。創業者の村田安芸さんは家財道具一式をもって疎開したそうで、山陽関係の焼き印もあっただろう。ただ、戦後と思われる焼き印もある。山陽関係の焼き印の絵柄を見ていこう。
2023・9・15
頼山陽煎餅の絵柄②
右は文机、刀掛けに掛けられた刀のほか、頼家の家紋である双瓶子、鹿角も描かれている。
右は比治山にある文徳殿。徳富蘇峰が命名し、1934年(昭和9)完成。それ以降に作られたものだろう。現在では、文徳殿を知らない広島市民も少なくない。
まず山陽の肖像画(左)。見慣れた構図だが、改めて焼き印はどのようにして作るのだろうか。
左は山陽が蒐集した水石で「頼山陽遺愛石大和郡山」とある。注目したいのは「頼」の新漢字と、左横書きになっている点である。戦後に作られた可能性が高い。上の文机と絵のタッチが似ているように感じる。使用頻度が多くないためか、絵柄は良い状態を保っている。
左は1935年(昭和10)完成の頼山陽記念館。文徳殿に比べ、替影などもつけ、緻密な筆致で描かれている。右横書きなので、完成直後に作られたものだろう。
頼山陽煎餅に多くの絵柄があるのは、企業が祝いなどで発注するケースが多かったからのようである。文徳殿や頼山陽記念館の絵柄は、落成を記念して広島市や広島県が発注したのだろうか。それとも広島の新名所の意味合いで作っただろうか。今となっては不明である。
2023・9・14
頼山陽煎餅の絵柄
藝陽堂の頼山陽煎餅に押されている焼き印の絵柄は、200種類以上あるそうだ。山陽に限らず、多岐にわたる。
2013年広島菓子博のマスコットキャラクター「かしなりくん」「スイーツ姫」(左)の焼き印のある頼山陽煎餅。
お土産としてだけではなく、企業の祝い事など、目的の応じた絵柄を作っていたことも考えられる。
頼山陽関係では「印」が焼き印となっているものが4種類確認できる。
左上から時計回りに「頼氏之印」「頼襄子成」「山紫水明処」「山陽外史」。
「山紫水明処」以外は焼き印ではなく、焼き型があるようだ。
いずれも印譜集に載っているものである。この中では「山紫水明処」が興味深い。あるいは「山紫水明処」の絵柄もあるのかもしれないが、現時点では見つけ出せていない。
頼山陽ネットワークの進藤多万さんに伺ったところ、左は「蘭香」、右は「緑蒲」と読むそうだ。山陽の筆跡を写したように思う。「蘭香」「緑蒲」が出てくる漢詩からとったのだろうか。そのような漢詩をご存じなら、お知らせください。続きます。
現在は広島市中区堺町にある藝陽堂は、1911年(明治44)年、塩屋町で創業している。塩屋町は現在に紙屋町交差点からNHK広島放送局までの、電車通りの西側一帯で、頼家の屋敷(現在は頼山陽史跡資料館が建つ)からほど近い。
2023・9・13
頼山陽煎餅の看板
9月9日に開かれた「頼山陽とお菓子の歴史トーク 藝陽堂の頼山陽煎餅」(主催/Hiroshima’s Historiographers)ではさまざまな情報が集まり、見延が現在調査中の、戦前の頼宗家についても多くの示唆をいただいた。
記録として、判明したことなどを書き留めておきたいと思う。
これを踏まえて、改めて藝陽堂の看板を眺めてみれば、頼家の家紋双瓶子が入れられていたり、頼山陽の筆跡を感じさせる「頼山陽」の文字など頼家の許可を得なければ、使用できなかったのではないかと感じさせる。
しかしながら、この看板は創業当時から掲げられていたわけではない。というのも、創業当時、藝陽堂は「ねぼけ堂」という名前であったという情報がネット上に出ている。戦後に店主になった藝陽堂の方は「戦前のことはわからない」とおっしゃっているので、確認しようがない。
ただ、藝陽堂の店内には徳富蘇峰の筆による「藝陽堂」の扁額が掲げられて「為村田仁兄 蘇峰七十七」と書かれている。「村田仁兄」は創業者の村田安芸さん。蘇峰が七十七歳になるのは1938年(昭和13)である。おそらくこの頃に店名変更が行なわれたのではないか。なぜその時期に店名変更が行なわれたのだろうか?(続きます)