頼家関連の投稿ページです。

2025・7・2

石村良子相談役「梁川星巌邸趾②

 上は菅井梅関の水西荘図帖です。梅関は天保元年2月14日山陽宅を訪ね、水西荘図帖を画きました。同月22日に梁川星巌が山陽宅を訪ねています、会ったかどうか不明ですが、水西図帖の家の中にいるのは星巌ではないでしょうか。想像を楽しんでいます。

 

  京都市左京区東丸太町 
 京都市左京区東丸太町 

梁川星巌と紅钄の寓居跡(左の説明文)

梁川星巌17891858は和漢の詩文を学び、従妹の紅钄180479と結婚し、長らく夫婦連れ立って西日本の各地を歴訪し、やがて江戸に出て詩塾玉池吟社を営み、斬新な漢詩人として名声を博した。しかし尊王の志を懐く夫婦は、弘化3年(1846)から京都に移り、鴨川べりの当所「鴨沂小隠(おうきしょういん)」に10年近く住んだ、ここでの朝廷の公家や天下の志士たちと自由に交流を深めた、維新回天の功労者である、ただ、星巌は安政の大獄直前に病没し、紅钄は夫君の顕彰に努めている。令和4年(202292日(星巌の旧暦命日)寄贈 公益財団法人 霊山顕彰会 岐阜県支部)梁川星巌・紅钄顕彰碑建立委員会

 説明板によれば、天保期に星巌は「鴨沂小隠」で暮らしていないことになる(事務局調べ)


鴨川東岸 梁川星巌邸趾
鴨川東岸 梁川星巌邸趾

2025・7・1

石村良子相談役「梁川星巌邸趾」

 

 鴨川をはさんで山紫水明処の向かい側には「梁川星巌邸趾」があります。

 鴨川の西岸に山紫水明処青〇 東岸に梁川星巌邸趾鴨沂小隠赤〇 翠○鴨沂水荘として紹介しているものもある。今後要調査。(解説/見延)

 星巌は山陽と交流しましたが、鴨川の東岸に居を構えたのは山陽没後です。山陽の子の三樹三郎は星巌から大きな影響を受けます。星巌は「死(死)に上手」といわれ、京都で亡くなりますが、三樹三郎は安政の大獄に連座して江戸に送られ、刑死するのです。


2025・6・29

石村良子相談役、青山浩子さん

「山紫水明処」②

 

 やや雨がちな天気で、それが山紫水明処の風情を増しているようでした。

鴨川(北側)から涼風
鴨川(北側)から涼風
水石
水石
広島藩主だった浅野長勲の筆。明治29年。
広島藩主だった浅野長勲の筆。明治29年。

「山紫水明処」の扁額は元広島藩主浅野長勲の筆です。脱藩した山陽を長勲は「山陽先生」と呼び、山陽の顕彰活動にも尽力しました


小田海僊の絵。百谷の号もある。
小田海僊の絵。百谷の号もある。

 戸袋の絵は山陽の友人の南画家小田海僊(1785~1862)。「七十三翁」とあることから、山陽没後の幕末に描かれたものかもしれません(上の解説とも見延典子)

山紫水明処の解説本と並んで見延典子著「頼山陽」(2008)も
山紫水明処の解説本と並んで見延典子著「頼山陽」(2008)も

「山紫水明処」の情報は続きます。

2025・6・28

石村良子相談役、青山浩子さん

「山紫水明処」

 

 6月26日小石家訪問の前に京都市にある「山紫水明処」を訪ねました。


事務局注 京都市の建てた説明板に書かれているように、頼山陽が山紫水明処で著作をした事実は確認出来ない。山陽の書斎は現在は失われている山紫水明処横の水西荘内にあり、山陽が没したのも水西荘内である。山紫水明処は一貫して文人墨客との語らいの場であった。

2025・6・8

石村良子相談役「掛軸礼賛」

 

 頼山陽史跡資料館で「掛軸礼賛」の勉強会があり、参加しました。

講師の花本主席学芸員
講師の花本主席学芸員
頼山陽の掛軸を鑑賞
頼山陽の掛軸を鑑賞

 参加者が一人3分間、軸の鑑賞したあと、次の順番で進みました。

1、軸の中で一番心に残った漢字を書く

2、軸に、題をつける

3、全員に、書いた理由を聞く

 新しい試みでしたが、思いがけない意見が聞けて、良かったです。

 


2025・6・4 山根兼昭さん「頼山陽 漢詩の推敲案 発見」

 

5月31日付中日新聞「頼山陽 漢詩の推敲案 発見」の記事が掲載されました。

⒋月15日付けの第二弾で、うさぎの毛で作られる筆に関する下りです。

2025・6・3 石村良子相談役

「古文書研究会課外研修

                              広島城三の丸」

 

   頼家の墓 (頼常吉の墓の謎)

常吉は頼聿庵の長男であるが外で育て

られた。墓は比治山多聞院頼家の墓所

にあり、文政7年に亡くなっている、こ

の時梅颸は京游中、そもそも日記には

常吉の名は一切出てこない。

   61日、古文書研究会は次なる謎(広島城機関紙『しろうや広島城』では春水の時代、広島城三の丸では何をしていたか不明とある)、広島城三の丸に挑むことにして、1時間謎解きに専念、次に新しくできたウナギ屋で弁当購入、昼からお元気になられた頼先生を囲んで、いろいろ勉強をした

広島城左側広場にある加藤友三郎元首相像
広島城左側広場にある加藤友三郎元首相像

常吉の墓の右に、頼彌次郎三男元彦とある訳を聿庵の研究者に尋ねたところ「聿庵子孫の彌次郎さんの三男を合葬したのだろう」と言われた。常吉が頼家の墓所に葬られた訳も未だ謎である。

 本川沿いにある櫓跡(左上サッカー場)
 本川沿いにある櫓跡(左上サッカー場)

2025・5・20 石村良子相談役 頼家の墓②

 

古文書研究会は「春水日記」を読むにあたり、とりあえず墓参りということになり、広島比治山多聞院にある頼家の墓を訪ねた

関係者写真(頼山陽史跡、詩碑めぐり掲載は除く)を撮ってみる

一番奥 大二郎(正面 頼大二郎之墓 右面 頼惟完二男、左面 寛政八年丙辰五月二十七日)常吉(正面 頼常吉の墓 右面 文政七年甲申九月六日没、左面 頼彌次郎三男元彦)となっている 常吉は聿庵の長男のはずが?となった

頼家の墓③に続く  

 註:常吉誕生のいきさつについて「すっぽらぽんのぽん」見延典子著ごらんください


2025・4・22

 会員 坂本碩秀(滋賀県)さん

「頼山陽、長旅の際の旅費は?」

⇔ 見延典子

                  

 いつも、楽しく拝見させていただいております。

 頼山陽について、以前から気になっている点があります。それは、長期に亘る旅の間(九州旅行)の生活費、宿泊はどのようなものであったのか気になって仕方がありません。

 1818年、頼山陽が逗留した長崎「花月」

 門に向かって右横に記念碑が見える。


  執事がいて、事前調査して、綿密な算

段があったとはどうしても思えないのです。この点について、示唆する書物、情報があれば、ご教授いただけないでしょうか。

                        坂本碩秀(滋賀県)

坂本碩秀さんへ

 頼山陽は京都で私塾を開いていましたが、生活費の多くは書家として得る潤筆料に頼っていました。もちろん「後世に残る書を書く」という意識もあったでしょうが、評判が収入に直結するため、書の研鑽を怠らなかったのだと思います。

 お尋ねの点について、例えば『頼山陽書翰集」上巻314ページに、九州旅行に渡る前日、馬関(下関)で母と子(聿庵)に宛て「潤筆料はずいぶん取っているから長崎での買い物には事欠かない」という手紙を書いています。

 山陽が旅行先で名士の家を訪れ、そこに宿泊させてもらい、求めに応じて揮毫している様子は拙著『頼山陽』でも書いております。ご参考になさって下さい。

                             見延典子

 

2025・4・18 山根兼昭さん「頼山陽の漢詩 草稿発見」③

 

4月15日付、中日新聞に「頼山陽の漢詩 草稿発見」の記事です。

2025・4・16 山根兼昭さん「頼山陽の漢詩 草稿発見」②

 

中日新聞の担当記者より電話を頂きました。

今回のニュースソースである古美術商店については、企業秘密とのことです。

又新聞紙上での漢詩の紹介は1首でしたが、実際には2首あり、近日中に新聞記事になるそうです。

記事の感想として「頼山陽をよく勉強しましたね。」と言ったら「見延さんの本を何冊も読みました。」とのこと。一度お会いすることを約束しました。

 

2025・4・16

山根兼昭さん

「頼山陽の漢詩 草稿発見」

 

4月15日付中日新聞に「頼山陽の漢詩 草稿発見、弟子・太乙の保証添え書き」 の記事が掲載されました。村瀬太乙は美濃・村瀬籐城の従兄弟。現物は名古屋市の古美術店にあるとのことですので、新聞社に照会中です。新しい情報が得られればお知らせします。

写真はすべて⒋月15日付中日新聞のデジタル版からお借りしました。


運甓居(広島市のHP)
運甓居(広島市のHP)

2025・4・6

石村良子相談役

「三次の火災現場で」②

 

 運は、近所の方々が茅葺き屋根に水を掛け続けて、被害を受けないようにしてくださったそうです。

 ただ、延焼被害を受けた中村さん宅は火のまわりが早く全焼し、何も持ち出せなかったそうです。


 混乱の中にあっても、中村さんは何より運居を守らなくてはと思われたそうです。近所の人も「中村さん、安心しんさい我々が守るよ」と声をかけてくださって嬉しかったと言っておられました。

※荒廃が進んでいた運居を、中村さんご夫婦は私財を投じて再建された経緯がある(事務辱)

 

2025・4・5

石村良子相談役「三次の火災現場で」

 

 広島県三次市の火災のニュースは広島県内では広く報道されたので、すぐ三次にかけつけました。運居への延焼は免れましたが、運居の保存に私財を投じらてこられた中村さん宅は全焼で、かける言葉もございません。ご夫妻とも無事なのは何よりでした。

 

全焼した自宅を見上げる中村さん
全焼した自宅を見上げる中村さん

地元のニュースから
地元のニュースから

2025・4・5

匿名さん「三次の運甓居近くで火事」

 

 広島県三次市の頼杏坪の役宅「運甓居」近くで火災があり、「運甓居」は住民の力で守られましたが、3軒の民家が全焼したそうです。

 


2025・4・3 滝谷節子さん

「祝生誕200年 

 頼三樹三郎が旅した新潟県村上市」

         ⇔ 見延典子 

 

 新潟県村上市から2025年「頼三樹三郎生誕200年」を一人祝しています。

  

 僭越ですが 真実の頼三樹三郎をもっと知っていただきたい。私は木崎好尚氏『頼三樹伝』(昭和18年発刊)をバイブルとして学びました。

 

 昭和539月に「頼新氏」をお迎えし 揮毫の碑『笹川流れ』を建てお祝いしました。日本海の景勝地です。その時安藤英男氏の著書持参?と。

新潟県村上市の笹川の流れ。澄み切った碧い海は日本屈指の透明度を誇る。11km続く海岸では日本海の荒波の浸食により奇岩、岩礁や洞窟など変化に富んだ風景が広がり、豪壮な景観は国指定の名勝及び天然記念物になっている。

        写真と説明文はネットより


(当地 旧新潟県岩船郡山北町、国・名勝及び天然記念物指定昭和295日)

 

 足掛け8か月、若き華のときの三樹がいます。村松浜「平野家」をベースキャンプに、越後を各地の足跡があります。

 

写真はネットより
写真はネットより

滝谷節子様

 初めてのご投稿をありがとうございます。御地新潟県の名勝「笹川の流れ」については『頼山陽史跡詩碑めぐり』(2023年刊)で紹介していますが、実際に訪ねたことはありません。

 連載中『はるかなる蝦夷地』では、これから江差滞在を終えた頼三樹三郎が津軽から日本海側を南下し、京都に帰る場面を描く予定です。


 奇しくも木崎好尚著『頼三樹伝』と向き合う日々です。ただ、土地勘や知識もなく、不安を抱えながらの執筆になります。何卒お力添えいただきますよう、よろしくお願い致します。

                            見延典子