「頼山陽居室」(広島市)」についてのページ。見延典子が書いています。

2025・7・16

菅野真斎宛て書状3通入り巻物②

 

『御存之座敷之上ノ間」と書いている頼春水の菅野真斎宛て書状は、1931年(昭和6)発行の『頼山陽全伝』に全文が活字化されて載っているものの、現物について、見延は見たこともなく、どこにあるかも知らない。それがいきなりひょいと現れたのだ。

「しかし真筆だろうか」

 春水、杏坪はともかく、山陽の文字であれば、いずれかの判断はつくだろう。そう腹を決め、山陽の書状といわれる写真を食い入るように眺めた。

           続きます。


 そこで久保寺さんに「春水が真斎に宛てて書いた『御存之座敷之上ノ間」が出ている書状なら考えてもいいですよ」と返事をした。

 脱藩した山陽が押しこめられた屋敷内の一室について、春水が言及した一次資料だが、『山陽全伝」に活字が載っているだけで現物は確認されていない。そのためある方から「ないものをあるもののように書いただけではないか」などとまで言われていた。

 まったく期待していなかった。冗談半分で返信しただけである。

 だがほどなく久保寺さんから返信があった。「ありました」

 しかもまさに『御存之座敷之上ノ間」の部分の写真まで添付されている。

「え、えーッ‼‼‼」と見延は絶叫に近い悲鳴をあげて飛びあがった。

            続きます

 

2025・7・15

菅野真斎宛て書状3通入り巻物

 

 久保寺辰彦さんから「菅野真斎宛て、春水、杏坪、山陽の三通の書状が売りに出されていますよ。誰か買いませんか」というラインを写真とともにいただく。

 菅野真斎といえば。昨年「旅猿ツアー姫路・高砂」で、足跡を追った人物だ。ただ、それっきりになっている。というのも高砂には真斎に関するものがほとんど残っていなかったからだ。

 それにしても「菅野真斎宛て、春水、杏坪、山陽の三通の手紙」というだけでは漠然としすぎている。写真をみてもピンこない。