『頼山陽史跡詩碑めぐり』完成後に見つかった、頼山陽ゆかりの場所を紹介しています。投稿者名がないものは見延典子が書いています。

 

山紫水明処(京都)近影
山紫水明処(京都)近影

2024・4・12

青山浩子さん「最近の山紫水明処」

 

山紫水明処、中は入ってないですが、最近前を通ってきました。


2024・1・21

近砂敦さん「頼山陽、中津から下関への行程について」

 

 頼山陽の九州遊歴の際、中津市の正行寺から下関の商人広江殿峰宅へ向かった行程について考察した「頼山陽と行橋」が「美夜古(みやこ)文化」に掲載された。以下要約。

福岡県行橋市で出されている「美夜古文化」
福岡県行橋市で出されている「美夜古文化」

1819年12月6日

頼山陽、正行寺(大分県中津市永添)を出立。近くの上往還(勅使街道)を進み、高瀬(中津市)で山国川を渡り、八屋、松江(豊前市)を通過、椎田(築上町)行事村(福岡県行橋市)飴屋へ。豊前市約25㎞。山陽の足で6時間で到着。泊。

 行橋市に残る豪商飴屋の旧飴屋門


12月7日 苅田を通過し北九州市門司区大里へ35㎞、約7時間。もしくは行橋から小倉城下紫川にかかる常磐橋まで出て、数多く出帆していた下関行きの船に乗るコースかもしれない。関門海峡を渡り、夕刻には広江殿峰宅(伊予屋)到着で計算が成り立つ。不明だった山陽の、中津、下関間の足取りがわかったことを悦びたい。

 

写真はすべてネットより
写真はすべてネットより

2024・1・16 

頼春水、山陽父子ゆかりの七騎塚と同供養塔(兵庫県加古川市)

 

 1350年(正平5)塩高貞は、京都から本国出雲へ落ちていくとき、現在の加古川市米田町付近で足利尊氏の軍勢に追いつかれる。高貞の弟六郞ほか7名が戦い、全員討たれる。同地には七騎の塚があったが、洪水で流された(説明板参照)

 左は古賀精里の碑文、頼春水の筆による七里塚の碑


 その後、1813年(文化10)現在の加古川橋の西詰に、古賀精里の碑文、頼春水の筆で七里塚の碑が建てられ、河川改修の際に米田町船頭の太子堂境内に移された。

 

 また七騎塚の碑の近く、称名寺の境内には、頼山陽の撰文、筆による七騎塚供養塔がある。こちらは18  20年(文政3)に建立された。

 加古川は西国街道沿線にあり、山陽が京都と広島を往復する際には立ち寄る地である。おそらく父春水ゆかりの碑を見て刺激をうけ、撰文を書いたのだろう。

 撰文の内容については、現在調査中である。

頼山陽の撰文、筆による七騎塚供養塔


2023・12・6

上口雅彦さん「旧千葉家住宅に頼山陽『耶馬渓』の模写」

 

 旧千葉家住宅(広島県安芸郡海田町)に行くと、お近くにお住まいの方が所蔵する頼山陽筆「耶馬渓」を模写した巻物が展示されていました。

 頼山陽についての解説もありました。明治期における頼山陽の知名度の広がりがわかります。

 

ネットより

小川清處(1854-1932

安政元年生まれ。名は千之助。先代から代々宮島に住み、父は佐伯郡役人頭厳島神社棚守手代を務めていた。幼いころから弱視のため屋内で親から与えられた絵手本を相手に過ごした。長じて東京に出て安田老山に師事、帰郷後は岩国藩士の東沢潟に師事して漢学詩文を修めた。のちに九州の行き宋元、明人の真蹟を究め、晩年は岩国市今津町に定住した。昭和7年、79歳で死去した。

2023・11・5 上口雅彦さん「宮島岩惣、頼山陽の屏風」

            ⇔ 見延典子「十数年前、拝見しましたが・・・

見延典子さん

 宮島の老舗旅館 岩惣に行きましたら、頼山陽の大きな屏風がありました。山陽は岩惣に行っているのでしょうか?

                         上口雅彦

 上口雅彦さんへ

 

 お送りいただいた6曲1双の屏風は十数年前、仲間と見せていただきましたが、映像として公開しないようにと強く言われたので、『頼山陽史跡詩碑めぐり』にも載せておりません。その後、経営者が変わり、縛りがなくなったのでしょうね。

 

 岩惣のホームページには創業1854年とあり、山陽の没後ですね。従って、山陽の岩惣訪問はないことになります。内容も、山陽の漢詩ではなく、何かを写したものと記憶しています。右下に説明書きに内容が書かれていると思います。その写真もありましたら、また送ってください。

 

 ところで、この屏風の落款が、現在本ホームページに連載中の、久保寺辰彦さんご研究「襄」の字に一石を投じるものになりそうです。

 まさにタイムリーな写真です。

 

    こちらをご覧下さい。

 

 ありがとうございます。

 

         見延典子

 

 


2023・10・23

久保寺辰彦さん

「『日本外史』の版木」

 

先日、埼玉県へ行く用事がありついでに川越市立博物館へ行ってきました。勿論、川越藩が発行し『『日本外史』の版木を見るためです。

常設展示されていたので見ることができました。関東では頼山陽に関する史跡などが少ないので貴重です。

川越市立博物館
川越市立博物館

川越市立博物館で常設展示されている『日本外史』の版木
川越市立博物館で常設展示されている『日本外史』の版木

久保寺辰彦さんへ

『頼山陽史跡めぐり』にも書いたように、事前に申し込んでおけば保管してある版木を見せてくれるはずです。ただ、理由は不明ながら、同館の係員の対応はよくなく、興味もなさそうだったのが、印象に残っています

                             事務局

 

2023・7・12 

近砂敦さん(大分県中津市在住)

「山陽さんの隈川遊覧」②

 

 小冊子の漢詩は淡窓と五岳がほとんどですが、頼山陽の「隈川舟遊」「淡窓訪問」が載っております。


2023・7・9 

近砂敦さん(大分県中津市在住)

「山陽さんの隈川遊覧」

 

先日求めました「日田の栞」(大正5年発行)の巻頭のグラビアに、山陽さんと淡窓さんの会見の書画(左)、見たことのない山陽さんの隈川遊覧の書があるではありませんか。何か得した気分になり、お送り致します。

   右を拡大したものが下。


2023・6・10 近砂敦さん「頼山陽の肖像画について」

                         ⇔ 見延典子

先日、求めました『耶馬渓遊覧詳説』(大正5年発行、鴛海正海著)を見ていましたら、山陽さんがいたる箇所で登場なさっています。

巻頭の画像に山陽さんの初見の画像と現在不明の雲華本と思われる「耶馬渓図」巻の画像がありました。山陽さんの画像はどこが所蔵し、おいくつの頃かわかりましたら教えてください。

近砂敦さんへ

 この肖像画は私も初めて拝見するものです。おそらく『耶馬渓遊覧詳説』を出すとき、なんらかの事情で肖像画が入手できないため、どなたかが想像で描いたものではないでしょうか。ご覧の方で、ご意見があれば、お寄せください。

          見延典子


 最初の画像の左のページ下段の書状について、宛先である中里真清は当時、耶馬渓鉄道社長で耶馬渓鉄道敷設と耶馬渓観光開発に尽力し、昭和4年には二代目中津市長になられた方です。キャプションに「頼山陽先生の子孫橋本氏の書状」とあります。

 

近砂敦さんへ

 頼山陽の子孫という「橋本氏」に心当たりはございません。尾道の橋本竹下の御子孫でしょうか? 書かれている内容から精査する必要があるでしょう。

                           見延典子

 

 日田の絵葉書は大正初期の三隈川と鍋屋(森家)の蔵がならんでいる画像です。思っていたより、大きかったことがわかります。

日田の絵葉書。大正初期の三隈川と鍋屋(森家)の蔵
日田の絵葉書。大正初期の三隈川と鍋屋(森家)の蔵
庭園
庭園

インターネットで調べると、涼庭は山陽より7歳年下の1887年(天明7)生まれ。1810年(文化)7月長崎へ勉強に行く途中、神辺で山陽に会っているようです。また1822年(文政5)山紫水明処に招かれてるようです。小石元瑞と共に「京都二代医家」と呼ばれ、篠崎松竹、田能村竹田とも交流しました。順正書院を建てたのは山陽没後の1839年(天保10)です。

 

 

2023・6・5

匿名さん「頼山陽と新宮涼庭の順正書院」

 

『 #頼山陽 史跡詩碑めぐりに』に掲載されていなかったので投稿します。京都の南禅寺には丹後国由良(京都府宮津)出身の蘭方医新宮涼庭が建てた順正書院があります。今は湯豆腐屋になっていいまして、当時のままかどうかはわかりませんが、庭が残っています。

湯豆腐屋になっている順正書院
湯豆腐屋になっている順正書院

2023・6・1 石村良子代表「京都宇治『萬碧楼』」

 

京都宇治の「萬碧楼」に行って来ました。

兎道朝暾図うじちょうとんず

青木木米画、左宇治橋奥朝日山左平等院

2階からの宇治川の眺めは素晴らしく対岸の朝日山も緑に映えておりました。

こちらの山にも山陽命名の料亭「鑑水楼」があったという事です。

 

宇治駅下車宇治橋まで行き平等院の参道すぐの所にある中村藤吉宇治支店が江戸時代のきくや旅館、山陽命名「萬碧楼」の有った場所です

敷地内伊藤博文公の別荘の有った所を喫茶店に改装しています


 朝日山(竹原市)を見上げる。
 朝日山(竹原市)を見上げる。

2023・5・9 ひろしまフォト歩きさん「朝日山山頂」

 

 朝日山(竹原市)の山頂には展望台、観音堂、東屋が設置されていて、東屋には「頼山陽九歳の時に詠んだ歌『朝日山』」が説明文とともに掲出されていて、驚きました。


令和3年4月 竹原頼山陽顕彰会が設置した。竹原市内の頼惟清邸には同詩の詩碑がある。
令和3年4月 竹原頼山陽顕彰会が設置した。竹原市内の頼惟清邸には同詩の詩碑がある。

2023・4・6 チヅPさん「4月16日 杏坪ゆかりの神社で馬神事」

 

 頼杏坪の碑がある広島県庄原市の日吉神社で、4月16日、4年ぶりに馬神事が開催されるそうです。

4月5日付け中国新聞
4月5日付け中国新聞

 山王社(現在の日吉神社)にある杏坪の充糧碑。代官だった杏坪は飢饉に備え、柿を植えさせた。また周辺19箇所の村から70歳以上の老人127名を集め、敬老会を催した。  写真/ひろしまフオト歩き

この参道を馬が駆ける
この参道を馬が駆ける

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら