2025年(令和7)は頼三樹三郎生誕200年にあたります。
連載小説
はるかなる蝦夷地
―頼三樹三郎、齊藤佐治馬、松浦武四郎の幕末
見延典子
あらすじ 1849年(嘉永2)7年ぶりに故郷の京都に帰った頼三樹三郎は、富小路の借家で兄支峰(又次郎)が開いた私塾「真塾」で教えながら、母梨影、支峰との三人での暮らしを始める。前年には『日本外史頼氏正本』が出版された。
2025・8・12 第55回
嘉永三年(1850)十月二十日、思いがけない出来事があった。なんと、江差の斎藤佐八郎が京都の三樹三郎を訪ねてやってきたのだ。三樹三郎が蝦夷地に渡った際、ほぼ一年にわたり世話になった斎藤家の長老である。
訊けば、漂流民のイギリス捕鯨員を護送する任務を帯びて長崎へ行き、帰路
に下男を伴って敦賀で船を降り、京都を目指したという。現在では敦賀から京都まで特急サンダーバード号で約1時間であるが、慣れない道中、京都をめざすのは高齢の身にはかなりの冒険ではあったろう。
長老、高齢の身とは書いたが、このとき息子の佐治馬は32歳。従って佐八郎は還暦前になる。年齢こそ重ねているが、江差から長崎を往復する体力は残っている。
京都まで三樹三郎を訪ねてきたのは佐八郎なりに懐かしさからだろう。梨影も迎えに出て「江差では三樹三郎が誠にお世話になりまして」などと挨拶するものの、あまりの突然のことで何をどうしていいかわからずおろおろするばかりである。
佐八郎はケロリとしたもので、「京都見物のつもりで、顔を見に寄っただけ。気にすることはない」などといい、家にあがって茶の一杯も飲み、長崎での見聞や、江差の斎藤家の様子など話した。骨董趣味は続いて、長崎で買ったという硯と中国人の書をわざわざ持参して見せてくれた。
三樹三郎としては、事前に連絡をくれれば準備もできたであろうが、急なことゆえ、せめて酒を飲みに花街あたりに出ようかと誘ったが「いや、酒は飲みたくない」と断られ、話が終わるとそうそうに帰っていった。
佐八郎にすれば、三樹三郎に会え、元気に暮らしていることが確認できればいいということであった。しかし三樹三郎には悔いが残り、鴎州に手紙を認めた。鴎州とは「江差八勝」を完成させるという約束があった。江差に残る「江差八勝記念碑」には「弘化丁未夏五月(1848))と刻されているが、これは八名が交流したときであり、実際はそれぞれの漢詩の推敲が今も続いている。
二年後の嘉永五年(1852)三月の三樹三郎の鴎州宛て書状が残っている。「江差八勝」の扁額は氏神である姥髪神社に奉納する計画になって、江差から七人の漢詩を京都の三樹三郎のもとに送ったが、なぜか敦賀あたりで行方不明になってしまった。そのため三樹三郎は再度佐治馬に送ってもらうように依頼したところ、入れ違いに行方不明と思っていた荷が届いた。三樹はそれぞれの漢詩を確認して、跋文を書き、八人の詩の並べ方などを図にして示したものを書き送っている。
また佐治馬から号をつけてほしいと頼まれ、「鴎州」の号を贈った。「鴎」とは江差から見える鴎島に由来する。また名号も頼まれ、「観海」「観」とつけた。
ほどなく嘉永五年(1852)が暮れ、嘉永六年を迎える。嘉永六年は日本にとって特別な意味をもつ年である。六月にペリー艦隊が浦和沖に現れ、これを境に「幕末」が始まるのだ。
2025・8・10 第54回
三樹三郎は帰宅後、細香の言葉を母の梨影に伝えた。
「まあ、そのようなこと仰せでしたか」
梨影にすれば、山陽の生前から細香の存在は心が騒ぐものであった。しかも
山陽没後は水西荘を売って狭い借家に移り、内職しながら子どもたちを育てあげた。細香と自分の格差はますます広がっているように思える。
しかし改めて心の内をのぞいてみれば、そこにあるのは卑屈な思いばかりではない。細香より十歳年下の梨影も五十三歳になった。長い人生には夫の死、娘の死などの悲しみがあった。この二月には養父の小石元瑞も亡くなった。三樹三郎をめぐっては心労も少なくなかった。
しかし山陽が心血を注いで完成させた『日本外史』が江戸で大評判になり、また又次郎の尽力もあって『日本外史頼氏正本』も出版でき、近年にはない美本として京阪でも評判になりつつある。このことを最も喜んでいるのは山陽自身であろうが、細香もまた我がことのように祝ってくれるのではないか。
山陽が夫として父として素晴らしかったことは、最も近くにいた梨影がよくわかっている。そして史家として著述家として希有な才能の持ち主でもあった山陽の著作の出版と評判とを、細香とともに称えたいと思うのだ。梨影には夫の才能を認め合う人物がこの世にいることが嬉しかった。
「なんのことはない。旦那様について一緒に話したいだけかもしれない」と一人で笑った。
細香と梨影は山陽の没後十八年目にして、再会の時をもった。四月一日、宇治にある菊屋万碧楼である。宇治は山陽も何度も訪れた場所で、母の梅颸が入京した際も連れてきている。平等院の参道や宇治川にも近い旅館で、敷地内の建物に山陽は万碧楼と命名している。
嘉永二年(1849)という年は、イギリス船が江戸湾を測量したりと、相変わらず異国船の話題が世間を賑わせていて、三樹三郎も無関心ではいられなかったが、この日ばかりは過ぎ去りし文化文政期に思いを馳せ、山陽存命中に話題でもちきりの一行であった。
細香は半年後の九月二十三日の山陽の命日(十八回忌)にも上洛することを約束して、ひとまず大垣に帰っていった。
2025・8・9 第53回
帰京した三樹三郎から足かけ七年間にわたる土産話を聞きたいと願う者は少なくない。
三月二十三日、山陽の弟子で、小石元瑞にも学んだ柘植葛城が東山の旅亭に頼立斎、宮原節庵、小田百谷、梁川星巌の妻の紅蘭、星巌の弟子で土佐藩
士の森田梅礀、そして大垣から江馬細香を招いて、三樹三郎の帰京を歓迎する一席を設けた。
細香は弟の春吉らと上京していた。父山陽の女弟子として漢詩や文人画をよくし、その名はさらに広く知られるようになっている。
文政期に同郷の星巌、紅蘭、村瀬藤城らと詩社「白鷗社」を結成し、弘化期には「黎祁吟社」を作り、昨年の嘉永元年(1848)には小原鉄心らと「咬菜社」を結成し、細香が社主となった。当時女性が会をまとめることは珍しいことであった。細香なりに山陽に教えてもらったことを活かしつつ詩と絵に人生を捧げている。それが細香の選んだ生き方だった。
正直、三樹三郎にとって細香はほとんど記憶にない。細香によれば、最後に会ったのは二十年近く前の水西荘という話であるが、子どもだった三樹三郎は何も記憶していないのだった。細香は還暦を三つほど過ぎ、髪も白く、うすくなり、老婆の風情が漂っている。それでもすうっと伸びた背筋は、芯の強さを物語っているようである。
「三樹三郎殿。蝦夷地への旅では漢詩をどのくらい詠みましたか」と問う声も心なしかきびしさが感じられる。
「はい、二百や三百首は。しかしまだ整理しておりません」
「山陽先生は鎮西遊歴で秀句をこれでもかというほどお詠みになり、後半生を切り開かれていきました。三樹三郎殿もまずは清書し、多くの先生から評をいただき、本をつくるのです」
細香のいうことはいちいちもっともで、三樹三郎もそのときばかりは酒も呑まず、小さくなってうなづいている。
「三樹三郎殿も咬菜社にお入りなさい。大垣まで通わずとも、梁川星巌殿や紅蘭殿から学べばいいのです。同じ京都であれば行き来はしやすいでしょう」
梁川星巌は江戸で玉地吟社という詩社を開き、それなりに隆盛を極めていたが、弘化二年(1845)に京に移りすんだ。山陽とは交流が深く、また紅蘭とのあいだに子がいないため、三樹三郎を我が子のように可愛がってくれている。その星巌の姿が見えない。
紅蘭が「申し訳ございません。本日はやんごとなき用で出ていますが、細香様のご滞在中にはぜひともお会いしたいと申しております」
「ではそのときにはお梨影殿もお招きください。お梨影殿とも山陽先生がお亡くなりになった直後に押しして以来、かれこれ十七年ほどもお会いしていません。積もる話もございます。三樹三郎殿、是非ともご母堂をお誘い下さいませね」
「はい、必ず申し伝えます」
2025・7・26 第52回
京での三樹三郎と母梨影の生活がはじまった。日中は家塾に通う子らを教え、頼まれた揮毫があれば書き上げる。つましい暗しながら、故郷京都での生活はほぼ十年ぶりで、懐かしさの中に町の様子が少しずつ様変わりしているのを感じる。なんといえばいいの
か、晴れの日が減って、曇りや雨の日が増えているような感じだ。三樹三郎が感じた変化は、近い将来に大雨、嵐へと変化して古都を飲み込んでいくことになる。
ある日、大きな荷が届いた。蝦夷地江差の斎藤鴎州が送ってくれた数の子の塩漬けであった。数の子は北前船に乗って運ばれてくるが、鴎州の送ってくれたものはいかにも高級感が溢れている。
「こんなりっぱな数の子を。ありがたいことやなや」
梨影が見入っている横で、添えられている書状を読むと、思いがけないことが書かれていた。母親と弟の佐馬五郞が亡くなったとあるのだ。今一度、書状を読み返すと、江戸の藩邸に赴き、わずか十八歳で急死したという。いったい何があったのだろうか。
江差に着き、右往左往していた三樹三郎に最初に打ち解けてくれたのは、ほかならない佐馬五郎であった。漢詩を教えてほしいと頼まれ、日々切磋琢磨していたころのあどけなさの残る表情も思い出される。まだやりたいこと、やれること、やるべきことが山のようにあったろうに。
「なんと、惜しい死であろうか」
梨影も「若くして亡くなるのは、残された者もつらい」と涙ぐむ。十六歳で亡くなった娘の陽子と重なったにだろう。二人で北の方角に向けて頭を垂れた。
手紙には鴎州の漢詩も同封され、添削を求めている。そういえば、鴎州はじめ江差で知り合った文人8名で江差の景勝地八つを選んで漢詩を読み、一枚の紙にまとめるという話も果たしていない。さらに『日本外史頼氏正本』も送りたい。
三樹三郎は急ぎ返事を認めていく。筆を動かすほどに江差での日々が蘇り、冬に江差で耳にしたゴーゴーと唸るような波音が蘇ってくる。三樹三郎が蝦夷地に渡ったのは、蝦夷地に寄港する異国船の状況を知り、自分の目で確かめてみたいという思いがあったからだ。
1840年(天保11)、清国と英国がアヘンを巡って戦争になり、清国が敗れて植民地になった。日本が二の舞にならないように異国と対峙することを真摯に考えなければならない。
日本に接近する異国船は増えつつある。三年前の1846年(弘化3)五月 アメリカ東インド艦隊司令長官ビットル浦賀に来て国交を求めていた。一カ月先にはイギリス測量船が浦賀に来航し、江戸湾を測量するということが行なわれる。
前後して江戸にいる親戚の尾藤水竹が三月五日付で浦賀奉行の組頭を拝命したという一報が届いた。浦賀奉行は下田が浦賀に移されたもので、江戸に出入する廻船の積荷や奥羽から大坂へ送る米穀を検査し、幕府領や浦賀町中の民政を扱うという役目であるが、異国船の情報収集もその役目には入っているようだ。水竹はもともと海防に一家言あったから、加味されての異動であったのか。少なくとも儒官であっても学問に打ちこむ時代ではなくなっているのだ。
ずが、成り行きから三樹三郎のほうが先に入学することになった。しかもその後は蝦夷地までいくなど長旅を続け、支峰は二十七歳になっていた。
最も気を揉んでいたのは母の梨影で、「又次郎にははよお嫁さんを迎えたいけれど、まずは江戸に行ってもらうことが先決や」といっている。息子が手もとから離れていくことは寂しいが、頼山陽の子として家を守っていくためには江戸昌平坂学問所に入る必要があることは承知している。
幸いというべきか、三樹三郎の退塾事件から七年がたち、世間の記憶から薄らぎつつある。逆に『日本外史頼氏正本』を出版した直後で、頼家も勢いを増しつつあることから、支峰の入学には特に支障はなかった。
三樹三郎は自分のしでかしたことを忘れたように、江戸にいった際に頼るべき友人知人などを伝えている。三樹三郎は物怖じせず、積極的に人間関係を構築していくが、支峰はやや繊細で、気弱なところがあり、人との交流が得意ではない。それでも幕府の儒官には親戚の尾藤水竹がいるし、1843年(天保14)二十五歳で老中になった阿部正弘の福山藩には山陽の相弟子であった関藤藤陰や江木鰐水もいる。困ったときのは何かと手を貸してくれるだろう。
そういうわけで、正月に三樹三郎が帰京し、二月には支峰が入れ替わりのように江戸に向けて出立してしまった。依然として兄弟としての時間を過ごすことの少ない二人であった。
2025・7・12 第50回
京都に戻った三樹三郎は(25歳)富小路で支峰が開いた家塾「真塾」で教鞭をとる日々になった。頼山陽の名前や、『日本外史』の評判もあり、それなりに塾生は集まってくる。従って家計に困ることはないが、といって裕福
というほどではなく、頼まれる揮毫で糊口をしのいでいる。
兄の支峰は「『校刻日本外史』のように『日本外史頼氏正本』が売れに売れれば、かなえたい夢がある」という。
「なんや。その夢とは?」と三樹三郎が問うた。
「水西荘」を買い戻すことや」
水西荘は三本木にあり、山陽が亡くなるまで住んでいた屋敷である。山紫水明処と呼ぶ亭、庭があった。そこに支峰は十一歳、三樹三郎は九歳まで暮らした。何より父の山陽が壮健であり、優秀な弟子が集まり、引っ切りなしに来客があり、知性のある会話に溢れていた。母は万事家政を取り仕切り、贈答品も多く、飢えとは無縁の日々であった。すべてがうまく循環していた。
山陽の死を境に支峰は学問修業のため、広島の頼宗家に九年間預けられ、梨影は三樹三郎と娘の陽子を連れて水西荘を売り払い、富小路の借家に移り、縫い物などの内職をしながら子育てを続けた。
三樹三郎も十五歳のときには大坂の篠崎小竹のもとで住み込んで学問修行を始めた。京都に残ったのは梨影と陽子だけになったが、陽子は幼い頃から病弱で、数年前にわずか十六歳で亡くなった。子どもたちの成長が生きがいであった梨影は陽子の没後一気に白髪が増えた。山陽と梨影のあいだには辰蔵という長男がいたが、山陽の存命中にわずか六歳で世を去っている。
意気消沈する母の姿を間近で見ていた支峰は、水西荘を買い戻り、そこでの暮らしが始まれば、梨影の気力も戻ってくるのではないかと考えているのだった。そのためにも『日本外史頼氏正本』はなんとしても売れてほしいと天にも祈る思いであった。ただ、『日本外史頼氏正本』が売れるのは、いわゆる著作権に関しては川越藩とのあいだで取り決めが行なわれる明治以降である。