見延典子訳『日本外史』後北条氏
参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931)
藤高一男『日本外史を読』』Ⅲ(2002)
2024・12・28 後北条氏②
足利氏の末世ころになると七道の群雄が代る代わる飲み合い、噛み合いをやりだし、元亀、天正のころまでくると天下は裂けて八、九氏が割拠した。なかでも四つの氏があった。北条氏、武田氏、上杉氏、毛利氏である。
毛利氏は安芸国から起こって山陽道、山陰道の十二カ国を合せとり、領土は四氏に中でも一番広かった、次に広いのが北条氏である。北条氏はまず伊予国を取り、そこを足がかりに関東八州を合せとった。武田氏は甲斐国から起こって信濃国、飛騨国、駿河国、上野国を合せ取り、上杉氏は越後国から起こって越中国、能登国、加賀国を合せ取り、庄内、会津にまで及んだ。
これら四氏の国は平時にはみな競い合って耕作し、戦時には戦うというやり方で、武装の兵が数万人もいて、兵糧は山のようであった。みな龍のようにあがり、虎のように睨みあって東西に並び立ち、天下を残らずとりこもうとする者ばかりであった。
北条氏が地形で胸や腹に当る場所にありながら、一度として軍兵を繰り出して京畿を窺うことがなかったのは武田、上杉の二氏が背に当る部分にいて、北条氏の通路を塞いでいたからである。そして武田、上杉氏の勢力は匹敵、均衡しあって勝負がつかなかった。従ってこの二氏も西の方に進出を図る暇がなかった。
毛利氏は、領土こそ広いが、腿や脛に当るところにいて、腰や脛の当る京畿に向かっていたから、地形の上では中央部の地に進出して凌ぎを削ることはできなかった。
織田氏は毛利氏、北条氏、武田氏、上杉氏の四氏に挟まって起こり、攻めやすい西方を先にして東方を後回しにして、強きを裂けて、弱きを先に撃ち、険しい所を捨てて、平らな所を先に取った。だから力を費やすことが少なく、早く成功したのである。また豊臣氏も、織田氏が残してくれた謀に従い、天下統一を果たせた。
織田、豊臣二氏は、地形に対する見方をずいぶん考えていたらしい。根拠としたのはやはり京畿を中心としており、その点では足利氏と大差はなかった。二氏が天下を統一したあと、また分裂して長い間天下を制御できなかったのも、中心を京畿としたからではないか。
そもそも織田、豊臣氏は足利氏にかわって天下を掌握したとはいえ、織田氏が実際に所有した土地、山河は広大ではなかった。豊臣氏は四氏以上に広大な時もあったが、長く維持できなかった。
要するに四氏は当時の衰乱に乗じて知勇を奮い、群雄割拠したのである。また人民も彼らに頼って一時的に安穏を享受した。四氏よりほかの小さな国の凡庸な君主が無闇に戦争を起して、人民を苦しめて成功しなかったこととは比べものにならない。つまり四氏は天下に対して功徳がなかったわけではない。
また四氏を足利氏の反臣であると決めつけるわけにはいかない。「四氏が割拠したところはみな王土ではないか」といえば、時勢の変遷からそのようなことに成ったのであって、一日で成ったわけではないから、一概に四氏を咎めるわけにもいかない。彼らは経営という点でみると、部下の猛将、謀臣の事跡の中で記録に値するものはある。だから自分は四氏が盛んになったり、衰えたり、起こったり、滅んだりした由来を詳細に書き起こして「国家を所有する君主の手本にしてもらい、自らを戒めてもらいたい」と思うのだ。その上「天下の形勢とはどんなものなのかということや、分裂合一はどんなときに起こるか」ということについても、見るに足るものがあるだろうと思うのである。
2024・12・20 後北条氏
外史はいう。
天下をとり、治めて行くには土地の形成が第一で、これより大切なことはない。もし形勢に失敗すると、多くは分裂するようになる。
昔、文武天皇は山海の形勢が便利なところを利用されて、日本を七道に分け、王畿は真ん中にあった。桓武天皇は都を平安に定め、四方からこれに向かうようにした。思うに、盛んなことであった。しかし王政が衰えてくると、片隅に土地を盗んで
立て籠もり、押さえつけられない者がでてきた(阿部頼時)。彼は早く討ち滅ぼされたが、天下の勢いが分裂して、鎌倉幕府の覇業を成立させるような機運に至らしめた。これから後は関東の形勢は常に天下に優れたものになり。京畿地方は勝つことはできなかったのである。
かつて自分は東西の各地を旅し、山河の起伏しているのを見て、我が国の地層の道筋は東北からきていて西にいくほど小さくなっていることに。これを人の身体に例えると陸奥国、出羽国は首である、甲斐国、信濃国は背である。関東八州及び東海道の国々は胸や腹にあたり、京畿は腰や尻である。山陽、南海から西は腿、脛に過ぎない、だから腰や尻のところに居て腿や脛を支配することはできるが、腹や背を支配できない。
それに平安の都は地勢が平坦で、四方から攻め立てるには都合のよいところで、天下に事件が起これば第一に戦争に挑まれるところである、鎌倉がただ一方の口だけ持って西方の畿内を押さえつけることができるような具合にはいかないである、
元弘の時に、造作なく鎌倉を本拠とした北条氏に対して、腹心の新田氏、足利氏などが怨み背いたところに禍いが起こった。これは西をもって東に勝てたということではない。
北条氏は栄えている時代には鎌倉を本拠とし、役所を京都六波羅や九州探題府に置いた。当時、北条氏は天下を制御することは臂で指を使うようなもので容易であった(地形の便を占めていたからできた)
ところが足利氏は北条氏のやったことに反して鎌倉を捨て、京都を本拠としたのが間違いであった。だがやむを得ないところもあった。足利氏は南朝が心配でならず、遠く離れた鎌倉にいることができなかった、そのため鎌倉を鎮めるのにその子弟の足利基氏をあてがい、京都室町の足利本家の藩屏とした。そのことが足利氏二宗族の争いの糸口を開く原因となり、ついに京都室町の足利氏は鎌倉に内乱を利用して鎌倉の足利氏を転覆させてしまった。そして京都室町の足利市も乱れ始めたのである。
このように四方を制御できないのに、足利氏が皇室の失敗の跡を同じように継いで失敗に陥ったのは、その地形の便を考えず、鎌倉ではなく京都にいたからではないか。