「頼山陽居室」(広島市)」についてのページ。見延典子が書いています。
菅野真斎の通称に「仲右衛門」があったことはあまり知られていないのではないか。石村良子相談役が『頼春水日記』『頼梅颸日記』を丹念に読み込む中で見つけ出されたものである。
とともに「仲右衛門」は広島に遊学していた若い頃に使っていたもので、高砂に帰ってからは「武助」を使用するようになったのではないか、と頼山陽の手紙から想像できる。ただ、あくまで想像である。
2025・7・24
頼春水の菅野真斎宛て書状
前回、載せるのを失念したが、左が頼杏坪(万四郎)が書いた菅野真斎(仲右衛門)の宛名部分である。
そして下が頼春水(弥太郎)が書いた宛名で、こちらも「菅野仲右衛門」となっている。
春水の真斎宛て書状には、脱藩した山陽が広島に連れ戻され、屋敷内につくられた座敷牢に押しこめられたことが書かれている。『頼山陽全伝』には全文掲載されているが、書状は行方不明になっていた。繰り返すが、その書状が今回の巻物の中にあったのである。
左はその一部で「御存之座敷の上ノ間へ 板にて牢を構置候てそれへ打込み」などと書かれている。春水は江戸詰中で、おそらく杏坪から届いた知らせのまま書いたのだろう。山陽の様子を伝える貴重な一次資料である。
2025・7・20
頼杏坪の菅野真斎宛て書状
巻物を購入した際、「頼山陽書翰集」のコピーがついていた(7月16日付写真ご参考)。知名度から考えて山陽を中心に考えるのは自然である。
但し、この巻物に収められている3通の書状については、山陽の菅野真斎宛て書状より、むしろ春水や杏坪の書状のほうが資料的価値は高いだろう。
右は『頼山陽全伝」の寛政12年9月13日の記述(139ページ)で、「この日、杏坪より高砂・菅野真斎へ手紙」と木崎好尚が紹介している。
杏坪は真斎に、9月5日竹原へ向かう道中行方をくらました山陽が「多分は福井新九郎方へむけ上り申すべくと察し候」と伝えている。(「京都}は○印とともに好尚が加えたのだろう)
この記述は山陽の脱藩をめぐる経緯を書く際には引用されることが多いが、今ここに紹介している書状こそがまさにその現物なのである。
「京都}は○印とともに好尚が加えたのだろう。
寛政12年(1800)9月13日、高砂の菅野真斎に山陽の行方を伝える杏坪の書状
2025・7・17
頼山陽の菅野真斎宛て書状
巻物の頼山陽の文字は、どう見ても真筆にしかみえない。「頼山陽を見たら贋作と思え」と肝に銘じてきたが、とても贋作とは思えないのだ。
購入申し込みをしたのは、久保寺さんから連絡があって約1時間後のこと
であった。山根兼昭さんのご支援があったから即断できたということもある。
2日後、巻物一式が見延の手もとに届いた。杏坪の真斎宛て書状は山陽の脱藩を伝える第一報であり、読んだ記憶がある。山陽の真斎宛て書状は春水の死を伝えるもので『頼山陽書翰集』に載っている。どれも一級品の書状である。
なぜこのような貴重な書状が入手できたのだろうか。数日たった今も頭がボーッとしている。自分のルーツ探しをしているとき、これと同じ思いを何度か味わったのを思い出す。そのたびに思ったものだ。「人智を超えている」と。
書状の宛名は菅野真斎(真斎は号)の字である「子綏」を用い「子綏老兄」。宛名は「播磨高砂菅野武助(通称)様」。山陽の「頼徳太郎」は1816年(文化13)当時の通称。宛名の横は「要用貴容」。『山陽書翰集』によれば1831年(昭和6)当時この書翰は名古屋の近藤氏という方が所蔵していた。
2025・7・16
菅野真斎宛て書状3通入り巻物②
『御存之座敷之上ノ間」と書いている頼春水の菅野真斎宛て書状は、1931年(昭和6)発行の『頼山陽全伝』に全文が活字化されて載っているものの、現物について、見延は見たこともなく、どこにあるかも知らない。それがいきなりひょいと現れたのだ。
「しかし真筆だろうか」
春水、杏坪はともかく、山陽の文字であれば、いずれかの判断はつくだろう。そう腹を決め、山陽の書状といわれる写真を食い入るように眺めた。
続きます。
そこで久保寺さんに「春水が真斎に宛てて書いた『御存之座敷之上ノ間」が出ている書状なら考えてもいいですよ」と返事をした。
脱藩した山陽が押しこめられた屋敷内の一室について、春水が言及した一次資料だが、『山陽全伝」に活字が載っているだけで現物は確認されていない。そのためある方から「ないものをあるもののように書いただけではないか」などとまで言われていた。
まったく期待していなかった。冗談半分で返信しただけである。
だがほどなく久保寺さんから返信があった。「ありました」
しかもまさに『御存之座敷之上ノ間」の部分の写真まで添付されている。
「え、えーッ‼‼‼」と見延は絶叫に近い悲鳴をあげて飛びあがった。
続きます
2025・7・15
菅野真斎宛て書状3通入り巻物
久保寺辰彦さんから「菅野真斎宛て、春水、杏坪、山陽の三通の書状が売りに出されていますよ。誰か買いませんか」というラインを写真とともにいただく。
菅野真斎といえば。昨年「旅猿ツアー姫路・高砂」で、足跡を追った人物だ。ただ、それっきりになっている。というのも高砂には真斎に関するものがほとんど残っていなかったからだ。
それにしても「菅野真斎宛て、春水、杏坪、山陽の三通の手紙」というだけでは漠然としすぎている。写真をみてもピンこない。