はるかなる蝦夷地 第3部
日本史において、ペリー艦隊が来航した嘉永六年(1853)をもって「幕末」の始まりとされる。頼三樹三郎は京都、松浦武四郎は江戸、齊藤佐治馬は江差で、それそれの「幕末」を迎える。但し、幕末の終わりである明治元年(1886)まで生きながらえるのは三人のうち二人だけで、その二人にも過酷な運命が待ちうけている。
2025・8・27 第58回
ペリーの来航で激震にゆれる最中の六月十日過ぎ、誰に聞いたのか、武四郎の住まいを訪ねてきた客がいる。萩藩からきた吉田寅次郎(松陰)という若者であった。
「長州から江戸に来られたのか」
「生まれは萩ですが、江戸に来たのは二度目でございます。二年前には蝦夷地を目指したものの、果たせず、そのころから是非とも蝦夷地通の松浦先生にお会いしたいと願うておりました」
先生と呼ばれたこと、「蝦夷地通」であるという話が遠く萩藩まで届いていることがわかり、武四郎は自尊心をくすぐられた。
さらに素性を問うと、もとは長州藩の藩校明倫館で山鹿流兵学を教える兵学者という。二年前には藩主の参勤交代に従い、江戸に来て西洋兵学者の佐久間象山の塾に入門。藩に東北旅行の許可願を提出するが、藩の旅行許可書を待たずに出発したため、脱藩亡命の罪により士籍を削除され、萩に戻されて父の育みとなった。しかし今年に入って赦免となり、一月に諸国遊歴に出発、近畿を遊歴後、五月に江戸に着いた。そこへ黒船が来航したことを知って浦賀へ急行して実際に黒船を見てきたという。
「寅次郎とは、寅年生まれゆえか」
「はい。僕は庚寅(かのえとら)です」
「わしは戊寅(つちのえとら)や。一回り違うのか」
武四郎は三十六歳(1818年生まれ)、寅次郎は二十四歳(1830生まれ)だ。寅年生まれは勇猛な虎のように積極的で、興味を持ったことには深くのめり込み、目標を達成すると言われたことがある。
ただ、今の自分はどうだろう、と武四郎は思う。寅次郎には少年のような目の輝きがある。おそれを知らず、怖いものなどないというような。かつての武四郎もアイヌ人が和人に虐待されている姿を見過ごせず、告発せずにはいられなかったが、松前藩から怨みを買い、妻を死なせてしまった。今、武四郎はどことなく萎縮している。そんな武四郎に背筋を真っ直ぐにして生きている寅次郎がまぶしく映る。
「松浦先生は北蝦夷、東蝦夷などを歩かれ、広い視野をお持ちでございましょう。本日、僕が伺いましたのは、アメリカから艦隊が浦賀に入港した今、日本ははたしてどのような対応をすべきなのか、どのような道を進むのが最善なのか、ぜひともご意見を拝聴したいと考えたからです。なにとぞお話をお聞かせ下さい」
武四郎は意見を述べた。すると寅次郎はその倍以上も費やして考えを述べる。立て板に水のごとくよく喋る青年である。自分を「僕」と呼ぶ者と会ったのも初めてである。話すうちに、二人とも水戸藩の青沢正志斎と面識があることもわかった。水戸藩は前藩主の德川斉昭が強硬な攘夷論によって、世論の注目を集めていた。武四郎にしろ、寅次郎にしろ、その考えに共鳴していた。
口角唾を飛ばしながら語り合う二人であったが、実は知らないことがあった。
ペリーが来航した頃、将軍德川家慶は死の床にあった。このため、ペリー来航を家慶が知ったのは来航から三日後の六月六日、老中首座である阿部正弘からの報告によってであった。それを聞いた家慶は正弘に「斉昭と相談せよ」と述べただけで、他の指示は出さなかった。そして六月二十二日、江戸城で薨去する。享年六十一であった。熱中症による心不全ともいわれる。
将軍の後継者は德川家定であったが、家定はほとんど喋れず、座っていることさえ難かしいという状況であった。このような火急の事態に、将軍としての務めを果たせそうにない。阿部政弘は、黒船への対応措置について德川斉昭を海防参与として幕政に参画するように命じた。強硬な意見を口にし、敵も少なくない德川斉昭を德川家のまとめ役として担ぎ出すしかないのだった。
1855年(安政2)日本橋
2025・8・26 第57回
松浦武四郎にとって黒船の浦賀への来航はさほど驚くようなことではなかった。1792年(寛政4)から1853年(嘉永6)までのあいだに異国船の日本来航は37回、江戸湾への侵入は7回を数えるからだ。但し、こんどは何かが違う。アメリカは本気で開国、通商をもとめ、幕府が首を縦に振るまで迫り続けるのではないか。蒸気船2隻を含む4隻で威嚇している様子から、そんなことが感じ取れる。
海に囲まれた日本は、いつ、どこから異国に攻められるかわからない状況下にある。アメリカの動きに触発され、ロシアも活動を強めるかもしれない。とすれば、近い将来蝦夷地経営についても議論され、蝦夷地に精通している武四郎に出番がまわってくるかもしれない。
そこまで考えるといてもたってもいられない気持ちになる。長く松前藩の放ち刺客に狙われ、身を潜める日々を送っていたが、今の松前藩も武四郎の命を狙っているような余裕はないだろう。松前藩周辺の防衛のみならず、江戸湾の防衛にも駆り出されるだろう。
そこまで考えると、身体が軽くなっていく。久しぶりに味わう解放感であり、爽快感である。
黒船がきた翌日の六月四日、武四郎は江戸の町に出てみた。ひとびとは想像以上に浮き足立っているようにみえる。日本橋近くまできたとき、川の近くががやがやとにぎやかになっている。河岸に舟が五、六艘繋がれている。人々は前日三日に黒船がきたことを伝える早船だろうと話している。さらに合戦になるとか、女性は身を隠した方がいいなどと囁きあっている。
知り合いの宇和島藩士の小池市太夫と出会った。槍を手にしている。
「小池殿、どこへ行かれるのや」
「これは松浦殿。江戸湾をまもるため宇和島藩は御殿山の警固を命じられ、自分もこれから向かうところなのだ」
「そうであったか」
「ここで会ったのも何かの縁、用事を頼まれてくれないか」
「なんや」
「藩主の伊達宗城は今在国中で、江戸の屋敷は手薄になる。もし何かあったとき、守る一員に加わってほしいのだ」
武四郎は二つ返事で請け負った。
「わしで役に立つのか。然れば、早半鐘が打ち鳴らされたときには真っ先にお屋敷に駆けつけよう」
武四郎なりに、宇和島に接近していれば、何らかの情報が得られるかもしれないという計算も働いている。武四郎はその足で神田小柳町に住む同郷の友人佐藤吉次郎のもとに立ち寄り、身こしらへの用意をした。吉次郎は伊勢屋という武具屋を営んでいるのだ。吉次郎から裁付(たつつけ、はかま)を借り、陣笠を買い、メリヤスも買った。メリヤスは渋で染めて、鎖帷子の代用にするのである。
誰もが考えることは同じらしく、閑古鳥が鳴いていた道具屋は客であふれ、安価で買えた槍、具足が天井知らずの値段ながら飛ぶように売れた。
という恐怖から自制心を失う者も少なくない。
この混乱を、人生の浮き沈みとともに眺めている人物がいた、松浦武四郎である。
武四郎は1845年(弘化2)28歳で、第1回蝦夷地探査(知床)、翌1846年(弘化3)第2回蝦夷地探査(樺太)を果たし、帰路の江差で頼三樹三郎と「一日百印百詩の会」を催した。さらに1849年(嘉永2)32歳で第3回蝦夷地探査(函館から船で国後島、択捉島)を行なった。三回にわたる蝦夷地の渡海によって、蝦夷地の状況はおよそ把握できた。
これらの成果を1850年(嘉永3)「初航蝦夷日誌」全12冊、「再航蝦夷日誌」全14冊、「三航蝦夷日誌」全8冊として完成させ、同年「蝦夷大概図」「新葉和歌集」、1851年(嘉永4)には「蝦夷沿革図」「表忠崇義集」を出版、「断璧残圭」「盍徹問答」「婆心録」を復刻した。
日本中見まわしても、蝦夷地についてここまで精通しているのは自分をおいてほかにいないと、自負心を抱いている。但し、自負心だけでは生きていけない。
武四郎が接近していたのは水戸藩であった。水戸藩は水戸光圀(1628~1701)の代から蝦夷地経営に関心をもち、光圀は大船を建造して1687年(貞享4)と翌年に蝦夷地探査を行った。1829年(文政12)藩主になった德川斉昭も伝統を引き継ぎ、蝦夷地の情報の収集につとめている。
武四郎は第2回蝦夷地探査の直前には水戸藩と接触し、金銭的な援助も受けるようになっていた。水戸藩がもとめる情報は蝦夷地内の資源の調査という表向きの理由のほかに、蝦夷地を実質的に支配している松前藩の内情を調査することも含まれていた。かねてから松前藩ではアイヌ人を使い、幕府には報告しない密貿易によって巨額の富を得ているという噂があった。
武四郎は蝦夷地調査の名目で、一方では松前藩の協力を得ながら、他方では松前藩の内情をさぐるというスパイ活動も行なうようになった。武四郎が著わした「初航蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」にはこれらについても書き記されている。松前藩士たちは利用された挙げ句、恩を仇で返されたことに怒りが収まらず、武四郎の周囲を刺客が取り憑くようになった。
武四郎は江戸に身を潜め、常に怯えながら生活さざるを得ない状況に追いやられた。最大の悲劇と言えば、武四郎の最初の妻の不審死であろう。妻は陶工三浦乾也の妹であったが、武四郎の外出中に何者かによって犯され、殺されたのだった。下手人はわからないが、松前藩が絡んでいることは疑いようがない。新妻は自分の身代わりに殺されたに違いない。そして魔の手はいずれ自分にも襲いかかるだろう。
そこへ降ってわいたような「黒船騒動」である。