見延典子訳『日本外史』武田氏のページです。
参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931)
藤高一男『日本外史を読』』Ⅲ(2002)

2026・7・3
上杉景勝、德川家康と戦う
慶長3年(1598)豊臣秀吉が病気になった。継嗣の秀頼はまだ幼かった。そこで秀吉は景勝と家康、利家、毛利輝元、宇喜多秀家で五大老と称して、秀頼を助けるように誓約させた。秀吉は薨去した。五大老のうち、德川公の勢いだけが盛んであった。
慶長4年(1599)石田三成は直江兼続と相談して、景勝に兵を挙げる
ように勧めた。そして「諸大名はみな貴公を総大将に推したいと願っています」といい、諸将の連判状を景勝に見せたあと、内々に相談した。
7月、景勝は佐竹義宣とともに国に帰った。景勝は香指原に城を築き、砦を修理して兵糧を備え、陸奥国、出羽国の土兵を誘い込み、いっせいに蜂起させた。また人をやって越後国の旧臣を招かせた。その越後国の旧臣らは、われもわれもと味方した。そのため越後国の新任の国王、堀秀治は鎮めることができなかった。
慶長5年(1600)正月、景勝は年賀の儀式に出席のため、藤田信吉を大坂に派遣した。そのとき家康が手厚く物を与えた。信吉は国に帰ってからたびたび景勝に、徳川氏に兵を起こすことは慎むように諫めた。これを聞いた兼続は信吉を殺そうと思った。
三月、信吉は家族を連れ出して出奔し、德川氏についた。德川氏は景勝に伊奈図書をよこし、京都に上るように諭した。景勝は承知しなかった。それどころか逆に德川氏が五大老の盟約に背いているという十箇条の罪を数えたてて責めた。
德川氏はついに上杉氏を征伐することを決心。利家、佐竹義宣、伊達政宗、最上義光の諸氏に命じて、四方から挟み撃たせた。
伊達氏が会津の東隣りを有していた。その関係でほかの諸氏に先立って上杉氏を攻めた。その将伊達成実、片倉景綱が兵を率いて侵入した。景勝は兵をやって討って退けた。
七月、家康は将師百余人を引き連れて小山に着いた。景勝は長沼に陣取り、兵を分けて険粗を守り、德川氏の来るのを待った。すると三成が秀頼の命令だと偽って、毛利、宇喜多、島津、小西の諸将と兵を挙げ、美濃国(関が原方面)に進み出た。
八月、家康は真掛原の長子德川秀長に命じ、一万人を率いらせて宇都宮を守らせ、自分は兵を連れて京都に上った。
兼続が全軍をあげて追撃したいと申し出た。しかし景勝は聞き入れなかった。ちょうどそこへ德川秀康がきて戦を申し込んだ。景勝が「我が父謙信は兵を動かすのに、人の危ういところをつけこむようなことはしたことがなかった。吾は内大臣殿(家康)の帰るのを待ってのち、彼と勝負したい。もし兵糧、武器に不足があれば、いつでも支給いたそう」といって、兵をまとめて会津へ帰った。
家康が西へ向かうとき、諸将に「景勝は強い敵だ。めったなことでは戦を交えぬようにせよ」と命じた。それで景勝を取り巻く四隣の諸侯も遠巻きに守っているだけで、むやみに侵入することはなかった。
九月、景勝は兵四万人を兼続に与え、山県に居た最上義光を攻めさせた。義光は二十五カ所に砦を設けて兼続を待ち受けながら、伊達政宗に救援を請うた。政宗は兵二万人を繰り出して助けにいった。
兼続は二十一箇所の砦を陥れ、それから進んで長谷城を攻めた。やぐらを造り、穴道を掘って昼も夜も攻撃した。城将の志村高治はよく防いだ。景勝は中村式部を遣わし、上山城を攻めさせた。しかし上手くいかなかった。最上義光、伊達政宗が兵を併せてやってきて、諸軍を助けた。
このとき、長谷城を攻めていた兼続の軍中、伝え叫ぶ者がいた。その者が「上方(西軍)が負けた」といった。そのうち会津(景勝)から使者がやってきて、石田三成(西軍)が負けたのは事実(関が原の戦い)の知らせを伝えるとともに、軍をそこ返すしように命じた、兼続は「変事を聞いて退くのは、臆病だ」といった。そこで使者を長谷城内をやって、穴道から侵入していた兵に理由を話させ、翌日励ましていっせいに攻め上り、城の外郭を陥れて帰ろうとした。
最上義光、伊達政宗が城主の志村高治と追撃してきた。兼続は引き換えして、二十余回を戦い、ようやく四沢に帰着した。政宗は進んで福島城を攻めた。その城将本状繁長はよく守り、撃って退けた。
2026・7・2 上杉景勝の武略②
天正十二年(1584)羽柴秀吉が使者を立てて、上杉景勝によしみを通じようとして「私はもともと佐々成政とは敵同士である。その上、もともと越中くにはわが領分である。だからわれが先にとろうと思う」といい、自ら兵を率いて越中国に入り込んだ。
十月、宮崎城(越中)を攻めて一気に陥れ、秀吉の使者に向かって「越

後男子の戦の仕方はこんなものである。
十月、宮崎城(越中)を攻めて一気に陥れ、秀吉の使者に向かって「越後男子の戦の仕方はこんなものである。帰って筑前守に話してほしい。我は越中国で取りたいと思うところはすぐ取ってしまう。そしてわれが取らないところは貴公に譲るから遠慮なくいってほしい」
天正十三年(1585)四月、秀吉は成政を攻め降して、越中国を取った。五月、秀吉は石田三成など三十人を連れて越後国に入り、自分から使者となって薄井城に入り、城将須田某に会って、「実は私が羽柴秀吉だ」とあかし、「上杉謙信に直接会って相談したい」と申し込んだ。
須田某は兵士に命じて見張らせておき、自分は謙信のもとに馳せて「秀吉を捕まえて殺したい」と願い出た。
謙信はこれを許さず「今や彼は天下の大権を握っている。彼が険阻を越えて敵国に入ってきたのは。われと和睦した約束を信頼し、われが偽りをいわない男だと思っているからこそだ。それを殺すのは不義だ」
謙信はその日すぐも直江兼続ら六十人餘を連れて秀吉に会った。人払いをして秀吉と語り合った。ただ、兼続と三成だけは傍らに供えることを許された。それがすんで、別れ去った。
七月、上田の城主真田昌幸は德川氏に背いて、再び上杉景勝につき。人質を送ってきて、援軍を乞うてきた。景勝は須田某、本庄某らを使わし。信濃国の兵六千人を率いて助けにいかせた。しかし戦いは不利であった。そこで景勝は自分から大軍を連れて続いていこうと思った。ところが德川氏の兵は引き去ってしまった。
十二月、秀吉は使者を立てて、越後国の君臣らに物を贈ってきた。上杉景勝には京都に入朝するように催促した。
天正14年(1586)五月、上杉景勝は入朝した。
秀吉は京都に入る道に、景勝をもてなす設備を作った。また秀吉に奏請してもらい、正四位上に叙し、参議に任じて戴いた。
七月、景勝は帰国した。この年、新発田を陥れて越後国すべてを平定した。
天正15年(1587)佐渡、庄内をも平定した。
天正17年(1589)景勝は再び入朝した。従三位、中納言に進んだ、直江兼続は四位の侍従にしてもらった。藤田、泉沢、安田の三臣もみな四位に序せられた。
兼続は父の実綱の時から、常に謀の相談に参画していた。実綱は仇に刺殺されたため、実子がいなかった。そこで謙信は近侍の樋口与六に命じて直江家の相続者にならせた。これが直続である。この人は文武の才能があった。景勝の家臣の中で最も気に入られ、信任を得ていた。
天正18年(1590)秀吉が東方の北条氏を討った。景勝は前田利家と東山道から進み、北条氏の数十城を攻め落とした。北条氏は滅亡した。また利家とともに陸奥国、出羽国を触れ下した。
文禄元年(1592)景勝は秀吉に従い、朝鮮を後略するため名護屋に陣取った。
文禄二年(1593)景勝は兵を率いて朝鮮に入り、釜山城を築いて帰ってきた。
この頃、上杉氏の全領内の一年分の収入は約三百万石であった。
秀吉は景勝の能力を心中恐れ、憎んでいた。また信玄が長い間国人を訓練して、国人も景勝を推戴して、その勢力がなかなか強いことを秀吉は心配し、なんとか上杉氏の所領換えをしようと思っていた。
あるときくつろいで、景勝に「貴公の国の収入はいくらか」と問うた。
景勝は削られるのを恐れて「七、八十万石です」といった。
秀吉はわざと驚き、「なんと少ない」といって、会津にうつして百二十万石を領有させた。
兼続は米沢の地三十万石を賜り、越後国は堀秀治に賜った。景勝は非常に残念に思った、慶長2年(1597)であった。

2026・6・4 上杉景勝の武略
織田信長は甲斐国に入って、「武田氏一族の将士で、降参して出てくる者には元の領分を与える」と号令をかけた。武田勝頼の大叔父、武田信就、信充、叔父の信綱、信竜、弟の信貞、従兄弟の信豊、及び例の二人(長坂と跡
部)、小山田義国など相次いで降参したが、皆誅殺された。ただ、穴山信良だけは甲斐国の一部(巨摩郡)を領有できた。
上野国の諸将で、武田家譜代の家臣でなかった者は、みな滝川一益に従い、信濃国の諸将は森長可に従い、柴田勝家らともに、上杉氏を前後から攻めて滅ぼそうと図った。
そのとき東北地方では、「信長の軍は甲斐国で大負けをした」という間違った噂が広がった。そのため諸方で一揆が起こった。上杉景勝は兵を遣わして一揆を助け、柴田勝家らを相手に越中国で戦った。勝家は越後国の兵が強いので恐れて、塀や柵を作って防いだ。他の諸将は上杉景勝が若いことを侮って柵外に出て戦い、撃ち破られた。滝川一益はこれを聞いて、兵を遣わして越後国に入らせた。
五月、上杉景勝は滝川一益の兵を三国峠で迎え撃って大いに破り。自ら大将となって越中国に入り、魚津城を陥れた。そして方向を転じて信濃国に入り、森長可と戦った。
勝家らがその将、明智光秀に弑せられた。穴山信良は走り帰る途中で盗賊に出会って殺された。滝川一益・森長可・柴田勝家は信長の死を聞いて、西に逃げた。そのため武田氏の旧領はとても乱れた。諏訪頼忠、小笠原貞慶、村上国清らはみな挙兵して祖先の旧領を取り戻そうとした。
上杉景勝は自ら兵七千を率いて、彼らを助けた。七月、景勝は海津城に入った。北条氏、德川氏がおのおの数万人を率いて攻めてきた。真田昌幸・高坂源吾は以前、上杉景勝についていた。そのうちに両人とも、北条氏に内通し、「われらが裏切れば、景勝は生け捕りにできる」といった。
景勝はこれに気づき、源吾を捕らえて殺した。しかし北条氏のほうではそのことを知らず、真田昌幸を案内として千曲川を渡り、源吾の知らせを待った。景勝は源吾の首を送り、戦を申し込んだ。北条氏は推引き下がった。そのうちに德川氏が甲斐国、信濃国を取った、景勝は川中島の四軍だけを平定して帰った。
景勝は幼少時より武勇があり、大将の器量があった。彼は自分が謙信に養育された恩に報いるため、養父の謙信の背いた実父長男政景の以前の罪を償おうと心に誓っていた。
かつて謙信は、深沢九鬼という者ら二人を殺そうと思ったことがあった。そのとき景勝は十四歳であったが、自分の手で彼らを斬った。謙信はその勇敢さを褒めて、実父長男政景の旧領を与えた。政景はまた軍に従ってしばしば手柄を立てた。謙信の死から三年目に、上杉景虎に勝ってからは、将士もみな景勝に服従した。ただ、柴田因幡という者が新発田にたてこもり、服従しなかった。
景虎はいつも国内に心配事があり、国外のことまで専念することができなかった。このとき、織田氏の隊将筑前守羽柴秀吉が明智光秀を誅して京畿地方を平定し、柴田勝家と戦って殺し、加賀国・能登国を取った。
2026・5・19
久保寺辰彦さん「頼山陽全書に掲載されています」
⇔見延典子「梵王など出ていないことが気になります」
久保寺辰彦さん
「難抜南無六字城」が『頼山陽全書』詩集巻二十三にあります。
⇔見延典子
「ありがとうございます。ただ。結句の「難抜南無六字城」以外は「親鸞会」
のホームページに掲載されているものとは異なりますね。特に「梵王(本願
寺の顕如上人)」など出ていないことが気になります。『頼山陽全書』に出て
いるものが決定稿という認識があります。初めは親鸞会のホームページに掲
載の内容だったものを、推敲の果てに全書にある内容にしたのでしょうか。
2026・5・17
武田勝頼の最期
昨日掲載したのは、5月12日放送の「プラチナファミリー 華麗なる一家をのぞき見」という番組。今は亡きフランス人画家・バルテュスの自宅が紹介され、所蔵品として頼山陽の一文が書かれた扁額が紹介されたという。
一見して山陽の筆跡ではなく「經如」という落款がある。「難抜南無六字城」について、頼山陽全伝の詩集で探したが、見つけ出せない。ネットで検索すると、「親鸞会」というホームページで、以下のように書かれていた。
濃蹶・峡顛いずれか抗衝せん
梵王ひとり降旌を樹てず
豈図らんや右府千軍の力
抜き難し南無六字の城 (頼山陽)

美濃を制した斎藤道三(濃蹶:のうけつ)も、甲斐の武田勝頼(峡顛:きょうてん)も、あらがう術のなかった織田信長(右府)に、本願寺の顕如上人(梵王)だけが、屈しなかった。
だれが予想したか、あの信長千軍の力でも攻め落とせなかったとは。
驚くべき南無六字の法城、石山本願寺。
ここに『日本外史』で読んだ直後の武田勝頼の最期が出てきて、何かに取り憑かれたような気がして、震えがきたのだった。
日本外史を読む会 第1、3金曜日14時~ 頼山陽史跡資料館。 「武田氏上杉氏」後は「毛利氏」に入る。会員8名。新会員募集中。会費=お茶代
また席上、最近放映されたテレビのバラエティ番組で、頼山陽が取り上げられたという話が出ました。その映像の一部を会員が送ってくれました。内容については次回お知らせします。
2026・5・16
映像を活用
5月15日の「日本外史を読む会」ではプロジェクターをお借りして、ネット上に出ている武田氏関連の映像を観ながら、理解を深めました。
2026・5・15 武田氏の滅亡
このように敵兵が四方から攻めてきたが、武田勝頼のいる新府(韮崎城)の城壁はまだ普請ができあがっていなかった。勝頼は他所に移って敵を避けようと考えた。嫡子の武田信勝が嘆き「万事このようになってしまいました。どこへ行っても逃れることはできないでしょう。源頼家(八幡太郎)以来の旗と楯無の鎧とを焼いて、心静か

自害なされるべきです」といったが、勝頼は返事をしなかった。
小宮山義国はかねてから勝頼を生け捕って織田氏に渡し、褒美にありつこうと目論んでいたから、勝頼に「私の領分の岩崎城は険阻なので、立て籠もるには都合がよろしいでしょう」といったが、真田昌孝が「それよりも、私の領分の吾妻城のほうが険阻で、しかも兵糧がたくさんあります。来られれば、命がけで殿をお守りします」というので、勝頼は真田のほうを選び、準備に帰らせた。
すると例の二人が「真田は新参者で、小宮山は譜代です。それを新参者のほうにいかれるのはどうかと思います」という。勝頼は二人の意見に従って岩崎城のほうに行こうと思い、まず小宮山を国に帰らせて、自分を待たせることにした。勝頼は多くの反臣の人質を分かち与えた上で、逃げ散じさせた。そして家の宝物をとりまとめ、残兵五百人を連れて岩崎城へ赴いた。新旧の両府を望み、君臣とともに顔を見合わせて涙を流した。
勝頼の一行は柏尾に着いて、岩崎城から小宮山が迎えにくるのを待った。ところが七日待っても迎えに来ない。そこで仕方なく駒飼の民家に逃げこんだ。その夜、小宮山が人をつかって不意に襲い、人質を取り戻しておき、関所を封鎖して勝頼の行く手を塞いだ、
勝頼はどこへいけばいいのかわからなくなった。そこで天目山に逃げ込んだ。兵士はわずかに四十人しかいなかった。土屋昌恒、秋山光次は勝頼の馬を引き、阿部忠高、温井常陸は槍を携えて従った。この時、小宮山は一騎でやってきて、一行を追った。以前、小宮山はたびたび勝頼に意見し、例の二人を除くように請うた。また小山田将監という者と争って、双方から訴え出たことがある。そのとき将監は多くの賄賂を使って例の二人に結びつき、勝頼は小宮山に役をやめさせて禁固したのだった。
今、小宮山は勝頼が危ないというので駆けつけ、田舎道で追いついた。土屋昌恒に頼んで取り次いでもらい、勝頼に向かって「わが殿は以前私を避けられたにもかかわらじ、私が殿の難に赴きました。このことは以前の殿のご明察違いであったことを世の中に知らせることになります。私が赴かなければ義理を欠くことになりますが、そんなことより殿のご明察違いが明らかになるしょう」といって、「長坂調閑」はどこにいますか」と訊いた。土屋が「昨夜逃げた」といった。「跡部勝資はどうか」と訊くと、「彼も逃げた」と答える。「小山田将監は?」「逃げて十日になる」
小宮山が「そんなことにあるだろうと以前から思っていました」といった。勝頼は面目ないと思い、うつむいて何もいわなかった。そのうち天目山の山僧が村民と相談し、敵の案内をして、勝頼を捜し求めた。そこで勝頼は妻の北条氏に相模国に逃げ帰るように勧めた。すると妻が「どんな顔をして兄に会えましょうといった。また子の信勝に逃げ道をつくり、陸奥に逃がそうとしたが、信勝は「父こそ逃げられたらよいでしょう。私は武田の家督を継いでいるので、義としてここで討死しします」という。勝頼は「それなら一緒に死のう、しかしお前はまだ鎧着の儀式をすませていない。それを終えてから死ぬべきだ」といい、烏帽子親を秋山光次に頼み、信勝に楯無の鎧を着せた。儀式が終わるころ、敵兵が襲ってきた。一同の者は腹が減って、立ちあがることすらできない。勝頼は白い布で鉢巻きをして、刀を抜いて自ら戦った。信勝は槍で、土屋は弓で付き添って、敵を三度も退けた。
山県氏の足軽の津寺弥兵衛という者が、謀反人どもを集めて、山の後ろから射下ろしてきた。武田の兵はみな倒れた。土屋は矢を使い果たしたので、刀を抜こうとした。敵は槍で突き刺そうとした。勝頼は走り寄って土屋を助けようとしたが、逆に喉と脇を刺されて死んだ。三十七歳であった。信勝も討死した。十六歳であった。土屋、小宮山、秋山らも討死した。こうして武田氏は滅亡した。
『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より跡部大炊助勝資
心のため岩殿、久能、吾妻の三城を築き、備えられました。ただ、謙信本人がわが方を攻めるのに、北条氏、織田氏と連合することを快く思っていなかったようです。そのため格別事件も起こりませんでした。今、隣国には謙信のように潔い者はおらず、どうして備えずにいられましょうか」。勝頼もそうだと思い、韮崎に城を築き、新府と名付けた。
穴山信良は勝頼の娘を息子の嫁にほしいと思った。ところが武田信豊が長坂調閑・跡部勝資に賄賂を送り、その娘をもらえるように頼み、願いは叶った。信良は怨み、織田氏に内通した。諸公族、諸将も内通する者がおおかった。木曽義昌は勝頼の妹婿であった。しかし武田氏からの軍資金のとりたてに苦しみ、内々信長に降参し、その兵を道案内したいとまで申し入れた。それを勝頼に告げに来た者がいた。しかし長坂調閑・跡部勝資は「嘘だ」と退けた。そのうち木曽義昌が信長に内通したことが発覚した。
天正十年(1582)五月、勝頼は義昌を討とうと思った。すると阿部忠高が「木曽の土地は険阻で狭く、容易にいくことができない。私が行って木曽義昌を説得して備えをゆるめるようにさせましょう。そして殿の兵はその後から来られればいいでしょう」。長坂調閑・跡部勝資はこれを邪魔した。ついに武田信豊に命じて五千人を率らせ、雪もかまわず征伐に行かせた。しかし義昌に鳥居峠で出会い、大敗して帰ってきた。
二月、武田勝頼は兵二万人を引き連れて、諏訪に向けて出陣し、諸将を分けて要害を守らせた。しかし一方の信長は長子の信忠を遣わして、兵十余万人を連れて北条氏も、おのおの大軍を連れて信長に加勢した。
下条信氏は滝沢を棄てて逃げ去った。小笠原信峰は松尾城を築いて降参した。
信忠が桔梗ヶ原(長野県塩尻市)の地名に到着した。
勝頼は諸将を呼び寄せて諏訪に集まって相談したが、意見がまとまらなかった。そのとき城昌茂が進み出て「今日の形勢では一日たりとも猶予はありません。私は横田尹松と二人で兵五千人を拝借させていただいて先鋒となり、真田昌幸、小山田昌辰らはその残りの兵を引き連れて続いて進軍すれば、的はこにたびは攻めの姿勢でやってくるため、長篠の戦いの時のような柵を作らないとおもいますので、我が方がきっと勝てます」
勝頼は例の長坂調閑・跡部勝資に訪ねた。二人は「年少者のいうことなど取り上げるべきではありません」
阿部忠高は「私が忍びの者を遣わして敵の様子を探らせたところ、敵は深く他国に入り込んできたため、軍勢は散り散りに離れてしまい、陣立てが整っていません。この際急襲すべきです。わが軍は兵を合せて急に進み、敵の千手を打ち破り、肝を抜きましょう」と願ったが、例の二人は許さなかった。
そのうち穴山信良が背いて家康に降った。駿河の諸城はみな守りを解いて逃げた。ただ、田中城の守将依田信蕃(のぶしげ)だけは降参しなかった。以前、德川氏はたびたび依田信蕃を攻めたが、上手くいかなかった。このときには、德川氏は使いをやって、依田信蕃に降参するように説き勧めた。依田信蕃が「わが城を守ることだけを心得ていて、他は知らぬ」というので、穴山信良に書面を送らせ、諭させた。
三月、依田信蕃は田中城から出て、甲斐国に帰った。德川氏は厚い俸禄を餌にして、彼を招いた。しかし彼は辞退し「私は国の難儀に赴くのだ。自分の家のことを計る暇はない」
武田氏の諏訪の陣営は崩れ、残っているのはわずか三千であった。そこで勝頼は、新府(韮崎)に帰った。
信長の長男信忠が兵を合せて高遠城を取り囲んだ。城将の仁科信盛は小山田信辰と城を守った。
信忠が弁舌のたつ者を城に入れて、「孤立無援の城に立て籠もって、わが大敵と対峙している。しかしいずれは粉微塵する。もしも降参すれば、大将として迎え、知行も増やそうではないか」
小山田信辰は「武田信玄公に報いるのはまさしく今日である。貴様はなんという了見だ、わしを誘惑しにくるとは」といい、使者の耳をそいで追い返した。
信忠は怒り、小笠原信嶺を道案内にして急に攻め立てた。小山田信辰は力の限りたたかい、髱髱城から出て信忠を狙い討ったが、うまくいかなかった。高遠城はついに落ちた。小山田信辰は城将の仁科信盛、渡辺某と討死した。

氏に好意を寄せ、德川氏を裏切ることを約束した。武田勝頼は受諾した。しかし事が発覚して、德川氏の手によって松平信康母子は殺された。
九月、武田勝頼は沼津に泊まっていた。北条氏が兵四万人を率いて東方の三島に陣取り、武田勝頼に対抗した。
十月、德川氏が険阻を越えて駿河国に入ってきて、由比に火を放った。
武田勝頼は別将に命じて三島に陣取る北条氏に当たらせておいて、自分は西方の由比に向かって出かけた。長坂調閑・跡部勝資はわざと行軍を手間取らせた。由比に来てみると、德川氏はもう去った後であった。
天正八年(1580)六月、德川氏が高天神城を攻めていた。十月、その城が落ちかかった、城将の岡部与行は武田勝頼に救援を頼んだ。
次将の横田尹松が勝頼に「城は敵地の奥深くにあるので、貴公はここをでないほうがよろしいでしょう。私共は本分を守り、城を守って討死します。もし討死を免れたなら走り帰ります」と意見した。将士は皆彼の意見に賛成した。
勝頼は「黙って見ているだけで動かないのでは申し訳がたたない」といい、他国に出陣であることを口実とするため、高天神城より逆方向に出陣して上野国で威力を示し、膳城を攻めて、陥落させた。
天正九年(1581)月、勝頼は北条氏政と伊豆で対陣した。そのとき氏政の大将松田憲秀が勝頼に内通した。勝頼は北条氏と戦おうと思ったが、例の二人がとめた。
三月、高天神城は德川家康に攻められて陥落し、城将岡部与行は生け捕られた。次将の横田尹松が力戦して帰ってきた。勝頼は褒美を与えようとしたが、尹松は「逃れて帰ってきたのに褒賞をいただくことは、殿さまから申せば濫賞であり、私から申せば冒涜です」といって固辞した。
2026・4・16
上杉景勝と上杉景虎の戦い
上杉氏の将の直江兼続・本庄繁長などが、跡継ぎのことで相談していた。「三郎(上杉景虎)殿は元々上杉の血筋ではない。血筋のあるのは上杉景勝殿である。また殿の実の甥である。この方を継嗣にするべきである。もし三郎殿を立てたなら、血筋のつながる北条氏

はそれをよしとして、北陸道を併呑して、我々は皆北条氏の家来となってしまうだろう」
そこで上杉氏の将は上杉義治を使わして、父の謙信からの命令と偽り、景勝を上田から急ぎ迎えた。上杉氏の本拠の春日山城に来ると本丸に入れ、腹心の者どもを分けて諸門を守らせた。景虎は外城にいたが、兄弟と日夜競り合い、弓や鉄砲を互いに放ち合った。
織田氏の忍びの者で、越後国にいた者が走り帰り、このことを織田氏に注進した。信長は非常に喜んで、手揉みしながら「これで天下は平定したぞ」といい、佐久間信盛を加賀国に入らせて、前田利家を能登国に入らせ、佐々成政を越中国に入らせ、めいめい思うがままに攻め取らせた。
一方、上杉景勝、上杉景虎の双方は対決するばかりで、和解しなかった。そのため信長の軍を防げなかった。景虎はついに敗れ逃げ、北川の上杉憲政のところに逃げ込んだ。
戸定城主の北庄丹後がこの変事を聞いて駆けつけ、景勝に「二人の若殿(景勝と景虎)は八カ国を分け与えておのおの四カ国ずつを領分として、いっしょに信長を防ぐべきです。それができなければ信長は隙間につけこんで侵略にやってくるでしょう。先の殿(謙信)が百戦して取られた土地を一朝にして敵に与えるのはいかにしても惜しい」といったが、景勝は彼のいうことを聞かなかった。北庄丹後は怒って去り、景虎のほうを助け、たびたび景勝を破った、
景勝は善光寺に陣取った。景勝の母親は上田にいた。彼女は駕籠に乗って善光寺にやってきて、諸将士を呼び出し、面前で激励し、謙信の残した事業を続けるように申しつけた。将士は観劇して力の限り守った。
天正七年(1579)正月、上杉景勝は夜、兵を忍ばせて景虎の軍を背後から襲い、大いに破った。北庄丹後は脱出して逃げた。
上杉景勝の大将、荻田主馬は丹後が逃げたのに気がつき、追いかけて刺し殺した。これから諸城の多くは景勝に帰順した。景虎は逃げた鮫尾を固めた。北条氏政はこれを聞いて、兵一万余人を使わして景虎を助け、援軍を武田氏に乞うた。
武田勝頼は救援要請に応じ、上杉景虎を助けるため軍勢を飯山に繰り出した。景勝は武田氏と戦ったが、負けた。斉藤朝信が上田景勝に「武田信頼に東方の上野国を与えて、こちらの味方につくように気を引かれることです」と説いた。その前にまず黄金一万金を贈った。また例の武田氏家臣の長坂調閑・跡部勝資の二人にも手厚く賄賂を贈った。
この二人が代る代る武田勝信に「上杉景虎は殿の小舅です。しかし景虎のほうを助けて勝てば、北条氏の領分は東海と北陸とを合せて広く連ね続くようになり、おいおいその勢力が殿の領分にまで及んで来ることは、どちらがこちらの利益でしょうか。当然、上野国と一万両を得たほうが、よほど利益があります」と説いた。
そこで武田勝頼は、例の二人に説いた通りに上杉景勝と和睦して、兵を合せて逆に景虎のほうを攻めた、そのため景虎も憲政もみな自害して、相模(北条氏)の兵も引き去って逃げた。
北条氏政は非常に怒って武田勝頼と絶交し、織田氏・笹川氏とは約束を交わし、武田勝頼を挟み撃ちにすることにした。

2026・4・2 上杉謙信、西征の途で病没②
三月、謙信は越中国に入って蓮沼を取り、椎名泰種を捕らえて殺し、別将を飛騨国に入らせて江馬氏を平らげた。それから自分は加賀国に入り、小松を責めた。織田の将前田利家が小松を助けに来た。謙信は先方隊で撃ち取っ
た。そして川田長親に越中国を守らせ、柿崎景家に能登国を守らせて帰った。
信長は謙信が西に向かって進出してくるのを心配して、日夜、防ぐ手立てを考えていた。
すると景家が人を遣わして上方で馬を売ろうとした。信長は「これは上杉氏の君臣の間を離間させる良い機会だ」と喜んだ。そこで馬に十倍の値段をつけて買い取り、景家に向けてよい馬を得たことの自筆の礼状を送った。さらによい鷹はいないかと求めた。
景家は値段に目がくらみ、求めに応じてたびたび鷹を送った。内通したことを謙信に告げる者がいた。景家はついに謙信に殺された。
信長は能登国の長重面と、加賀国の松任彦紹を内々に引き込み、また一向宗の俗を味方に引き入れて、ともに北方の越後国に向かわせた。
天正五年(1577)能登国の長重連は兵を集めて穴水城に立て籠もった。小松、安宅、大道山の諸将も長重連に味方して同調した。
当時、筒井順慶、松永久秀らは大和国に立て籠もって東方の謙信に遠くから内通し、京都に向かって西上してもらうように促した、また西方の毛利氏とも約束して、東西から信長を挟み撃ちしようと謀った。
九月、謙信は自ら大将となって穴水城を攻めて陥れ、長重連を斬り、それから小松、安宅を攻めた。
織田信長は柴田勝家、前田利家ら五人の大将を遣わし、兵四万八千人を率いらせて助けに行かせた。信長自身もひそかにこれを助けた。
上杉謙信は小松、安宅、大道山の三城を陥れ、石動橋に進行し、織田氏の軍勢から十里離れた手前の所に陣取り、信長に使いをやって、明日早朝の会戦を約束した。信長はまた夜陰に乗じて逃げた。
謙信は「なんと、信長は逃げるのがうまい奴だ。ここに留まっていたら、全軍とも川の中に蹴落としてやったのに、残念だ」と大いに笑った。そのまま金沢まで進んで攻め陥れ、越前国に入り、途中織田氏の砦を攻めて、守っていた全兵士を追い払い、放火、掠奪しながら進んだ、煙や塵が天を覆うばかりであった。
信長は仕方なく退いて北庄を固め、さらに退いて長浜に入った。
謙信は寒くなって雪も降り出す気候になったし、また松永久秀らもすでに敗れ、死んだと聞いたので軍勢を引き返そうと思った。謙信は信長に書面を送った。
「信玄はすでに死んだ。貴公は四郎(武田勝頼)の方面を德川家康に当たらせておきながら、貴公自身は安土城にいる。思うに私に対する備えであろう。貴公は五畿内の敵とばかり気楽に戦っているから、わが北国人の手並みのほどは見ておられますまい。そこでお願いするが、明春三月十五日を限りとしてわが領分八カ国の兵を連れて西上する。そのとき貴公と相まみえよう。貴公は私を、皮足袋を履く軟弱な都人と同一視せぬようになされよ」
当時の京都人は皮足袋を好んでいたので、このように言ったのである。そこで信玄は使者にこの手紙を持たせ、越後布二千反も持たせて行かせた。
信長は使者を引き入れ、こういった。「帰って次のことを越後公(謙信)に申し上げてくれ。どうして我は貴公と戦うことを望みましょうぞ。貴公は西に上って来られるなら、刀剣を脱してただ扇子だけを腰に差して一騎でお目にかかり、貴公を道案内して京都に入ることに致しましょう。貴公は義理堅いお方ですから、私がこれまで苦心して勝ち取ったところを奪いとるようなことはすまいと」
使者は帰って報告した。謙信は嘲笑して「信長は性格の悪い英雄だ。上手いことを言って、油断させる裁断だ。聞くところ、長篠の戦いで信長は柵と鉄砲で武田勝頼を苦しめたという。明年はこの方法で我らに向かってくるだろう。どうしてそんな計略にひっかかるだろうか」
十月、謙信は越後国に帰り、一日おいて触れを回し、領分の八カ国の兵士を大いに挑発し、明年三月五日をもって期限とした。加賀国より西の兵士については、途中で加わり、従わせるようにした。五畿内地方は非常に恐れた。
信長は使者を立て、一方の武田勝頼に「これまでの怨みは水に流してもとのよしみに修復したい」と申しで、さらに「謙信が京都にきたら、私は家康とともに北陸道を防ぐ。何卒貴公はすぐにでも越後国を目指して攻め入ってください。成功すれば越後国は貴公の取り放題です」
勝頼は返事をしなかった。
天正六年(1578)三月、北陸道諸国の兵士は謙信の触れに応じて、雲のように大勢集まってきた。謙信は自分で出かけ兵士を点検して、軍令を言い渡して出発しようとしたが、出発に先立つ二日前(三月三日)病気にかかり、二日目に死んだ。四十九歳であった。信玄の死後五年のことであった。
2026・3・6 長篠での攻防
この年(天正2 1574)織田信長は三河国の将の奥平信正を招いて長篠城を守らせ、甲斐国の武田に備えた。
天正3年(1575)四月、德川氏の勘定奉行大賀某は内々甲斐国(武田氏)に味方し、德川氏を裏切ることを

約束させた。それで武田勝頼は楡城に向かって出陣した、しかし大賀某の陰謀が露見して殺されたと聞いたので、引き返した。
五月、勝頼は高坂昌宣に一万人を与えて上杉氏を防がせる一方、自分は一万五千人を連れて長篠城を囲み、道虚寺に陣取った。叔父の武田信実には鳶巣の砦(長篠城の南)を守らせた。德川氏が信長に救援を請うた、しかし信長は救援しなかった。德川氏の使者が救援を乞いに三回も往復したが、信長は出陣しなかったのである。
使者は「もし助けてくださらなければ、遠江国を武田氏に与えて降参し、逆に武田氏の先鋒となって尾張国を攻めとります。それに武田信玄は死んでいるのです。なぜそんなに恐れているのですか」
そこで信長は自ら大将になって助けにいった。兵はおよそ七万騎であった。それでもまだ信長は甲斐国の騎兵と直接戦うのを嫌い、柵を三重に施して立て、この柵を守るのに一万丁の鉄砲を準備した。
武田勝頼は戦おうと思った、老将の馬場信房、山県昌景、内藤昌豊らが「敵の軍勢は新たにやってきたばかりで、意気込みは強い。しばらくは避けたほうがよろしいでしょう。もしそうでないなら、長篠城を早く攻めるべきです。わが兵の多くを失っても、城を陥れて帰国できるだけはましです」と諫めた。
だが長坂調閑、跡部勝資の二人が「織田氏、德川氏の両敵を一度の戦いで平らげられるのです。老将らの卑怯な計画をお聞き入れになってはなりません」
馬場信房が「今日の戦ではわれら老いぼれの卑怯な者らが立派に討死するだろう。しかし貴公らのごとき者はせいぜい逃げ出してしまうだろう」
武田勝頼は室賀行俊と小山田昌行を留めて長篠城を包囲させ、自分は進んで豊川を渡って陣取った。翌日、敵は抜け道から鳶巣の砦を襲撃してきた。守っていた叔父の武田信実は敗れて死んだ。わが軍(武田軍)はこれを見て動揺した。敵が戦を仕掛けてきたのだ。
山内昌景は左の先鋒となって進んで敵の柵を攻めたが、弾丸に当たって討死した。馬場信房は右の先鋒となって真田則幸、土屋尚村とともに柵を破って進んだ、しかし二人とも弾丸にあたって討死した。
長篠城を包囲していた室賀行俊が武田勝頼の本陣にやってきて「敵の包囲を解いてもいいでしょうか」と乞うた。勝頼は「よろしい」と言った。言葉が終わると同時に敵の急襲を受けて味方の」諸軍は潰えた。
馬場信房は伝令を出し、武田勝頼に「殿はここから立ち退いてください。私が討死します」といった。信房は八十騎と戦ったが、すべての騎を失った。その後、信房は高い丘に登って振り返ると、勝頼が遠くまで逃げているのをみて、敵に「我は馬場美濃守信房だ、この首を斬って恩賞をもらったらよかろう」と怒号した。敵は大勢で突き刺して殺した、
案の定、長坂調閑、跡部勝資は真っ先に逃げた。高坂昌宣は前々から味方の敗北を心配して兵八千人をつれて国境近くに出ていたので、無事に勝頼を迎えられた、そこで昌宣は大いに勝頼を諫め、「北条氏と婚姻を結んで織田、德川を防ぐようにしよう」と願った。勝頼はこれに従った、
上杉謙信、西征の途で病没
織田信長は長篠の戦いで武田氏に大いに勝ったので、「武田氏はもはや心配するほどのものではない。心配なのは上杉謙信だけだ」と思った。そこで近江国の安土に大きな城をつくって移り住み、北陸道方面に備えた。柴田勝家は信長第一の勇将であったので、越後国を守らせ、北庄に居らせた。
八月、謙信は越後国の春日山城から兵を率いて加賀国に入り、松任城(石川県白山市)を攻めた。城主の蕪木高秀は信長に援助を請うた、信長が五万人を率いてきて、御幸塚に陣取った。柴田勝家が先鋒であった。
上杉謙信は急に松任城を攻めて陥れ、城主の蕪木高秀を斬り、首を信長に送り「このたび松任城を攻め落とした。内大臣様(信長)には遠方からわざわざこの城に来られた。誠にご苦労である、しかし城将はすでにこの通首を差し出したので、慎んで贈呈する。何とぞ貴公も一合戦して弔われるべきだ。明日朝お目にかかしましょう」
信長は承知して下り、夜陰に乗じて軍を退けた。そして伏兵を八カ所に設けて、謙信が追いかけてくるのを待った。上杉の諸将らは「追撃したい」と申し出た。謙信は「信長はただで帰るような奴ではない。追いかけたら危ない」といい、謙信も兵を連れて帰った。
この年、武田勝頼は使者を立てて謙信に和睦を乞い、織田氏に報復しようと思った。謙信は許し、人質を差し出させようとした。勝頼は承知しなかった。
そのとき德川氏が二股城を攻めてきた。大将の依田幸成は堅く守り、降参しなかった。そこで德川氏は諏訪城を攻め、小山を攻めた。勝頼は德川氏は我らが再び撃って出ることが出来ないと思っているのだろうか」といい、兵二万を募り、小山を助けた。敵は包囲をたち、立ちさった。
十二月、二股城主の依田幸成が死んだ。すると德川がまた二股を攻めてきた。幸成の息子の信松信蕃が防いだ。武田勝頼は城を捨てて退くように命じた、そのとき岩村城も信長に攻められて陥落した。その際信長は岩村城主秋山晴近の妻になっていた自分の叔母を殺した。
この月、高坂昌宣が以前に勧めていた通り、勝頼は北条氏政の娘を迎えて婚姻を結んだ。昌宣はこの婚姻でやっと織田、德川の二氏を防げると思い、人に向かって「今夜こそ我は枕を高くして寝られる」といった。
天正四年(1576)春、勝頼は遠江国に兵を送り、德川氏と横須賀で対峙した。勝頼は戦おうと思ったが、昌宣が「長篠の戦いで多くの兵を失い、ただ私だけが生き残っているばかりです。今の私さえも殺させるお考えですか」と戒めた。そこで勝頼は相良に退却し、城を築いて帰国した。
一方、越後国の将士が上杉謙信に「甲斐国(武田氏)の兵は長篠の戦いで負けたばかりです。今がつけこむ好機です」と説いた。謙信は「われは以前、信玄と数十回も戦ったが、甲斐国を勝ち取ることができなかった。その信玄の死に乗じて小倅(勝頼)を侮り、長篠の戦いで負けたことにつけこんで甲斐国を取ったら、どうして天下に顔向けできようか」
三月、謙信は越中国に入って蓮沼を取り、椎名泰種を捕らえて殺し、別将を飛騨国に入らせて江馬氏を平らげた。それから自分は加賀国に入り、小松を責めた。織田の将前田利家が小松を助けに来た。謙信は先方隊でもって撃ち取った。そして川田長親に越中国を守らせ、柿崎景家に能登国を守らせて帰った。
信長は謙信が西に向かって進出してくるのを心配して、日夜、謙信を防ぐ手立てを考えていた。
すると景家が人を遣わして上方で馬を売ろうとした。信長は「これは上杉氏の君臣の間を離間させる良い機会だ」と喜んだ。そこで馬に十倍の値段をつけて買い取り、景家に向けてよい馬を得たことの自筆の礼状を送った。またその上よい鷹はいないかと求めた。※馬と鷹は武家の社会的な地位や尚武の文化を表わすシンボル。
景家はその値段に目がくらみ、求めに応じてたびたび鷹を送った。その後内通したことを謙信に告げる者がいた。景家はついに謙信に殺された。
信長は能登国の長重連と、加賀国の松任彦紹を内々に引き込み、また一向宗を味方に引き入れて、ともに北方の越後国に向かわせた。
天正五年(1577)能登国の長重連は兵を集めて穴水城にこもった。小松、安宅、大道山の諸将も並んで起こり、長重連に味方して同調した。
当時、筒井順慶、松永久秀らは大和国に立て籠もって東方の謙信に遠くから内通し、京都に向かって西上してもらうように促した、また西方の毛利氏とも約束して、東西から信長を挟み撃ちしようと謀った。

2026・3・5 上杉謙信の西征
四方の隣国は、甲斐国の軍勢があまりにも精彩を欠いているのを見て、武田信玄は死んだとわかり、甲斐国の隙を窺うようになった。
信玄が死んでからの織田信長は上杉謙信に対して丁寧な言葉を使い、礼を厚く接した。以前信玄に対応したのと
同じようであった。信長は自分の妹を神保長純に嫁がせた。長純は上杉義春の兄で、謙信に従っていた者であり、信長はその関係を利用して表面は謙信に結びついていたが、内心では滅ぼそうと計った。またひそかに計略をもって上杉氏の諸士を招き、味方にさせた。
謙信はこれを知り、信長に裏表のある態度を書面で厳しく責めた。信長は返事を出してさまざま申し開きをしたが、謙信は聞きいれなかった。
ちょうどそのとき畠山義隆の大将、遊佐弾正ら山義隆を毒殺し、七尾城を率いて信長に降参した。
七月、謙信は兵三万人を率いて、西に征伐に向かった。長純を木船城に責めて陥れ、なお進んで加賀国に入り、金沢を攻め滅ぼし、兵を転じて七尾城を攻めた。上杉義春を大将として勢力を傾注させ、再び能登国を取った。
宇佐弾正らは信長に救援を請うた。信長は長島(伊勢国)を攻めている最中で、助けにくることができなかった。
九月、謙信は七尾城を落とし、宇佐弾正らを誅した。そこで兵をやすめること二日がたち、九月十三夜であった。月の色が明るく照っていた。謙信は陣中で酒宴を開き、諸将士と会合した。宴の最中に自ら詩を作った。
「霜は軍営に満ちて秋気清し、数行(すうこう)の過雁月三更。越山合わせ得たり能州の景、遮(さもあらば)莫(あ)れ家郷の遠征を億うを」
歌や詩の上手な将士に命じて、皆でこの詩を唱和させた。そして能登国中に政治を施して帰国した。
信長が大兵を派遣して助けにきたが、七尾城が陥ったことを聞いて、引き返していった。それでも信長はまだ使者を遣わして、謙信に謝罪してきた。
2026・2・23
武田信玄、西征の途で歿す②
諸将は信玄の遺言により喪であることを隠した。信玄の弟の信綱は信玄によく似ていることから乗り物に乗せて帰った。「信玄は病気なので、帰国する」といいふらした。
夕方、暗くなってから四方の使者を引き入れて面会した。信玄は生前に花押を書いて、前の部分を空けた白紙数

百枚を用意していた。だから隣国の者も信玄が死んでいるのを知らず、攻めてくる者もなかった。
信玄は平素から書物を一通り目を通しており、孫子の語を旗に書いた。その語は「そのはやきことは風のごとく、そのしずかなることは林のごとく、侵掠することは火のごとく、動かざることは山のごとし」
馬場信房が「風はなるほど早いが、急に起こっても、急にはやみません」
信玄は「軍の切っ先は早いことが大切といっているのだ。もし風がやむように味方の勢いがなくなったら、我は直ちに自ら手勢を率いてその後から出る。差しつかえはない」
馬場は「それではわが殿は二度目で勝ちを求められるわけですな」といった。
君臣が兵法を探求するのはこんな具合であった。
武田信玄の死はやがて回りの国々には知れ渡った。
北条氏は使いを馳せて、上杉謙信にこの事実を告げた。謙信は食事中であったが、箸を捨て、「我は好敵手を失った。世の中にこんな英雄がまたとあろうか」と嘆息し、長い間さめざめと泣いた。
甲斐の国(武田)の古参の大将、馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌宣の四人は、変わるがわる武田勝頼に向かい、謙信に和睦を申し込むように進言した。しかし勝頼は聞き入れなかった。生来、武田勝頼は強情で、人のいうことを聞かない男であった。父信玄の時代から長坂調閑、跡部勝資は勝頼に近づいて寵愛されていたが、勝頼の時代になってからもますます寵愛された。勝頼は美濃国に兵を出そうとした。前記の古参の四将は代る代る止めるように申し立てた。
しかし長坂調閑、跡部勝資の二人は出兵を勧めた。だが三河国の徳川氏の軍が長篠城を包囲したので、出兵はとりやめになった。
五月、武田勝頼は馬場信房をやって長篠城を助けた。敵(德川氏)は伏兵を設けておいて柴を焼き、いかにも陣屋を焼いて逃げるような格好をして、わが(武田)軍をおびき出そうとした。
馬場信房が「あの煙の色は白い、陣屋を焼いたのではない」といって、騎兵に踏査させた。案の定、伏兵が設けてあった。そこで退いて黒瀬に駐屯した。長篠城が敵に落とされてから国に帰った、山県昌景は浜松(徳河氏本拠)に向かったが、これも敗れて帰国した。
天正十年(1574)二月、武田勝頼は美濃国に出陣し、多くの砦を陥れた。
五月、高天神城を攻め落として帰ってきて、勝利を祝い酒で振る舞った。高坂昌宣、内藤昌豊が互いに話し合って、「わが武田氏の滅亡はこの宴会に兆しが見える」といった。昌宣が勝頼に「わが殿は勝利に酔って増長しておられ、戦をやめようとなさいません。これでは四隣の諸国から怨みを買うこと必定で、決して国家長久の計ではありません。これまでにとった土地は織田、德川の二氏に還付してから二氏と和睦し、そのかわりだんだん関東方面の土地を取り、兵力を分割せず、厚くして、一方面だけに勢力を集中するのがよいでしょう」
気に入りの長坂調閑、跡部勝資が邪魔をしたので、この意見も採用されなかった。そのうち気に入りのこの二人は勝頼に勧めて、遠江国に兵を出させた。天竜川を渡り、敵に出会ったが、戦わずに帰ってきた。
その帰途、伊那まで来ると、武田信虎はまだ生存していた。八十になっていた。そこで輿に載せて連れ帰ろうとした。しかし以前のように凶暴だったので、やめた。

2026・2・20
武田信玄、西征の途で歿す
十月、武田信玄は、謙信は雪に邪魔されて越中刻から出てくることができないと見て、再び遠江国に出陣して二股城を陥れた。信長は内々に兵をやって德川氏を助けた。
十二月、信玄は進み、まず三方ケ原に陣し、浜松城に迫って城下に火をつけて戦をしかけた。城兵は出てこなかった。信玄はわざと退却した。すると城兵の多くが出てきた。
上原能登が小山田昌行に「德川時の陣形は一重でしかなく、後詰めの陣がいない。また織田氏の旗も動揺している。破ることは造作ない」といった。小山田昌行はそのことを信玄に告げた。わざと退却していた信玄は、自分の旗を引き戻した、小山田昌行は武田勝頼および山形昌景・馬場信房らとともに先鋒となった。昌行、昌景がまず敵と打ち合って退却した、その後を勝頼、信房が受け継ぎ、敵の陣営をついた。
信玄は米倉丹後をやって抜け道を作ってから、横から撃たせ、大いに破った。勢いづいた諸将は一気に浜松城を攻めたいと願い出た。高坂政宣が信玄に「それはダメです。我々が今から二十日かけて攻めても浜松城を落とせないとなると、信長が大軍を率いて助けにきます。対峙すること数ヵ月に及ぶと、こんどは信玄が信濃国に出てきて撃ってくるはずです。そうなると自然に我らは信濃国を救うため引き返さざるを得なくなり、信長は自分の力で武田糞を退けたと言いふらし、わが武田の威名をけがします」
信玄は退き、刑部(おさかべ)に留まった、この戦いで織田軍は退場して平井汎秀を討ち取り、その首を信長に贈って信長を責め、(内々に德川氏を助けているから)信長と絶交した。それでも信長は言い訳ばかりしていた。
天正元年(1573)正月、信玄は野田城を陥れた、しかし信玄は病に罹って帰国した。信長は将軍足利義昭に頼み、信玄に兵をとめるように諭してもらった。信玄は断り、信長の罪科五箇条を訴え出た、
二月、信玄は秋山晴近をやって岩村城を誘い込み、降参させた。岩村城主の妻は信長の叔母であった。秋山晴近は彼女を奪って妻とした。この頃になると京畿の将士で信長に好を通じる者が多くなった、
三月、信玄は病気が治り、再び出陣した「こんどの出陣では必ず京都に攻め込もう」といった。兵三万を手分けして美濃国に出陣した。信長は一万人をひきつれ、防いだ。山県昌景が八百騎で信長に向かった。信長は戦わないで逃げて、ますます熱心に和睦を求めてきた。しかし信玄は許さなかった。信玄は方向を変えて三河に入り、平谷に迫った。
四月、信玄は病気が再発した。自らはもうダメと思ったので、諸将を呼び寄せて死後のことを処理した。武田勝頼にしばらくの間は部下の将士を治めさせ、継嗣に武田信勝の成長を待たせることにした。
信玄は勝頼を戒めて「お前は慎むのだぞ。戦を好んでわが国を滅ぼしてはならないぞ。我が死んだら天下はただ謙信があるばかり。お前は彼の助けを請い、国のことを万事彼に託せよ。謙信はいったんお前からに依頼を受けたとなると、義理堅い男だから、隣国と一緒になってお前を滅ぼすようなことはしないだろう』と言い終わって昏睡状態になった。
しばらくして山県昌景を呼んで「明日、お前の旗を瀬田に押したてよ」といった。このようにして没した。五十三歳であった。
2026・2・7 次は「毛利氏」
日本外史「武田氏 上杉氏」はリアルタイムで掲載内容を音読しています。「武田氏上杉氏」が終了後は「毛利氏」を読みます。現在会員10名
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2025・10・16 上杉謙信、たびたび関東を討つ
当時、上杉謙信はしきりに加賀国。越中国を攻め取り、時々関東にまで撃って出ていた。行動は迅速で、敵は測り知ることができなかった。後に続く味方の兵がなくても、常に深く敵地に入りこんでいき関東八州を横行した。
関東八州の諸城は謙信がやってきたと聞くと、身を震わせて怖れ、城に閉じこもって出なかった。謙信が帰って三国峠を登ったと聞くと、初めてホッとして知らせ合い、厳重な警戒を解くという有り様であった。それはちょうど雷雨でも通り過ぎるようなものであった。
元亀元年(1570)佐野昌綱の一族の者が飯盛城中にたてこもり、城主の佐野昌綱と戦った。北条氏政は四方を率いて一族を助けた。城主昌綱は謙信に危急を告げた。正月、謙信は早速出発し、昼夜を問わず進撃した。謙信は、北条氏政が兵を二分して一隊を自分のほうに当たらせ、一方を佐野昌綱の飯盛城を陥れようとしていると聞き、諸将に向かって「たとえ私が北条氏と戦って勝ったところで、飯盛城を救えなかったら何にもならない。私は一人で城中に入って堅く守ろう。お前らは上杉義春を大将として、後から続いて攻めよ」と言って、一人で八十騎を率いて氏政の陣の前を通過し、城中に入り込んだ。謙信は黒木綿の着物を着て、別に鎧を着ず、十文字槍をひっさげて馬に乗っていった。敵陣が「あれは上杉謙信だ」とゆびさし、非常に驚きおそれ、遮って撃つこともしなかった。
やがて諸軍が到着した。北条氏は潰え走った。謙信は飯盛城を落とし、下野国、下総国を降伏させて厩橋城に入った。氏康は氏政が負けたのを聞いて一万騎を率いて助けに来て川越城を陣取り、互いに睨み合った、
三月、氏康が使いをよこして和睦を申し入れてきた。末子の三郎を人質として提供したいと言った。謙信は諸将と相談して許し、富田の大中寺で会見し、三郎を連れて帰り、自分の元の名「上杉景虎」を与えた。
四月、北条氏は駿河国に入って深沢城を攻めたが、落ちなかった。そこで和睦した謙信に頼んで上野国と信濃国の間に兵を出してもらい、信玄を牽制した。信玄は自ら大将になって出て行き、深沢城を防いだ。やがて両軍とも退却した、
十一月、信玄のもとにいた德川氏の人質(家康の弟)が逃げ去った。信玄は德川家と絶交した。しかし信長からの信玄への贈り物を持っての挨拶は以前にも増して丁寧になった。
この頃、氏康は病死した。子の氏政が信玄に和睦を申し入れてきた。将士が信玄に「和睦の必要はありません。この際北条氏の喪につけこみ、その地をとれば、謙信でも北条氏を援護できますまい」
信玄は「われは以前から東海道に兵を繰り出して海に沿って西上し、わが旗を京都に立てたいと思っている。それができればわれは死んでも悔いはない。つい先ころ、医者がわれの脈を診て、重病にかかるだろうと言った。われが関東を攻略している途中で病気にでもかかったら、志を成就できない。信長はわれが西上しないのにつけこみ、われの進出を家康に当たらせておき、内々德川氏を助けている。その計略はずいぶん憎々しい。だからわれは北条氏と和睦して、いずれ西方の信長を始末しようと思う」
十二月、信玄はついに氏政からに人質を受け取り、今川氏真を追放した。氏真は逃げて德川氏を頼った。
このとき信長は足利義昭と不仲であった。義昭は書面で信玄、謙信の二人を諭し、京都に呼び、信長を殺させようとした。
元亀二年(1571)二月、信玄は兵を率いて東方に出陣し、遠江国に至り、高天神城を攻めた。四月、三河国に入り、八つの城を陥れた。
德川氏はこれらの城を助けようと迎え撃ってきたが、甲斐軍(武田氏)の陣形がいかにも厳重で整っていたのでせめこめそうもないとみて、接戦しなかった。
信長は義昭が謙信、信玄を京都に招いてると聞き、非常に怖れた。そこで信玄の機嫌をとり、書面で「家康は帰国と接戦しています。おそらく過失もあったでしょう、私がよく教えてやりますから、お咎めなきようにお願いします」と謝った。
信玄は「われは德川氏のことは一切知らぬ」と返答した。
德川氏は二名の使者を送って、謙信によしみを通じた。誓書を差し出して信玄を挟み撃ちしようと願い出た。
村上義清の子、村上国清は越後国(謙信)に寄寓して、德川氏からの申し出に賛成した。
元亀三年(1572)四月、謙信は一万人の兵を率いて信濃国に出撃し、長沼に火を放ち、遠くからながら德川氏の加勢をした。
武田晴信は伊那にいて、非常の知らせを聞き、兵八百を連れて防ぎ、逃げかけた。謙信は「勝頼は少ない兵ににもかかわらず、われに当たってきた。さすがに信玄の子である。われは彼に勇名を成し遂げさせてやろう」といって兵を率いて退却し、越中国に入り、椎名、神保の二氏を攻め平らげた。
2025・10・14
武田氏、北条氏と争う
武田信玄は「庵原某は以前から山元晴行とつきあいがあって、兵法に詳しい男」と聞いていたので、庵原某を呼び出して城を築くべき要害の所を尋ねた。「久能と興津とがよい」と答えた。そこで城を築いた。

すると案の定、北条氏康が大軍を率いて今川氏を助けにやってきて、駿河国を取ろうとした。その際に北条氏は、今川氏真を元通り駿河国に復させることを口実にした。
信玄は兵を留めて府中を守らせておき、そして自分は奥津城に陣取った。
北条氏は薩陲山に陣取った。睨み合ったままでまた戦にならなかった。
信玄は「北条氏康はたびたび両上杉と戦った。以前氏康本人から聞いた兵法からすると、兵を動かすことが緩やかで、相手にしやすい奴だ」といった。そこで将士に酒を飲ませて「まだ寒いか」と問うた。すると将士は「まだ寒い」と答えた。信玄は「われわれは平地に陣取っていながら、このように酒をのんでもまだ寒い。彼らは薩陲山の上に陣取っているから、ここよりも寒いのはわかりきっている。そのうちにきっと山から下りてきて、麓に陣取るだろう」
薩陲山の北条氏の陣営に人をやって窺わせた。案の定、陣中に人はいなかった。その兵糧、武器を奪って帰ってきた。その後もたびたび戦いを挑んでみたが、勝負が決まらないまま四月になった。
信玄は諸将に計略を尋ねた。馬場信房が「私は以前啄木鳥が虫をついばむのを見ましたが、虫を前へ出そうと思うと、まず後ろのほうをつつきます」といった。信玄はしばらく黙って考えて「その通りだ」といい、夜、軍事を治めて帰国した。それを見た今川氏真はついに相模国(北条氏)に引き返した。今川氏真の気に入りの三浦義鎮は德川氏に誅された。
永禄十二年(1569)六月、武田信玄はまず駿河国に出てから伊豆国に入り、鳴島に陣取った。ちょうど大雨が降り、雨水が陣中に流れ込んだので引き返した。こうして北条氏康の兵は本拠の小田原より出て、西野方面ばかり防いだので、小田原にいる者はいたって手薄であった。
信玄は忍びの者によってそのことを知り、小田原城を攻めようと相談した。
高坂昌宣が諫めて「北条氏はこれまで謙信に攻められて懲りているので、防備の策は取りわけ十分とっていることでしょう。そこをわが殿が深く攻め入り、一度でも失敗するようなことでありますと、これまでのお手柄は全部だめになってしまいます。それに謙信が後ろのほうからつけこもうと狙っていますから、お止めになったほうがよろしいでしょう」といった。信玄は聞き入れなかった。
九月、兵を武蔵国の八王子にやって、北条氏に属している城で、まだ降参していない者を攻め、そこを通り越して南方に向かい、小田原に攻め込み、城下に火を放った。
十月、引き返す途中、三増峠で北条氏の兵二万人と出会った。そこで諸将を呼んで内藤昌豊に命じ、荷駄の係を掌らせようとした。昌豊はその役目を辞退した。
信玄は「前に謙信は荷駄を失ったから小田原で負けたのだ。これは重要な役目だ」と言って、やはり昌豊に命じた。伏兵を八箇所におき、合戦になってから伏兵が出てきて挟み撃ちにして敵を破った。
信玄は国に帰ってから、小田原攻めを諫めた高坂昌宣に向かって「お前は勝てないだろうと言ったが、勝ったではないか。どうか」と言った。昌宣は「これはたまたま運よく勝っただけのことです」と言った。信玄は昌宣には忠義があって、また直言してくれることを喜んだ。
北条氏の相模国の兵で、駿河国を守っていた連中が、小田原の危急を聞いて持ち場を棄てて、小田原に向かって帰ってきた。信玄はこれを伺い知った、
十一月、信玄は駿河国に急いで撃って出て、九つの城を陥れた。ただ蒲原城だけは落ちなかった。信玄は府中へ向かうのだと言いふらして、兵を蒲原城の近くの山の中に隠しておき、西に向かった。敵は蒲原城を空にして追いかけてきた。
するとわが伏兵がたちまち怒って蒲原城を取った。それからついに府中およびその他の城を陥れた、德川氏と協定して大井川を領地の境界とした。
織田信長が書面を寄こして「松平家康(家康)は私がもっとも目にかけている者ですから、貴公も何卒よく教えてやってください。家康の弟が今川氏のところにおります。貴公は彼を人質に取られたらよろしいでしょう」
関東、北陸の諸国はみな使者をよこして、信玄の勝利を祝った。こうして信玄の領地は南海(太平洋)に通じ、謙信の領地は北海(日本海)に通じ、この二家の領地で日本を東西に絶ちきる形になった。
北条氏はその東にあって、德川氏はその西にあった。織田氏は信玄に援助を求め、北条氏は謙信に援助を求めた。しかし謙信のほうでは北条氏からの求めを承諾するところまでには至らなかった。
この年の春、謙信は武蔵国、下野国の諸城を攻め落とした。秋には越中国に入り、神保長純を攻めた。ちょうどその時畠山義則が家臣を治めることができないことから、能登国が乱れていた。謙信は上杉義春を遣わし、治めさせた、畠山義則の子、畠山義隆をそこに立てて帰ってきた。
2025・10・1 上杉氏、武田氏と北条氏の連合軍と戦う②
永禄六年(1563)武田信玄は上野国に兵を出して箕輪、松枝の諸城を攻め取った。また飛騨国をも攻め、豪傑江間常陸を降参させた。ところがそこの白谷氏は謙信に味方した。そこで謙信は飛騨国を信玄と分けて領有することになった。謙信はみずから大将になって越中国に入り、松倉城、小出城を攻め落とし、かつて父長尾為景を殺した江波氏を生け取り、一族十六人ともに全部殺し、首を栴檣野(せんだんの、富山県東礪波郡にあった村)で晒してまつり、父為影に報告した。
この年、謙信は上野国に入って伊勢崎を取った。四月、再び謙信は下総国に入り、臼井を攻め、北条氏の援軍と戦い、敗走させた。
以前、常陸国の小田氏治は謙信に従っていた。ところがじきに北条氏に味方した。謙信は怒って、永禄七年(1564)元日、雪の降る中越後国を出発して常陸国に入り、小田城を攻めた。二月、謙信は上野国の佐野昌綱を攻めた。五月、北条氏が昌綱を助けにきた。迎え撃って北条氏を敗走させ、昌綱を降参させた。ちょうどそこへ将軍足利義輝の使者がやってきて正親町天皇の詔を伝え、上杉、武田、北条氏の三氏を諭し、和睦して戦いをやめるようにされた。
八月、謙信は自ら信濃国の国境を巡回して視察した。信玄がまたでてきて対陣した。上杉、武田両家の諸大将が代る代る主君(謙信、信玄)に「殿は川中島の四郡のための強敵と戦うこと十二年。多くの士卒を失いました。かえって四方隣国を喜ばすだけですから、戦いはおやめください」
信玄、謙信も「それもそうだ」と思った。そこで各々力士一人を選んで闘わせ、勝った方が川中島四郡を取ることを約束した。上杉方が勝った。そこで信玄は海津城だけを取り、ほかはみな謙信のものとした。謙信は村上義清、高梨政頼らをもとに戻して旧領に居らせた。
謙信は本拠とする春日山に寺を建立し、その寺を「不識案」と号し越後の国難に討死した全将士の位牌を作り、自分で追善供養した。
これより以前、謙信は長尾政景に命じて上田を守らせ、信玄に備えさせていた。その後、長尾景虎を忌み嫌うようになった。その頃政景が謀反したと告げる者があった。謙信は腹心の家来を呼び集めて、政景を秘かに殺そうと相談した。
宇佐美定行は「政景の謀反の様子ははっきりしていません。殺せば騒動を起こすでしょう。要害な地の上田は武田氏の領分となり、その上殿は姉婿を殺したいという悪名までをうけられることになりましょう」と諫めた。謙信は聞きいれなかった。それどころかかえって諫めた宇佐美吉行に政景を殺すように命じた。定行は領地の野尻に帰り、政景を呼び寄せて野尻湖で漁を見物した。政景を水の漏れる舟に迎えさせ、政景を捕まえていっしょに野尻湖に落ちて溺死した。
謙信は、死んだ両人を個人的な怨みがあって相打ちしたのだろうと言いふらした。表向き定行の領地を取り上げた。だが内々に定行の子に知行を与え、政景の子の長男景勝を召しいれて養育した。鉄(くろがね)安朝に上田を代って守らせた。
謙信は川中島の戦いで武田義信に不意に襲われ、敗れた事がある。そこで「我はあの若造に負けてしまった」といった。そのときは本庄繁長、長尾藤景の二人が手柄をたてて救援してくれた。だがこの二人は、謙信が信玄に負けたことを陰では笑っていた。謙信は憎み、まず長尾藤景を殺した。本庄繁長は自ら危ないと思い、背いて自分の領地に立て籠もった。そこで謙信は兵を遣わし、繁長を撃たせることにした。謙信は土手をつくり、繁長の城をとりまくこと数年にしてやっと降参させた。
2025・9・30 上杉氏、武田氏と北条氏の連合軍と戦う
永禄五年(1562)三月、北条氏康は武田信玄に加勢を頼んで兵を合わせ、松山城(埼玉県比企郡吉見町)を攻めた。松山城は太田三楽の持ち城である。三楽は長男謙忠と厩橋城(前橋城)に居た。このとき三楽は松山城を上杉憲政の妾腹に子上杉憲勝に守らせていたが、攻められていると聞き、上杉謙信に危急を告げた。
甲斐国の大将甘利氏の家来に米倉丹後という者がいた。その男が竹を束ねたものを楯として松山城(上杉憲政)側から撃ってくる鉄砲の弾丸を防いだ。諸隊もこれにならった。ついに松山城は攻め落とされ、憲政は降参した。
謙信は厩橋城に到着し、三楽に「松山城はどうなったか」と問うた。三楽は「落とされました」と答えた。謙信は大いに怒って目を剥き、刀に手をかけ、膝をついて「そのほうが臆病者に城を守らせたためはやく陥落し、我をこの戦いに間に合わぬようにしてしまった。わが武威を汚すものだ。いっそのこと我はその方と死のう」
三楽は怖れ入り、どうしていいかわからなくなった。そこで松山城に兵糧、武器を控えた帳面と、憲勝からの人質二人を差し出した。謙信は二人の髪の毛を捕まえて、右手でばっさり切り落とし、刀を鞘に収めて「敵の軍勢はどのくらいだ」と訊いた。「五万人です」「大将は誰だ」「武田寸言、武田義信、北条氏康、北条氏政の四人です」。謙信は笑って「我の敵になる者は信玄、氏康の二人だけだ。氏政、義信のような連中は刀で一打ちすれば十分だ。それはさておきこの近くに攻撃すべき敵の城はあるか」と訊いた。三楽は「私一(きさい)城(騎西城 埼玉県加須市)がここから十里のところにあります」「それを今から攻めよう」と謙信はいい、即座に大将になって攻めた、
三楽も謙信に従った。舟をつなぎあわせて利根川を渡った。渡りきると舟を壊した。武田信玄、北条氏康の陣営の前を通り過ぎ、使いをたてて「ご両公は松山城を攻めたそうだ。我はその松山城を助けにきたが、おめおめ帰れないので今から私市城を攻めにいくところだ。ご両公、我を撃ってこられよ」といったが、返答はなかった。
そこで謙信は私市城につくと四面からいっせいに登り、一昼夜で攻め落とした。城将小田朝貞を斬り、三千人を皆殺しにし、代ってこの城を志田春義に守らせた。そして引き返す途中で武田氏、北条氏の軍にもう一度使いをやって「我は今、私市城を陥れて帰るところだ。まだ一合戦はできる。ご両公、その気はおありか」
甲斐の軍勢は太鼓を鳴らして騒ぎ立てた。謙信はわざと兜を脱いで馬から降り、ゆっくり落ち着き払って歩いて帰った。厩橋城に着くと長男謙忠を呼びつけて「太田三楽は我に従ってついてきた。その方はなぜ我に従わないのか」といい、剣を抜いて謙忠を斬り、部下二千人を皆殺しにし、厩橋城を北庄丹後に代わりに守らせ、国に帰っていった。
北条氏康が武田信玄に向かって「なぜ貴公は合戦しなかったのか」と問い、信玄は「我と貴公の二人がかりで謙信一人に敵対するのだから、仮に勝っても恥ずべきである」と答えた。このとき信玄はくつろいで北条氏康と語り合った。信玄が「川越の戦いで貴公は一軍で両上杉氏に勝たれた。なにとぞ詳しい事を承りたい」と尋ねた。氏康は「貴公を前にしてなんでお話できましょうか」といった。
信玄は「後学のために我が子に訊かせておきたいのです」と請うた。そこで氏康は戦略を話した。信玄は「なるほど。立派だ」といって、帰って陣営の馬場信房に「氏康の戦法はみなよくわかった」といった。
『日本外史を読む会』会員募集中 頼山陽史跡資料館 第1、3金曜日14時~16時 連載中の場面を読んでいます。見学(無料)歓迎
2025・9・20
川中島のその後の戦い
北条氏は上杉謙信に小田原城を攻められたとき、武田信玄に使いを立て「貴公に越後国を侵略して、上杉氏を根拠地にひきもどさせるように牽制してもらいたい」と頼んだ。信玄は海津城の高坂昌宣に命じて越後国境近くの民家を焼かせ、物を掠奪させた。謙信は非常に怒った。
八月、謙信は信玄が越後の国境辺りを焼き払い民家の物を掠奪したのを怒っ
て、再び信濃国へ出ていき、西条山に砦を作った。水をせきとめて池を作り、海津城からの敵に備えた。
信玄は長男の義信とともに二万騎を率いて雨宮の渡しに陣取り、謙信の帰路を絶ちきった。越後国の将士が謙信に「はやく戦ったほうが有利です」と説いた。しかし謙信は承しなかった。それから三日たって信玄は兵をまとめて海津城に入り、謙信が帰るのを待ち構えていた。ところが謙信は泰然として動かなかった、
信玄は思案して「思うに、謙信はわが郡中に異変が起こるのを待って、軍勢を動かさずにいるのだ。そういうことなら川中島に兵を隠しておき、別働隊を海津城からいきなり西条山の砦を攻めさせよう。謙信は勝ち負けにかかわらず北に引き揚げるだろう。敵の疲れたところを戦ったなら、謙信をとらえることができるだろう」
一方、越後の国の回し者が謙信に「甲斐の軍が海津城を出て南方へ進軍をはじめました」と報告した。謙信は諸将を呼び寄せて計略を尋ねた。直江実綱は「信玄のほうでは国内に異変が起こった。だから夜に乗じて退却するのでしょう。今こそ迎え撃ったら良いでしょう」
宇佐美定行、斎藤朝信が「いや、そうではない。思うに、彼は軍隊を二つに分け、我が軍が川を渡るところを挟み撃ちにする算段だろう」。その言葉が終わらないうちに回し者がまた「甲斐の軍が広瀬の渡しを渡り、川中島にあがり、陣取りました」
謙信は宇佐美定行、斎藤朝信に向かって「そのほうらの申した通りだ。よし、敵に不意打ちを食らわせてやろう」といい、敵を欺くための兵を西条山の砦において、全軍は枚(ばい)を口にくわえ、馬の舌を縛り、雨宮の渡しを静かに渡った。途中、武田氏の斥候の騎兵十七人に遭遇したので、全員を斬り殺した。それから進んで信玄の軍に近寄って陣取り、本庄繁長、色部長実らに二千騎を牽き入らせて千曲川の川岸に陣とらせた。
一方、甲斐城の別働隊はすでに西条山に向かった。川中島に陣取った信玄は別働隊からの連絡を待っているうちに、明け方になった。しかし夜が明けたとはいえ、まだ顔も十分見分けられない。みると、謙信の旗が目の前にある。それをみて甲斐の将士は驚き、顔色を失った。越後軍は太鼓を叩いて進み、その声は地を振い動かすほどであった。信玄は陣形を立て替える暇もなく、弓矢鉄砲で懸命に防いだ。
謙信は信玄を斬り損ねたことを残念に思っていたので、こんどこそは勝負を決めようと思い、手もとの兵を引き連れて前進じ、信玄の本陣に迫った。信玄の本陣の兵は乱れて崩れ、犀川のほうへ逃げていった。荒川伊豆が信玄に迫り、撃ってかかった。信玄は逃れ去った。謙信は追いかけた
信玄の長子、武田義信が二千騎を引き連れて謙信の後ろをつけていった。甘糟景茂らが義信を撃って走らせた。謙信はすでに勝っていたので、休息して弁当を食べていた。そこへまた武田義信が残兵を連れて逆襲してきて、越後国の将士、志田義時以下数十人を斬った。
謙信は槍をとって自ら戦った。本庄繁長が助けに来て、また武田義信と撃って敗走っせた。ある人が謙信に「夜中に出発した海津場からの敵は、こちらの疲れたところにつけ込んでやってくるでしょう。急いで兵をまとめて退却した方がよいでしょう」と説いたが、謙信は聞きいれなかった。そして犀川を背にして陣取り、善光寺に止宿すること三日に及んだ。謙信は信玄に使者を遣わしてもう一度決戦をしようと迫った。甲斐国の将士の中にももう一度決戦したいと請う者もいた。しかし信玄は聞きいれなかった。
2025・9・19
上杉謙信、北条氏の小田原を攻撃
永禄三年(1560)五月、上杉謙信は大将となって和田城を攻めたが、陥落しなかった。また長尾政景をやって武蔵国を侵略させた。
九月、関東下向のため前関白近衛前

嗣が来る途中、至徳寺に泊まった。そこで謙信は二万騎を繰り出して泉福寺に陣取った。北条氏康は大挙してこれを防いだ。このとき本庄繁長が部下の兵を連れて先鋒となり、接戦した。相模の軍勢(北条氏)は退却した。
謙信の諸将は続進んだ。謙信自身は直属の兵を連れて、中央の道から進んだ。氏康と戦い、大いに破った。関東の豪傑はつぎつぎ謙信に従った。謙信は勝利を越後国の上杉憲政に報告し、憲政を厩橋城の本丸に迎えいれ、自分は城の外郭に住んだ。
永禄四年(1561)正月、関東の将士らが厩橋城に年始の祝賀を述べにきた。兵を派遣して古賀城を攻め、また関宿、川越の城を落とした。
三月、謙信は七十六将を手分けして十一万人ほどの兵を引き連れて、相模国に進行した。太田三楽、小幡憲重らが先鋒となり、高麓山の下に本陣を建てた。北条氏は決死の士を使わし、謙信本人を狙い撃ちにしようとした。謙信は察知して兵を捕まえたが、放免して返してやった。ついに小田原城をとりかこんだ。北条氏は城から出ようとしなかった。
謙信は兜を脱いで城木綿をつけて白馬に乗り、朱塗りの柄の采配を執り、諸隊中に馳せて入り、軍事を指揮した。関東の将士どもは謙信を指さし、互いに見合って「この殿はわれわれを虫のようにしか扱わない。これではいつまでも我々の上にいただくことはできない」
当時、信玄は軽井沢にいた。飯富兵部が信玄に「謙信の威勢は盛んなので、北条氏は滅びるでしょう、そうなれば我らも危なくなります。殿は小田原城(北条氏)が陥落しないうちに兵を引き連れて三益峠に出て、基地越後(上杉氏)に当たられるのがよいと存じます。もし勝利を得ればこの上もなく良いことですし、もし勝たないにしても北条氏を救うという信義を天下に広く見せるには十分でしょう」
信玄は「それはよろしくない。謙信は兵を動かしことが実にうまく、生まれつきのものである。しかし老練巧妙な謀はできない男だ。それで関東の将士らは必ず彼の部下として絶えきれなくなり、北条氏康に帰順するようになるだろう。しばし様子をみよ」
一方、宇佐美定行は謙信に「小田原城は堅牢です。わが軍がこのように深く敵地に侵入し、長く留まると変事が起きるかもしれません。今のうちに引き揚げましょう」
謙信はこの言葉に従った。新発田治長は若く、近習となっていた。自ら願ってしんがりをつとめた。北条氏は追随しなかった。
謙信は鎌倉に入って鶴岡八幡宮に参詣して、源氏、北条氏時代の旧跡を見物しようと思った。また昔から伝わっている小八葉の車を探し求め、藤原前嗣を乗せ、謙信は騎馬で従った。関東の将士も前後をとりまいて護衛し、小幡憲村の刀を持って従った。
護衛の将士の中で千葉国胤と小山政朝は家柄が最も高かく、席列を争って譲らなかった。ここで謙信に訴え出た。謙信は「関東八州の士の中で、千葉氏は首座であるべきで、小山氏も人の尻についていくわけにはいくまい」と裁き、二人は争うことができなかった
忍城主の成田長泰は、源頼義のときからの故例だといって、馬に乗ったまま、鶴岡八幡宮の社前で謙信らの一行を待ち受けていた。それを無礼だとして謙信の従士が長泰を引きずりおろして拳骨で殴りつけた。長泰は恥じ、怒って自分の領地に帰った。これからというもの、背いて帰る諸将が相次いだ。
そのとき長泰が北条氏の兵と一緒に追撃してきた。信玄は荷駄を道に捨てさせた。すると敵は争ってこれを取り合った。そこで敵を踏みにじって通り過ぎ、平井城に入った。四月、上杉憲政を連れて越後国に帰った。
六月、関東の諸将はまた北条氏康の従って平井城を攻めてきた。謙信は報告を聞いて直ちに出発し、軍勢を忍ばせながら「棱師谷(くぐつがやつ)」から撃ってでた。夜明け、北条氏の軍勢を撃った。先陣の合戦が激しくなるのを待ってから、自ら率いる兵を連れて傍らから飛び出し、北条氏の本隊を横合いから撃ち、別将をやって後ろに回らせた。北条氏康は敗れ去った。このようにして謙信は白井、厩端の城を取り戻して帰ってきた。

2025・9・18
上杉謙信、関東に進出
永禄元年(1558)三月上杉謙信は自ら大将となって越中国に入った。越中国や加賀国の将士は次々と降参を申し出てきた。謙信は許してやった。
これより前、上杉憲政はたびたび北条氏康と戦ったが、いつも負け、関東は全部北条氏に従った。憲政は謙信に救援をもとめようと思った。
この年の秋、憲政は越中国に入り、謙信に面会を求め「わが家は関東八州を管理すること十二代目の長きにわた
ります。ところがあの北条氏康に国を奪われてしまいました。四方隣国の諸侯の中で、氏康に返報のできる者は貴公と武田信玄だけです。ところが信玄と氏康は今も親密です。私はこれまでの怨みをうち捨て貴公にお願いしたい。何卒私のために仇を返してください」
謙信は「どうして力を貸さないことがありましょうか」と承諾した。このとき謙信は信濃国内を自分の思うままにできておらず、また加賀国、越中国も服従させていなかった、にもかかわらず憲政の頼みを請け負ったのは、上杉氏を助けることで、父長男為景の以前の悪名を覆い隠したいと思ったからである。そこでまず北側に館を作り、憲政を置いた。憲政は謙信と親子の約束をした。ここから謙信は上杉を名乗ることになったのである。
憲政は関東管領の職官も譲ろうとした。謙信は「それは成功の後に頂戴しても遅くありません」と辞退したあとで、将士を集めて相談し、北条氏を探らせた。北条氏康は今までの戦いでは常に奇抜な戦法を用いているという話を聞いて、謙信は「彼は奇計を用いる。であればわれらは正攻法でいこう」
十月、謙信は兵を率いて上野国に入り、厩橋や沼田など五つの城を落とし、平井城を取り戻して立て籠もりった。使いを京都に派遣して「東方の北条氏を征伐したいと思います。その上で摂家のお一人を関東にお迎えして自分が補佐していきたい。ちょうど北条氏の時代の故例のようにしていただきたいと思います」とお願いした。
永禄二年(1559)四月、謙信は再び京都に入り、坂本に陣取った。五月一日、謙信は御所で扇町天皇から御酒を賜り、五虎という宝剣を引き出物として賜った。
謙信は前の関白近衛前嗣の関東下向を請うて関東の主人に迎えたいと願い出て、許された。また将軍足利義輝に拝謁した。将軍から関東を管領することを命じられ、室町の三管領と同じように網代の輿に乗り、朱色の柄のついた再拝を執ることを許され、また将軍自身の名から一字賜り「輝虎」と改名した。
2025・9・3
武田氏、北条氏・今川氏と結束
武田信玄は自分の娘を北条氏康に嫁がせて、長子の武田義信には今川義元の娘を娶った。というわけで、北条氏、今川氏の二国は武田氏を助けて一緒になり、謙信を防いだ。
武田信玄と上杉謙信の一騎打ち
ところが信濃国の客分の対称楽巌寺、布下、和田らがひそかに謙信に内通した。謙信は清野に兵を繰り出し、鼠子駅に火を放った。しかし客分の大将に内通していたことが露見した。そのため彼らが殺されたと聞き、謙信は引き返した、
八月、謙信は再び八千騎の軍勢を引き連れ、信濃国に攻め入った。謙信は「今度こそは必ず信玄と真正面からぶつかり、勝負をつけようと思う」といって、犀川を渡って陣取った。
八月十六日、信玄は二万人を引き連れて謙信と対峙したが、城塁を堅く守っているばかりで、戦うことはしなかった。
一日おいて八月十八日に、謙信は村上義清らに夜、兵を伏せさせておいて、明け方には樵を出して甲斐国の城塁に近づけさせた。甲斐国の兵は討って出て、樵を追いかけたため、みな伏兵に捕まって死んでしまった。それにつられ、各部隊が引き続いて大いに戦った。終日十七回も合戦し、勝ったり負けたりした。
信玄はひそかに命令をくだして、大縄を犀川に張り、それを伝って川をわたり、旗や幟を隠したままで芦や葦の中を通り抜け、いきなり謙信の陣営を襲撃した。
謙信の陣営を守っていた兵は、不意をつかれ、潰え走り去った。信玄は勝った勢いで進んでいった。すると宇佐美定行らが手勢を連れて横合いから出て、信玄の軍を打ち破り、川に中へ落とそうとした。
そのとき黄色の陣羽織を着て馬に跨がり、白い布で顔を包み、抜き身の太刀を引っかけた一騎の武者が躍り出てきて、大声で「武田信玄はどこにおるのか。どこか、どこか」と大声で叫んだ。
これは危ないとみた信玄は、馬を躍らせて川を渡って逃げようとした。するとその武者た後を追って川に乗り入れ、「此奴、ここに居たか」と罵り、太刀を振りかざして信玄に斬りかかった。
信玄は太刀を抜く暇もなく、持っていた軍配団扇で防いだ。軍配団扇は真っ二つに折れた。さらに二の太刀が打ち込まれて、信玄の肩先を斬った。甲斐国の従士が信玄を助けたいと思ったが、川の勢いが速いためそばに近寄れない。そこで大将の原大隅が主君の一大事とばかり、槍でその武者の馬をめがけて突き刺したが、当たらない。こんどは槍を頭上に振りかざして馬を撃ったら、首に当たった。馬はびっくりして躍り上がり、武者といっしょに早瀬の中に飛び込んだ、これで信玄はあぶないところを逃れることができた。武田信繁は信玄が危険だと聞いてとって返して、その武者を呼び止めて戦いに挑んだが、討死した。
この日、両軍の死傷者は互角であった。信玄は傷を受けたので、夜の闇に兵をまとめて退却した。その後、越後の国の捕虜を獲た。その捕虜が「あのときの騎馬武者は上杉謙信です」といった。
弘治元年(1555)信玄は木曽義高を攻めて降参させ、自分の娘を嫁がせた。
弘治二年、信玄は伊那郡を攻め取った。信濃国をみな平定したので、高阪昌宣に海津城を守らせておいて、謙信に備えることにした。武田氏にとっては謙信は第一の強敵である。だから強敵に当たるようにしてもらった高阪昌宣を、皆は名誉とした。

2025・9・2
上杉謙信、武田信玄と川中島で戦う
村上義清が高梨政頼、須田親満、島津規久らと一緒に、信濃国から上杉謙信のところへ身を寄せてきて謙信にお目にかかりたいと申し出てきた。
「私らは武田信玄に領土を侵略せられ、わが身を置く場所身ない有り様になった。それとなく貴公の武威、名声を聞き及び、参上仕った。貴公のお手
をわずらわすが、何卒ご加勢くださらないか」
謙信は「諸君はみな一国一城の主、どうして人の風下に立つ人々であろうか。にもかかわらず、われのところに身を寄せてこられた。まさに知己と申すべきだ。われは今、国内の蘭をほぼ平定したところだ。考えるに、加賀国、越中国の賊らは我が父を殺した仇敵である。われは常にこの二国を滅ぼして父の敵の仇を返し、京畿地方に旗を押したてて覇業を成し遂げたいと思っている。これがわが年来の志である。しかしここに居られる皆の知己に出会ったからには力を出さぬのは男が立たない。よろしい。人肌脱ごう」
そこで村上義清に「武田信玄はどのように兵を用いるか」と尋ねた。義清は「信玄が軍勢を進めていく際は無闇に先を急いで進まない。またどの戦いでも一時の勝利にこだわらず、勝利をめざす」
謙信は「信玄が最後の勝利をめざすのは。彼の思いの中に土地を広めようとする考えがあるからだ。われとはそこが異なる。われは敵に会えばいつでも戦う。要するにわが軍勢の矛先を常に鈍らせないためだけである」
そこで命令を国内に下し、十月十二日に小田ノ浜で勢揃いし、八千騎を率いて信濃国に入り、武田氏に属している城に火を放った。
十一月一日には進んで川中島に陣取った。
信玄はこのことを聞いて、今川氏に救援を求め、歩兵、騎兵二万人を引き連れて雨宮の渡しにうって出て、山本晴行ら四人の者に敵の様子を窺わせた、
山本晴行らは帰ってきて「越後国の軍勢は鉾先が非常に鋭い。殿はわが軍勢を本陣へひとまとめに集めて固め、戦わずして敵を屈服させるようになさるがよろしい」と報告した。信玄はそれに従った。両軍は千曲川をはさんで陣取った。
まず謙信が使者をやって、信玄に「聞くところによると、『貴公は兵を用いられる際、いすれに向かう場合でも陣を一箇所に長く駐屯されることはない』という。ところはこのたびは長陣しているばかりで、戦おうとしない。なぜわれとは勝負を決められないのか。われは何も貴公に対して仇怨があるわけではない。ただ、村上義清らに頼まれてやっているだけのことだ。あえてお尋ねするが、貴公はどんな理由で彼らの土地を奪い取ったのか。貴公がわれと戦うのがいやというなら、その土地を彼らに返されよ。それがいやなら、われと戦われよ」
信玄は「貴公が村上義清を庇うのは誠に立派な正義感である。しかしお気の毒だが、この信玄が死なないうちは貴公の思うようにはならない。貴公が戦いを望むなら、どうだ、貴公からはじめられたらよろしかろう」
謙信は「承知した」といった。そこで明朝に会戦をしようと約束した。謙信はすぐに命令を伝えて出発し、七隊を一緒にして円陣をつくり、夜明けに橋を渡って進撃した、
信玄は十四隊を統率して迎え戦った。朝の六時ころから午後の二時半ころまでの間、橋の奪い合いでたがいに追いつ追われつして、容易に勝負が決まらなかった。
謙信は別に兵を分けて上流を渡り、甲斐軍の背後を襲った。甲斐軍はこれを見て退却した。横田源助、板垣三郎、および駿河国の七将はみな討死した。
一方、越後国の兵にも死傷者が多く、謙信は兵を引き連れて帰っていった。
これより前、謙信はたびたび軍勢を越後国に繰り出したが、希望通りにはいかなかった。
この年(一五語三)謙信は能登の国主畠山義則を招き寄せて降ろし、自分の姉を嫁がせ、畠山義則の弟畠山義春をもらいうけて自分の養子にし、弥五郎と称した。しかし実際は人質としたのである。この時、領内の佐渡及び庄内、会津に騒動が起こった。兵を遣わして撃ってこれを平らげた。
天文二十三年(一五五四)五月、信玄は小笠原長時と桔梗ヶ原で戦い、勝って彼を降参させた。が、長時は京都に出奔した。
2025・8・1
長尾景虎、兄の長尾晴景を討つ②
天文十八年(1549)国人らは長尾景虎に府内に入ってもらいたいと請うてきた。しかし胎田常磐らはまだ三条に立て籠もっていて降参しなかった。
天文十九年(1550)長尾景虎は三条を攻めて陥れ、胎田常磐を殺した。賊は残兵を連れて新山、黒崎の二城に立てこもった。景虎はついでのこの二城も攻めようと思った。ちょうど主君の上杉定実が死んだので果たせなかった

天文二十年(1552)諸将士はとみに景虎を擁して彼を越後の国主にしようと思った。景虎が「私は周囲の上下の人々の希望に迫られ、仕方なく兄(長尾晴景)と攻めあった。だが兄が自害するとは夢にも思わなかった、それを今私が越後国主となったら、世間は私を位を奪った者と呼ぶだろう。今、国内はほぼ平定した。だから越の国王を選んだらいいだろう。私は世を逃れて僧になって私の本心を証明したいのである」といった。ついに髪を剃って「上杉謙信」と号した。
謙信は僧となるため紀州国の高野山に行こうとした。諸将士は連判状を差し出してぜひとも思いとどまって国を治めてもらいたいと願い出た。謙信は「主君をおくのはその命令を用いるためである。もし命令を用いないなら主君など要らない。今から私が命令することに少しも背かないというなら、高野山へ行くのを思いとどまろう」といった。そこで諸将と「背かない」という制約を交わした。
翌日、謙信は命令を出して、それまで君命を勝手にして専断してきた家老十六人を捕まえ、府内の林泉寺境内で切腹させた。諸将は足が震えおののいた。
五月、謙信は弾正少弼に任じられ、従五位下に序せられた。謙信は「じっとしていて官位を頂戴するのは人臣のとる道ではない」といった。
天文二十二年(1553)二月、謙信は他国の道路を通行させてもらって兵二千人を率い、北陸道を経て京都に入り、まず御所を参内し、それから将軍足利義輝に面会して、五月越後に帰国した。
上杉謙信(長尾景虎)が初陣を飾り、青春時代を過ごした栃尾城。新潟県長岡市栃尾町
2025・7・31
長尾景虎、兄の長尾晴景を討つ①
長尾為景には四人の男の子があった。長男は晴景、次男は景康、三男は景房、末子は景虎といった。
景虎は幼名を虎千代といい、後妻が生んだ子である。八歳のときから勇気があって、肝が太く、策略に富んでいた。父の為景は彼を愛さなかった。それで彼を栃尾に追い払い、僧にしようと思った。
しかし景虎は僧について学ぼうとはしなかった。父が死んでからは諸将の多くは景虎に心を寄せた。
家老の胎田常陸は父の為景のときから気に入られて権力もあった。長男の晴景が愚か者であることをよいことにして、自分の二人の子の黒田秀忠、会津某、および二条の城主長尾俊景と相談し、長男の晴景をたてて、次男の景康を殺そうとした。三男の景房は逃げだしたが、追いかけられて二の丸の門内で殺された。
末子の長尾景虎はそのとき十三歳であったが、逃げ出した。門番が彼を簀の子の床の下に隠した。夜になって床をあげて出そうとすると、彼はすやすや寝入っていた。そこで呼び起こして、そっと出してやった。彼は駿河山の寺に入った。その寺の僧は彼を連れて栃尾に逃げ、乳母の夫である本庄慶秀の家に隠した。慶秀は宇佐美定行とともに心を尽くして景虎を守り立てた。
この宇佐美定行は上杉家の代々の大将の家柄の者である。書物を読むことを好み、天文、兵法に通じていた。長尾景虎は、宇佐美が立派な人物で、補佐しがいのある人と思い、互いに深く結びあった。
そのうち景虎は胎田常磐らが自分を探し続けていると聞き、出奔して避けることにした。十四人の供と一緒に行脚僧の服装をして、脚絆をつけて草鞋履きで出かけた。途中米山にのぼり、越後の府内を見下ろして「われが後日、兵を起して国を回復したときには必ずここに陣取ろう」といった。
それから進んで父長尾為景の殺された栴壇野に行き、そこで泣いて拝み「私はきっと仇敵を平らげて滅ぼし、父上のご無念をはらいます」といった。
そこで北陸道、東山道の諸国を遍歴して山や川、城や塀の様子を視察し、それをすべて絵図に写しとり、持ちかえった。
ところが長尾景虎の居場所を胎太常磐らに告げた者がいた。兵士をつかって捕らえにこようとした。長尾景虎は本庄慶秀、宇佐美定行と相談して塀を立て、栃尾の城を修理して立て籠もり、主君の上杉定実の指示を受けることにした。
天文十三年(1544)春、長尾俊景、黒田秀忠が兵を率いて攻めてきた。長尾景虎は防ぎ戦って大いに打ち破って長尾俊景を斬り、黒田秀忠を追い払った。
天文十四年(1545)神余昌綱をやって京都に行かせ、賊(胎田ら)を征伐する話をいただきたいとお願いさせた。
天文十五年(1546)賊兵がたびたび攻めてきた。しかし長尾景虎はどの戦争でも勝った、
天文十六年(1547)兄の長尾晴景が一族の長尾政景をつかわして大挙して攻めてきた。
宇佐美定行は栃尾城から出て戦おうとした。長尾景虎が城に登って遠望しながら「的は遠方からきたのに荷駄なそがなお。これは長い間ここに留まる考えがないからだ。そのうち引き返すに決まっているから、そのときを待って撃てば、わけなく勝てる」といった。
夜半になると、思った通り長尾政景は退いた。
長尾景虎は三千騎で城門を押し開いて撃って出て、下浜で戦って敵を走らせた。敵を米山まで追いかけたところで、長尾景虎は兵を押さえて追うのをやめさせた。敵が米山の峠を越えたころを見計らってから、急にみなを励まし、追撃して大いに破った。
宇佐美定行が諸将に向かって「諸君はわが殿が峠の手前でわが兵をとめられて理由がわかるか」と訊いた。みな「わかりません」と応えた。
「敵は険阻な峠に近づいた。そういう場合に急に撃つと、敵は進退きわまってこちらに引き返してうってくるものである。だから敵が峠を越えるのを許して、下り坂になったとき、ことらは高い所から一目散に下って撃つと敵は到底逆らえない。わが殿はお年こそ若いが臨機応変の処置をおとりになることはこんなふうである。どうして我らが及ぶことができるようなお方であろうか」
そこで長尾政景は降参した。兄の長尾晴景は生き妻って弱り、自害した。
2025・7・29 長尾氏の台頭
長尾氏の台頭
上杉氏はもと長尾氏で、平良文の子孫である。良文の後十代目を平景政といった。鎌倉にいて権五郎と称し、その剛勇さは関東では名高かっら。大庭氏、梶原氏はみな景政からでたのであ

る。景政の跡五代目は、相模国の長尾にいたことから長尾景弘といって、初めて長尾氏と称した。その後長尾氏は子孫が途絶えた。そこで長尾氏は上杉藤景を養って継嗣とした。
長尾氏をついだ長尾藤景はもと藤原氏から出ている。
上過ぎ藤景の高祖父藤原重房は宗尊親王に従って関東に行ったが、以前から丹波の国の上杉村を所有していた。それで名前を上杉氏としていたのである。その子孫は足利氏の外戚となり、東国を管領していた。
上杉藤景は上杉氏を名乗った藤原重房の妾腹の曾孫である。後にその子孫はみな上杉氏を名のり、越後、上野、伊豆の諸国に散らばって住んでいた。
長尾為景、上杉氏を討つ
長尾氏を継いだ上杉藤景からの後の十二代目を上杉為景といった。為景は上杉房能を越後国で助けていた。後に、両者はることから仲違いし、兵を挙げて戦った。上杉房能はとうとう雨溝で死んだ。時に永正三年(1506)であった。
上杉房能の兄、上杉顕定が関東管領になった。
永正六年(1509)管領の上杉顕定はその子の上杉憲総とともに上野国の兵を引き連れて長尾為景を撃ってきた。長尾為景は敗れ、越中国の西浜に逃げた。
上杉顕定は留まって越後国を触れ下した。しかし越後国の士民は上杉顕定に背いて、長尾為景のほうに従い着いた。
永正七年(1510)六月、長尾為景は高梨某と兵を連合して、子の上杉憲総を椎谷で撃ち破った。上杉憲総は逃げて妻有庄を固めた。
長尾憲総の父長尾顯定が助けにきて、長尾為景と長森で戦ったが、負けて死んだ。子の上杉憲総は逃げて上野国に帰った。そこで長尾為景は上杉氏の妾腹の子孫、上杉定実を立てた。自分の娘を妻にやり、彼を上条城に据えて主君としてもりたてた。そして自分には越中国の府内に居て越後国を触れさとし、全部を降参させた。長尾氏はこれから初めて強大となった。
天文十一年(1541)一向宗の賊徒が加賀国に起こり、その土地の豪族、椎名泰種、神保良衝らが兵を連合し、長尾為景に背いた。
長尾為景は自分で出かけてこれを撃ち、栴壇野まできた。そのとき、賊将江波某が偽って降参してきて、落とし穴を道にこしらえておいて、長尾為景を迎え、その穴の中に陥れて殺してしまった。

2025・7・18 武田晴信、信濃国と上野国を攻略
そのうちに武田晴信は心が驕り、気ままになって酒宴の楽しみに耽り、詩を作り、政を顧みなくなった。群臣にも諫める者はいなかった。板垣信形は病気と言って家にこもり、詩の上手な僧をこっそり呼んで数十日間も稽古し、上手になったところで出仕して宴会に侍し、詩を作りたいと申し出た。
晴信は信用しなかったが、しつこく願ってようやく許され、即座に五題の詩を作り上げた。晴信はたいそう喜び
「どうしてそんなに上手になったのか」と訊いた。そこで信形は「先殿様は無道で、殿様のために逐われたのです。にもかかわらし殿様もまた国政をなさらず、先殿様のような有り様です。これではまた殿様のような人が現れないとは限りません」と諫めた。晴信はこの言葉に感じ入って一生懸命政治に励んだ。
天文十一年(1542)三月、村上義清、小笠原長時、諏訪頼重、木曽義仲が信濃で兵を挙げて攻めてきた。諸将はみな怖れた。晴信は「四人の者は連合したが、必ずしも意見は一致していないだろう。だから一戦いをまじえて破ることができる」と言った。そこでわざと溝をさらい、累を高くして堅固にした。四人は晴信を卑怯だと思い、境内に進んだ。晴信は夜に出発して霧雨につけこみ、敵に迫って撃ち、大いに破った。四人は再挙兵して、平沢にきた。また撃って破った。それから年々続けて互いに攻め合ったが、いつも晴信が勝った。
晴信は山本勘助を登用した。勘助は三河の人で、片目が不自由で、足が不自由だった。以前は兵法を尾形某に習い、今川氏に奉公しようと望んだ。しかし今川の旧臣がバカにして侮り、義元も格別優れた者とは思わなかった。勘助は用いられないまま数年間も人の家に居候となっていた。板垣信形は勘助の名を聞いて晴信に推薦した。晴信は呼びよせて話し合ってみて、たいそう気に入り、すぐに二百貫の領地を与え、名を晴行と賜った。十一月、晴信は晴行の計略で信濃の九ケ城をとった。
天文十三年(1544)、家老板垣信形の計略で諏訪頼茂(頼重が改名)を誘い出して殺し、その娘を妾とした。翌年、妾は勝頼を生んだ。四郎と称した。晴信には長男の義信がいて、それを継嗣としたので、勝頼は諏訪頼茂の跡目を相続させた。
天文十四年(1545)、五月、小笠原長時及び伊奈氏と塩尻峠で戦って撃ち破った。
天文十五年(1546)、三月、晴信は戸石城を攻めた、村上義清が六千の兵を連れて戸石城を太助にきた。武田氏の先鋒の甘利備前、横田備中などは皆討死し、武田軍は崩れようとした。
そのとき、山本晴行(勘助)が晴信に「敵の矛先はかなり鋭いので食い止めることはできません。しかし敵を右のほうに振り向くようにすればきっと勝てます」
晴信は「味方でさえも我が命令に従わない。どうして敵を意のままにできようか」といった。
そこで山本晴行はお願いし、後詰めの兵を借りて左のほうから回って出た。すると村上義清の軍勢は右の方をむき、晴信の軍勢の士気は再び奮い、進軍して敵を破った。晴行はその功で八百貫にお領地をもらった。そこで駿河国へいって、以前厄介になった人々に御礼を言った。以前晴行をあざ笑っていた者も、口々に褒め称えた。今川義元も彼を採用しなかったことを後悔した。
上杉氏の将士が「甲斐国(武田氏)の軍は戸石城の戦で手こずった」と聞いて、そこにつけこんで「二万騎を連れて碓氷峠を越えて攻めてきた。
武田晴信はまず板垣信方をやって防がせ、そして自分も続いた。九月、上杉軍を撃ち破った。真田幸隆及びその子の昌幸はこの戦いで功があった。また晴信は幸隆の計略を用いて、村上義清の精兵五百人をだまし討ちして殺した。
天文十六年(1547)八月、武田晴信は志賀城をとった。
村上義清が上田原に出てきて陣取った。わが板垣信方は前軍の将となって戦いには勝ったが、後ろを用心していなかった。村上義清はその油断を見澄まし、軍勢は残らず不意に襲ってきて、武田軍の板垣信方を殺した。晴信は救援にいった。村上義清は決死の士を連れて晴信の本陣に突っ込み、自ら晴信と太刀打ちした。しかし村上義清は落馬して敗れさった。
天文十八年(1549)八月、晴信は上野国の土地を奪い、再び深志の城主小笠原長時と諏訪原で戦い、敗走させた。
天文十九年(1550)三月、再び上野国の土地を破った。しかし小笠原長時がまた討って出たと聞き、彦返した。
当時、今川義元は相模国の国主、北条氏康と婚姻を結んでいた。今川義元がやってきて、北条氏にために晴信に「北条氏康は今上杉氏と戦って、上野国を攻め取ろうとしている。何卒貴公は上野国を北条氏より先にとらぬようにしてください」といった。晴信は北条氏康、今川義元と連合した。この年晴信は髪を剃って「信玄」と号した。
信玄は鏡を引きよせて自分の顔を見て「俺の顔は不動明王に似ているぞ」といった。そこで書家に肖像画を描かせた。不動明王と同じく剣と縄をもった姿で「俺が死んだ後に四方の隣国から攻め込んできても、この肖像画を見たなら決して無礼は働くまい」といった。
信玄はしきりの村上義清を攻めた。また高梨氏、須田氏、島津氏も攻めた。村上義清らは支えることができなくなり、互いに相談して「信玄に敵対できるのは上杉謙信だけだ」といって、皆で謙信のところへいき、身を寄せた。
2025・7・13
武田氏、父子の不和
武田信重の後五代目を武田信虎といった。信虎は駿河国の豪傑久島某と戦って勝った。その日に男児が生まれたので勝千代と名づけた。大きくなってから武田晴信(信玄)と名乗った。
晴信は沈着剛毅で、謀に長けていた。ころが父信虎は次子の信繁のほうを愛していて、晴信を廃そうと思った。晴信はわざと馬鹿者の真似をして

才能を隠した。弟の信繁と才能を比べられることがあるときは、いつも下手に出ていた。ときにはわざと馬から落ちて助け起してもらったりした。諸将はみな晴信を侮った。
だが晴信は一人駿河国国主今川義元と結び合っていた。義元は晴信の姉婿で、義理の伯父である。
天文五年(1536)今川義元は武田晴信のために朝廷に頼み、晴信を武田氏の継嗣とし、元服してから大膳大夫に任じてもらい、また信濃守も兼ねさせていただいていた。
十一月、父の信虎が信濃国に兵を出し、海ノ口城を攻めた。その城主平賀原心はよく防戦した。
信虎は兵八千人を率いて、海ノ口城を攻めたが、一ヵ月以上経っても落とせなかった。おりしも大雪が降った。諸将が相談して信虎に「年の暮も押し迫りました。もう軍勢を引き返しましょう。この雪では敵も追いかけてはこないでしょう」。信虎は従った。側らにいた晴信が「しんがりを務めたい」と請うた。信虎は笑って「たぶん敵が追撃しないと決まるから、そんなことを申し出る。弟の信繁ならそのようなことは申すまい」
晴信は是非と願って兵三百人を連れてしんがりを務めた。本隊に遅れること数里のところに留まって陣し、自分から兵士に「鎧を脱いではならない。鞍をおろしてはならない。先に馬に餌を与えてから自分の飯を食え。夜明近くになったら出立する。ただ、私が向かう所をみて行動せよ」といったが、兵士は「こんな吹雪なのだから、開会する必要があろうか」と笑った。
夜明近く、晴信はただちに出発し、引き返して海ノ口城に向かった。三百騎と雪の中を馳せ、夜明け前には城に着いた。城主の平賀源心は兵を解散して立ち去らせ、百人だけ留めて城を守っていた。晴信は兵を三隊に分け、みずから一隊を率いて城に攻め入り、他の二隊には城外に旗を揚げ、応援させた。海ノ口城の城兵は敵の数がわからないので慌てふためき戦わず潰えた。
そこで晴信は源心を討ち取り、首を持ちかえって父の信虎に献上した。全軍の者は非常に驚いた。信虎はこれを褒めず「攻め取った城を捨てて帰ってきたのは卑怯である」といった。諸将は秘かに晴信に心服した。しかし信虎をはばかって言葉にしてその功をほめなかった。以後も晴信はバカげた態度をとっていた、このように信虎の気性は荒々しく、賞罰も気まぐれで、国人はみな困っていた。
晴信は家老の飯富兵部、板垣信形と相談してますます強く今川義元と結び合った。義元も平素から信虎が強くて傲慢なのを気にかけていたので、晴信を助けて甲斐国を自分勝手にしたいと考えていた。信虎はそれを悟らなかった。
天文七年(1538)五月、武田信虎は晴信を駿河国に追放しようと思った。そこで晴信を家老の飯富氏に預けておき、自分は駿河国に出かけて今川義元に相談した。義元は信虎を留めておいて離さなかった。その間に晴信は甲斐国で独立した。老将らは頭を垂れて、命令を聞かない者はなかった。一方、隣国の者どもはこの事変を聞き、その隙につけこもうと思った。隣国の信濃の士民の多くは去り、村上義清についた。
六月、諏訪の城主諏訪頼茂、深志の城主小笠原長時は一万の兵を連合して攻めてきた。晴信は騎兵の隊将、原加賀に府中の留守を預からせておき、自分は六千人を連れて撃って出て、韮崎で防いだ。留守を預かっていた原加賀は甲斐府中内の農民や商人をかり集めて五千人を手に入れ、めいめいに一本ずつの紙旗を待たせて太鼓と鬨の声を揚げさせてうってでた。それで敵軍はかなわず退却した。
2025・7・3 武田氏の出自
武田氏は源義光(新羅三郎)の子孫である。
源義光の子は武田氏の冠者となり、名を武田義清と称した。父義光に従って射術を学び、伝え、また伯父の源義家(八幡太郎)から旗と楯無の鎧とを受け伝えて、代々が甲斐国に居た。

武田義清の孫の信義、子の信光らは源頼朝に従って起こり、しばしば戦功があった。それで逸見、小笠原の二氏と甲斐の国を分けて領有していた。源頼朝は小笠原氏を信濃国に移し、加藤氏をこれに代え、そのまま足利氏の時代になった。
武田信充の十余代後に、武田信満という者がいた。信満は上杉禅秀の乱の時に上杉禅秀と姻戚関係があるというので、逸見氏に讒言されて自害した。
信満には二人の子、信重と信長がいた。信重は伯父の信元と逃げて僧になった。一方、武田信長は加藤氏を頼り、逸見氏を相手に戦った。鎌倉公方足利持氏が武田信長を討って降参させ、甲斐国の加藤氏の領地を逸見氏にすべて与えようと思った。室町の将軍足利義持はこれを承知せず、伯父の武田信元に与えた。
そのうち武田信元は死んだが、子はまだ幼年であり、大将の跡部は甲斐刻の政事を専らにしていたが、僧になっていた武田信重を招いて還俗させ、甲斐国の仮の主君とした。結城氏の乱のとき、信重は戦功により守護職になった。そこで権臣の跡部を殺した。逸見氏、加藤氏なども信重の家来になった。
2025・7・2
久保寺辰彦さん「有名な武田信玄の肖像画は別人」
「歴史人」(7月号)の記事によれば、有名な武田信玄の肖像画は別人で、実際にはほっそりして、神経質っぽい顔とされているそうです。家紋も違います。
松平定信がまとめさせた『集古十種』でもこの肖像画を信玄として載せているので、山陽も信玄はでっぷり太っていたと信じ込んでいたと思います。現在ではこの人物は能登守護畠山義総か、子の義続といわれているそうです。
『日本外史』で山陽は「上杉謙信は義に厚いが、武田信玄は理に聡く、損だと思ったらすぐ同盟関係も反故にする、あの戦国時代を生き残るには仕方ないだろうが、そういう者はいずれ滅びる」といっているように思えます。山陽は謙信が好きで、信玄は嫌いという印象を受けます。「大蛇」にしたくらいですから(笑)
