見延典子が自らのルーツの話を書いています。
2026・6・10 義兄のルーツ探し
76歳の義兄が、急にルーツ探しをはじめるという。
聞いてみれば、見延の母方の祖母と同じく四国徳島徳島県出身で、見延のルーツ徳島市美馬町郡里(赤〇)の西隣の重清(赤〇)出身という。え?

また見延と同じ誌面には「白石村87番地」つながりで、大泉洋のご尊父大泉恒彦さん、ご尊兄の函館市長大泉潤さんの写真も掲載されている。
2026・4・3
「札幌市の白石区ふるさと会設立50年記念誌」
札幌市白石区から「白石区ふるさと会設立50年記念誌」が送られてきた。白石区ふるさと会は昨年2025年6月に設立50周年を迎え、祝賀会が開かれた。すでにお伝えの通り、見延も招かれたのだった。
記念誌には同会初代会長で、大伯父の長濵萬藏の写真も掲載されている。

ルーツ探しは見延のライフワークであり、二従兄弟の長濵好博さんと『私たちのルーツ』を作ったのはその一環だった。失礼ながら、白石区ふるさと会のことなど考えてもいなかった。それがあれやこれやの偶然が重なって、このような晴れの席に招かれた。まさに先祖のご加護であろう。
2026・1・31
祭政一致の明治政府
白石神社が神武天皇を祀っているのは、祭政一致の明治政府らしいやり方であると思う。武士の誇りを捨てきれなかった白石藩の片倉家臣団の多くが白石の地に定着できなかったのは、大地との格闘に不慣れだったことに加えて、明治政府のやり方に迎合できなかったからではないか。

北海道は明治政府によって開拓されたので、神社について調べるだけでも、当時の祭政一致の政治実態がわかりやすく伝わってくる。
1889年(明治22)見延の高祖父ら屯田兵が入植した篠路兵村にある江南神社は、天照大御神、大国御神、日本武尊を祀っているそうだ。
少なくとも札幌(北海道)の神社には神仏習合時代の神社にあった神宮寺(別当寺)は存在しない。明治政府による神仏分離政策のためである。
篠路兵村に入植した見延の先祖は屯田兵の兵役を終えると樺太に渡り、真言寺という寺を建てた。このこと一つとっても、信仰心は権力によって変えられるものでないことがわかる。

念のため1869年(明治2)「蝦夷地」が「北海道」と改称された年に創建された「札幌神社(後の北海道神宮)」を調べると、明治天皇の聖旨により北海道の開拓、発展の守護神として、 開拓三神とされる「大国魂神・大那牟遅神・少彦名神」の神々が祀られ、後に明治天皇も祀られたという。
ついでに1875年(明治8)琴似に屯田兵が入植したときにつくられた「琴似神社」は、一部の兵士の出身地であった仙台藩亘理伊達氏の祖伊達成実を「武早智雄神」として祭神として創建した。ところが1897年(明治30) 琴似神社に改称し、1911年(明治44) 国土開拓の神・大国主大神(大那牟遅神か)を札幌神社(現北海道神宮)から分霊したという。

2026・1・31
白石神社(札幌)の祭神は神武天皇
子どもの頃、お祭りに行っていた白石神社。調べてみると、祭神はなんと、神武天皇(初代天皇)であることがわかった。1872年(明治5)神武天皇の陵墓(畝傍山稜・奈良県橿原市)の分霊を白石村守護産土神として与え、鎮座式が行なわれたという。
へぇ~ 知らなかった。


一人の参加者が「白石神社の周辺は縄文人が住んでいた地だから、敬意を表したのではないか」と発言された。
そこで老母に確認ところ、「多くの人に白石に足を運んでもらうため、遠くに神社をつくったという話を聞いたことがある」という返事であった。母の答えは当日参加されたご長老の話とほとんど同じであった。年が明けて数えで98歳になった母の記憶力恐るべし。
2026・1・30
白石神社は100番地に
札幌の歴史サロンに参加した時「白石神社はなぜ100番地に作られたのか」という話が出た。開拓にあたって白石は100の番地に分けられて、白石神社は札幌の中心部から最も遠い100番地に建てられたのだ。

現在の札幌市白石に仙台の白石藩から片倉小十郞家臣団が入植したときの背景、経緯などを郷土史家から伺う。
2026・1・24
札幌の歴史サロン
札幌在住、二従兄弟の長濵好博さんがかかわっている歴史サロンに参加。
ご講演を拝聴したあとは、会食しつつ、この会の今後の予定について話し合う。私は直接かかわることはできないけれど、曽祖父以来のゆかりの地であることから、応援したいと思う。
2025・12・14
討ち入り
12月14日は討ち入りの日だ。
今秋には先祖で四十七士の一人菅谷半之丞の足跡を訪ねて、父方の祖母の出身地である山形県酒に行く計画をたてていたが、いろいろあり延期した。
東京高輪の泉岳寺で毎年行なわれている義士祭にも参加してみたい。「討ち入り」も「忠臣蔵」も死語になっているという話を聞くが、まだがんばっている人々はいらっしゃるのだ。
半之丞と自分をつなぐルーツの解明は、私にとって「ルーツ探し 最後の宿題」である。大きすぎるテーマだが、なんとか糸口を見つけて進みたい。

入植当時は代々の「井川(いかわ)」姓であったが、開拓の辛さから兵村を出て行った屯田兵の土地を譲ってもらうには養子になる必要があった。
そこで、典子の曾祖父「井川宇八」は、土地を出て行った中山さんを継ぎ、「中山茂三郎」となったのだ。
兵役を終えた中山茂三郎一家(夫婦には12人の子)は典子の祖母長濵カツヱ以外、樺太に渡って終戦を迎える。茂三郎は病に倒れ、昭和21年樺太で亡くなっている。

2025・11・25
屯田兵の先祖の墓を訪ねて
屯田兵として明治21(1888)年ころ、徳島県美馬市から札幌の篠路兵村(現在の札幌市北区屯田)に入植した先祖の墓を9年ぶりに訪ねた。

「井川宇八」から「中山茂三郎」になった高祖父は長男であった。そのため井川家は長女の伴侶が次いだ。
別のルーツ「見延家」も長男が福井を出て、北海道に渡った。同じく「長濵家」も長濵に養子に入った長男が北海道に渡った。明治期における長男の役割とは何かを考えさせられる。

サトは混乱の中、茂三郎の遺骨をもって子らと命からがら札幌に帰るが、疲労の余り遺骨を汽車の中に忘れる。そのサトは昭和22年、娘のカツヱのところに孫娘と遊びにいき、宿泊。翌朝起きてこないので見にいくと、亡くなっていたという。72歳であった。
