投稿者名がない場合は、見延典子が書いています。
賀茂輝酒造は2014年廃業
確かに真光寺の向側には11年前まで賀茂輝酒造があった。但し、創業は1895年(明治28)で、経営者のお名前は脇姓ではない。
しかしながら江戸時代に「立身屋」がこの位置にあったと書いている冊子もある(『宿駅西国街道四日市』東広島郷土史研究会四日市町並み研究会)。
立身屋の酒蔵や水源を活用する形で賀茂輝が創業したのかもしれない。あくまで想像である。
2025・4・29
第2回頼山陽ウォーク「西条四日市」番外編 脇家の屋敷跡を訪ねて②
4月24日付け「脇家の屋敷跡」の件で、真光寺のご住職が「向かい側に、現在は廃業になった賀茂輝酒造があった」と話されていたことが気になり、調べ直してみた。
安芸国分寺 創建は不詳。741年(天平13)聖武天皇による国分寺建立の詔ののちの創建とされる。江戸時代、広島島藩主浅野家の祈祷寺院として庇護されたことで、江戸時代後期には護摩堂が建立された(説明板)
2025・4・27
第2回頼山陽ウォーク「西条四日市」
③安芸国分寺跡 酒造通り
本日紹介する安芸国分寺跡も、頼山陽が訪ねたという記録はありません。しかし説明板に「江戸時代浅野藩の祈祷寺院として庇護された」とあるので、山陽も知っていたと思われます。
戦後発掘調査が進み、「安芸国分寺歴史公園」として整備されていますが、今回の参加者でも初めて訪れたという方が複数人いらして、広島県内にあっても認知度は高くないようです。
再びJR山陽線の南側に出て、酒造通りを歩きました。江戸時代の「継ぎ場」近くで、通りがかりの「木村さん」が解説してくださいました。
酒造通りから、ランチのお店へ。
西条に来たら、やっぱり西条の日本酒。写真にある西条の銘酒がセルフで、飲み放題! 西条のお店は太っ腹ですね。たのしい昼呑み🍶になりました。
2025・4・26
第2回頼山陽ウォーク「西条四日市」②愛郷廟 御建神社 教善寺
続いて、JR山陽線の北側に渡りましたが、こちら側を頼山陽が歩いたという記録には出会っていません。
御建神社。慶雲3年(706に)疫病が流行した際素戔嗚命のご利益があったので「祇園社」を建てて祀り、後に周辺の神社を合祀し現在地へ移ったとされる。 境内にある京都の松尾神社から分霊を受けた「松尾神社」は酒の神として有名。ネットより
愛郷廟。西条出身の戦没者と西条発展のために尽くした方を祀る 。産業功労者の「木村静彦(賀茂鶴)、島博三(白牡丹)、石井峰吉(亀齢)」は明治に入り、酒都西条の発展に貢献した。
一方で、明治以降西条が酒都として発展するのに尽力した先達を祀る愛郷廟(御建神社裏)もあります。
西国街道が整備される以前、北側には旧山陽道が通っていたためか、旦過寺(廃寺)や教善寺などの古い寺院が多く、『芸藩通誌』に「塔の丘」と記されている広い墓所もあります。
愛郷廟は1941年(昭和16)に建築が始まるも、完成は1982年(昭和57)。戦前の名残がある。
南命山教善寺 浄土真宗。室町時代の開基とされ、江戸時代には藩より代官直支配を受けた。
庫裏は幕末志和の八条原城の文武塾講堂を移築したもの。幕末の広島藩の歴史も伝わる寺である。
中央の真光寺はJR西条駅(⇒)から徒歩
9分ほど。前を西国街道(緑の線)が通る
1824年(文政7年)10月22日
『梅颸日記』の記載
京都から広島へ帰る道中
頼山陽45歳、梅颸65歳
脇黙斎(典次)41歳位
「晴。(竹原を)出立、尚平(春風の婿)送、勘吾(塾生か)伴。砂ばたけにて昼休み、玉里(田万里)を過、吉郎兵衛とやらといふ大わり庄屋の宅也、馳走也まつご(松子)山、日くれて、たいまつにて越る、典次方(西条、脇黙斎宅へ五つ頃(20時)着」
※こちらもご参照ください。
1824年(文政7年)10月23日
「朝晴。昼より雨。瀬野大山峠迄。典次・其倅順庵送、茶・弁藤(弁当)など為持(持たせ)、馳走する。そこにて雨に成、早々別、海田へ五つ頃、雨をゝかして着、とまる」
2025・4・24
第2回頼山陽ウォーク「西条四日市」①脇家の屋敷跡を訪ねて
JR西条駅に集合したのは案内人の西本さん(東広島市在住)、途中から合流の同じく案内人進藤さん(同)を含め10名。前日まで高い降水確率が出ていたけれど、幸い雨はあがっている。
目指したのは西条駅から徒歩9分ほどのところにある真光寺だが、この寺が現在地に移転したのは1875年(明治8)である。
それまでは江戸時代には庄屋をつとめる脇家の屋敷が建ち、頼山陽が京都の帰りに、母の梅颸と宿泊したことが『梅颸日記』によって確認できる。
真光寺の門と塀。いずれも明治時代以降のもののようだ。 前の通りは西国街道。
『梅颸日記』に書かれる「典次」が脇黙斎のことで、春水の塾に通い、梅颸や山陽とも顔馴染みだった。脇家は西条東村の庄屋をつとめていた。黙斎は分家という説もある。また脇家は「立身屋」という屋号で造り酒屋をしていた。当時、西国街道を挟んで向かい側も脇家の土地であったようだ。
真光寺のご住職さんにもお話をうかがったところ「真光寺が移る前は脇家があった」とおっしゃっていた。
2025・4・23 第2回頼山陽ウォーク「西条四日市」無事終了
第2回頼山陽ウォーク「西条四日市」は予定通り終了しました。
ご参加の皆様、ありがとうございました。
2025・3・30 第2回 頼山陽ウォーク「西条四日市」のご案内
頼山陽ネットワーク主催
第2回 頼山陽ウォーク「西条四日市」のご案内
2025年4月23日(水)雨天決行
頼山陽や頼一族も歩いた西国街道「西条四日市」周辺を歩く
9時30分 西条駅改札を出たところで集合 参加費無料
東広島市在住のガイドと西国街道の面影を求め、2時間半ほど歩きます。
コース 御建神社→愛郷廟→旦過寺跡→安芸国分寺跡→酒蔵通り
(天候その他の都合から、コースを若干変更するかもしれません。ご了承ください)
12時 西条駅で解散。
希望者は近くの飲食店でランチ
※頼山陽ネットワークから、尾崎和則代表、見延典子が同行します。
ご参加希望の方はメールを下さい。
詳しいチラシを差し上げます。
2024・11・15
標柱②
前回の続きである。中津の近砂敦さんによれば「中津では左右の石柱に注連縄を渡したものは『縄鳥居』と呼ばれています」という。
ネット検索すると「標柱(しめばしら)は全国的なものではなく、瀬戸内海沿岸、特に広島県に多い」と紹介しているサイトもある。
見延自身は「標柱」は「ひょうちゅう」と読み、目印のために建てる柱をイメージする。
2024・11・14 宣揚文
多家神社の標柱に書かれた宣揚文について、手島秀昭さんが文言を教えてくださった。
盛徳照乾坤 盛徳乾坤を照らし ※乾坤は天地の意味
優恩露草木 優恩草木を露(うるお)す
建立 大正14年(1925)⒋月吉日
従一位勲1等侯爵 浅野長勲 謹書
寄進者 広島市紙屋町木村勝吉 広島市大手町三村仙太郎
石工 広島市蟹屋町岡崎長造(明治41年の尾長天満宮の標柱も)
規模 高さ338㎝ 幅42、5㎝
この宣揚文と同じものが可部町の大坪神社の標柱にもあり、そちらは昭和6年(1931)建立、当時の広島県知事川淵洽馬(こうま)が書いているという。おそらく定型文のなのだろう。時代的に天皇の「徳」「恩」によって五穀豊穣がもたらされ、国家繁栄を祈願する内容と考えられる。
ところで天満神社(広島市中区)を訪れたときにも、宣揚文の内容こそ異なるものの、標柱を見た記憶がある。ネット上の写真をお借りすると、上方には注連縄(のようなもの)が渡されている。ただ、注連縄(のようなもの)のない写真もある。行事のあるときにだけ渡されるのか、単に経年劣化で取り払われてしまったかは不明である。
標柱について書いてきたが、大分県の「中津のおっさん」こと近砂敦さんから、「中津では標柱とは呼びません」という連絡をいただく。
次回、その話を書きます。 つづく
10月19日、20日付で、多家神社本殿前にある「石柱にようなもの」と書いたところ、手島秀昭さんから「あれは標柱(しめばしら)です」と教えていただく。調べてみると、標柱に書かれている文は「宣揚文」と呼ぶこともわかった。但し、今のところ漢字が読み取れず、書かれている内容は不明のままだ。おわかりのい方はご教示ください。
2024・11・12
標柱(しめばしら)
※10月19日、20日の記載は修正済みです。
ただ、たびたびの水害で景色は一変し、往時をしのぶものはない。
鵜上寺は、石井城観音とも呼ばれて延喜年間(901~922年)に創立された。明治15年(1882年)の社寺統廃合の際、存続を県令に願い出て、廃寺を免れたという。今は集会所として使用されている。
周囲の墓所の合間から瀬戸内海方面が見える。ここが石井城観音の「観音」が祀られていた場所か?
2024・10・21
龍仙寺 田所明神社 鵜上寺
(広島県安芸郡府中町)
龍仙寺は、原爆が投下される直前に、頼宗家が先祖から受け継がれている資料一式を大八車に乗せて運びこんだ寺である。頼家とゆかりのある寺らしく、山陽も訪れただろう。
水害には遭っているが、戦争の被害には遭っていないようで、幹線道路から外れると、路地が入り組み、道に迷いそうになる。
田所氏(佐伯氏のほか)は五日市から府中に移り、厳島神社の厳島国府上卿として祭主も務めたという。
鵜上寺は南西に長い敷地があると書かれている。その方角は雑草や竹に覆われいるが、思いきって歩いてみれば、小さな観音堂がある、
鵜上寺の看板に「頼春水、山陽」の名前が記されているのを確認する。付近で手水鉢を二つ見つけたが、春水が名づけた「白雲亭」の面影を感じさせるものはなかった。
2024・10・20
多家神社 埃宮②
(広島県安芸郡府中町)
多家神社 埃宮について、ネットでは次のようにも書かれている。
多家神社は埃宮とも呼ばれ、古事記にも記載がある古い神社であるが、後に所在が分からなくなり、江戸時代には「松崎八幡宮」「総社」の氏子がそれぞれ多家神社を主張する事態となった。そのため1873年(明治6)に両者を合わせて現在地に多家神社として創建された。社殿は、広島城三の丸にあった稲荷神社を移築して使用した。本殿・拝殿は後に焼失し1922年(大正11)に再建されたが、宝蔵は焼け残り、江戸時代の姿を今にとどめている。
これを読むと、浅野長勲が標柱に宣揚文を書いたのは、本殿・拝殿が再建されたときであることがわかる。いずれにしろ、宝蔵は江戸時代のままである。
1868年(明治元)明治政府による神仏分離政策によって、それ以前の痕跡しのぶものは見つけづらいという印象を受ける。
おそらく頼山陽もこの地を訪れたであろうが、山陽が見た光景とわれわれが見ている光景とはまったく異なっているはずである。
2024・10・19
多家神社 埃宮
(広島県安芸郡府中町)
多家神社 埃宮のホームページ
「当地は古事記、日本書紀ゆかりの地です。神武天皇が日本を平定する旅の途でお立ち寄りになったと伝わります。この神武天皇の皇居が、日本書記では埃宮、古事記では多祁理宮(たけりのみや)と記述されています。また、多家神社は平安時代の書物「延喜式」(当時の法典)に速谷神社、厳島神社と共に安芸の国の名神大社として列せられています。」
多家神社は1874年(明治7)創建。その際、移築されたのが広島城三の丸稲荷社の社殿である。前年の1873年廃城令が出され、社殿は行き場を失ったのだろう。
多家神社前の標柱の宣揚文は大正期に浅野長勲が書いたことがわかった。多家神社に広島城三の丸稲荷社の社殿を移築しようといい出したのは、かつての広島藩主であった長勲かもしれない。明治政府にポジションを得た長勲ではあったが、広島城ゆかりの建物が遺棄されることには複雑な思いを抱いたであろうことは想像に難くない。
予定の「多家神社」「龍仙寺」に加え、「田所明神社」「鵜上寺」も巡り、最後は府中町立民族資料館。約3時間、6~7000歩の散策でした。引率の佐藤貢さん、ご参加の皆様、ありがとうございました。訪問寺社については後日紹介します。
2024・10・17
第1回頼山陽ウォーク、無事終了
Ⅰ0月17日秋晴れのもと、第1回頼山陽ウォークが9名の参加で行なわれました。引率は現地広島県安芸郡府中町在住の佐藤貢(ひろしまフォト歩き)さんです。
2024・10・10
第1回「頼山陽ウォーク」
頼家ゆかりの龍仙寺、多家神社(広島県安芸郡府中町)を訪ねる
頼山陽ネットワークでは、新たに「頼山陽ウォーク」を始めます。
頼山陽はじめ頼一族ゆかりの地を3時間ほどかけて歩くという企画で第1回目の内容は以下の通りです。
2018年(平成30)3月「ひろしまフォト歩きさんが撮影した龍仙寺。このあと水害に遭い、現在は復興している。
第1回 頼山陽ウォーク
日時 10月16日(水)12時~15時 現地集合、現地解散。
当日、朝7時時点で午後の降水確率が70%の場合は中止。
それ以下、小雨なら決行します。
訪問地 龍仙寺、多家神社(広島県安芸郡府中町)
龍仙寺は頼春水、杏坪、山陽、菅茶山など多くの文人が来遊した寺。
多家神社の宝蔵は広島城の三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺
構。県指定文化財。当日宝蔵の内部はご覧いただけません。
歩行距離 バス停一つ分を往復 + 各境内の散策
講師 見延典子
解説 尾崎和則代表
引率 佐藤貢さん(ひろしまフォト歩きさん)現地付近に在住。
参加費 無料
ご参加をご希望の方はメールをください。
集合場所など詳細をお伝えします。
広島市在住の該当者は「いきいき活動ポイント」を押印します。