2025年6月26日(木)京都小石家訪問。その後は京都小石家所蔵の、小石元瑞宛て頼山陽の書状を解読中。見延典子が書いています。
解読が終わりましたら、石村良子相談役が一冊にまとめる予定です。
古文書研究会 頼山陽史跡資料館にて
第2、4木 14時~16時 会員募集中
2025・9・26
その後の「福井新九郎」
山陽の小石元瑞宛て書状に、「福井棣園」の名前が出てきた。京都の典医福井榕亭の息子で、春水の塾に入り、山陽と知り合った、いわゆる「放蕩仲間」である。脱藩した山陽が京都で潜伏したのはこの棣園のもとだった。あるいは「新九郎」という名前のほうは馴染みがあるかもしれない。
棣園が出てくるのは1832(天保3)7月22日の書状だ。6月に喀血した山陽は小石元瑞を主治医としながら、同じく医者(典医)の福井榕亭にセカンドオピニオンを求めている。山陽は棣園を「息子」と書き、書きぶりからは医者としてあまり信用していなかった印象をうける。
京都に移り住んだあとも棣園と親しく交流した形跡はない。山陽にとっては棣園は「かつての悪友」というだけの人物だったのだろう。
余談ながら、見延は小説『頼山陽』で、棣園が広島に滞在中に山陽と夜遊びしている場面、山陽が福井家の庭に潜伏している場面、そして山陽と棣園の再会場面を書いた記憶がある。
2025・9・23 頼山陽没後194年
頼山陽が亡くなったのは1832年(天保3)9月23日(太陰歴)。今年は没後194年にあたります。現在、古文書研究会では小石家に残されている山陽の小石元瑞宛て書状を読んでいるところで、ちょうど山陽が喀血して日に日に悪化しているあたりにさしかかっています。
2031年の「頼山陽没後200年」では、頼山陽ネットワークでも記念式典を計画しています。あと6年。ご支援のほどよろしくお願い致します。
2025・8・29
夏休み明け
古文書研究会は1カ月の夏休みが明け、再び京都小石家所蔵の、小石元瑞宛て頼山陽の書状を解読している。書状というのは当人たちがわかればいいので、断片的にしか書かれていないものが大半だ。想像しつつ読み解く。
解読チームは石村相談役、尾崎代表、
望月、青山、見延、久保寺(千葉県)
頼山陽史跡資料館、第2、4木曜日 14時~
2025・7・25
小石元瑞宛て頼山陽の書状、解読中
京都小石家所蔵の、小石元瑞宛て頼山陽の書状を、古文書研究会で解読中です。実際に山陽が書いている書状なので、山陽を知る上でこれ以上の教材はありません。とはいえ全容解明には多くの資料が必要で、机の上は資料の山状態に。できるだけはやく一冊ににまとめるつもりで、頑張っています。
2025・6・27
京都小石家訪問
旅猿ツアー桑名・津が終了してⅠ週間後の6月26日午後、頼山陽ネットワークの精鋭6名は京都に参集。京都市内にある小石家を訪れました。
今回の小石家訪問は、小石家ご当主小石元紹氏のご理解、ご協力がありました。ありがとうございました。
目的は、小石家が所蔵する頼山陽が小石元瑞に宛てた書翰を拝見、かつ記録するためです。
また連絡係を務めてくださった頼山陽ネットワーク会員久保寺辰彦さんに御礼を申し上げます。とりあえず第一報として関連写真を紹介します。
前列中央は小石家ご当主小石元紹氏。今回の頼山陽ネットワークからの参加は石村良子相談役、尾崎和則代表、望月信子さん、青山浩子さん、久保寺辰彦さん、見延典子。本写真撮影は青山さん。