頼三樹が友人の河添原泉に宛てた書状。何が綴られているのか。

見延典子が書いています。

2025・10・19  頼三樹の河添原泉宛て書状

 

 9月初め、頼山陽ネットワーク会員の肥本英輔さん(鹿児島県)からメールが届き、次のようなことが書かれていた。

 

「弘化2年の頼三樹三郎が送った書簡が当地に残っており、歴史史料として何らか価値があればと思い、添付でお送りします。河添原泉(白水)は古賀侗庵の塾生だった出水出身の学者で、篠崎小竹門下だった三樹三郎と江戸で交流を深め、阿片戦争後の日本を憂えていたようです。添付したのは、その原泉が貧窮のために出水に帰国する際に送った激励の手紙のようです。所有者は原泉のご子孫で、だれか現代語に訳してもらえればお礼をしたいとのことです」

 

 添付された画像を開くと、次のような書状であった。

                               資料提供:河添建志
                               資料提供:河添建志

 所有者には失礼ながら、真筆かどうかわからない。

 頼三樹は安政の大獄前に多くの原稿類を処分したようで、伝わっているものが少ない上に、悲劇の人として名前は知られているので、父の頼山陽よりも贋作が多いとも言われている。

 ただ、現在見延はホームページ上で「はるかなる蝦夷地」を連載中で、木崎好尚の『頼三樹伝』を読んでいるところである。そういえば、「河添元泉」なる名前が出ていたような気がして、さっそく『頼三樹伝』を開いた。   

                               続きます。