来年2025年(令和7)7月は頼三樹三郎生誕200年にあたります。
この物語は、三樹三郎が青春を過ごした蝦夷地での日々から始まります。
連載小説
はるかなる蝦夷地
―頼三樹三郎、齊藤佐治馬、松浦武四郎の幕末
見延典子
主な登場人物
頼三樹三郎(22才)は頼山陽の3男
齊藤佐治馬は江差の町年寄(27才)
松浦武四郎(29才)は後に「北海道」の名付け親となる
齊藤佐佐馬五郎(14才)は佐治馬の弟
齊藤佐八郎は佐治馬、佐馬五郎の父で、隠居している。
1846(弘化3年)9月末、蝦夷地に渡った頼三樹三郎は、江差の商家で、町年寄をつとめる齊藤家の食客となっている。
2024・12・11
はるかなる蝦夷地 第13回
三樹三郎は周囲を見まわして、「そういえば、武四郎殿の姿が見えませぬが。武四郎殿は西川殿に同行されたとうかがっております」
「二年前には東蝦夷に行き、今回はどうしても北蝦夷に行きたい、歩く
ことには自信があるといって再び海を渡ってきたので、西川殿に頼み、家来ということにして同行させた。それだというのに、酒に誘えば、体調が悪いといいだす」と佐治馬が答えた。
三樹三郎が見る限り、体調が悪いようには見えなかったと話すと、佐治馬は、「あの者は考えていることがよくわからぬ。わしには腹に一物持つ者のようにみえるのだが。西川殿は半年も一緒に旅したのだから、性根はわかるだろう」
「わしは、精一杯つとめに励んでいたから、ほかのことには気がまわらなかった」
「そうはいっても四六時中いっしょだっただろう」
「夜は別々だった」
「なにゆえ?」
「武四郎殿がアイヌたちと過ごしたいと」
「アイヌと? 意外な話だ。原住民であれば、警戒心がわくのは自然だろう。それをよりによって夜を過ごすというのは考えにくい話だ。目当ての女子でもおったのか」
「いや、そのようなことではないようだ」
「ではなぜ。そもそも言葉がわからぬだろう」
「何やら、熱心に聞き取っていた。何を聞きとっているのか訊いたところ、地名だという。地名ならわしも知りたいと思っていたので、したいようにさせた」
「他には、気になる言動はなかったかと」
「思いつくのは不満が多いということか」
「不満? どのような」
「松浦殿はなかなか口の悪いところがあって、いろいろ話していたな。・・・・・・すまん。今は細かいことは思い出せぬ。ただ、調査には協力してくれたのは確かだ。後日、武四郎殿から聞き取りたいことがある。まあ、何がとは申せぬが」
西川は別の話題に変えたが、佐治馬は依然として武四郎に不審を抱いているような様子がうかがえる。東蝦夷行きに続き、北蝦夷への同行を松前藩が認めたのは、佐治馬の父佐八郎の口利きがあったからだ。それだけに武四郎の言動には注意を払うべきという思いがあるのだろう。
もちろん三樹三郎も、武四郎が恩義のある齊藤家、ひいては松前藩を裏切り、水戸藩に松前藩の内情を売っているとまでは考えていなかった。
2024・12・10
はるかなる蝦夷地 第12回
半刻ほど遅れて、西川雍がやってきた。号は春庵である。三樹三郎を見るなり「いやあ、大きくなられて」と笑った。
西川は三樹三郎より五歳年上、二十七歳の町医者である。十代の後で
京都に遊学した。文章を綴ることに興味があり、頼山陽の門に入りたかったが、山陽はすでに亡くなっていたため弟子や友人らと交流した。その際、まだ十代初めだった三樹三郎とも会っていたのだ。
正直、三樹三郎に明確な記憶はなかったが、西川が思いがけない話をはじめた。
「三樹三郎殿は、あのころからご尊父の山陽先生が案じられるほどの腕白者であった。まだ五歳の頃、ご邸宅水西荘の東を流れる鴨川が大雨のため増水したことがあったが、三樹三郎殿は金太郎の腹掛け一枚で鴨川に飛び込み、向こう岸まで泳いで渡った。その様子をご覧になっていた山陽先生は肝が冷え、無事向こう岸まで渡りきったことに安堵されたが、それも束の間、三樹三郎殿は再び鴨川に飛び込み、折り返し水西荘を目指して泳いだという話をうかがった」
西川の話に大きな笑い声が起こった。
「いやはや、なんという命知らず。もはや武勇伝の領域だな」
その話は実話で、三樹三郎自身も憶えているが、京都を離れてからは誰にも話したことがない。西川が三樹三郎を会ったり、門下生と交流したりしたという話に偽りはないのだろう。そう思うと、三樹三郎は西川に特別な親しみを感じた。
「皆様のお話をうかがっていると、江差と上方は思いのほか近いのがわかります」
佐治馬が「そこが江差のおもしろいところだ」といって江差のあれこれを話したあと「おもしろいといえば、西山殿は春から夏にかけてカラフトに行かれ、先日帰ってきたところだ。土産話を聞きたいと思っていたが、西川殿は多忙のようで、なかなか会えなかった」
「やはりロシア船の状況を調べに、カラフとまで行かれたですか」と三樹三郎が訊いた。
「とうぜんそういうことになるが、立場上話せぬこともある。帰藩してから、松前まで挨拶にいき、その後はずっと報告書を作成した」
「で、一区切りついたのですね」
「いや、まだまだ。しかし酒でも呑まねばはかどらない」
冗談めかしつつ、西川も杯を重ねている。今回の功績いかんでは藩医にとりたててもらえるかもしれぬというので、よい報告書を書きたいと考えているようだ。
2024・12・5
はるかなる蝦夷地 第11回
日本海航路の北の終着港である江差は、文化期(1804~1818)には年間七百艘の船が入港した。百軒以上ある浜小屋は酒場や茶屋を営むようになり、三月のニシン漁時期には秋田や津軽、南部からヤン衆と呼ばれる大勢の漁夫であふれた。
春のニシン漁が終わればヤン衆も去り、七月に北前船が出港すると、浜小屋も取り壊し、極寒の季節を迎えた江差は、雪に閉ざされた日々を迎える。とはいえ佐治馬のように多くの回船をもつ旦那衆や使用人、もちろん土地の者たちもいれば、江差に根つく者ヤン衆や遊女でもいて、歓楽街の灯が消えることはない。
行燈の明かりに三樹三郎の目が慣れてきた。
膳に並んでいるのは近隣の海であがったばかりの魚の刺身や貝類である。春先に獲れたニシンや鮭は干物し、漬物や汁物になって供される。
「三樹三郎殿の歓迎の宴やから、魚介をふんだんに用意してもらった」と佐治馬がいった。
「このような馳走は見たことがございません」
横から誰かの「わしらにとっては、山でとれるほうが馳走だな」という声が聞こえるが、誰の言葉か見遣る間もなく、杯に酒が注がれる。
「まあ、こちらの若いお方は、杯に穴があいているのやないかと思うほど、気持ちよくお飲みになりはりますね」と酌をしている芸者が目を丸くした。
「肴もうまいが、酒もうまい。どこの酒や」
「下り酒やと思います」
三樹三郎は久しぶりに懐かしい言葉を耳にした。
「下り酒か。お前も上方訛やな。名はなんと」
「まさと申します」
「おまさか」
気がつくと、本多覃が膳をはさんで向かい側に座り、とっくりを差し出している。
「はやくも芸者をくどくとは、三樹三郎殿もなかなかのものだな」
「いえ、上方訛だったもので、興がのりました」
「ふるさとが恋しくなったか」
「いえ、江差が気に入りました」
「申しておくが、おまさは枕芸者ではないぞ。唄も三味線もうまい。あとで披露してくれるだろう」
枕芸者とは遊女のことで、繁忙期には貧しい農家の娘たちを中心に三百人以上が集まり、半年足らずで二、三十両の大金を稼ぐという。
もう少しおまさと話したかったが、本多は趣味で珍書、稀書籍を集めているといい、菅江真澄の遊覧記の話を始めた。真澄は十八世紀末に蝦夷地にも渡ってきたことのある旅行家である。
三樹三郎は「いずれと収集されている書籍を拝見させてください」といい、本多も「ぜひ見てくれ。いずれ多くの人々に広く開放するつもりで集めている」と応じる。
入れ替わり、立ち替わりで、酒をついでいく。身体が冷え切り、久しぶりの酒ということもあり、盃が進む。江戸では酒が引き金となって、人生を狂わすような大事件を起し、酒を控える気持ちはあったものの、生来好きであるから、みるみる酩酊していく。
会話は江差の話から、異国船の話に飛び、蝦夷地をとりまくロシア船になると、ますます熱を帯びていく。三樹三郎が想像しているより、多くの知識や情報をもっている。
2024・11・29
はるかなる蝦夷地 第10回
齊藤家に京都からきた頼三樹三郎が寄宿しているという話は、江差でも広まっていった。佐馬五郎に漢詩の手ほどきをしている話も伝わって、佐治馬の周辺でも「三樹三郎に会ってみたい」「漢詩の作り方を習ってみたい」と希望する者が出てくるようになった。
ある日、佐治馬から「今夜、親しい仲間を集め、三樹三郎を囲む宴を開くことにした」と誘われた。夕方、三樹三郎は小雪の降る中を出かけていった。北国の日没は早く、夜道も暗いが、店屋が建ち並びあたりまで来ると、往来が激しくなってきた。江差の花街の賑わいは三都に引けを取らないといわれているというが、その一画に足を踏み入れるのは江差に来てから初めてであった。
案内されて部屋に入ると、行灯には火が入り、すでに二人の先客がいた。一人は本多覃という蘭方医で、三樹三郎の疥癬の治療を担当することになり、すでに顔見知りの関係であった。覃の父も蘭方者で、跡を継ぐため京都にいき、小石元瑞に師事した。三樹三郎の母の梨影は元瑞の養女で、浅からぬ縁があることから乾癬の治療にあたることになったのだった。
「その後、痒みはどうだ」
「はい。言われたように清潔にするようにつとめ、煎じ薬も服用していますが、なかなか」
「急には治らないからな。もう少し様子をみてみよ」
「そのように致します」
隣にいるのは原元圭である。原も蘭方医ながら、外科を学んだという。近江国の出身というから、これも琵琶湖の畔で生まれ育った梨影と同じである。背が低く、小太りで、布袋様のような風貌をしている。「貧しい者からは金をとらないという仁医だ」と本多は紹介した。
「三樹三郎殿にはぜひお会いしたかった。よくぞ蝦夷地に渡ってこられた」
「それはお互い様というもので」
久しぶりに近江の訛を耳にして、懐かしい気持ちになる。
遅れて日蓮宗の法花寺の十四世住職日袋、回船問屋を営む梁瀬存愛、そして佐治馬が「おばんです」といいながら入ってきた。
日袋は能登の人で、京都の本満寺から開教のため江差に派遣されたと自己紹介し、梁瀬存愛は回船問屋を営んでいると挨拶した。
集まっている仲間を見まわした佐治馬は「高野殿は風邪気味なので、残念ながら今夜は失礼するそうだ。また西山殿は少し遅れて来られるそうだ」
佐治馬と三樹三郎を加えて六名は、いずれも二十代から三十代にかけての若者で、佐治馬のやわらかな表情を見る限り、気の置けない友人であることがわかる。
「聞くところ、三樹三郎殿はそうとうに呑まれるようだが、江差に来てからは呑む機会がなかった。今夜は江差を支える文人たちが参集してくれた。思う存分呑んでくれ」
佐治馬が挨拶すると、襖の向こうに控えていた芸者衆数名が白粉の匂いをさせながら一気に入ってきて、酒を勧めはじめた。
2024・11・26
はるかなる蝦夷地 第9回
三樹三郎は佐馬五郎にも漢詩の手ほどきをはじめた。三樹三郎が最初に伝えたのは、父山陽が十三歳のときに詠んだ漢詩である。
十有三春秋 十有三春秋
逝者已如水 逝く者は已に水の如し
天地無始終 天地始終無く
人生有生死 人生生死有り
安得類古人 安くにか古人に類して
(意味 生まれてから十三回の春と秋を過ごしてきた。水の流れと同じように時の流れは元へは戻
らない。天地には始めも終わりもないが、人間は生まれたら必ず死ぬ時がくる、なんとしてでも昔の
偉人のように、千年後の歴史に名をつらねたいものだ)
三樹三郎が朗詠を終えると、佐馬五郎は目を丸くして「三樹三郎先生のご尊父は、誠にこの詩を十三歳のときに詠まれたのですか」
「そうや。亡父は元服を前におのれの夢を詠んだ。思えば、亡父は少年のころに抱いた志を胸に人生を生きられたのや」
「私は十四歳になりますが、まだ将来の夢が定まっておりません」
「心配いらぬ。わしも将来など考えず、過ごしてきた。大半の少年はそのようなもので、亡父は特別であったのだろう」
「少し安心したしました」
「ただ、わしは八歳で父を失った。父のいない暮らしは、むなしく、味気ないものやった。それに比べ、佐馬五郎殿はご尊父も、ご祖父もご健在だ。今後なにかにつけてご助言してくださるやろう。心強い限りでないか」
三樹三郎は漢詩の作り方についても教えた。絶句、律詩、古詩の違い、韻の踏み方、起承転結については、頼山陽が作ったとされる俗謡を引用した。
起句 京の五条の糸屋の娘
承句 姉は十八妹は十五
転句 諸国大名は弓矢で殺す
結句 糸屋の娘は目で殺す
「たかが俗謡と笑うではない。転句は見事で、転句と結句で韻を踏んでいるところもよい。もっとも必ずしもこのように基本通りに詠めるとは限らない。目下、わしもご祖父の願いで、書にすべき漢詩を詠んでいるところなのだが、思うような転句が浮かばなくて往生しておる」
「どのような漢詩でございますか」
「江差らしい風景をというご希望で、お庭を拝見しにいった。しかし庭よりそこから見た篠山が雪をいただく様子に心を引かれて、起句の篠山雪を帯びて洋空に立つ、掩映す暁波藍碧の中までは詠めたが、転句のところで迷っている」
篠山というのは「笹山」とも柿、江差の東にある標高六一一メートルの山である。古くから住民の信仰に対象となり、豊漁豊作祈願のお参りが行われている。
「転句では、視点を変えなければならないのですね」と佐馬五郎がいった。
「飲みこみがはやいな。転句ではがらりとした場面転換が必要や。しかも結句では、再び起句と承句に戻って行く流れにしなければならない」
三樹三郎が呻吟しつつ、後に詠んだ句は、転句、結句も含めて次のようなものになった。
篠山帯雪立洋空 篠山雪を帯びて洋空に立つ
掩映暁波藍碧中 掩映す暁波藍碧の中
江刺江頭幾千戸 江刺江頭幾千の戸
無窓不納白玲瓏 窓として白玲瓏を納めざるなし
(意味 雪を戴く篠山が広い空に聳えており、その姿は暁の濃い青緑色の海に映っている。江差の海辺には多くの家が建ち並び、窓から白く光り輝く景色が眺められない家はない。
実は山陽が九州遊歴をした際、桜島で詠んだ中に次の漢詩がある。
桜島突出海湾間 桜島海湾の間に突出す
一碧瑠璃撃髻鬟 一碧の瑠璃髻鬟(けいかん)を撃つ
鹿児城中家幾万 鹿児城中家の幾万
無窓不納紫孱顔 窓として紫孱顔(さんがん)を納めるなし
(意味 桜島は海湾に突き出ていて、波のしぶきが鬟を撃つ。鹿児島城下には何万という家が建ち並び、窓からもそそりたつ桜島の紫の岩壁が見えない家はない)
三樹三郎は、父山陽が旅人として九州遊歴をした姿と己の姿を重ねあわせていた。南方の地と北方の地との違いこそあるが、異郷に立つことで父を感じていたのである。
さらにいえば、三樹三郎の祖父頼春水には、若き日に松島を訪れて詠んだ漢詩がある。
平湾無数点青螺 平湾無数青螺を点ず
月明宛似龍燈出 月明か宛ても似たり龍燈の出るに
分付光輝夜色多 光輝分付して夜色多し
(意味 一面瑠璃色の海は、静かで波立っていない。平らな湾には無数の島々が青い巻貝のように点在している。月明かりはあたかも竜宮城を照らすように分散して、夜の雰囲気はすばらしい。
三樹三郎は漢詩を通して、祖父、父、自分の三代がつながり合っていることを佐馬五郎に教えようとしたのである。