見延典子訳『日本外史』後北条氏

参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931) 

               藤高一男『日本外史を読』』Ⅲ(2002)

2025・2・5 関東の騒乱

 

 以前、足利義政の父足利義教が将軍であった時、一族の足利持氏が代々関東の管領となって治めていた。永享年間に持氏は権臣の上杉氏に滅ぼされてしまった。それは足利義教の考えであった。

 上杉氏は二宗族があった、山内の上杉と扇谷の上杉といった。両家は京都に願い出て、足利政知を奉じて関東の主とした。しかし関東の将士は足利持氏を慕って、足利政知の命令を受けようとはしなかった。そこで足利持氏の孤児足利成氏を立てた。成氏はすでに成長して両上杉を討ったが、勝てなかった。そこで古賀を保ち、古河公方と称した。山内の上杉一族は上野国の平井に立て籠もり、扇谷の上杉一族は相模国の大庭に立て籠もった。みな表面的には足利政知を尊んで奉戴して主君とし、伊豆国に居らせた。伊豆国は山内上杉氏の管轄していた国である。足利政知には田を与えて堀越に居らせた。それで政知は堀越公方と称した

 長享二年(1487)伊勢長氏は興国寺城に移り住み、秘かに伊豆国を窺っていたが、まだ隙を生み出せなかった。そこで政治法令を立派にし、租税を軽くし、また自分の蓄えていた金銭や穀物を遠近の人民に貸し与え、利息も安くてやった。遠近の者はありがたく思い、伊勢長氏に頼ってきた。士民は毎月1日、十五日には拝謁に来るまでになった。たびたび拝謁にきた者には夫妻を帳消しにしてやることもあった。だから士民はだんだん城下で居を構えるようになったので、村里を形作っていった。

 伊勢長氏は荒木兵庫・多目権平らをそれらの頭分として七隊を編成し、足利政知に服従して仕えさせた。

 足利政知には二人の子があった。その長子は茶々丸と称し、前妻の生んだ子であった。茶々丸は継母のために讒言せられ、数年間も牢に押しこめられた。茶々丸は憤り怨み、番人が油断しているのを見計らい、牢から抜けて継母を殺し、その一味の者を集めて父の政知も弑し、大臣外山、秋山らも殺して自らが立った。

 伊勢長氏はそれを聞き、わざと病気だと言い立てて、伊豆国の温泉に入湯して茶々丸の動静を探りながら「この際伊豆国は取ってしまうことができる」と言って、帰ってから部下を集めて評議した。

 部下は「われわれは長い間新九郎君(伊勢長氏)を一国の君主としたいと願っていた。どうして手をつくさないでしょうか」

 延徳3年(1491)4月、伊勢長氏はすでに編成していた七隊を統率し、今川氏の援隊も一緒にしたので、およそ五百人になり、夜、皆で黄瀬川を渡り、朝早く堀越の邸に至り、火をつけて茶々丸を攻め立てた。茶々丸は逃げて成就院で自害した。

 伊豆国の人民は伊勢長氏の軍の威力を恐れて、荷物を背負って逃げ隠れした。伊勢長氏は兵卒へ号令を厳しくしていたので、少しも人民に迷惑はかけなかった。道路に札を立てて「自分が攻めてきたには賊子(父を弑した子)の茶々丸を殺したいだけのためである。乱暴したり、略奪したりするものではない。人民どもは各々自分の家の垣根の中で安心して命令を待っていよ。命令を待たずに脱げ出す者は、その者の作物を踏み荒らし、焼いてしまうぞ」

 当時、悪病が大流行していたので、罹患していた者は逃げ出すことができず、家で寝ていた。伊勢長氏は彼らに薬を与え、慰め、いたわった。人民はかわるがわるやってきて味方につく者が多かった。豪族の佐藤某は率先率先して伊勢長氏に味方した。伊勢長氏は彼に大見郷の地頭職を与え、彼の先代が所有していた土地を返してやり、証書に朱印を押してやった。

 関戸某なる者が深根城に立て籠もって伊勢長氏に抵抗した。伊勢長氏は兵を向かわせて責め殺した。このようにして伊勢長氏の恩恵威光は伊豆国全体に行なわれた。これを聞いた伊豆国内の将士で、もともと上杉氏についていた者も伊勢長氏に付き従った。

 伊勢長氏はたった三十日間で伊豆国を攻め取り、堀越公方のものであった領地だけを自分のものにして、その他の土地は取らなかった。

 そこで年寄りや豪族を呼び集め、「聞くところ、『君主は民を視ることあたかも子のごとく、民は君主を視ることあたかも父のごとくである』というのが昔からの道である。世の中が衰えるに従って、武士は強欲で残酷になり、人民から者を奪って思うがままにした。そのうち双方が苦しんで行き詰まることになった。ほんとうに気の毒と思う。私は他国者だが、この国を治めることになった。これからはお前らの君主となろう。お前らは私の民となってくれ。人として生まれて、君臣の関係になることは縁あればこそで、決して偶然ではない。私はただ、お前ら人民が充分に富むことを願うのみだ。今から法令を発して、租税の五分の一を減らし、他の租税はやめる。万一大将役人が法令に背いて人民をいじめる者がいたなら、お前らは訴え出てくれ」

 大勢の者は喜び、心服して、争うように伊勢長持のために働こうとした。

 

 

 伊勢長氏(北条早雲) 1432?~1519
 伊勢長氏(北条早雲) 1432?~1519

2025・2・4 伊勢氏の台頭

 

 後北条氏はもと伊勢氏と称していた。伊勢氏は平維衡から出ている。維衡は正度を生み、正度は平季衡、正衡を生んだ。正衡は太政大臣の平清盛の曽祖である。平季衡は上総介に任じられ、子孫は代々伊勢国に居た。平季衡より十一世の孫伊勢貞行は伊勢守に叙せられ、足利義満に仕えて取り次ぎ役となり、会計係を掌った。その子は伊勢貞国、孫は家貞親で相次ぎ取り次ぎ役に任じられ、大いに権威があった。


   伊勢貞親の弟、伊勢貞藤は備中守に任じられ、尾張国の人横井某の娘を娶り、赴任先の備中国で男子を産んだ。この男子は伊勢新九郎といった。後に伊勢長氏と称し、足利義視の近習となった。応仁中、足利義視に従って伊勢国に逃げた。足利義視は京都に帰ることになったが、伊勢長氏だけはその土地に留まって従わなかった。

 当時、足利氏の中で権力をもった家臣の山名氏と細川氏は、各々が個別の党波を組んで京都で戦っていた(応仁の乱)。将軍足利義政はこれを制圧できなかった。伊勢長氏は聡い性質で、また頭脳明晰で大志があり、ひそかに金銭をばらまいて豪傑らと結託していた。

 ある日、伊勢長氏が大勢の者に向かって「天下の行き止まるところは、わかりきっている。功名をなして富貴をとるのは、今の時をおいて他にない。思うに関東八州は地形も高く、武士も馬もすぐれていて強い。昔から武を尊ぶ土地だといわれている。永享以来、その土地にこれといって定まった主君もいなかった。もしもここに土地を取って立てこもることができたなら、天下を取ることはやさしいことだ。私は諸君とともに東に向かい、機会を利用して応変の処置をとり、一家を起すことを計ろうと思う。諸君はこれに同意する気はないか」といった。大勢の者は奮ってこれに従った。

 後土御門天皇の文明八年(1476)、伊勢長氏は荒木兵庫、大目権平、山中才四郎、荒木又四郎、大導寺太郎、有竹兵衛の六人と、剣を頼りに東に向かった。ついに駿河国に至り、そこの今川義忠を頼った。今川義忠は伊勢長氏の姉婿である。折から今川義忠が死んでしまい、その子の今川義親はまだ幼かった。その将士らは互いに争い戦っていた。伊勢長氏の姉は子の今川氏親を抱いて山の中へ逃げ込んだ。

 上杉政憲、上杉定正は足利政知(堀越公方)の命令のもとに兵を繰り出して、駿河国を平定しようとやってきた。伊勢長氏が迎えて彼らに「国内の将士は誰も背いておりません。ただ、主君が幼少なことから国民が互いに疑い合っていたので、わざと徒党を立てたに過ぎません。今、ご両公にはかたじけなくもここにご出張くださり、今川氏を平定しようとしておられます。私は不束な男ではありますが、ご両公のお考えを触れまわって将士らを取り鎮めるように致しましょう。もし言うことを聴かない者がいましたら、両公には何とぞその者を討ってください」といった。上杉政憲が「承知しました」と答えた。

 そこで伊勢長氏は今川氏の将士らを呼び寄せて他心のないことを誓わせて、山に入って今川氏親の母子を迎え連れて屋敷に帰ってきた。そこで足利政和の兵士もそこを引き揚げ去った。今川氏の将士らはみな伊勢長氏に功があったとして、八幡山城に居らせた。この足利政知は将軍足利義政の弟である。

 

2024・12・28 後北条氏②

 

足利氏の末世ころになると七道の群雄が代る代わる飲み合い、噛み合いをやりだし、元亀、天正のころまでくると天下は裂けて八、九氏が割拠した。なかでも四つの氏があった。北条氏、武田氏、上杉氏、毛利氏である。

 毛利氏は安芸国から起こって山陽道、山陰道の十二カ国を合せとり、領土は四氏に中でも一番広かった、次に広いのが北条氏である。北条氏はまず伊予国を取り、そこを足がかりに関東八州を合せとった。武田氏は甲斐国から起こって信濃国、飛騨国、駿河国、上野国を合せ取り、上杉氏は越後国から起こって越中国、能登国、加賀国を合せ取り、庄内、会津にまで及んだ。

 これら四氏の国は平時にはみな競い合って耕作し、戦時には戦うというやり方で、武装の兵が数万人もいて、兵糧は山のようであった。みな龍のようにあがり、虎のように睨みあって東西に並び立ち、天下を残らずとりこもうとする者ばかりであった。

 北条氏が地形で胸や腹に当る場所にありながら、一度として軍兵を繰り出して京畿を窺うことがなかったのは武田、上杉の二氏が背に当る部分にいて、北条氏の通路を塞いでいたからである。そして武田、上杉氏の勢力は匹敵、均衡しあって勝負がつかなかった。従ってこの二氏も西の方に進出を図る暇がなかった。

 毛利氏は、領土こそ広いが、腿や脛に当るところにいて、腰や脛の当る京畿に向かっていたから、地形の上では中央部の地に進出して凌ぎを削ることはできなかった。

 織田氏は毛利氏、北条氏、武田氏、上杉氏の四氏に挟まって起こり、攻めやすい西方を先にして東方を後回しにして、強きを裂けて、弱きを先に撃ち、険しい所を捨てて、平らな所を先に取った。だから力を費やすことが少なく、早く成功したのである。また豊臣氏も、織田氏が残してくれた謀に従い、天下統一を果たせた。

 織田、豊臣二氏は、地形に対する見方をずいぶん考えていたらしい。根拠としたのはやはり京畿を中心としており、その点では足利氏と大差はなかった。二氏が天下を統一したあと、また分裂して長い間天下を制御できなかったのも、中心を京畿としたからではないか。

 そもそも織田、豊臣氏は足利氏にかわって天下を掌握したとはいえ、織田氏が実際に所有した土地、山河は広大ではなかった。豊臣氏は四氏以上に広大な時もあったが、長く維持できなかった。

 要するに四氏は当時の衰乱に乗じて知勇を奮い、群雄割拠したのである。また人民も彼らに頼って一時的に安穏を享受した。四氏よりほかの小さな国の凡庸な君主が無闇に戦争を起して、人民を苦しめて成功しなかったこととは比べものにならない。つまり四氏は天下に対して功徳がなかったわけではない。

また四氏を足利氏の反臣であると決めつけるわけにはいかない。「四氏が割拠したところはみな王土ではないか」といえば、時勢の変遷からそのようなことに成ったのであって、一日で成ったわけではないから、一概に四氏を咎めるわけにもいかない。彼らは経営という点でみると、部下の猛将、謀臣の事跡の中で記録に値するものはある。だから自分は四氏が盛んになったり、衰えたり、起こったり、滅んだりした由来を詳細に書き起こして「国家を所有する君主の手本にしてもらい、自らを戒めてもらいたい」と思うのだ。その上「天下の形勢とはどんなものなのかということや、分裂合一はどんなときに起こるか」ということについても、見るに足るものがあるだろうと思うのである。

 

 

2024・12・20 後北条氏

 

外史はいう。

天下をとり、治めて行くには土地の形成が第一で、これより大切なことはない。もし形勢に失敗すると、多くは分裂するようになる。

昔、文武天皇は山海の形勢が便利なところを利用されて、日本を七道に分け、王畿は真ん中にあった。桓武天皇は都を平安に定め、四方からこれに向かうようにした。思うに、盛んなことであった。しかし王政が衰えてくると、片隅に土地を盗んで

伊能図全体図 ネットより
伊能図全体図 ネットより

立て籠もり、押さえつけられない者がでてきた(阿部頼時)。彼は早く討ち滅ぼされたが、天下の勢いが分裂して、鎌倉幕府の覇業を成立させるような機運に至らしめた。これから後は関東の形勢は常に天下に優れたものになり。京畿地方は勝つことはできなかったのである。 

かつて自分は東西の各地を旅し、山河の起伏しているのを見て、我が国の地層の道筋は東北からきていて西にいくほど小さくなっていることに。これを人の身体に例えると陸奥国、出羽国は首である、甲斐国、信濃国は背である。関東八州及び東海道の国々は胸や腹にあたり、京畿は腰や尻である。山陽、南海から西は腿、脛に過ぎない、だから腰や尻のところに居て腿や脛を支配することはできるが、腹や背を支配できない。

それに平安の都は地勢が平坦で、四方から攻め立てるには都合のよいところで、天下に事件が起これば第一に戦争に挑まれるところである、鎌倉がただ一方の口だけ持って西方の畿内を押さえつけることができるような具合にはいかないである、

元弘の時に、造作なく鎌倉を本拠とした北条氏に対して、腹心の新田氏、足利氏などが怨み背いたところに禍いが起こった。これは西をもって東に勝てたということではない。

北条氏は栄えている時代には鎌倉を本拠とし、役所を京都六波羅や九州探題府に置いた。当時、北条氏は天下を制御することは臂で指を使うようなもので容易であった(地形の便を占めていたからできた)

ところが足利氏は北条氏のやったことに反して鎌倉を捨て、京都を本拠としたのが間違いであった。だがやむを得ないところもあった。足利氏は南朝が心配でならず、遠く離れた鎌倉にいることができなかった、そのため鎌倉を鎮めるのにその子弟の足利基氏をあてがい、京都室町の足利本家の藩屏とした。そのことが足利氏二宗族の争いの糸口を開く原因となり、ついに京都室町の足利氏は鎌倉に内乱を利用して鎌倉の足利氏を転覆させてしまった。そして京都室町の足利市も乱れ始めたのである。

このように四方を制御できないのに、足利氏が皇室の失敗の跡を同じように継いで失敗に陥ったのは、その地形の便を考えず、鎌倉ではなく京都にいたからではないか。