見延典子訳『日本外史』後北条氏

参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931) 

               藤高一男『日本外史を読』』Ⅲ(2002)

2025・6・9  小田原城、落城

 

 当時、里見・佐竹の二氏、及び陸奥国・出羽国の豪傑はみな豊臣秀吉に降参した。秀吉は天下の兵をすべてあげて、小田原城を取り囲んだ。

 北条氏政、氏直は一同を励まして堅く守り、「諸将士はおのおのの持ち場を守って、救い合ってはならない。交代して休み、休む者は思いのままに休憩

小田原城
小田原城

して遊んでよい」と命じた。また旗下の兵士六百人を分けて昼夜、城内を警戒させた。

 秀吉は小田原城を包囲すること百四日になったが、結局首一つ取ることができなかった。

 北条氏規は韮山城を守っていた。

 秀吉は七人の大将と騎兵歩卒を五万人率いて韮山城を攻めた、北条氏規は「韮山城はわが高祖の北条早雲公に由緒のある城で、われは命令を受けて守っている。兵一人でも失ったら恥だ」と部下の軍勢にいった。一同は憤激した。そこの将の朝比奈泰能はたびたび城を出て力戦した。

 西軍は四面から攻撃した。しかし死者は数知れなかった。そこで西軍は長い包囲を築き、決して迫っていかなかった。徳川氏の将の小笠原某は手勢を連れて城壁の近くへ押し寄せたが、みな討死した。秀吉は大将を取り替えて、急ぎ攻め立てて韮山城の外郭を陥れた。

 北条氏規は自ら士卒を指揮して戦い、取られた外郭をその日のうちに取り戻した。関東八州の城累はみな敵に陥った。ただ、小田原城と韮山城だけは降参しなかった。

 北条氏規は小田原城にいた。敵将の宇喜多秀家と対陣していた。秀家が秀吉内々の沙汰で北条氏房に酒を送って「僅かながらご籠城のお骨折りをお慰めしたい」といった。北条氏房も物を送って「僅かながら城攻めのご苦労をお慰めしたい」と礼を述べた。

 ついに宇喜多氏家は人をやって、北条氏房に「豊臣氏は北条氏と古い怨みがあるわけではない。ひょんなことから戦になり、半年経つが、未だに勝負がつかない。いたずらに天下の人々を討死させている今、和睦をして戦いをとめられるなら、伊豆国、相模国の二ヵ所をもって北条氏を封じるよう、お取りはからい致しましょう」

 北条氏房はそれを氏政に告げた。氏政は返事をしなかった。

 時に敵将の堀秀政は死んでいた。子の堀秀治が秀吉の密書を家老に松田憲秀に送り届けた。憲秀は敵兵を案内して城内の入れようと思った。憲秀の末子の松田英春は北条氏直にかわいがられ、常に左右に侍していた。憲秀は英春を呼んで内応の話をした。英春は泣き叫んで堅く諫めた。憲秀は聞きいれず、英春をそのまま留め置き、北条氏直にご殿には入らせなかった。憲秀がついに堀秀治と内応の約束をした。約束は決まった。

 留め置かれていた松田英春は夜、鎧櫃の中に自分の身を入れて御殿へ行き、氏政に会って「殿が一人の死を許してくださるなら、私は大事件を申し上げます」と誓ってから、事の由を告げた

 氏直は非常に驚き。家老の松田憲秀を呼びつけて詰問したあと、拘留した。英春は誓った通り父の死を赦していただくように請うたが、許されなかった。

 堀秀治は約束通り松田氏の砦の下にきて、三日も内応の返事を待った。しかし旗や幟を望見すると、すっかり変わっていた。堀秀治はその場を去った。

 秀吉は様々手を尽くして、北条氏を誘いおとそうとした。秀吉は黒田孝高、羽柴勝正に北条氏房を通させ「今、北条氏の勢いは釜の中の魚であって、下から激しい火で煮ているようなものだ。なぜ降参を申し入れて、伊豆、相模の二国をもらい、先祖の祭祀を絶やさないようにしないのか」

 氏房の妻子は武蔵国岩槻にとられられていた。妻子も書面で「和睦してはやく助けて下さい」と願った。そこで氏房は強い心も砕け、氏政に降参を勧めた。

 氏政は「われは父祖の偉業を受け継ぎ、関東八州の主君となったのだ。武力を争い、負けて失うになら何も心残りはない。降参を申し入れて生存を計ることは自分にはできない」

 そのうちに成田長康らも西軍に内通した。信頼している家臣や老将などは互いに疑い合い、心にへだたりができて打ち解けぬようになり、代る代る氏政に和睦を勧めるようになった。

 七月、豊臣秀吉が徳川家康公をやって、北条氏規を諭させ「貴公の韮山城を守って屈しない武勇は、じゅうぶんお見受けした。今、和睦の相談がなろうとしている。貴公は何をそんなに守り、がんばっているのか。それよりやってきて、和睦の相談に賛成したらよいだろう」と諭した。

 北条氏規はやむを得ず韮山の守備を取り払い、のちのち北条に必ず伊豆・相模国の二カ国は封ずことを堅く約束してもらい、それから小田原城に行き、西門から入っていったが、そのときには北条氏直は南門から城外に出て行っていた。

 思うに、これは秀吉の陰謀で、北条氏政、氏直父子の仲を隔てたのである。だから氏直は怖れ、迷い、二カ国の領土の約束が決定するのを待たず、小田原城を出て行ってしまったのだ。

 そこで北条氏直が徳川氏の本陣へいって「どうか、北条氏政以下の命を許してもらいたい。であれば城を明け渡そう」と請うた。徳川氏は北条氏と婚姻関係のあることから、直接いうには具合が悪いというので、北条氏直が羽柴勝雅を通じて秀吉に告げさせた。秀吉は「その願いを受け入れよう。しかし領土については上総国、下総国をもって、前に約束した伊豆国、相模国に代えることにする」

 北条氏規はこれを聞いて「意地の悪い秀吉にだまされたのが残念だ」と怒った。小田原城から韮山城に帰って再び防備をしようとした。

 しかし北条氏直は許さなかった。そこで松田憲秀を殺して、小田原城を徳川氏に明け渡した。城内の士民については三日後を限って城外へ出すことにした。北条氏政は弟北条氏輝とともに城外に出て、安棲という医者の家にいった。

 秀吉は氏政の剛毅で勇気のあるのを怖れ、使者五人をやって医者の家に行かせ、約束を変えて氏政に自害させようとした。使者は出かけたが、言い出しにくかった。氏政、氏輝は使者の顔色を見て察し、少しの暇を請うて頭や身体を洗い、辞世の歌をつくって自害した。氏規も殉死しようとした。しかし側らの目付が刀をとりあげたので、果たせなかった。

 秀吉は氏直を許し、北条氏規、氏房、氏邦、松田英春ら数十人をひきつれさせて高野山に入らせ、俸禄として一万石を支給した。翌年、氏直は病死した。二十一歳であった。英春は去って前田家に仕えた。

 伊勢長氏(北条早雲)が相模国の主君となってから五代、九十年で北条氏は滅んだのである。

 その後、秀吉は北条氏規が忠勇であったことを思い起こして、狭山の城主として一万石を与えた。また子孫の氏盛、氏信、氏宗、氏治、氏朝は、父子相次いで豊臣氏、徳川氏に仕えた。

 北条氏勝は徳川氏に即して岩留の城主となり、一万石をもらっていた。関ヶ原の戦いのときには岡崎城を守っていた。慶長年中に死んだ。北条氏勝は保科正直の子の保科氏重を養って子とした(北条氏重)。大阪の役の時には氏重は先鋒にたって働いた。その後しばしば領地を移され、ついに掛川の城主となって病死した。跡取りがいなかったので、領地をとりあげられ、家は断絶した。

 

2025・6・8  

豊臣秀吉が小田原を囲む

 

 天正十八年(1590)三月、豊臣秀吉が兵二十五万人を繰り出し、大将になって小田原を攻めてきた。徳川氏が先鋒になっていた。二十九日、山中城を取り囲んだ。城兵は懸命に戦い、


敵将一柳直末を斬った。しかし敵の軍勢はすでに城壁にとりつき、みな一斉に乗り越えてきた。応戦して間宮康俊、松田秀植は討死した。北条氏は勝ち、朝倉重高は逃げ去った。そのうち徳川氏の軍勢が酒匂に到達した。

 四月、竹浦および湯本を守っていた兵も崩れた。西軍は小田原城を取り囲んだ。北条氏直は諸城が守備に失敗して陥落したと聞いて、みなに相談して「秀吉の兵は多いが、威力で維持されているだけである。心は必ずしも一致していない。わが兵は少ないが、五代も続いて君臣の関係を結んでいるのだ。われは秀吉を険阻なところで待ち受けて一戦し、勝敗を決めたいと思う」

 家老の松田憲秀はこれに反対し「彼は遠方からやってくるので兵糧が続かない。だから城壁を堅くし、田畠の作物をぜんぶ刈り取ってしまえば、戦わないで服従させられる。これは先君北条氏康が上杉謙信を攻めたときに試した策略です。なぜそんな危ない策をやってまで僥倖的な勝利を得ようとされるのですか」。そこで北条氏康は思いとどまった。

 家老前田憲秀はひそかに人をやり、秀吉に「小田原城の西北に石垣山があります、そこを本陣とすれば小田原城の様子は手にとるようにわかります」といった。秀吉は従った。石垣山に敵の本陣が造られたので、小田原城中の者は大いに驚いた。

 そのうちに上杉景勝と前田利家は北陸道の兵を連れてきて、上野国の松江城を攻めてきた。城将の大道寺政繁は坂本で防いだが、戦わないで逃げ出し、ついに降参して敵の案内役になった。厩橋、松山、沼田、箕輪、川越の諸城もみな攻め落とされ、鉢形城は取り囲まれた。城主の北条氏邦は小田原にいた。留守の将士らは堅く防いで降参しなかった。西軍の別将二人が秀吉の命令で下野国、上総国、下総国を諭して降参させた。北条氏勝は逃げて領内に甘縄にいた。北条氏政、氏直が彼を呼び寄せた。氏勝は「私は負けたので、殿に会わせる顔がありません。ここで討死すべきです」といった。ある人が彼には二心あると讒言した。氏政は非常に怒った。そのとき家康公が北条氏勝を降参するように招いたので、氏勝はとうとう降参した。

 四月、北条氏政の子の氏総が蒲生氏の陣営を襲ったが、負けた。そのとき西陣の別将が北条氏房の領地岩槻を陥れた。留守をしていた妹尾兼延は討死した。秀吉がさらに別将三人をやって館林城を攻めてきた。この城は周囲に広い沢を巡らせていた。敵は舟橋を作って渡ってきた。城兵は死に物狂いで守り、降参しなかった。秀吉は北条氏勝の書面をみせて城兵を諭させた。みな、降参した。

 六月、西軍が兵を連合して忍城をせめてきた。西軍は「この城は水攻めにするのが一番良い」と考えた。そこで土地の者を募って堤防を築いた。忍城主の成田長康は小田原城にいたが、自分が不在なら忍城は水攻めできないと知っていたので、こっそり城中の者に敵の堤防増築の応募に応じさせ、人夫賃金を取り込ませた。そのうちに西陣に堤防ができあがって水を引いた。だが城は二尺も浸されなかった。引き込んだ水のため敵はかえって城に近づけなくなった。数日で堤防が壊れた。西陣の死者は数百人にも及んだ。そのあいだに上杉景勝、前田利家が鉢形城を陥れ、八王子城を取り囲んだ。

 八王子城は北条氏照に属していた。留守の大将横地監物は逃げ去った。狩野一庵、中山家範、金子家重、近藤助実らは互いに「われわれは陸奥守(北条氏輝)を死守することを約束した。今さら言葉は変えられない」といって数百人とともに死を決めて戦った。

 前田利家は高い所からこれを望み、敵ながらあっぱれと思い、降参した大将に姓名を尋ね、八王子城にいって降参させようと思った。しかし行ってみれば自害したあとだった。

 小田原の事件が落着してから、徳川氏は八王子城を死守した中山家範の子の中山昭守、信吉を取り立てた。信吉は備前守と称し、水戸藩のもり役になった。

 

2025・5・16 北条氏政の驕侈

 

 当時、伊勢氏(北条氏)は関東八州を平定した。

肥沃な土地が千里も続き、鉱山をきりひらいて銅鉄を鋳造したり、また海水を煮て塩を取り、小田原城下の繁華なことは関東の中で一番であった。しかし北条氏政は徐々に心が驕って贅沢になり、人を用いるのにも忠義な人とそうでない人の区別をしなかった。

 以前、北条氏政が継嗣となったころ


父氏康に従って上野国を攻め、武田信玄と兵を連合して松山に陣取ったことがあった。夏の中旬で、たまたま麦を刈って馬に積んで軍隊の前を通った者がいた。氏政は左右の家臣に「荒れは何か」と指を差して訊いた。家臣は「麦でございます」と答えた。「それんらなすぐに飯にたいてわれわれ客人に食べさせないのか」といった。それを聞いていた信玄が笑いながら「私は初めて北条氏は大国であることを知った。若殿は大国の公子だからそんなことを言われる。麦はから竿で打ち、ふるい、籾刷りをして、乾かし、臼で二度もつき、水につけ、飯に炊くのだ。それを若殿は刈ったものをすぐ飯に炊こうと申される」。左右の者は氏政の愚かなことをこっそり笑ったのだった。

 氏政の下情に通じていないことはそんなふうであった。そのため政治は日に日に廃れていった。

 家老の松田憲秀が権柄を勝手にふるい。無実の罪をこうむる士民が多かった。

 一人の僧侶が通りすがりに城門の前の立て札を見て、「北条氏はじきに滅びるだろう」といったので、ある人が町奉行に訴えた。町奉行は僧侶を呼んで「なぜそのようなことを申した」と問うと、「節操は三十年前ここを通ったとき立て札を見たことがありますが、そのときは四、五カ条だけでした。今は三倍になっています。だいたい君主の徳が薄いと政治は渋滞します。渋滞すれば法令は煩雑になります。煩雑になれば士民は君主から離れるようになります。士民が離れると、君主は孤立します。法条殿はすでに孤立しておられる。滅びるのを待たないで何を待ちましょう」

 

 町奉行は僧の言葉を氏政に報告した。氏政は気にもとめなかった。ただ、家老の松田憲秀に任せきりにしていた。

天正十一年(1583)七月、北条氏政の子の氏直は夫人を徳川氏から娶った。

 織田信長は臣下(明智光秀)に弑せられ、その将豊臣秀吉が代わって畿内で政治をし、正親町天皇を擁して天下に号令を出していた。徳川氏、上杉氏はみな秀吉に従っていた。秀吉はたびたび使いを出し「どうして京都にきてご機嫌伺いをしないのか」と説いた。

 天正十四年(1586)八月、北条氏政は伊東と氏規を京都に遣わせ、自分はいこうとしなかった。そんなことが再三続いた。氏政は「秀吉は口先で関東八州を取ろうと思っている。なぜ弓矢でとらないのか」といった。秀吉は怒って使いをやめ、北条氏に戦争を申し込んだ。そこで氏政は城塁を修繕して、兵糧武器を蓄えて準備をした。関東八州の将士は手下を留めさせてめいめいの城や砦を守らせておき、将士には小田原に集まるようにさせた。

 ところが家老の松田憲秀はこっそり秀吉に内通していた。以前憲秀の子の松田新六は戸倉城を守って武田勝頼と戦ったが、たびたび負けた。氏直がこれを聞いて「新六は臆病者でわが士卒を多く失った」と罵った。新六はこれを聞いて恥じ入り、北条に背いて武田勝頼に降参した。勝頼が滅んでからは、また小田原に帰ってきた。当然誅せられるはずであったが、父の松田憲秀才が命乞いをしたので、死一等を許され、領内に蟄居を命じられた。

 いよいよ法住寺と秀吉のあいだでいざこが起こり、ますます秀吉と葛藤が生じる段になって、新六は父憲秀(家老)に勧め、敵将堀秀政を間にいれて秀吉に内通した。秀吉は憲秀に伊豆国、相模国を与える約束をし、合戦のときに裏切らせることにした。

 ところが北条氏政、氏直はこのことをまったく知らなかった。知らないまま家老の憲秀と相談して親族の諸将を手分けして要害を守らせることにした。美濃守北条氏規には韮山を、陸奥守北条氏輝には竹浦を、左衛紋

大夫北条氏勝には山中城をそれぞれ守らせることにした。

 北条氏勝は北条綱成の孫である。間宮康俊、朝倉重高は北条氏勝の副将となり、もと山中城を守っていた大将の松田秀植といっしょにその山中城を守ることにした。

 北条氏政が間宮康俊・朝倉重高に宝刀を与えて「しっかりやれよ」といった。間宮康俊は「私は命を捨てて従事いたします」といった。朝倉重高は退出して、同僚に向かい「北条氏が滅亡するのはこの戦争である。山中城はまだできあがっていないのに、守るように命じられた。我らは捨てられたも同じだ。十年来の政治をみると誤った政治が多かった。万事どうなるかわかるだろう。諸君、気をつけられよ」

 

2025・5・1

北条氏、武田氏を従属する

 

 北条氏政が勇猛果敢であることは父氏康によく似ていたが、器量才略は及ばなかった。氏康が死に、甲斐邦の将士らは喪につけこんで氏政を攻めようと思った。信玄は西方の織田氏を討とうとしていたのげ、氏政を攻めることを許さなかった。ついに法住寺と武田

織田信長
織田信長

氏を討とうとしていたので、氏政を攻めることを許さなかった。ついに法住寺と武田氏は和議を結ぶことになった。こうして北条氏は西方の心配がなくなった。そこでもっぱら関東方面を取りおさめることになった。

 天正五年(1577)夏、北条氏政は里見義高を討って破った。里見嘉高は和議を願い出て、子の里見義頼を人質として差し出した。常陸国の佐竹義重も自分の子を差し出した。氏政は国を嫡子の北条氏直に譲って隠居した。氏政、氏直はみな北条氏康の官爵、左京大夫従五位下を引き継いだ。

 その頃、信玄は死んで、子の武田勝頼はたびたび織田氏、徳川氏と戦ったが敗れて、大いに弱っていた。そこで勝頼は北条氏に高価な贈り物をして和議を願い出た。その上氏政の妹を嫁にしたいと申し込んできた。氏政は許した。これから武田氏は北条氏の従属になった。

 天正六年(1578)越後国の上杉謙信が死んだ。二子の上杉景虎、景勝は領有を争って戦争をした。上杉景虎は氏政の弟の三郎である(謙信の養子になっていた)

 氏政は弟のため救援を武田勝頼に請うた。勝頼は承諾した。ところが一方の上杉景勝は勝頼の気に入りの家臣にたいそうな賄賂を送って救援を請うた。それで勝頼は心を変え、上杉景勝を助け、景虎を攻め殺した。北条氏は非常に怒り、武田勝頼と絶交した。

 織田信長は畿内を平定してから北条氏に使者をやって、武田勝頼を挟み撃ちしようもちかけてきた。北条氏政は承諾した。

天正七年九月、武田勝頼は三島で対陣。天正八年、浮島ケ原で戦う。天正十年年三月、信長の子の信忠と一緒に勝頼を撃って甲斐国に攻めこんだ。北条氏政、氏直は兵三万人を引き連れて甲斐国境まで進出した。勝頼は苦しみ、行きつまり、死のうと思い、夫人(氏政の妹)を小田原に逃げさせようとしたが、聞きいれない。一緒に自害した。

 織田信長は甲斐国、信濃国を平定し、わが徳川家康公を駿河国に居らせ、織田氏の将滝川一益に西上野国を守らせて厩橋城に居らせた。

 天正十年(1582)六月、信長は家臣明智光秀に弑せられた。それを知った織田の将滝川一益は厩橋城を出て、西に帰ろうとした。鉢形城主の北条氏邦が使いをやって北条氏直に告げてきた。氏直は出発して金窪に陣取り、滝川一益と戦ってみたが、上手くいかない。一益の兵の兵は勝ちにつけ込み進んできた。北条氏直の先鋒は伏兵を設けておいて、わざと逃げ出した。一益はうっかり陥った、北条氏の兵は前後からこれを撃ち、斬首二千級もあった。当時、甲斐、信濃の二カ国がたいそう乱れていた、徳川氏。上杉氏はこれを取ろうと争っていた。北条氏政は氏直に兵数万を牽き入らせ、会戦させたが、勝負は決まらなかった。そこで徳川氏と和睦して、西上野国を平定して帰ってきた。

 

2025・4・29 

北条氏、武田信玄と攻防

 

 今川義元が死んでから、子の今川氏真が跡を継いだ。氏真は淫乱でわがままで、国政を自分で執らなかった。武田信玄は氏真の母の弟である(叔父)。しかし信玄は秘かに国を奪おうと謀っていた。

 永禄11年(1568)十二月、信玄は兵を挙げて氏真を襲った。氏真は遠江国へ逃げた。信玄は後追いしなかった。そこで府中(静岡市)にいた北条氏の兵が氏真を救いにくるのを怖れ、信玄は弁士の寺島甫安に行かせ、

 武田信玄
 武田信玄

 「お願いです。駿河刻を二分して富士川より西はわが竹田氏に属し、富士川より東は北条氏に属するようにしたい」

 北条氏康、氏政は怒って「武田信玄は自分の利益ばかり求めて、親類を滅ぼして顧みない、狼のような男だ。今川氏は元来先祖がはじめ身を寄せた家で、しかも現在も婚戚である。我は必ず今川氏真を元の国に返すようにします」といって、派遣してきた甫安を伊豆国で捕まえておき、兵四万余騎を引き連れて氏真を助けにいった。

 永禄十二年(1569)正月、北条氏康、氏政は薩陲山に陣した。信玄は興津に陣した。どちらも自重して戦わなかった。四月になって信玄は支えきれないと思い、夜、軍を引き挙げて裏道から逃げ去った。そこで今川氏真は北条氏に逃げ込んだ。北条氏康、氏政は兵を分けて諸城を守り、氏真のために府中の城を修復してやった。

 六月 信玄が伊豆に入り、鳴島に陣取った。大雨が降った。我が兵(北条氏)は夜、その本陣を襲った。信玄は驚いて大将の旗を捨てて逃げた。しかし関東の将士は信玄に従う者が多かった。

 九月、信玄は二手の軍勢を繰り出して小田原を襲った。この時北条の兵の大半は駿河国を守っていたので、小田原の兵は少なかった。

 十月、信玄は小田原城下までやってきて、「鶴岡八幡宮に参詣して戦勝を報告する」といいふらした。そこで北条氏康、氏政は信玄を待った後、その後を絶って皆殺しにしようと思い、小田原城から出ないように兵に命令した。そこで信玄は軍を引き連れて甲斐刻に帰ることとなった。

 北条氏政の弟の北条氏照らは信玄を三増山で待ち受け、先鋒を撃ち破った。しかし多勢に無勢で、北条氏の兵は敗北した。しかし氏照は一人踏みとどまって戦った。家臣の大石某が氏照に向かった「ここはわが殿は討死する場所ではありません。代わって私が死にましょう」と進んで討死した。

 北条氏照は隙を見て馳せて逃げたが、馬に矢が当って倒れた。ところが家臣の師岡某が自分の馬を与えて、氏照を逃がした。

 北条氏康、氏政は兵を連れて信玄を追いかけたが、三増山へあと二里というところで敗戦の報がきたので、引き返すことになった。そして駿河邦を守っていた者たちも、守りをうち捨て、尾佐原の難局を救いに帰ってきた。

 十一月、信玄が再び甲斐国で挙兵し、駿河国に攻め入った。諸城は兵を解いて逃げ走った。ただ北条綱重だけは蒲原城に居て堅く守り、降参しなかった。信玄は力づでは敗れないと知って、兵を引き連れて去った。信玄は兵を分けて、ただちに蒲原城に入らせた。北条綱重はついに討死した。信玄は府中を陥れ、駿河国を皆とった。そこで北条氏康は今川氏真に早川を与え、北条氏政と家老の松田憲秀らを遣わして信玄を討たせた。

 元亀元年(1570)九月、北条氏政は信玄と伊豆国で対峙していた。父氏康が病気にかかったと聞いて引き返した。十月、氏康は死んだ。五十六歳であった。氏康は四方を攻撃し、自分の身をもって的にあたってきたので、大きな傷が数カ所あった。常に政治に気をつかい、頼朝の行なった故事に従い、役人の貪欲さや潔白さを見分けて任免をした。関東に諸国は氏康に頼って安心していた。かつて信玄と出会ったとき、信玄が川越合戦の軍略について氏康に尋ねたことがある。氏康は「あれは私の手柄ではありません。北条綱重ら忠勇のおかげです」といって威張らなかった。だから配下の士民はみな廉潔で、譲り合うことを重んじ、主君のため働くことは死を覚悟しているようであった、氏康が死に、悲しみ、慕わない者はいなかった。

 

2025・4・17 鴻台の戦い

 

永禄五年(1562)北条氏康は武田信玄と兵を連合し、再び松山城を取った。松山城は太田資正に属していた城である。資正は信玄が戦さに成功しなかったことを残念に思い、里見義弘に使いをやって説得した。


 永禄六年(1563)義弘は下総国に兵を出し、資正と連合して江戸城を襲おうとした、江戸城の将、遠山某は間謀の知らせでこれを知り、急に守備を整え、使いを北条氏康に報告させた。氏康、氏政は兵を率いて小田原祖城を出発し、里見某を相手に鴻台をはさんで陣取った。

その夜、斥候の騎兵が「里見義弘の兵が退却した」と報告した、北条氏の先鋒の遠山某、富永某は搦木瀬(利根川)を渡り、夜明けに兵を引率して鴻台に登った。敵将の正木某が鴻台から二里ばかりの処に隠れて急に蜂起して構えて撃ってきた。北条氏の兵は敗れ、二将(遠山、富永)は力戦して討死し、残兵は大敗北した。敵が追いかけてきて北条氏の本陣までやってきた。北条氏は兵を指揮して、横合いから撃って退けた。

北条氏康は利根川を渡ったところで敗戦の報を得た。そこで諸将を呼び集めて「私は二将のために、恥をそそぎたいと思うのだが、どうだ」といった。北条氏政が「以前に一卒を派遣して、敵中に混ぜて入らせておきました。その者が帰ってきて報告しますのに、里見義弘は鴻台の上でわが二将の首実検をやり、意気顔色ともはなはだ驕っていて『思うのに、敵は良臣の二将を失ったのだから、もはや退却したであろう。我らは明日にでも川を渡って逃げる者を追っかけて皆殺しにしてやろう『などと言っているそうです。そんなわけでまったく安心して、鎧を脱いで兵を休息させていることでしょう。不意を襲うのには今がうってつけの機会です」

北条氏康は「まったくその通りだ」といい、二軍をとりまとめ、北条氏康、氏政がそれぞれ各一隊の先鋒となった。ちょうど日が暮れようとした。たいそうな霧で一寸先の見分けもつかないほどであった。二手の軍勢は鴻台の南来たから太鼓をたたき、鬨の声をあげて登った。その声は天地に震った。里見義弘は大いに驚いて潰え走った。このとき北条氏康は愛馬に乗っていた。馬は賀美と名づけた。城柄の薙刀を引っ提げて、自ら三十騎を斬り倒した。また北条氏康らは敵将の正木以下、十八人の敵将を生け捕り、斬った首が五千級もあった。里見義弘、太田資正は身一つでやっと逃げて死を免れた。

 そんなわけで上総国、安房国に諸城の多くが北条氏康の風を望んで降参してきた。四方の隣国は北条氏をますます怖れた。

 永禄十年(1567)十月、北条氏康は武田信玄とともに兵五万人を合せて上杉謙信を厩橋(群馬県前橋市)を攻め、城下に火をつけ、城門までいって引き返し、先年に小田原を責められた返報をした。上杉謙信は出てこようとはしなかった。謙信はたびたび川越城を狙ったが、志を遂げることができなかった。北条氏康には妾の子の三郎という者がいたが、謙信は自分の養子にして、氏康と和睦をしたいと請うてきた。氏康も許した。これによって諸国は平穏となった。

 

室町幕府12代将軍 足利晴氏
室町幕府12代将軍 足利晴氏

2025・4・16 両上杉氏の滅亡

 

 そこで上杉憲政は上野国を領有するだけになったが、依然として菅野信方、上原兵庫を寵愛した。そのため他の将士はますます憲政から離れた。

 天文二十年(1551)北条氏康は関東八州の兵を率いて憲政を討った。七月平井城を攻めて陥れた。憲政は越後国に出奔し、長尾景虎(上杉謙信)を頼った。上杉氏の家老藤田、小幡、三川、成田ら六人が憲政の子の竜若を連れて北条氏に降参した。上杉氏は共に滅亡して、関東のほとんどは伊勢氏のものになった。ただ、足利晴氏だけ


は残党を率いて北条氏康に従わなかった。

 そこで北条氏康は晴氏に書面をやり「私の父北条氏綱は貴公の夫君(足利高基)と婚姻を結び、心を尽くして助け、二心はありませんでした。御弓氏の強盛、勇武をもってしても、父は密命をうけて滅ぼし、遠近の者は皆手柄を賞賛しました。ところがそんなことがあって間もないのに、その子の私を誅しようとなされました。私には理由がわかりません。川越の戦いで上杉憲政が貴公の出陣を催促したとき、私は救援をお願いしませんでした。『何卒中立で、どちらも助けないでほしい』と申しあげました。貴公も承服されました。それなのにまた家来の讒言に惑わされ、憲政を助けられました。私は重ねて『もし川越城中の兵士の死をお許しくださるなら、城を貴公に献上して去りましょう』と申し上げました。貴公はこれも承服されました。ところが川越城を攻撃することをとめられませんでした。これまでの経緯はこのようなものです。どちらが正しいか、不正かはお天道様がご覧です。私はもはや貴公を君主としていただくことはできません」

 天文二十二年(1554)十月、北条氏康は兵を率いて古河城を攻めて陥落し、足利晴氏を生け捕りにして秦野に追放した。間もなく許し、関宿に隠退させ、子の足利義之を立てて鎌倉葛西谷に居らせた。

 弘治元年(1555)北条氏康は京都に使者をやり、「足利晴氏は道理に外れていて、関東の将士を統率する能力はありまえん。私は慎んで諸将士と相談し、子の足利義氏を代わりにたてました」と上奏し、足利義氏に官爵をお願いした。朝廷は佐馬頭を授けられ、北条氏康を左京大夫として従五位に叙せられた。

 

2025・4・4 川越の戦い②

 

北条氏康は小田原城を出発し、入間川の南まできた。上杉氏の兵がそれを迎えて戦ってきた。北条氏康は戦わず、小田原城に逃げ込んだ。忍びの者に「敵中ではなんと申しているのか」と問うと、「敵は皆笑い『小僧(氏康のこ

川越城
川越城

と)は逃げた』と申しております」と答えた。

 数日たって北条氏康は入間川の南まで出かけた。敵が来たにでまた逃げた。再び忍びの者に問うた。すると「敵は、小僧は二度と出てくることはできないだろう。出てきたところで逃げるだけだ。これ以上問題にするにあたるまいと申しておりました」といったので、氏康は「それで良い」といった。

 夜、兵を勢揃いさせて、「聞くところ、戦とは大勢いるからといって勝てるものではない。小勢だから負けるとも決まっていない。部下の士卒の心が和合しているか否かが問題である。『小敵に怯(おそ)れて而して大敵に勇む』という言葉がある。私はしばしば上杉氏と戦い、常に我一人で敵十人に当ってきた。それからすれば小勢でもって大勢に対するは今日に始まったわけではない。勝負が決まるのはこの一戦である。お前ら将士たちは心を一つにして力合せ、私が向かう所めがけて進めよ」

 兵士らの鎧の上の白い布をつけさせ、「白い布のない者に出会ったらすぐ斬りつけよ。しかし手間取るので首を取ってはならない」と伝え、命令を終えると兵を引き連れて入間川を渡り、夜半すぐ上杉氏の軍を突いた。

 上杉軍は大いに驚き、大混乱に陥った。北条氏の兵はこれにつけこんで縦横に奮い撃ち、一人が百人に当らない者はないほどであった。二万人を殺傷し、上杉朝定を生け捕りにし、足利晴氏、上杉憲政を逃走させた。関東八州の豪傑で、その後北条氏康に降参した者は九十余姓もあった。

 天文十五年(1546)四月二十日。この夜、上杉氏の家臣難波田、小野などは皆討死した。本間某は一騎で踏みとどまって北条氏と戦った。本間某は身体が大きく、九つの提灯を竿の先に引っかけて、旗指し物にして「私はこれで暗君(上杉憲政)の心の闇を照らすのだ」といった。この本間某が北条氏の大将大導寺某と闘ったとき九つの提灯を与えて「もう俺には不要だ。貴公に進呈する。これを旗指し物としてよく北条氏にお仕えくだされ」といって切腹した。大導寺某は九つの提灯を旗指し物としたという。

 夜が明けた上杉氏の家臣は北条氏康の兵士が少数であったことを聞いて大いに後悔して憤り、北条氏康の兵が疲れているのにつけこみ、もう一度戦おうとした。引き返して川越城まできてみると、北条氏康はもう松山城に入っていた。上杉氏の諸将は集まって評議をしたが、決まらない。北条氏康は川越城からその様子を見下ろし、門を開いて、自ら士卒に先だって「勝った、勝った」と叫んだ。

 敵軍が「それ、黄八幡だ」と早速敗走した。北条氏康は松山城に行って北条氏康に会い、戦勝を喜び合った。北条氏康は彼を慰労し、論功行賞を行い、降参してきた者を許し入れた。北条氏康の威勢は関東に奮った。関東の諸国は競って誼(よしみ)を通じてきた。

 

2025・4・3 川越城の戦い①

 

 天文十三年(1544)今川氏親は使者をやって上杉憲政と約束し、伊勢氏(北条氏)との境に兵を繰り出し撃って出て長窪城を囲んだ。

 北条氏康は自ら大将となって長窪城を助けようとした。ちょうどその時、

川越城
川越城

使者が川越城からやってきた。使者は北条氏康に「両上杉氏が和睦連合して兵を合せ、まさに川越を取り囲もうとしている」といった。北条氏康は川越にいってみたが、敵は一向に見えなかった。

 そこで諸将を集め「川越は両上杉氏にとって重要な所だ。きっとここが争い場所になる。一人の勇将を守らせよう。そうすれば敵を引きつけて勝つことができる」。皆、勇将に北条綱成を推挙した。

 北条綱成はもともと福島氏で、代々今川氏の大将となり、遠江国の土方城を守っていた。父の福島正成は武田氏に殺された。綱重はまだ幼少で、北条氏の相模国に逃げてきた。豊胸氏綱は彼を可愛がり、「北条氏」という姓と、自分の名の一字「綱」を与えたのである。

 北条綱成は常に軍陣の先鋒となり、黄色で「八幡」の二文字を書いて旗印としていた。戦うときはいつも敵陣に駆け込んで突き進み、「勝った、勝った」と大声で呼び立てた。彼の向かう所、勝たないことはなかった。湯治「黄八幡」の名は関東八州に響いていた。

 そこで北条氏康は北条綱成に三千騎を与えて川越城を守らせて、自分は引き返した。そして長窪城の囲いも解いた

 天文十四年(1545)両上杉が大挙して攻めてきて「こんどの戦争でこそきっと小田原(北条氏)をうち滅ぼしてやる」と言った。川越城に到着するや、城を取り囲み、必ず攻め落とすと心に決めた。しかし北条綱成が固く守ってなかなか落城しない。上杉氏は古賀城に使者をやって助けにきてほしいと足利晴氏に頼んだ、北条氏康も同じように足利晴氏に助けを請うた。足利晴氏は両方を和解させようと思い、どちつかずの返事をした。

 上杉氏の家臣の難波他某、小野某が足利晴氏のところに行き「貴公は北条氏を親しむべき者と思っていますか」と訊いた。晴氏は「そうだ」と答えた

 また二人は、「伊豆国、相模国は貴公が以前所有していた国ではありませんか」と言った。

 足利晴氏は「そうだ」と言った。

 すると二人は「故北条早雲、故北条氏綱は勝手に戦を起して伊豆国、相模国を掠め取り、ついに武蔵国、下総国の近傍にまで及び、今ではこのように貴公を困らせ、苦しませている。彼らの志は関東を全部取り、自分が公方になあなければやまないのです。彼らは今日、わが上杉氏を滅ぼせば、明日はきっと貴公の古河城に及ぶでしょう。今、北条氏が貴公を尊んでいるのは、貴公をとりこんで都合のよいようにしようとしているからです。実際、北条氏が貴公に近づいているのは最近の話です。それにひきかえわが上杉氏は以前から貴公に仕えています。旧知を去って、新地の者におつきになるのになぜ迷っているのでしょうか。今、川越城は落城しそうで、しません。気がかりなのは関東の将士が二心をもち、一つにならないことです。もし貴公が旗を推し進めてわが軍陣にご来臨くだされば、皆のものは味方をするべきか背くべきかを知って力を合わせて進みますから、きっと川越城を攻め落とすことはできるでしょう。城を落とせば勢いに乗じて片っ端から攻め進んで小田原城を落として法成寺を滅ぼし、貴公を鎌倉にお戻しし、皆が昔のように首を並べてお仕えしましょう。よくお考えの上、お計り下さい」

 足利晴氏は大いに喜んで諸侯に号令した。年を越して攻撃し、北条氏の兵糧を運搬する道を四方から断ち切った。

 北条氏康はこれを聞いて「私は必ず助けにいく。ただ、案じるのは川越の城兵が私の行くのを待たずに決戦し、討死することである。誰かわが計略を告げてくれる者はいないか」

 側らにいた北条綱重の弟の弁千代、十八才が進み出て「非常に大切な役目、是非とも私が参ります。もし敵に捕まったらひどい拷問を受けるでしょうが、死んでも決して話しません」

 北条氏康は「ならば行って、お前の兄(北条綱成)に『私のために城を守ってくれ。私が両上杉に勝つのは数ヶ月以内である。急ぎすぎて死んではならぬ』と伝えてほしい」

 弁千代は出かけ、偽りの上杉氏の紋をつけ、一騎で川越城に入っていった。

 当時、北条氏康の兵は四方の国堺あたりの諸城を守っていたので、小田原城にいた兵はわずか八千余人であった。そこで北条氏康はこの兵を引き連れて川越城を助けにいった。

 上杉憲政、上杉朝定は足利晴氏の兵を合せて八万騎もいた。氏康は敵を驕らせておいて、不意に襲おうと計った。そこで偽って和睦して休戦しようと請うた。憲政は承知しなかった。

 

2025・4・2 上杉憲政の暗愚②

 

長尾意玄は二人の言葉を上杉憲政に告げた。そこで憲政は上杉朝定と和睦し、国内に命令して奢侈の沙汰を禁じ、武備を整頓し、将士の子弟を取り立て、そこで本間、猪俣二人罪を許してもとの領地を返してやった。

 上杉憲政
 上杉憲政

 気に入りの家臣である菅野信方、上原兵庫の二人は、これを妬んで一族郎党と相談して、以下のように上書した。「北条早雲はもともと伊勢乞食だ。今川遺児の力を借りて伊勢国を盗み取った。この小国で、卑しい者の末裔

(北条氏康)を気にかけることはない。それなのにわが家老は見当違いをして恐れすぎている。本当に笑い事である。今、天下の大族といえば西に大内氏、東にわが山内上杉氏がいる。中でもわが山内公(上杉憲政)の号令は遠く陸奥国、出羽国の果てまでも届いて、麾下の大将で小田原城(北条氏)の三倍もの富を所有する者が六、七人はいる。それなのにビクビクして乞食の子孫を恐れ、忍びの者までも派遣して、様子を探らせられた。どうして近隣諸国から笑いを受けるようことをお考えになるのか。本間、井俣は命令に背いて罪を受けたのに、すぐに復位させられた。世間では上杉に人物がいないからだと言うだろう。聞くところ北条氏康は歌を詠むことが好きで、見目良い小姓を愛し、軍事には関心がない。大将で役立つのは鉄砲の撃てる根来法師だけだ。なので下々の者は常に恐れ、「管領(上杉氏政)が出陣すれば北条氏は木っ端みじんにやられるだろう」と言っている。だいたい関東の将士がわが君(上杉氏政)のご威徳に従っているのは昨日に始まったことではなく、以前からのです。どうして他の兵力を借りるようなことが要りましょうか。扇谷(上杉朝定)と和睦するのはずいぶん損が多いと思います。わが君には和睦をお許しなさいますな」

 上杉憲政はこの書面を見てたいそう喜び、「長尾意玄は私をだましたのだな」といって、遊戯娯楽することは今迄通りであった。

 上杉氏の将士で、北条氏に内通していた者は本間、井俣に内通をいいたてられたので非常に恐れ、賄賂を菅野信方、上原兵庫に渡し、罪を免れるように取りなしてもらった。

 菅野信方、上原兵庫は上杉憲政に説いて本間、井俣を排斥し、ほどなく二人を毒殺した。菅野信方、上原兵庫は諸家の賄賂を取り込み、「良い家柄の継嗣であっても年の若い者は領地を家老に分けてやればいい。そうすれば君の恩をいただき者が多くなる」と建議した。上杉憲政は聞き入った。

 また高野山の僧侶で、弓の巧みな者を引き入れて俸禄を与え「この者さえよければどうして北条氏の根来法師に劣ろうか」といった。しかし上杉憲政の毎年の収入は徐々に少なくなり、兵も弱くなった。彼は自ら大将となって北条氏康を討ち滅ぼそうと思い、出陣の用意をしながら、やめたことが再三に及んだ。関東の人はそれ以来、ぐずぐずして不決断のことを「管領のご出馬」といって笑い草にした。

 

「日本外史を読む会」(頼山陽史跡資料館月に2回)では掲載箇所を皆で音読し、語り合う。
「日本外史を読む会」(頼山陽史跡資料館月に2回)では掲載箇所を皆で音読し、語り合う。

2025・3・8 上杉憲政の暗愚①

  

 天文十年(1541)北条氏綱は没した、五十五歳であった。跡取りは北条氏康で、十六歳であった。

 当時、扇谷の上杉朝定は勢力を削られて縮小していたが、山内の上杉憲政は東北で盛んであった。上杉憲政は憲総の孫である。今川氏親の子、今川義元は甲斐国主の武田信虎とともに上杉憲政に通じていた。


 上杉憲政は心が驕り、怠慢で、気に入りの菅野信方、上原兵庫の二人に政治を専断させ、依怙贔屓が多かった。ひとり酒盛りをして遊ぶことに耽り、舞妓を数十人も抱えていた。国内までもその風潮が移り、武事を問題にする者はいなくなった。上杉憲政は平素から伊勢氏(北条氏)は微弱な者と侮り「あれは小さな家筋だ。何ができようか」といっていた。しかし家老の長尾意玄だけは「伊勢氏は注意すべき」と言っていた。

 以前、本間某、井俣某は足軽大将となって戦功があった。上杉憲政が先代の跡目を相続したとき、領地内に命令を出して鹿を射ることを禁じた。ところが可愛がっている家臣の菅野信方、上原兵庫がそれを破った。役人は二人を恐れ、申し立てなかった。ところが本間某、井俣某の二人は菅野信方、上原兵庫の領地近くに土地をもっていたので、一緒に鹿狩りをしたため、役人に告訴され土地を取り上げられ、蟄居することになった。家臣の長尾意玄は本間某、井俣某を呼び出し、計略を授けて派遣し、偽って北条氏康に仕えさせて様子を窺わせた。

 本間某、井俣某は田原城に行き、北条氏の重臣多目氏に頼んで「山内公(上杉憲政)は忠臣を粗略にして諂う者だけを近づけ、私たちも罪をかぶってこんなことになった。たとえ罪を許されてもあんな者には仕えたくない。何卒こちらに奉公させてください」と願い出た。

 多目氏は二人を疑ったが、しばらく受け入れ、兵士の組に入れておいた。それから一年余りのち、二人は逃げて平井城に帰り、北条氏の状況を書き連ねて長尾意玄に以下のように告げた。

「私どもが北条氏康を観察したところ、落ち着いて勇気があるが、心の底がわからない。剛柔の二面を兼ね備えて、時には書を読み、時には率先して剣術や槍術の稽古をし、礼節をわきまえている上に、厳かで重々しく構える。また手柄があって取り立てるにも身分の低い者でも粗略に扱わない。用を命じる場合も老人や子どもの関係なく器量に適した役目をいいつける。将士の子弟で、総領息子でなくても俸禄を与えて用をさせ、功があれば位を授ける。そんなふうだから部下は北条氏康を恐れつつも、彼を愛し、命を投げ出したいと願っている。わが上杉の将士らもみなひそかに北条に内通している。内通していないのは九人だけである。北条早雲が『両上杉が滅亡するのは北条氏の3代目のとき、上杉両家の仲が悪いのはこちらには都合がいい』といっていた。

 

2025・3・7 

北条氏綱の勢力、関東に及ぶ

 

 北条氏綱は父の遺訓を守って戦争の兵器を整えた。そのうち相模国を平定して進み、扇谷の上杉朝興との間の武蔵国の取り合いをした。

 大永四年(1524)北条氏綱はついに江戸城を攻め落とした。上杉朝興

河越城
河越城

は川越城に立てこもった。北条氏綱はたびたび川越城にいる上杉朝興を攻めたが、落とせなかった。

 北条氏綱は使者を平井城(山内上杉憲総の本拠)に派遣して上杉朝興のいる川越城を挟み撃ちする約束をした。上杉憲総は軍勢を留めて、どちらも助けなかった。しかし上杉朝興は北条氏綱にたびたび攻め破られた。

 北条氏綱は足利高基と婚姻した。足利高基とは足利成氏の孫である。足利高基も伊勢氏(北条氏)の兵力を借りて上杉氏に報復しようと思い、子の足利晴氏に北条氏綱の娘を娶らせた。

 そこで氏綱は、上杉氏の代々が鎌倉の足利氏に対して臣下としての道を踏ませなかった罪を暴露して、関東の将士を諭した。

 天文六年(1537)四月、上杉朝興は死んだ、その子の上杉朝定に遺言して相模国をとらせようとした。父上杉朝興が死んで三カ月のしかならないうちに、子の上杉顕定は深大寺城を修復して、北条氏綱に戦いを仕掛けた。氏綱は兵を率いて、みずから河越城に攻め寄せ、川越城から五十余町のところに陣取った。

 上杉朝定は兵を深大寺城から引き戻し、自ら川越城を救った。ちょうど七月十五日の夜であった。月光が野に照っていた。両軍は互いに矢を射かけあった。とうとう北条綱氏側は上杉朝定を大いに破って川越城をとった。

 上杉朝定は松山に逃げた。松山城主難波田某は彼を迎えて城に入れ、賊軍をとりまとめ、城外に出て陣取った。北条氏綱はまた撃って大いに破った。

 この戦争で相模国の人平岩重五は上杉朝定の叔父の上杉朝成を生け捕りにした。北条氏綱の将の山岡某がやってきて上杉朝成を奪って北条氏綱のところへ送り届けた。重吉が後からやってきて、自分が捕虜にしたと功を争ったが、その功はどちらとも決まらなかった。

 そこで氏綱は二人(平岩重吉、山岡某)の鎧と馬の形や色をこっそり記憶して、生け捕りの上杉朝成を山角某に預け、川越城に押しこめておいた。山角は上杉朝成を丁寧に待遇した。時々酒をだして互いに親しく話し合った。

 ある時、上杉朝成は鎌倉時代の古事を話し合った。山角は「年寄りから聞いた話ですが、源頼朝が奥州を征伐したとき、由利八郎という者が宇佐美実政に生け捕りにされた、それを天野則景は自分が生け捕ったのだと言ったので争いになった。頼朝は梶原景時、畑山重忠に交代で、このことを由利八郎に聞きたださせた。由利八郎は梶原景時に返事をしないで、畠山重忠には答えたそうだ。畠山重忠には礼儀作法があったからである。勇士という者には無礼な仕打ちであたるべきではないとはこのようなものである』

 上杉朝成はこれを聞いて嘆いた。

 山角が「図らずもお気に障るような話をしてしまった。何卒お許しください」

 上杉朝成が「私も由利八郎のような者です。この間の戦争で、私は部下の士卒を失い、自分一騎で戦った。すると黒い鎧を着て赤い馬に乗った者が後ろから追いかけてきて、私に呼びかけた。だから私は手綱を引き返して戦い、二人とも落馬した。私は敵を組み伏せ、刀を抜こうとした。敵は力を奮って起き上がり、私の上になった。そのうち数人の者がやってきて、私は捕虜にされた」

 山角はこれを北条氏綱に告げた。氏綱は「黒い鎧で、赤い馬とは平岩重吉のことだ」といった。そこで重吉に褒美をやった。氏綱の賞罰が明確であったことはいつもこういう具合であった。

 北条氏綱に威勢名声はますます遠くまで及んだ。武蔵国、下総国の諸城が次々降参してきた。ただ、足利高基の弟足利義明は下総国の御弓に居て北条氏綱と勢力を争っていた。

 足利義明は以前から兄と仲が悪かった。それで逃げて里見義煕を頼り、近くの土地を掠め取り、兵力がだんだん盛んになってきた。足利高基はこれを妨害して北条氏綱に頼んで彼を滅ぼそうと計画した。

 これ以前、足利義明、里見義弘は兵艦数百艘を率いて鎌倉に押し寄せ、鶴岡八幡宮を打ち壊して宝物を略奪した。北条氏綱は「私は神に代わって罰を行なうのだ」といった。そこで兵を率いて、撃って退けた。

天文七年(1538)再び兵を繰り出して足利義明にいる御弓を攻めた。里見義弘が安房国、上総国の兵を連れて足利義明を救いにきた。

 十月、北条氏綱は足利義明、里見義弘と鴻台で戦って大いに破り、義弘を走らせ、足利義明を生け捕りにした。そのとき斬った首の数は二千余級からあった。

 天文九年(1540)北条氏綱は鶴ガ丘八幡宮を再建した。関東の士民は北条氏綱の様子を見て、彼につく者が日増しに増えた。畿内、西国の商売人もしばしその地方の騒乱を避けて逃げてきて集まり、小田原は賑わい、豊かになり、上方のようであった。

 関東地方に山伏で毎年大和国の大峰に参内する者が界浦を通った際にその市で鉄砲を見つけ、めずらしいと思って持ちかえり、氏綱に献上した。関東地方で鉄砲を使用するようになったのは北条氏が最初である、その後、鉄砲鍛冶や紀州の根来寺の坊主で鉄砲を扱うことのうまい者を呼び寄せたので、北条氏の兵の威力はますます増した。

 

北条氏綱
北条氏綱

2025・3・5 

北条早雲、病死

 

 永正十六年(1519)北条早雲は病気にかかり、韮山で亡くなった。八十八歳であった。その子の北条氏綱が跡を継いだ。氏綱は容貌が目立って優れ、兵を用いることが得意であった。早雲が事業を成功できたのは氏綱の働きが大きかったという。

  早雲は氏綱に遺言して次のようにいった。「私は上杉を滅ぼし、関東八州を併呑しようと考えていたが、成し遂げないうちに死のうとしている。私の子孫たる者は私の意思を継いで怠ることがあってはならない。今、わが領地はそう多くない。私が蓄えて財産をばら


まいて養成すれば二代はもちこたえるだろう。三代からあとは財産を積み、それに頼ることはない。もし両上杉氏が互いに不仲になれば、子孫はジッとしているだけで大きくなるだろう。上杉の様子を見るのに、日々衰えて、滅亡するのはそう遠くない。しかし上杉は大きな一族だから容易に潰せない。長い時間をかけて疲弊するのを待てばいい。悪性のできものに例えるなら、毒が回って膿ができるまで三十年後かかる。そうなれば潰裂しても救うことはできない」

 さらに家訓二十一カ条を定めて将士に頒布した。

 

北条早雲
北条早雲

2025・2・20 北条早雲 伊豆国、相模国を治める

 

 伊勢長持は伊豆国の国主となり、韮山城にいた。長持の母方の横山氏は北条氏の遠縁であった。このとき韮山にも北条氏がいたが、絶えていた。そこで長持を養子にし、北条の娘を嫁がせた。また長持は、長男の伊勢氏綱に韮山の北条氏の孫娘を嫁がせた。北条氏も伊勢氏と同じく平氏から出て、縁故があるというので、ついに北条氏を名乗り、三鱗の紋所を用いた。持氏は髪を剃り北条早雲と号した。


  北条早雲は北条氏の元の事業を回復して、平素からの大志を成し遂げようと思い、いつも三島明神に参詣していた。すると「大きな杉が二本あって一匹に鼠がその根を噛んで倒し、鼠は虎に変化したという夢をみた。

 目が覚めて、易者を呼んで占ってもらった。易者は「貴公は子年の生まれで、子は鼠の神です。その鼠が杉を倒したのだから、貴公が両上杉氏に勝つ前兆です」。早雲は秘かに喜んだ。

 当時、扇谷の上杉定正、山内の上杉顕定は高いに怨みあって不仲で、戦争は絶え間なかった。早雲は「この機会にわが事業を成し遂げよう」といった。

 明応二年(1493)早雲は使いを扇谷の上杉定正にやって「上杉顕定を攻めたい」と申し出た。上杉定正は許可した。

 上杉定正の部下の将大森実頼は小田原城主であった。上杉定正に「早雲は悪賢く、強い英雄です。それで今、理由もなくこちらに近づいてきました。心の内は計り知れないので、野心があるのでしょうが、彼は好意をもって近づいてきているのですから、むやみに断るわけにはいきません。礼儀正しく返答をされたらよろしいでしょう。しかし彼には充分用心してください」といったが、上杉定正はさほど気にかけなかった。

 明応三年(1494)十月早雲は上杉定正と兵を高見原に出して、上杉顕定と荒川を間にして対峙した。定正は荒川を渡ったが、馬から落ちて死んでしまった。子の上杉朝良は逃げ帰り、川越にたてこもった。早雲も韮山に帰っていった。

 当時、小田原城主の大森実頼は亡くなり、子の大森藤頼が城主を相続していたが、まだ幼かった。北条早雲は小田原城を乗っ取ろうと思った。だが韮山から東の小田原に向かうのは箱根の険阻があるので着手しなかった。

 明応四年(1499)九月早雲は人をつかって大森藤頼に「韮山で狩りをしていたら獣が山伝いに箱根に逃げ込みました。しばし箱根を貸して下さい。その獣を追い詰めてとりたいのです」といった。

藤頼は許した。早雲は兵百人余りをひきつれ、狩り装束を身につけて箱根を越え、まず牛を数十頭放った後、兵に太鼓や法螺を鳴らせて高い所から一斉に駆け下り、いきなり小田原城に打ちこんだ。藤頼は驚きどうしていいかわからなくなり、三浦に出奔した。早雲は小田原城をとり、さらに大庭もとった。

永正元年(1504)九月、上杉顕定が上杉朝良を攻めた。朝良は早雲に援助を求めた。早雲は今川氏親とともに助け、顯定と立河原で戦った。

永正二年、上杉朝良は使いを遣い顯定にやり、「聞くところ、二頭の虎が戦い合っていると、一匹の犬が隙に乗じて勢力を得たそうです。我々上杉一族は兵を備えて戦うこと数世代に及び、国内は費用がかかり衰えました。かたや早雲は着々と関東を食い取っています。貴公と私は二頭の虎ではないでしょうか」

上杉顕定もそうだと思い、上杉朝良と和睦した。そのうち顕定は長尾氏と信濃国で戦って亡くなった。子の上杉憲総が相続した。このように上杉定正、顕定は前後して亡くなった。

一方、北条早雲の勢いはますます盛んになってきた。相模国の人、松田頼重らも降参した。ただ、三浦義同だけは服従しなかった。義同は上杉高救の子である。後に三浦時高の養子になった人物である。ところが時高は実子をもち、養子の義同を殺そうと思った。義同は出奔して大森氏を頼り、その兵を借りて養父高時を弑し、新井城に立て籠もって近傍の土地を掠めとった。

北条早雲は彼を滅ぼそうと、表面上は弱いように見せかけ、戦わなかった。三浦義同は子の三浦義意を立てて、自分は岡崎城にいた。

永正九年(1512)北条星雲は急に兵を繰り出して、三浦義同のいる岡崎城を襲撃し、攻め落とした。義同は相模国住吉に移り、毎年北条早雲と戦った。結局早雲は鎌倉で義銅を大いに討ち破り、秋屋という狭隘なところまで追い詰めていった。義同は険阻な処に立て籠もり、踏みとどまって戦った。そこで早雲は兵を連れて佐原山を越えて敵の背後へ出た。義同は逃げて新井城に入り込んだ。早雲は後ろからつけていき、攻めた。新井城は要害堅固で、兵糧も充分あり、長い時間をかけても陥落しなかった。そこで数年かけて長い囲いを築き、取り囲んだ。

このとき上杉朝良はすでに死んで、子の上杉朝興がちょうど江戸にいた。新井城が危険だと聞き、朝興は兵を率いて助けにいった。数雲の兵は七千であったが、二千人を留めて新井城攻撃にあたらせ、自分は五千人を率いて朝興を甘縄で迎え撃ち、破った。

それで新井城内はいっそう苦しんだ。大森、佐保田らが義同に「上総国へ逃げて丸谷氏を頼ったらよいでしょう」といった。丸谷維持は三浦義意の妻の父である。義同は「足利持氏が死んだのはわが養父の三浦時高のせいである。そして私もまた養父を殺した罪がある。二代も悪を積んだ報いだから、どこへ行ったとしても逃げられない」

北条早雲は間者からこのことを知り、永正十五年(1518)七月大勢の者を鼓舞して激しく攻め立てた。とうという新井城は落ちた。ついに三浦義同父子を弑し、相模国すべてを攻めとった。

 

2025・2・5 関東の騒乱

 

 以前、足利義政の父足利義教が将軍であった時、一族の足利持氏が代々関東の管領となって治めていた。永享年間に持氏は権臣の上杉氏に滅ぼされてしまった。それは足利義教の考えであった。

 上杉氏は二宗族があった、山内の上杉と扇谷の上杉といった。両家は京都に願い出て、足利政知を奉じて関東の主とした。しかし関東の将士は足利持氏を慕って、足利政知の命令を受けようとはしなかった。そこで足利持氏の孤児足利成氏を立てた。成氏はすでに成長して両上杉を討ったが、勝てなかった。そこで古賀を保ち、古河公方と称した。山内の上杉一族は上野国の平井に立て籠もり、扇谷の上杉一族は相模国の大庭に立て籠もった。みな表面的には足利政知を尊んで奉戴して主君とし、伊豆国に居らせた。伊豆国は山内上杉氏の管轄していた国である。足利政知には田を与えて堀越に居らせた。それで政知は堀越公方と称した

 長享二年(1487)伊勢長氏は興国寺城に移り住み、秘かに伊豆国を窺っていたが、まだ隙を生み出せなかった。そこで政治法令を立派にし、租税を軽くし、また自分の蓄えていた金銭や穀物を遠近の人民に貸し与え、利息も安くてやった。遠近の者はありがたく思い、伊勢長氏に頼ってきた。士民は毎月1日、十五日には拝謁に来るまでになった。たびたび拝謁にきた者には夫妻を帳消しにしてやることもあった。だから士民はだんだん城下で居を構えるようになったので、村里を形作っていった。

 伊勢長氏は荒木兵庫・多目権平らをそれらの頭分として七隊を編成し、足利政知に服従して仕えさせた。

 足利政知には二人の子があった。その長子は茶々丸と称し、前妻の生んだ子であった。茶々丸は継母のために讒言せられ、数年間も牢に押しこめられた。茶々丸は憤り怨み、番人が油断しているのを見計らい、牢から抜けて継母を殺し、その一味の者を集めて父の政知も弑し、大臣外山、秋山らも殺して自らが立った。

 伊勢長氏はそれを聞き、わざと病気だと言い立てて、伊豆国の温泉に入湯して茶々丸の動静を探りながら「この際伊豆国は取ってしまうことができる」と言って、帰ってから部下を集めて評議した。

 部下は「われわれは長い間新九郎君(伊勢長氏)を一国の君主としたいと願っていた。どうして手をつくさないでしょうか」

 延徳3年(1491)4月、伊勢長氏はすでに編成していた七隊を統率し、今川氏の援隊も一緒にしたので、およそ五百人になり、夜、皆で黄瀬川を渡り、朝早く堀越の邸に至り、火をつけて茶々丸を攻め立てた。茶々丸は逃げて成就院で自害した。

 伊豆国の人民は伊勢長氏の軍の威力を恐れて、荷物を背負って逃げ隠れした。伊勢長氏は兵卒へ号令を厳しくしていたので、少しも人民に迷惑はかけなかった。道路に札を立てて「自分が攻めてきたには賊子(父を弑した子)の茶々丸を殺したいだけのためである。乱暴したり、略奪したりするものではない。人民どもは各々自分の家の垣根の中で安心して命令を待っていよ。命令を待たずに脱げ出す者は、その者の作物を踏み荒らし、焼いてしまうぞ」

 当時、悪病が大流行していたので、罹患していた者は逃げ出すことができず、家で寝ていた。伊勢長氏は彼らに薬を与え、慰め、いたわった。人民はかわるがわるやってきて味方につく者が多かった。豪族の佐藤某は率先率先して伊勢長氏に味方した。伊勢長氏は彼に大見郷の地頭職を与え、彼の先代が所有していた土地を返してやり、証書に朱印を押してやった。

 関戸某なる者が深根城に立て籠もって伊勢長氏に抵抗した。伊勢長氏は兵を向かわせて責め殺した。このようにして伊勢長氏の恩恵威光は伊豆国全体に行なわれた。これを聞いた伊豆国内の将士で、もともと上杉氏についていた者も伊勢長氏に付き従った。

 伊勢長氏はたった三十日間で伊豆国を攻め取り、堀越公方のものであった領地だけを自分のものにして、その他の土地は取らなかった。

 そこで年寄りや豪族を呼び集め、「聞くところ、『君主は民を視ることあたかも子のごとく、民は君主を視ることあたかも父のごとくである』というのが昔からの道である。世の中が衰えるに従って、武士は強欲で残酷になり、人民から者を奪って思うがままにした。そのうち双方が苦しんで行き詰まることになった。ほんとうに気の毒と思う。私は他国者だが、この国を治めることになった。これからはお前らの君主となろう。お前らは私の民となってくれ。人として生まれて、君臣の関係になることは縁あればこそで、決して偶然ではない。私はただ、お前ら人民が充分に富むことを願うのみだ。今から法令を発して、租税の五分の一を減らし、他の租税はやめる。万一大将役人が法令に背いて人民をいじめる者がいたなら、お前らは訴え出てくれ」

 大勢の者は喜び、心服して、争うように伊勢長持のために働こうとした。

 

 

 伊勢長氏(北条早雲) 1432?~1519
 伊勢長氏(北条早雲) 1432?~1519

2025・2・4 伊勢氏の台頭

 

 後北条氏はもと伊勢氏と称していた。伊勢氏は平維衡から出ている。維衡は正度を生み、正度は平季衡、正衡を生んだ。正衡は太政大臣の平清盛の曽祖である。平季衡は上総介に任じられ、子孫は代々伊勢国に居た。平季衡より十一世の孫伊勢貞行は伊勢守に叙せられ、足利義満に仕えて取り次ぎ役となり、会計係を掌った。その子は伊勢貞国、孫は家貞親で相次ぎ取り次ぎ役に任じられ、大いに権威があった。


   伊勢貞親の弟、伊勢貞藤は備中守に任じられ、尾張国の人横井某の娘を娶り、赴任先の備中国で男子を産んだ。この男子は伊勢新九郎といった。後に伊勢長氏と称し、足利義視の近習となった。応仁中、足利義視に従って伊勢国に逃げた。足利義視は京都に帰ることになったが、伊勢長氏だけはその土地に留まって従わなかった。

 当時、足利氏の中で権力をもった家臣の山名氏と細川氏は、各々が個別の党波を組んで京都で戦っていた(応仁の乱)。将軍足利義政はこれを制圧できなかった。伊勢長氏は聡い性質で、また頭脳明晰で大志があり、ひそかに金銭をばらまいて豪傑らと結託していた。

 ある日、伊勢長氏が大勢の者に向かって「天下の行き止まるところは、わかりきっている。功名をなして富貴をとるのは、今の時をおいて他にない。思うに関東八州は地形も高く、武士も馬もすぐれていて強い。昔から武を尊ぶ土地だといわれている。永享以来、その土地にこれといって定まった主君もいなかった。もしもここに土地を取って立てこもることができたなら、天下を取ることはやさしいことだ。私は諸君とともに東に向かい、機会を利用して応変の処置をとり、一家を起すことを計ろうと思う。諸君はこれに同意する気はないか」といった。大勢の者は奮ってこれに従った。

 後土御門天皇の文明八年(1476)、伊勢長氏は荒木兵庫、大目権平、山中才四郎、荒木又四郎、大導寺太郎、有竹兵衛の六人と、剣を頼りに東に向かった。ついに駿河国に至り、そこの今川義忠を頼った。今川義忠は伊勢長氏の姉婿である。折から今川義忠が死んでしまい、その子の今川義親はまだ幼かった。その将士らは互いに争い戦っていた。伊勢長氏の姉は子の今川氏親を抱いて山の中へ逃げ込んだ。

 上杉政憲、上杉定正は足利政知(堀越公方)の命令のもとに兵を繰り出して、駿河国を平定しようとやってきた。伊勢長氏が迎えて彼らに「国内の将士は誰も背いておりません。ただ、主君が幼少なことから国民が互いに疑い合っていたので、わざと徒党を立てたに過ぎません。今、ご両公にはかたじけなくもここにご出張くださり、今川氏を平定しようとしておられます。私は不束な男ではありますが、ご両公のお考えを触れまわって将士らを取り鎮めるように致しましょう。もし言うことを聴かない者がいましたら、両公には何とぞその者を討ってください」といった。上杉政憲が「承知しました」と答えた。

 そこで伊勢長氏は今川氏の将士らを呼び寄せて他心のないことを誓わせて、山に入って今川氏親の母子を迎え連れて屋敷に帰ってきた。そこで足利政和の兵士もそこを引き揚げ去った。今川氏の将士らはみな伊勢長氏に功があったとして、八幡山城に居らせた。この足利政知は将軍足利義政の弟である。

 

2024・12・28 後北条氏②

 

足利氏の末世ころになると七道の群雄が代る代わる飲み合い、噛み合いをやりだし、元亀、天正のころまでくると天下は裂けて八、九氏が割拠した。なかでも四つの氏があった。北条氏、武田氏、上杉氏、毛利氏である。

 毛利氏は安芸国から起こって山陽道、山陰道の十二カ国を合せとり、領土は四氏に中でも一番広かった、次に広いのが北条氏である。北条氏はまず伊予国を取り、そこを足がかりに関東八州を合せとった。武田氏は甲斐国から起こって信濃国、飛騨国、駿河国、上野国を合せ取り、上杉氏は越後国から起こって越中国、能登国、加賀国を合せ取り、庄内、会津にまで及んだ。

 これら四氏の国は平時にはみな競い合って耕作し、戦時には戦うというやり方で、武装の兵が数万人もいて、兵糧は山のようであった。みな龍のようにあがり、虎のように睨みあって東西に並び立ち、天下を残らずとりこもうとする者ばかりであった。

 北条氏が地形で胸や腹に当る場所にありながら、一度として軍兵を繰り出して京畿を窺うことがなかったのは武田、上杉の二氏が背に当る部分にいて、北条氏の通路を塞いでいたからである。そして武田、上杉氏の勢力は匹敵、均衡しあって勝負がつかなかった。従ってこの二氏も西の方に進出を図る暇がなかった。

 毛利氏は、領土こそ広いが、腿や脛に当るところにいて、腰や脛の当る京畿に向かっていたから、地形の上では中央部の地に進出して凌ぎを削ることはできなかった。

 織田氏は毛利氏、北条氏、武田氏、上杉氏の四氏に挟まって起こり、攻めやすい西方を先にして東方を後回しにして、強きを裂けて、弱きを先に撃ち、険しい所を捨てて、平らな所を先に取った。だから力を費やすことが少なく、早く成功したのである。また豊臣氏も、織田氏が残してくれた謀に従い、天下統一を果たせた。

 織田、豊臣二氏は、地形に対する見方をずいぶん考えていたらしい。根拠としたのはやはり京畿を中心としており、その点では足利氏と大差はなかった。二氏が天下を統一したあと、また分裂して長い間天下を制御できなかったのも、中心を京畿としたからではないか。

 そもそも織田、豊臣氏は足利氏にかわって天下を掌握したとはいえ、織田氏が実際に所有した土地、山河は広大ではなかった。豊臣氏は四氏以上に広大な時もあったが、長く維持できなかった。

 要するに四氏は当時の衰乱に乗じて知勇を奮い、群雄割拠したのである。また人民も彼らに頼って一時的に安穏を享受した。四氏よりほかの小さな国の凡庸な君主が無闇に戦争を起して、人民を苦しめて成功しなかったこととは比べものにならない。つまり四氏は天下に対して功徳がなかったわけではない。

また四氏を足利氏の反臣であると決めつけるわけにはいかない。「四氏が割拠したところはみな王土ではないか」といえば、時勢の変遷からそのようなことに成ったのであって、一日で成ったわけではないから、一概に四氏を咎めるわけにもいかない。彼らは経営という点でみると、部下の猛将、謀臣の事跡の中で記録に値するものはある。だから自分は四氏が盛んになったり、衰えたり、起こったり、滅んだりした由来を詳細に書き起こして「国家を所有する君主の手本にしてもらい、自らを戒めてもらいたい」と思うのだ。その上「天下の形勢とはどんなものなのかということや、分裂合一はどんなときに起こるか」ということについても、見るに足るものがあるだろうと思うのである。

 

 

2024・12・20 後北条氏

 

外史はいう。

天下をとり、治めて行くには土地の形成が第一で、これより大切なことはない。もし形勢に失敗すると、多くは分裂するようになる。

昔、文武天皇は山海の形勢が便利なところを利用されて、日本を七道に分け、王畿は真ん中にあった。桓武天皇は都を平安に定め、四方からこれに向かうようにした。思うに、盛んなことであった。しかし王政が衰えてくると、片隅に土地を盗んで

伊能図全体図 ネットより
伊能図全体図 ネットより

立て籠もり、押さえつけられない者がでてきた(阿部頼時)。彼は早く討ち滅ぼされたが、天下の勢いが分裂して、鎌倉幕府の覇業を成立させるような機運に至らしめた。これから後は関東の形勢は常に天下に優れたものになり。京畿地方は勝つことはできなかったのである。 

かつて自分は東西の各地を旅し、山河の起伏しているのを見て、我が国の地層の道筋は東北からきていて西にいくほど小さくなっていることに。これを人の身体に例えると陸奥国、出羽国は首である、甲斐国、信濃国は背である。関東八州及び東海道の国々は胸や腹にあたり、京畿は腰や尻である。山陽、南海から西は腿、脛に過ぎない、だから腰や尻のところに居て腿や脛を支配することはできるが、腹や背を支配できない。

それに平安の都は地勢が平坦で、四方から攻め立てるには都合のよいところで、天下に事件が起これば第一に戦争に挑まれるところである、鎌倉がただ一方の口だけ持って西方の畿内を押さえつけることができるような具合にはいかないである、

元弘の時に、造作なく鎌倉を本拠とした北条氏に対して、腹心の新田氏、足利氏などが怨み背いたところに禍いが起こった。これは西をもって東に勝てたということではない。

北条氏は栄えている時代には鎌倉を本拠とし、役所を京都六波羅や九州探題府に置いた。当時、北条氏は天下を制御することは臂で指を使うようなもので容易であった(地形の便を占めていたからできた)

ところが足利氏は北条氏のやったことに反して鎌倉を捨て、京都を本拠としたのが間違いであった。だがやむを得ないところもあった。足利氏は南朝が心配でならず、遠く離れた鎌倉にいることができなかった、そのため鎌倉を鎮めるのにその子弟の足利基氏をあてがい、京都室町の足利本家の藩屏とした。そのことが足利氏二宗族の争いの糸口を開く原因となり、ついに京都室町の足利氏は鎌倉に内乱を利用して鎌倉の足利氏を転覆させてしまった。そして京都室町の足利市も乱れ始めたのである。

このように四方を制御できないのに、足利氏が皇室の失敗の跡を同じように継いで失敗に陥ったのは、その地形の便を考えず、鎌倉ではなく京都にいたからではないか。