はるかなる蝦夷地 第3部
日本史において、ペリー艦隊が来航した嘉永六年(1853)をもって「幕末」の始まりとされる。頼三樹三郎(号は三樹)は京都、松浦武四郎は江戸、齊藤佐治馬は江差で、それそれの「幕末」を迎える。但し、幕末の終わりである明治元年(1886)まで生きながらえるのは三人のうち二人だけで、その二人にも過酷な運命が待ちうけている。
2025・10・8 第66回
安政元年(1854)頼家には明るい話題があった。三樹の兄支峰が水原から帰京したのである。安堵したのは母の梨影である。梨影は三樹が尊皇攘夷運動に熱心にかかわっていることに胸騒ぎのようなものを覚えていた。
「そんなことにかかわらないで」といっても、三樹はどこふく風で「たいせつなことなんや」といって出かけては星巌や同じ考えの若者と会っている。誰かに相談しようにも、小石元瑞も篠崎小竹も鬼籍に入って久しい。広島の
聿庵は藩の重臣を罵倒した罪で、閉門蟄居を命じられ、息子の誠軒に家督を譲って隠居した。嘉永3年(1850)のことである。以降は飲酒の量がさらに増えているらしく、もはや相談できる状態ではない。今、頼りになるのは比較的穏やかな支峰くらいであったのだ。
支峰は確かに冷静であったが、最大の関心事といえば『日本外史』のことであった。江戸では大いに売れているのに、上方ではそうでもないことを残念に思い、帰京して早々『日本外史』(頼家正本)の版権を大坂島ノ内、心斎橋の書林秋田屋太右衛門、船場北久太町河内屋喜兵衛へ譲渡した上で、一部売れるごとに三匁の印税を受け取るという約束を交わした。
『日本外史』の冒頭は日本の歴史を学んだことのない人々に新鮮な驚きを与えた。日本の建国以来、天皇が兵食の大権を握っていたことが書かれているからである。
『日本外史』の冒頭部分
「けだしわが朝の初め国を建つるや、政体簡易、文武一途、海内を挙げて皆兵にして、天子これが元帥となり、大臣、大連これを偏ぴとなる。未だかつて別に将師を置かざるなり。あにまたいわゆる武門、武士なる者あらんや。ゆえに天下事なければすなわちやむ。事あればすなわち天子必ず征伐の労をみずからす。しからざれば、すなわち皇子、皇后これに代わり、あえてこれを臣に委ねざるなり。ここをもって大権上に在って、よく海内を制(征)服し、ひいて三韓、粛慎に及ぶまで来王せざるべきなり」
大意 日本が初めて国を建てた時は政治体制が簡易で、文官武官という区別もなく、国内の者は皆兵士であり、天皇は総大将であった。だがら後世の武門とか武士はなく、天下泰平ならそれまでのこと、有事の際は天皇が必ずご自分で征伐された。天皇に何かある場合は皇子や皇后が代理をされ、臣下に任せることはなかった。だから兵食の大権は天皇の手の中にあり、天下は抑えられ、威光は三韓などにも轟き、貢物を持って来朝しないものはなかったのである。
京都といえば、かつて頼山陽が春は桜、秋は紅葉と四季の移ろいに合せ、そぞろ歩きを楽しんだ古都である。終の住処三本木の自宅のあった亭には「山紫水明処」と命名したのは、山は紫で、澄んだ水は清く、山水の景色が美しいという風光明媚な景色を表したからだった。
その京都の雰囲気が一変している。漏れ伝わるところ、孝明天皇は異人嫌いで、異国の要請による開国や通商などもってのほかという考えという。
頼山陽は松平定信への「楽翁公に上るの書」の中で、「名分」について言い訳めいたことを書いた。特に定信が問題視しなかったのは、歴史を学んでいるものにとって「名分」の話は日本史における常識だったからである。
しかし多くの日本人はそんな事実を知らなかった。歴史上天皇が果した役割を初めて知り、大きな動揺が広がることになったのである。
2025・10・3 第65回
年が明けて嘉永7年(1854)二月、ペリーは二度目の来航をはたした。日米和親条約締結を迫ってである。このときアメリカ船に乗り込もうとして失敗した二人組がいる。長州藩の吉田松陰と子の金子重輔である
松陰は、前年松浦武四郎が星巌のもとを訪ねてきたころと時を同じくして、二度も星巌の鴨沂小隠を訪ねてきた。
一回目は江戸から長崎に向かうときで「長崎でピチャーチンのロシア船に乗りこむ」と語っていたが、長崎に着いたときには肝心のロシア船は帰ったあとであった。二度目は長崎から再び江戸に向かうときで、「ペリーが日米和親条約を締結に来るときアメリカ船に乗る、こんどこそ失敗はしない」と真顔で話していた。松陰は考えていたことを実行に移したのだった。
もっともアメリカ側は松陰が乗船しようとしたことを若者の一時的な気の迷いと受けとめて見逃してやった。ところが松陰自身が奉行所に出頭し、自らの行動を自慢げにペラペラ話し、捕縛され、萩に送られた。松陰は安政の大獄で捕まったときも、訊かれもしていない間部詮勝の暗殺計画をペラペラ喋り、結果として死罪になる。自分の思いを手柄話のように吹聴しないと気がすまない性分であった。
三月、江戸幕府はアメリカとの間に日米和親条約に調印した。すでに書いたように一年前にペリーが来航した直後の六月二十二日、第十二代将軍德川家慶は江戸城で薨去、第十三代将軍となった德川家定はほとんど喋れず、座っていることさえ難かしい状況で、「征夷大将軍」としての務めなど果たせるはずもない。そのため老中首座である阿部正弘が水戸藩の德川斉昭を海防参与として幕政に参画させ、難局を乗り切ろうとしていた。征夷大将軍が征夷大将軍の務めを果たせないにもかかわらず、幕府の頂点にたっているというところに幕府の瓦解の兆しは見えていた。
やや横道にそれるが、阿部正弘を補佐していたのは山陽の晩年の弟子であった門田朴斎、関藤藤陰、江木鰐水らである。山陽自身は文人として生計を立てた希有な存在であったが、弟子たちには堅実に仕官することを進めた。そのため三人は備後福山藩に仕官し、このときは江戸詰めとなっていた。
特に関藤藤陰、江木鰐水は正弘の懐刀というべき存在であった。ペリーが来航した直後、二人は下田に赴き、情報蒐集に努めている。これらのことが今日ほとんど公になっていないのは、外に出してはいけない内輪の情報として処理されたからにほかならない。
京都にいる三樹にも藤陰や鰐水が正弘を補佐していることは伝わっていたが、彼らの任務内容までは把握していなかった。三樹が二人に会うのは、安政の大獄で捕縛後、江戸に送られ、福山藩邸に預けられるときである。これらは拙著『破れざる幕末』に書いた。
2025・9・29 第64回
三樹は松浦武四郎を梁川星巌の居宅に案内した。武四郎も江戸で暮らしていたころ、水戸藩の知人から星巌の名を聞き及んでおり、同士と考えていた。そのため星巌に上洛の目的、すなわち「十月二十三日、十一代将軍德川家定に対する宣下が行なわれる際「攘夷の勅命の沙汰書」が下されるように朝廷に懇願するという話を伝えた。武四郎の様子からただならないものを感じていたが、想像を越える使命に三樹はもちろん星巌も驚きを隠せない。
梁川星巌の居宅鴨沂小隠方面から鴨川をはさんで水西荘(山陽のかつての住まい)を望む。坂本箕山『頼山陽』より
「それは水戸公の命令か」と星巌は問うた。
「そのように伝え聞いております」
「で、何か策があるのか」
「水戸藩では京都留守居役に鵜飼吉左衛門殿がおり、京都における各藩の情勢を探っているところで、こちらとは内々連絡がついております。ただ、幕府も目を光らせているので、表だって行動ができにくい状況です」
「なるほど」
「そこで京都に入る前、故郷の伊勢に行き、伊勢神宮の足代権大夫から三条家、坊城家、冷泉家、錦小路家などへの添え書きをもらっており、別の伝手はないかと考えているところです」
武四郎がもっている添え書きは次のようなものであった。
松浦武四郎
右はもと伊勢の人、ただ今は江戸に居住仕り候。御門人引き立て申したき由に御座候いて、御面会遊ばされたく願ひ奉り候。蝦夷へ三度渡海、夷情に通じ、江戸にも懇意多く、罰して浦賀異国船の事はくわしく存じおり申し候。以上。
十月五日 足代権太夫
三条様 御雑掌中
三樹は星巌に「どなたか三条家と縁のある方はご存じでしょうか」と訊いた。
星巌は「梅田雲浜殿もいるが、いささか言動が過激すぎよう」
梅田雲浜は小浜藩士であったが、昨年海防の強化を建言したことが藩主酒井忠義の怒りに触れ藩籍を剥奪されてしまった。ペリーが来航したあとも条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて、精力的の活動を続けていた。
「雲浜殿に比べれば、池内大学殿は目に見えた活動は控えている」
すると武四郎は「池内殿でしたら水戸藩とも昵懇の仲の上、公家の世界にも通じていると伝え聞いています」と応じた。
池内大学は京都で医業を営みながら、知恩院宮,青蓮院宮の侍読となるなど公家の子弟を教えた。また若い頃には有栖川宮織仁親王の子の超入道親王に随って江戸に向かい、水戸の徳川斉昭を訪ねている。親王の妹が斉昭の正室という関係であった。ここで斉昭から外国船の脅威、海防の重要性を教えられ、尊皇攘夷について大いに共感を得ていた。
「池内殿なら三条家とのつながりもあろう」
「では池内殿をご紹介いただけますか」
「もちろんや」
星巌には京都における尊皇攘夷派の団結を図りたいという思いがあった。尊皇攘夷運動は今後も続くでだろうから組織化したい。今回はよいきっかけになると考えたのだった
三樹三郎には「はたしてこんな話がうまく進むのだろうか」と案ずる気持ちがあったが、現実として武四郎の交渉は成功し、十月二十五日三条実万と坊城俊明の二人の公卿が将軍宣下の直視として東下する直前の十月二十二日、願いは聞き届けられたとの沙汰があった。さらに二十五日には坊城家から勅諭降下の内報に接した。
武四郎は三樹や星巌の力を借りながら、志士としての使命を果たした。同時に星巌、三樹は京都における尊皇攘夷運動の渦中に、いよいよ投げ込まれていくことになる。
『梁川星巌翁』より
2025・9・26 第63回
嘉永六年(1853)十月のある日、三樹は出かけようとしていた。川橋丸太町にある梁川星巌の居宅鴨沂小隠である。そこは三樹が幼少期を過ごした水西荘の、鴨川をはさんで向かい側にあった。
星巌は弘化二年(1845)に江戸の玉池吟社を閉じて京都に移り、二条木屋町や華頂山の北側に住んだあと、嘉
永二年(1849)から現在地に居住していた。星巌は山陽より十九歳年下で、現在六十五歳。文政二年(1819)に山陽と初めて会い、その後生まれた三樹をかわいがっていた。
三樹が江戸の昌平坂学問所に遊学したころ、星巌も江戸にいて、神田お玉ケ池で玉池吟社という詩社を営み、三樹も詩の指導をうけていた。星巌と会うといつも山陽の話になり、「山陽先生はよい詩人だ」「山陽先生の『日本外史』はすばらしい史書である」と山陽の詩才、文才を褒めた。
八歳の時に父山陽を失った三樹は、記憶の中に父の姿はわずかしか残っていない。そのため在りし日の父の様子を伝えてくれる星巌の存在は、特別に親近感を覚えるものであった。三樹は父の思い出を聞きたくて星巌宅に立ち寄るようになった。
ただ、星巌はかつて山陽から「猫かぶり」と評されたことがある。というのも一見物腰がかわらかく、静かな印象を受けるが、実際は牙をもっているという意味である。
三樹は、京都から大坂の篠崎塾に入ったころはさほど過激な思想はもちあわせていなかった。
ところが幕府の御納戸頭兼勘定吟味役羽倉簡堂の口ききで昌平坂学問所に入った直後、簡堂の上司である老中水野忠邦が左遷の処罰をうけ、簡堂も職を解かれた。さらに天保13年(1842)幕府は異国船打払令を緩和し薪水、食料の給与を許した。これはアヘン戦争によって清国が英国の植民地になったことを受けての措置で、海防に関しては強化策が打ち出された。
このころ発行されたのが『校刻日本外史』である。将軍德川家慶の治世は頼りなく、台頭してきた尊皇攘夷を唱える水戸藩の德川斉昭が若者からの支持を受け、勢力を増しつつあった。『日本外史』は水戸光圀が編纂した『大日本史』の影響を受けて書かれたこともあり、三樹のもとにも水戸藩士や尊皇攘夷思想をもつ者たちが集まり、三樹は好むと好まざるとにかかわらず頼山陽の息子ということで注目を集める存在になっていった。
また星巌は文政期に長崎、天保末期には房総を旅するなど海防に関心が強かった。三樹が異国船の寄港するようになった蝦夷地に向かった背景には星巌の影響があったといっていい。星巌はいつも幕府の異国船の対策が手ぬるいと批判していた。そこへアメリカ、ロシア艦隊の来航である。時代はまさに星巌の案じる方向へ進んでいる観があった。
玄関を出たところで、三樹は呼び止められた。笠をかぶり、黒っぽい身なりに振り分け荷物をかついだ小柄な男が立っている。
振り返った三樹に男は「三樹三郎殿、憶えているか」と声をかけた。
「はて、どなたや」
「松浦や」
やや考えて、三樹は「武四郎殿か」と問うた。
「そうや、松浦武四郎や」
三樹は驚きから「どうして武四郎殿がここのおられるんや。確か蝦夷地から江戸に向かわれたはずやが」
すると武四郎は三樹に近づき、小声で「やんごとなき用があって、江戸から三樹三郎殿をお尋ねした。一目もあるので、なにとぞ大きなお声は出しなさいませぬように」
「わかった。では家に戻ろう」
「失礼ながら、お宅にはどなたがいらっしゃいますか」
「老母がおるが」
「ご母堂様か」
「都合でもわるいか」
「できれば一目のないところで話したい」
武四郎の言葉の端々からただ事ではないと知った三樹は「これから星巌殿のところへ参ろうと考えていたところ。そこではどうか」
「それはありがたい」
2025・9・23 第62回
嘉永六年(1853)頼三樹(29歳)は母の梨影と姉小路御池上ルの借家で暮らしながら、家塾「真塾」で教える日々を送っている。
兄の支峰(又次郎、31歳)は、三樹が足かけ七年にわたって江戸、奥州、蝦夷地の旅を終えて帰京した嘉永二年(1849)三樹に遅れること七年後に江戸の昌平坂学問所に入った。
頼山陽が没したとき支峰は十歳、三樹は八歳。支峰は牧百峰、三樹は児玉旗山の塾に分かれて通い、寄宿することもあった。山陽の死を契機に支峰は学問修業から広島の頼宗家に引き取られて十年ほど過ごした。従って二歳違いの兄弟でありながら、一つ屋根の下で暮らした期間は極めて短い。支峰は広島の異腹の兄聿庵と、前年の九月には『日本外史』(頼家正本)を出版し、山陽の子としての役割は果たしていた。
支峰は昌平坂学問所に二年間通ったあと、越後水原(新潟県阿賀野市)の学問所に招かれ、今もその地で過ごしている。水原は延享三年(1746)に幕府直轄領となり、十六世紀末に廃城となった水原城館跡に代官所が設置され、嘉永三年(1850)学問所「温故堂」がつくられたのだった。支峰に声がかかったのは、三樹が蝦夷地の帰路に立ち寄った縁とも、『日本外史』を著わした頼山陽の子だからとみいわれるが、支峰としては僻地でもあり、少々嫌気がさしていた。それでも務めを続けたのは支峰に備わる協調性と、京都頼家を支える経済的な理由からだろう。
江戸における『日本外史』は特に武士階級には絶大な人気を誇っていたが、後塵を拝して出版された『日本外史』(頼氏正本)は、少なくとも四、五年は想像するほど売れなかった。いや、嘉永元年(1848)
に出版したあと(出版部数は不明)、嘉永五年に五十部を再版しているのだから、それなりに読まれているとはいえるのだが、といって生計が立てられるほどではなかったのだ。
三樹は蝦夷地で世話になった斎藤佐治馬にも『日本外史』(頼氏正本)を送り、代金として一両二朱を請求している。同時に送った『通義』は銀十銭匁である。幕末の一両は米価から計算した金1両の価値は幕末で約4千円~1万円ほどとされる。妥当な価格というべきだろう。
佐治馬からは「号として『鴎州』をもっているが、『名』をつけてほしい」と頼まれた。鴎州の鴎は江差にある鴎島にちなんだものである。三樹は「『観海』と考えてみたが、大洋を想像さえ、どことなく自慢めいて響くきらいがある。『観海』は字として用い、人に向かってはただ『観』の一字にしたほうがいい。よく見かける漢字ではあるが、おもしろい字で、世を観ずるの観にもなり、大観の観にもなり、なんとでも言い訳できる」などと書き送った。
また縁戚の篆刻家頼立斎に、佐治馬が用いる冠冒印として「雲涛」と彫らせようとしたところ、げた印の下に「雲涛」と彫ってしまった。従って「雲涛を別号にしてもいい」などとも書いた。
弘化四年(1847)から懸案の「江差八勝」の合作詩については、前述したように江差と京都でやりとりしている間に紛失したようで、全員の漢詩を清書する予定の三樹はもう一度送ってほしいと書き送り、少なくとも嘉永五年(1852)時点でも完成をみていない。
2025・9・16 第61回
武四郎は翌日には江戸を発った。目指すは京都である。東海道は通らず、甲州街道を進み、途中から中山道を通る。大回りするのは警戒する思いがあるからだ。松前の刺客から完全に狙われていないとまではいいきれないが、そんなこと以上に今回の役目は国事かかわることである。幕府をさしおいての朝廷へ言上する。もちろん御法度である。
武四郎は考えた。まずは伊勢をめざす。故郷の松阪に今は肉親と呼べるものはいないが、今も暮らしている友人
知人はいる。彼らをつたって神官などと会うことができれば、京都の寺社につながり、そこから公家との接触の可能性が出てくるのではないか。可能性の話でいうなら、ほとんどないかもしれないが、といってゼロではなかろう。
蝦夷地に渡ったときも、大きな伝手があったわけではない。行き止まりに見えても、思いがけない出会いや、予期しない援助によって、行き止まりに見えていたはずの先に道が開けてきたりするのだ。
そんな楽天的な考えが浮かんでくるのは、歩いているからかもしれない。武四郎は歩くのが好きだ。若いころから日本中を歩いた。その末に体得したのが「神足歩行術」である。気を丹田に集め、全身をゆるませ、むだな力はいれないという術で、歩くというより走る感じである。
武四郎はこの歩行法を同郷の竹川竹斎から教わった。天狗の術とも言われ、山で修業する山伏が伝え、近江商人や伊賀や甲賀の忍者も用いていたという。竹斎も先祖は伊勢商人である。
一日に何千里を走っても疲れない。たとえば伊勢から江戸までの片道約五百km、往復なら約千kmあるが、「神足歩行術」なら三日で往復できるともいわれる。はたしてほんとうかどうかはわからない。ただ、武四郎の歩く速さが人並み外れていたことだけは確かである。
伊勢に入った武四郎は、師である津藩藩儒の平松楽斎を訪ねたかったが、残念ながら楽斎は昨年亡くなっていた。継ぎに伊勢外宮の祠官足城弘訓を訪ねた。足城弘訓も同じく楽斎に学び、国学に熱心であった。彼であれば京都の公家となんらかのつながりはあろう。
幸いにも弘訓は武四郎の話に耳を傾けてくれた。武四郎が想像するよりも伊勢では攘夷の考えが広まっている。弘訓も協力を申し出て、なんということか、三条家への添え状を書いてくれた。あとは京都へ向かうだけである。武四郎には、京都に行ったら真っ先に訪ねようと考えている人物がいた。頼三樹三郎である。
2025・9・13 第60回
松浦武四郎が吉田寅次郎(松陰)と会った後、六月十二日にアメリカ艦隊は江戸を離れ、琉球に残した艦隊と合流してイギリスの植民地香港へ向かった。
しかし一件落着ではない。大砲を向けるという強硬な態度で、来年には通商条約を締結にくると言い残して去っていった。条約など結んでは異国人を日
プチャーチンロシア極東艦隊司令官
本の国土に招き入れることになり、国土も掠めとられ、自分たちは殺されてしまうのではないか、と江戸の民の大半は震え戦いている。
七月になると、こんどはロシアのプチャーチンロシア極東艦隊司令官率いる軍艦が長崎に寄港した。アメリカと同じく通商を求めているが、アメリカがいきなり浦賀に現れたのに比べ、長崎に寄港したことは幕府の決まりを守ったともいえる。もっとも18世紀後半から続いているロシアの日本への接近策が本気度が増してきているのを感じる。
幕府は防衛のため諸藩から藩士を集め、海岸付近の警備を強めているものの、実際にはアメリカともロシアとも戦う気はなく、条約締結に前向きという話も伝わってくる。清国がイギリスに負けて植民地となった話が伝わっている。アメリカやロシアが軍備に長けているのは明らかで、戦いよりも和睦の道を探ろうというのだろう。
幕府の弱腰の話を聞いて、武四郎は憤りを覚える。ここはなんとしても徹底的に戦って、異人を打ち払うしかないのではないか。
武四郎が思い出すのは蝦夷地で見たアイヌの人々の姿だ。和人の侵略の前に、彼らはそれまで築き上げてきた文化も含め、多くを搾取されていった。男たちは過重な労働を強いられ、女たちは和人の慰め者にされた。彼らの姿は将来の日本人の姿ではないのか。
九月に入って武四郎のもとに水戸藩から「折り入ってお頼みしたき儀がある」という話が舞いこんだ。水戸藩と武四郎を繋いでいるのは加藤木賞三である。賞三は農民から、藩主と関係の深い吉田神社神職になった。その後水戸藩の門閥保守派と下級武士層から支持をうける斉昭の対立に端を発して、斉昭が隠居を命じられるに及んでは、賞三も雪冤運動に参加し、やがて藩士に取り立てられることになる。武四郎は賞三を深く信頼し、後に賞三の子を養子に迎えるほどである。
賞三から、水戸藩からの伝令として伝えられたのは、武四郎の想像を越える話であった。「十一代将軍德川家定に対する宣下が十月二十三日に行なわれる。ついては『攘夷の勅命の沙汰書』が下されるように朝廷に懇願してほしい」というのである。藤田東湖の発案らしい。
心身に病を抱える将軍德川家定公では幕府の先行きは覚束なく、といって幕府は前例主義である。前例のないことに立ち向かえる者などいないのは目に見えている。であれば、朝廷の力を借りて、攘夷の詔を発してもらうしかない。水戸藩は何としてでも攘夷を決行したいのであり、その考えに武四郎も大いに賛同する。但し、伝令の中には京都で頼るべき具体的な人名などは含まれていない。
「いったいどなたを頼れと申されるのか」と武四郎は問うた。
「さて、聞いてはおらぬ。おそらく・・・・・・」
「おそらく?」
「顔が広く、知恵者の武四郎殿であれば、ご自分で策をお考えと思われているのであろう」
賞三は持ちあげるような言い方をするが、すべて武四郎に一任されているということなのだ。可能な話かどうかくらいわかる話であろう。
武四郎が不安を口にすると、賞三は「できないと諦めるのではなく、道を開いていくところに意味がある。もし成功すれば、武四郎殿は一目おかれる存在になる。水戸藩がなぜ武四郎殿にこのようなことを託すと思うか。武四郎殿の宝物を見込んでのことだ。わかるか。その脚。健脚だ。ともかく一刻を争う事態であれば、武四郎殿の健脚に頼るしかない」
並みの者であれば京都までは二十日もかかる。往復ではその倍だ。しかし武四郎ならその半分ですむ。今は一刻を争う事態なのだ。朝廷とのつながりを見つけられるかは運によろうが、武四郎は今まで運によって道を切リ開いてきた。それを思えば、断る話ではない。
2025・9・1 第59回
先に進む前にこの時期の水戸藩、德川斉昭周辺の整理をして、なぜ斉昭が表舞台に出てきたかをもう少し書きたい。
水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩である。二代藩主德川光圀は学問を好み、『大日本史』の編纂を開始したことは広く知られる。
頼山陽の父頼春水は『大日本史』を三回筆写し、一揃えを広島藩主に献上したことで広島藩士に取りたてられた。子の頼山陽も『大日本史』に触発されて『日本外史』を著わし、松平定信に献本した。山陽は定信へ宛てた「楽翁公に上る書」において、名分に基づいて書いたことへの言い訳をしているが、『大日本史』を模している以上、幕府も処罰などできようはずもなかった。
松平定信が亡くなったころ(1829=文政12)を境に台頭したのが水戸斉昭であった。奇しくも斉昭は同年水戸德川家の家督を継いだ。以降斉昭擁立に加わった軽輩の藩士を用い、藩政改革を実施するなどして幕末にのりだしていく。
德川斉昭の台頭とともに、押し出されていく言葉に「尊皇攘夷」がある。水戸藩では1824年(文政7)、イギリスの捕鯨船が薪と水、食糧を求めて藩内の大津浜に上陸してくる大津浜事件が起こった。調査に当たった水戸藩の会沢正志斎は、イギリスが日本を植民地化しようとしていると考え、対策を論じようと『新論』を著した。これが攘夷思想へと拡大し、水戸藩伝統の名分論と結びついて「尊皇攘夷」という言葉として定着するようになった。
水戸藩はまた蝦夷地経営にも野望を抱いていた。最初に関心をもったのは水戸光圀で、光圀は大船を建造して1687年(貞享4)と1688年(元禄元)に蝦夷地探査を行ったことはすでに紹介した通りである。
1829年(文政12)、斉昭が家督を継ぐや、蝦夷地の開拓と警備を幕府に申し出たが、幕府に撥ねつけられた。1834年(天保5)、松前藩主の松前章広が没すると、老中大久保加賀守正真に再度蝦夷地開拓を願い出た。正真はこれに賛同し、斉昭の願いが叶うかと思われたが、翌年に正真が急逝してしまい、跡を継いだ水野忠邦によって斉昭の求めはまたも退けた。
それでも斉昭は諦めきれず、腹心の藤田東湖に蝦夷地探検家間宮林蔵を訪ねさせ、大内右衛門を蝦夷地に派遣して調査を行った。また1839年(天保10)には将軍家慶に蝦夷地開拓をすすめ、1843年(天保14)には原十左衛門を松前藩に派遣して蝦夷地経営を申し出るものの、松前藩に拒絶された。
斉昭の蝦夷地に対する執念は、幕府中枢が不興を買い、1846年(弘化3)「驕慢」を理由に隠居を命じられる。ただ、斉昭の蝦夷地への情熱は隠居となっても衰えず、蝦夷地開拓を進めるよう老中阿部政弘に書を送っている。
1839年(天保10)から書き進めた『北方未来考』は斉昭の蝦夷地への思いをまとめたもので、斉昭みずから蝦夷地に渡り、石狩川を溯って勇威に城を築く。学校、育児館、遊郭などを設けて、水戸藩より移民を移して、都を開く。勇威より松前、天塩、厚岸の三方向に道路を開削、大船を製造して航路を開き、砲を製造して要地に配置、全道の開拓と防衛を進めるとともにカムチャッカまで攻略する、という勇壮なものであったが、実現は叶わなかった。
蝦夷地を「北海道」と呼ぶように提唱したのは斉昭である。どうして松浦武四郎の命名といわれるようになったかについては諸説あるが、明治政府が德川斉昭の命名というのを嫌ったことも理由のひとつではないかと筆者は想像している。
そして1853年(嘉永6)ペリーが来航すると、老中阿部正弘の要請で斉昭は海防参与として幕閣に復帰する。幕末維新の政局で、攘夷論の旗頭として存在感を放つ。
1855年(安政2)、幕府は北海道南の渡島半島のわずかな部分を松前藩に残して蝦夷地を直轄するが、この処置には斉昭の影響が大きかったという。
2025・8・27 第58回
ペリーの来航で激震にゆれる最中の六月十日過ぎ、誰に聞いたのか、武四郎の住まいを訪ねてきた客がいる。萩藩からきた吉田寅次郎(松陰)という若者であった。
「長州から江戸に来られたのか」
「生まれは萩ですが、江戸に来たのは二度目でございます。二年前には蝦夷地を目指したものの、果たせず、そのころから是非とも蝦夷地通の松浦先生にお会いしたいと願うておりました」
先生と呼ばれたこと、「蝦夷地通」であるという話が遠く萩藩まで届いていることがわかり、武四郎は自尊心をくすぐられた。
さらに素性を問うと、もとは長州藩の藩校明倫館で山鹿流兵学を教える兵学者という。二年前には藩主の参勤交代に従い、江戸に来て西洋兵学者の佐久間象山の塾に入門。藩に東北旅行の許可願を提出するが、藩の旅行許可書を待たずに出発したため、脱藩亡命の罪により士籍を削除され、萩に戻されて父の育みとなった。しかし今年に入って赦免となり、一月に諸国遊歴に出発、近畿を遊歴後、五月に江戸に着いた。そこへ黒船が来航したことを知って浦賀へ急行して実際に黒船を見てきたという。
「寅次郎とは、寅年生まれゆえか」
「はい。僕は庚寅(かのえとら)です」
「わしは戊寅(つちのえとら)や。一回り違うのか」
武四郎は三十六歳(1818年生まれ)、寅次郎は二十四歳(1830生まれ)だ。寅年生まれは勇猛な虎のように積極的で、興味を持ったことには深くのめり込み、目標を達成すると言われたことがある。
ただ、今の自分はどうだろう、と武四郎は思う。寅次郎には少年のような目の輝きがある。おそれを知らず、怖いものなどないというような。かつての武四郎もアイヌ人が和人に虐待されている姿を見過ごせず、告発せずにはいられなかったが、松前藩から怨みを買い、妻を死なせてしまった。今、武四郎はどことなく萎縮している。そんな武四郎に背筋を真っ直ぐにして生きている寅次郎がまぶしく映る。
「松浦先生は北蝦夷、東蝦夷などを歩かれ、広い視野をお持ちでございましょう。本日、僕が伺いましたのは、アメリカから艦隊が浦賀に入港した今、日本ははたしてどのような対応をすべきなのか、どのような道を進むのが最善なのか、ぜひともご意見を拝聴したいと考えたからです。なにとぞお話をお聞かせ下さい」
武四郎は意見を述べた。すると寅次郎はその倍以上も費やして考えを述べる。立て板に水のごとくよく喋る青年である。自分を「僕」と呼ぶ者と会ったのも初めてである。話すうちに、二人とも水戸藩の青沢正志斎と面識があることもわかった。水戸藩は前藩主の德川斉昭が強硬な攘夷論によって、世論の注目を集めていた。武四郎にしろ、寅次郎にしろ、その考えに共鳴していた。
口角唾を飛ばしながら語り合う二人であったが、実は知らないことがあった。
ペリーが来航した頃、将軍德川家慶は死の床にあった。このため、ペリー来航を家慶が知ったのは来航から三日後の六月六日、老中首座である阿部正弘からの報告によってであった。それを聞いた家慶は正弘に「斉昭と相談せよ」と述べただけで、他の指示は出さなかった。そして六月二十二日、江戸城で薨去する。享年六十一であった。熱中症による心不全ともいわれる。
将軍の後継者は德川家定であったが、家定はほとんど喋れず、座っていることさえ難かしいという状況であった。このような火急の事態に、将軍としての務めを果たせそうにない。阿部政弘は、黒船への対応措置について德川斉昭を海防参与として幕政に参画するように命じた。強硬な意見を口にし、敵も少なくない德川斉昭を德川家のまとめ役として担ぎ出すしかないのだった。
1855年(安政2)日本橋
2025・8・26 第57回
松浦武四郎にとって黒船の浦賀への来航はさほど驚くようなことではなかった。1792年(寛政4)から1853年(嘉永6)までのあいだに異国船の日本来航は37回、江戸湾への侵入は7回を数えるからだ。但し、こんどは何かが違う。アメリカは本気で開国、通商をもとめ、幕府が首を縦に振るまで迫り続けるのではないか。蒸気船2隻を含む4隻で威嚇している様子から、そんなことが感じ取れる。
海に囲まれた日本は、いつ、どこから異国に攻められるかわからない状況下にある。アメリカの動きに触発され、ロシアも活動を強めるかもしれない。とすれば、近い将来蝦夷地経営についても議論され、蝦夷地に精通している武四郎に出番がまわってくるかもしれない。
そこまで考えるといてもたってもいられない気持ちになる。長く松前藩の放ち刺客に狙われ、身を潜める日々を送っていたが、今の松前藩も武四郎の命を狙っているような余裕はないだろう。松前藩周辺の防衛のみならず、江戸湾の防衛にも駆り出されるだろう。
そこまで考えると、身体が軽くなっていく。久しぶりに味わう解放感であり、爽快感である。
黒船がきた翌日の六月四日、武四郎は江戸の町に出てみた。ひとびとは想像以上に浮き足立っているようにみえる。日本橋近くまできたとき、川の近くががやがやとにぎやかになっている。河岸に舟が五、六艘繋がれている。人々は前日三日に黒船がきたことを伝える早船だろうと話している。さらに合戦になるとか、女性は身を隠した方がいいなどと囁きあっている。
知り合いの宇和島藩士の小池市太夫と出会った。槍を手にしている。
「小池殿、どこへ行かれるのや」
「これは松浦殿。江戸湾をまもるため宇和島藩は御殿山の警固を命じられ、自分もこれから向かうところなのだ」
「そうであったか」
「ここで会ったのも何かの縁、用事を頼まれてくれないか」
「なんや」
「藩主の伊達宗城は今在国中で、江戸の屋敷は手薄になる。もし何かあったとき、守る一員に加わってほしいのだ」
武四郎は二つ返事で請け負った。
「わしで役に立つのか。然れば、早半鐘が打ち鳴らされたときには真っ先にお屋敷に駆けつけよう」
武四郎なりに、宇和島に接近していれば、何らかの情報が得られるかもしれないという計算も働いている。武四郎はその足で神田小柳町に住む同郷の友人佐藤吉次郎のもとに立ち寄り、身こしらへの用意をした。吉次郎は伊勢屋という武具屋を営んでいるのだ。吉次郎から裁付(たつつけ、はかま)を借り、陣笠を買い、メリヤスも買った。メリヤスは渋で染めて、鎖帷子の代用にするのである。
誰もが考えることは同じらしく、閑古鳥が鳴いていた道具屋は客であふれ、安価で買えた槍、具足が天井知らずの値段ながら飛ぶように売れた。
という恐怖から自制心を失う者も少なくない。
この混乱を、人生の浮き沈みとともに眺めている人物がいた、松浦武四郎である。
武四郎は1845年(弘化2)28歳で、第1回蝦夷地探査(知床)、翌1846年(弘化3)第2回蝦夷地探査(樺太)を果たし、帰路の江差で頼三樹三郎と「一日百印百詩の会」を催した。さらに1849年(嘉永2)32歳で第3回蝦夷地探査(函館から船で国後島、択捉島)を行なった。三回にわたる蝦夷地の渡海によって、蝦夷地の状況はおよそ把握できた。
これらの成果を1850年(嘉永3)「初航蝦夷日誌」全12冊、「再航蝦夷日誌」全14冊、「三航蝦夷日誌」全8冊として完成させ、同年「蝦夷大概図」「新葉和歌集」、1851年(嘉永4)には「蝦夷沿革図」「表忠崇義集」を出版、「断璧残圭」「盍徹問答」「婆心録」を復刻した。
日本中見まわしても、蝦夷地についてここまで精通しているのは自分をおいてほかにいないと、自負心を抱いている。但し、自負心だけでは生きていけない。
武四郎が接近していたのは水戸藩であった。水戸藩は水戸光圀(1628~1701)の代から蝦夷地経営に関心をもち、光圀は大船を建造して1687年(貞享4)と翌年に蝦夷地探査を行った。1829年(文政12)藩主になった德川斉昭も伝統を引き継ぎ、蝦夷地の情報の収集につとめている。
武四郎は第2回蝦夷地探査の直前には水戸藩と接触し、金銭的な援助も受けるようになっていた。水戸藩がもとめる情報は蝦夷地内の資源の調査という表向きの理由のほかに、蝦夷地を実質的に支配している松前藩の内情を調査することも含まれていた。かねてから松前藩ではアイヌ人を使い、幕府には報告しない密貿易によって巨額の富を得ているという噂があった。
武四郎は蝦夷地調査の名目で、一方では松前藩の協力を得ながら、他方では松前藩の内情をさぐるというスパイ活動も行なうようになった。武四郎が著わした「初航蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」にはこれらについても書き記されている。松前藩士たちは利用された挙げ句、恩を仇で返されたことに怒りが収まらず、武四郎の周囲を刺客が取り憑くようになった。
武四郎は江戸に身を潜め、常に怯えながら生活さざるを得ない状況に追いやられた。最大の悲劇と言えば、武四郎の最初の妻の不審死であろう。妻は陶工三浦乾也の妹であったが、武四郎の外出中に何者かによって犯され、殺されたのだった。下手人はわからないが、松前藩が絡んでいることは疑いようがない。新妻は自分の身代わりに殺されたに違いない。そして魔の手はいずれ自分にも襲いかかるだろう。
そこへ降ってわいたような「黒船騒動」である。