見延典子が、先祖かもしれない赤穂義士「菅谷半之亟」について書いています。「菅谷半之亟は先祖か①」もご覧下さい。
2025・2・9
菅谷半之丞切腹の地
ネットを見ていたら、「大石主税良金ら十士切腹の地」が出ていた。
かつての伊予松山藩主中屋敷があった場所で、現在はイタリア大使館(東京都港区三田2-5-4)になっており、その庭に建っているそうだ。
伊予松山藩主中屋敷にお預かりになった中には菅谷半之丞もいる(全部で10名)。おそらく右の石碑の中に名前があるはずだが、読み取れない。
この碑は1939年(昭和14)イタリア大使によって建立されたそうで、揮毫は徳富蘇峰。この人が出てくるから政治的意図があったのだろう。命日には数年に一度イタリア大使が供養を行なってくれているという。
上京したら訪ねてみたい地ではあるが、残念ながらここはムリである。
参考/1703年(元禄16)2月4日この地で切腹した赤穂義士10名
1.大石主税(良金)2.堀部安兵衛(武庸)3.木村岡右衛門(貞行)4.中村勘助(正辰)
5.菅谷半之丞(政利)6.千馬三郎兵衛(光忠)7.不破数右衛門(正種)
8大高源吾(忠雄)9貝賀弥左衛門(友信)10.岡野金右衛門(包秀)
2025・2・4
歌川国芳の忠臣蔵
広島県立美術館で2月9日まで開催中の「もしも猫展」を見てきた。
1月31日付けで紹介した忠臣蔵とは別の忠臣蔵の浮世絵が掲げられていた。「すべての作品の撮影は自由です」というので、写してきた。
2025・1・31
忠臣蔵と男山、剣菱
これもリニューアル中に見つけた一枚。歌川国芳の浮世絵で、大石内蔵助とおぼしき人物のそばに男山の酒樽と、剣菱のマークが見える。
剣菱酒造株式会社のホームページには次のような見出しに続いて、説明文も掲載されている。
元禄15年(1702 ※旧暦)
赤穂浪士が吉良(きら)邸への討ち入り前に、江戸で出陣酒として剣菱を飲む
赤穂浪士の討ち入り事件を題材にした歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』。江戸時代中期(寛延期)に歌舞伎化され、現在も歌舞伎の三大名作のひとつとして高い人気を誇る演目だが、そのなかの大星由良之助(主役/大石内蔵助がモデル)の「酒を持て」というセリフは、かつては「剣菱を持て」というセリフだったという説もある。真偽のほどは定かではないが、たしかに『仮名手本忠臣蔵』が上演されるようになった江戸中期以降の剣菱は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い。日本酒の代名詞的存在であり、実際に「酒」と書いて「ケンビシ」と読まれることもあった。
参考文献:剣菱酒造の戦前の冊子
2025・1・28 47士のマグカップ
ホームページリニューアルに向け、データを整理に中出てきたマグカップの写真。老母の所有。世の中にはいろんなものがあるなー。
2025・1・22
半之丞を称える頼杏坪『甲斐庵記』
頼山陽の叔父頼杏坪が、天保元年(文政13)三次の代官時代に書いた『甲斐庵記』を書き起こしてみた。すでに紹介したように菅谷半之丞に関する記述があるからだ。
『甲斐庵記』
三巴邑、三面背水、其東川之東有一荘、邑人積山氏所有也。荘在山足(ふもと)稍高處数百歩、呼曰甲斐庵、蓋以其在峡也、戊子夏、予為邑宰、初遊其衝門、柴扉入則開庭数畝、花木列植屋後則靠山受谷、松楓交茂幽邃可愛、升堂則遠近山環、両市挟水、寺観橋約、一臨尽可矣、
冒頭からは「甲斐庵」の場所と様子が記されている。三巴村の積山氏の所有だったもので、甲斐庵と命名されたのは、峡「カイ」、すなわち山と山が狭まるところにあったからだという。庭には花木が植えられ、松、楓が茂り、幽邃(景色などが奥深く静かなこと)な地であった。杏坪が訪れたのは「戊子(文政10)夏」である。
聞、此庵昔邑士徳永氏所置、而赤穂義士菅谷半丞嘗寓居焉、蓋徳永氏有旧也、跛蹙不能遠行、日持竹竿、釣魚前渓、出入有時、所往亦有方、不問其得魚與不得、邦家滅亡亦似毫無憂色、如是者蓋有年矣、一日脱然失其所在、人皆謂徳永氏食客出亡、此自除累也、但跛人遠逃、是可怪已、既而世盛伝義士旧復是事、検其姓名、半丞與蓋、於是人皆驚嘆曰、彼魯鈍勃率、皆佯而非真、深自韜晦、以示其無其所為也、土人伝其事、至今貴此庵、莫不知義士之所寓者也。予既撫景勝、復感節義、低徊久之、乃作歌曰、跛能復兮、行以義死、魂乎安帰、青山白水。
文政庚虎暮春、付積山正繁、杏坪惟柔 撰書
ここからが菅谷半之丞に関わるくだりである。
元禄当時は、村侍の徳永氏が管理をしていたようで、赤穂義士菅谷半之丞が寓居したのは、半之丞の兄の娘、つまり姪の嫁ぎ先が徳永氏という縁からである。半之丞は「片足が不自由で遠くへ行けない」と言って、日々竹竿をもって前を流れる川で魚を釣って過ごした。国元(赤穂)の主君の家が取り潰しになったなどという話は一切しなかった。
あるとき所在がわからなくなった。村人は「足が悪いのに、どこへいったのか」と不思議がったが、これは周辺に累を及ぼさないためだった、
そのうち世間は討ち入りの話で持ちきりになり、甲斐庵に寓していたのが半之丞であることがわかった。皆は驚き、嘆いた。半之丞は愚鈍を装い、皆はまんまとだまされたが、深く本心を包み隠し、目的を果たしたのである。土地の人はこの庵を今に伝え、義士が寓したことを知らない者はいない。私はこの地を愛で、節義に感じて見て回り、和歌を詠んだ。「足は回復し、義死をもって行動に移した。魂は安らかに帰ってきた。寓した場所には清い水が流れている」(漢詩に関する知識がないので意訳です)
見延の感想
杏坪が半之丞を称えていることに安堵した。おそらく山陽、そして兄嫁の梅颸にも半之丞の話をしたであろう。とりわけ歌舞伎、文楽の見巧者であった梅颸の反応、感想が知りたいところだ。
2025・1・14
灯台もと暗し②
先祖かもしれない赤穂浪士の一人菅谷半之丞が広島県三次市で寓居したといわれる「甲斐庵」についてネットで検索してみた。
すると呆気ないほど簡単に、複数の写真を見つけることができた。写真を載せた皆様、何とぞ使用をお許しください。
日本歴史地名大系 「甲斐庵跡」の解説
三次市上里村(現/三次市三次町三次町寺戸)
西城川の東側寺戸集落の甲斐谷にあり、赤穂浪士の一人菅谷半之丞が時節を待って寓居した庵跡。「芸藩通志」に「上里村寺戸の甲斐庵に寓居し、自ら足躄と称し蹤跡を秘す、後有馬坐湯を告て辞し去る、其年義に死せりといふ」と記す。菅谷半之丞が三次へ寓居を求めた理由について三次町の「国郡志下調書出帳」は、三次藩家中徳永氏を頼って来たとするが、切腹一ヵ月前の元禄一六年(一七〇三)正月に半之丞の書いた親類書(「赤穂義人纂書」所収)によると、兄岡本松之助および姉は備後三次に居住とあり、兄の娘も姉の娘も三次家中に嫁しており、兄の娘は徳永彦右衛門妻とある。
「芸藩通志」の記載は頼杏坪が書いたと考えられる。
岡本松之助、徳永彦右衛門の子孫はどうなっているのだろうか。
「まずは三次浅野家、並びに広島浅野家について調べよ」というご先祖様からの指示かもしれない(笑)
にもかかわらず、5年間も放置していたのだったが、今回改めて『頼杏坪先生傳』を開くと、「甲斐庵記」の中になんと「義士菅谷半丞」の文字があるではないか。
杏坪は菅谷半之丞を認識し、一文を残していたのである。今までバラバラだったものが、一気に集約していくようで、一人興奮する(笑) 漢文ではあるが、なんとか全文を解読してみたい。
2025・1・13
灯台もと暗し①
広島県三次市(三次浅野藩)といえば、2020年1月に「日本外史を読む会」の堀尾哲朗さんから、頼杏坪(頼山陽の叔父で、三次奉行)が天保元年(1830)三次での職を退いて去るにあたり、半之亟が庵を結んだ「甲斐庵」を訪ね、「甲斐庵記」を記した、という情報を得ていたことを思い出した。
2025・1・12
見延典子のルーツが
広島県につながった?!」
「菅谷Sさん」が社長時代につくられたドラマ「瑤泉院の陰謀」
「菅谷Sさん」が菅谷半之丞を公言しているので、ドラマに中でも菅谷半之丞が特別扱いされたのではないか・・・そんな懸念もあって原作の湯川裕光原作『瑤泉院』(新潮社1998)を読んでみた。
驚いた。小説のはじまり早々、なんと、半之丞が登場する。しかも半之丞は大石内蔵助の信認厚く、瑤泉院との連絡係をつとめている。テレビドラマとまったく同じである。
ではなぜそのような役割を半之丞が担ったかといえば、半之丞の母は三次(広島県三次市 浅野三次藩)出身で、三次で生まれた瑤泉院も殊の外半之丞を信頼していたというのである。
菅谷半之丞の母が広島県三次市出身?! 半之丞が見延の先祖であれば、見延のルーツは、現在暮している広島県ともつながったことになる。驚きである。
菅谷Sさん。ネット上の写真を慎んでお借りしました。現在85歳とあります。
本欄「2020・1・31 菅谷半之亟、妻子の消息」に登場する
「東京在住の菅谷某氏」とは、この「菅谷Sさん」である。2020年私はテレビ東京に連絡して事情を説明した上で、資料などを「菅谷Sさん」に転送していただいた。するとご丁寧にも「菅谷Sさん」から直接お電話をいただいたのだった。
2025・1・10
DNAは嘘をつかない
正月「忠臣蔵 瑤泉院の陰謀」(BSテレ東)を見たという話を書いたが、この番組が製作された2007年当時テレビ東京の社長だったのは「菅谷Sさん」で、ご自身は菅谷半之丞のご子孫を公言されている。
私はネット上で「菅谷Sさん」の顔写真を拝見したとき、そのお顔の輪郭が祖母の見延キヨメ(旧姓菅谷)とよく似ていることに驚いた。キヨメの3男で、私の叔父も四角い顔形をしている。そこで私は祖母のいっていた「自分は菅谷半之丞の子孫」という言葉に間違いはないという確信のようなものを得たのだ。「DNAは嘘をつかない」と思うのである。
2025・1・6
テレビの「忠臣蔵」に菅谷半之丞
1月3日「忠臣蔵 瑤泉院の陰謀」(BSテレ東)で渡辺裕之演じる菅谷半之丞が放映された。
2007年制作、主演稲森いずみ、原作湯川裕光『瑤泉院 三百年目の忠臣蔵』脚本ジェームス・三木。
菅谷半之丞は「すがのやはんのじょう」と「の」が入って放送された。
半之丞(左端)の兄と姉は浅野三次藩に仕えたといわれるように、半之丞は三次藩出身の瑤泉院(浅野長矩正室、右端)と江戸三次藩邸で会う。
討ち入り前の菅谷半之丞(左端)
放送は11時から21時まで。
大石内蔵助(北大路欣也)、浅野内匠頭(高島政伸)、徳川綱吉(津川雅彦)、柳澤吉保(高橋秀樹)。皆はまり役で延々10時間見続けた・笑
2024・12・18
久保寺辰彦さん
「久保寺の先祖は吉良邸近くに住む。討ち入りの半之丞を見たかも」
旧暦12月14日といえば、誰もが知っている忠臣蔵、四十七士の吉良邸討ち入りですが、見延さんのご先祖かもしれない菅谷半之丞を私の先祖が見たかもしれないというお話です。もう50年も前のことですが、小学生の時に両国の親戚の家に遊びに行ったことがあります。
その後、親戚付き合いは無くなったため、どういった関係の親戚なのか両親が他界した今はわかりません。先日、懐かしくなって親戚の家があった場所あたりに行ってきたのですが、すでに親戚らしき家はなく、御近所の人に聞いてもわからないとい
うことでした。私が覚えているのは親戚の家が両国公園の目の前だったこと、公園の丸い滑り台で遊んだこと、お相撲さんをよく見かけたことくらいです。その訪問で、両国公園のある場所が勝海舟の生誕地だと知りしりました。
今、BS時代劇で再放送されている『小吉の女房』を見ておられる方はご存知だと思いますが、勝海舟は父親(小吉)の実家である男谷家で産まれています。剣術家で有名な男谷清一郎は海舟の従兄弟にあたります。
本所と呼ばれるその場所は、吉良邸のすぐ近くです。
何気なく江戸時代(安政2年)の古地図を調べてみるとびっくり。久保寺家と男谷家はご近所さんでした。そして、吉良邸も。
元禄時代にご先祖様が、もしこの地に住んでいたら吉良邸討ち入りを見に行ったかも。そして見延さんのご先祖かもしれない菅谷半之丞も見たかもしれない・・・という妄想のお話しでした。
2024・12・17
描かれる菅谷半之丞②
赤穂城跡近くの大石神社にも47士全員の立像がある。それぞれの足下には奉納者の名前が書かれ、多くは子孫らしいが、菅谷半之丞には特に書かれていなかったような気がする(うろ覚え)。写真を拡大してもたが、読み取れない。残念。
残念といえば、赤穂市内には半之丞の屋敷跡があったのだ。帰ってから気がつくが、時、すでに遅し。
左の写真はネットに出ていたものです。慎んでお借りします。
ところで同じサイトに菅谷半之丞の家系図の一部が掲載され、半之丞の祖父の代まで判明していることも知る。
2024・12・16 描かれる菅谷半之丞
播州赤穂市内で見つけた菅谷半之丞の絵を紹介しよう。
「容貌魁偉」といわれた菅谷半之丞の立像まである。作者によってさまざまな描かれ方がされている。
「大石邸長屋門」の説明板によれば「大石内蔵介、主悦父子が朝夕出入りした。元禄14年3月主君の刃傷沙汰を伝える早打ちが叩いたのもこの門である」。菅谷半之丞も訪れたことがあるだろう。
2024・12・15
菅谷半之丞の足跡を訪ねて
花岳寺を参ったあと、かつての赤穂城下を散策する。
赤穂城は正保2年(1645)常陸国笠間から入封した浅野長直が築城を命じ、寛文元年(1661)完成。本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式で、近世城郭史上珍しい変形輪郭式の海岸平城。浅野家が断絶後、永井家、森家の居城となり、明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となった(公式サイト)
「史跡赤穂城跡」を訪ねる。建物は残っていない。
2024・12・13 花岳寺 菅谷半之丞の墓②
墓の文字、一番上の「刀」は1切腹をした、2大業を為し得た、3罪人の印、など諸説あるようで、どの義士にもついていた。
菅谷半之丞の説明には「祖父の代から浅野家に仕え、城引き渡し後は兄、姉のいる備中三次にいき、江戸では谷中、石町に仮寓し、吉良邸の偵察」とある。現在の広島県三次市で身を潜めていたという話と合致する。
手を合せて、47士像があるという建物へ向かう。
47士全員の人形の中で、群を抜いてリアリテイのある顔、姿。講談ではイケメンになっているが、正反対に醜男だったという説もある。真偽は定かではない。ただ、すでに書いているように、やはり四角い顔をしている。うーん、おばあちゃんに似てるような(笑)
目指す「義士墓」は入り口を入って左手にある。
2024・12・13
花岳寺 菅谷半之丞の墓
花岳寺の境内には「忠義塚」のほか「忠義桜」まである。
47士の遺骨は東京の泉岳寺に納められ、ここには遺髪のみ納められていると伝わるそうだ。
ずらりと並ぶ義士の墓から「菅谷半之丞」の墓をさがす。あった!!
2024・12・11 赤穂浪士が眠る「花岳寺」へ
赤穂浪士の町とはいえ、まだ「菅谷半之丞」につながるものとは出会っていない。赤穂浪士が眠るという「花岳寺」へ足を伸ばす。
入ってすぐ「二代目大石なごりの松」が迎えてくれる。とりあえず右手の建物に入ってみる。
花岳寺の前の石碑には「浅野公霊廟義士木像」とある。
建物内には四十七士の名がずらりと並んでいる。目を皿のようにしてさがすと、裏門隊の中程にあった!「菅谷半之丞正利 馬回(郡代)百石 刃水流剣信士」
「単なる文字、されど文字」ようやく辿りついたような思いになって、しばらく仰ぎみていた。
こちらは販売用手ぬぐい
2024・12・10
赤穂浪士の町
播州赤穂を散策していると「赤穂浪士の町」ということを感じる。
朝早いこともあり、道行く人は少ない。ただ、どこへ行っても「大石内蔵助」「忠臣蔵」「赤穂浪士」に出会う。下はからくり時計の下の3面の絵(仮名手本忠臣蔵から)
通りかがかりの「からくり時計」は1時間ごとに扉が開いて、大石内蔵助の人形が回り出すのでは、と勝手に想像するが、次に扉が開くまでは待てず、先を急ぐことに。
2024・12・9
播州赤穂へ
9月末、旅猿ツアーで姫路高砂へ行った帰り、一人播州赤穂へ向かう。私の4人の祖父母のうち、3人のルーツはおよそ解明できた。残るは父方の祖母見延きよめ(旧姓菅谷きよめ)が先祖といっていた、忠臣蔵47士の一人「菅谷半之丞」。手がかりを求めて向かったのだ。
姫路から西へ電車で揺られること3、40分のJR「播州赤穂駅」。前夜は日没ころホテルに入ったので、翌朝を待って捜索開始(笑)
歩きはじめてすぐ、商店や銀行のデスプレイの多くが「忠臣蔵」一色に染まっていることに気づく。
2024・7・23 仕切り直し「菅谷家のルーツ」
これまで⒋人の祖父母のルーツを調べてきた。
父方の祖父「見延家」 ・・・・・・『私のルーツ』収録
母方の祖父「長濵(中駄家)」・・・『私たちのルーツ』収録
母方の祖母「中山(井川家)」・・・『私のルーツ』収録
多くの親族の力を借り、どの家も300年~400年前まで溯ることができた。一庶民のルーツとしてここまで溯れるのは珍しいのではないか。
残るは父方祖母の「菅谷(すがや)家」ルーツである。祖母が言い残したように、果たして「忠臣蔵の菅谷半之丞」まで辿りつけるか。
仕切り直しの思いもこめて、改めて祖母見延キヨメ(旧姓菅谷)の札幌時代の戸籍を申請した。曽祖父は「菅谷喜六」、曾祖母は「菅野初江」(旧姓不明)である。
2020・12・17
高橋さん ⇒ 見延典子 「武田信玄で思い当たるのは…」
メールを読んでいただきありがとうございます。
ブログ、拝読致しました。武田信玄というワードで思い当たるのは、母の実家は岩櫃山(岩櫃城跡)の麓にあり、大河ドラマ真田丸のときもドラマ後に流す映像として母の実家も撮影、放映されたくらいの近距離です。近所には「潜龍院跡」という武田勝頼を迎える予定だった寺の跡地があります。http://iwabitsu-sanadamaru.com/spot/senryuinato。(群馬県)
何かつながりがあるのかと思い興味深く感じました。
※ちなみに、母も叔父もエラの張った顔立ちをしているのでそれもおもしろいなと思いました。
2020・12・16 見延典子 ⇒ 高橋さん「群馬の菅谷家」
赤穂藩の武士だった菅谷半之亟の子孫という私の祖母は、山形県酒田市の生まれで、父祖は豪商本間家の帳簿係をしていたと語っていました。はたしていかなるルートによって酒田までたどり着いたのかを知りたくて、ルーツ探しをしております。貴重な情報をありがとうございます。
「群馬」ですか。1月31日付でお尋ねした方は、武田信玄の家臣に菅谷という名前の者がいたのではないか、というような話をされていました。それっきり調べていませんが、赤穂藩士になる前、甲斐あたりに地縁があったのかと考えたり…。
私の祖母は特徴的な顔形をしておりまして(写真は拙著『私のルーツ』に掲載)、1月31日付でお尋ねした東京在住の菅谷某氏のお顔(ネットにもお顔が出るくらいの著名人)にもその特徴が表れているように思い、連絡したのでした。「見延」のルーツ探しでも感じたのですが、遺伝子はウソをつきません。
また何か情報があればお知らせください。よろしくお願いいたします。
2020・12・15
髙橋さん「私の母も菅谷半之丞の末裔」
初めてメールさせていただきます。
本日(12月14日)赤穂浪士の討ち入りの日で、色々調べておりましたら、こちらのブログに出会いました。
実は私の母も旧姓が菅谷で、菅谷半之丞の末裔と聞いております。母の実家は群馬の田舎ですが横浜開港のころ生糸の貿易をしたりしていました。本家は明治より前は造り酒屋だったそうで代々、菅谷勘三郎という名前を襲名していたそうです。半之丞のことは、かなり前に亡くなった祖父からの話でして、情報が薄いため詳しいことはわかりませんが、私も母と決算忠臣蔵を見に行ったり、赤穂大石神社にお参りしたりして色々な思いを膨らましていました。
そんな折、こちらのブログを読ませていただき、勝手に親近感を覚え、思わずメールしてしまいました。また菅谷半之丞の記事をお載せになることがありましたら、楽しみに読ませていただきたいと思います。
長文お読みいただきありがとうございました。失礼致します。
2020・1・31 菅谷半之亟、妻子の消息
菅谷半之亟についてインタ一ネットで検索すると、東京在住の菅谷某氏が子孫であると語っているという記述に出会った。そこで思いきって連絡してみたところ、いくつかのことを教えてくれた。
半之亟は正式な結婚こそしていないものの、妻同然の女性がおり、3人の娘が生まれた。その妻子は、討ち入り前に「四国の琴平」に渡ったというのである。半之亟は討ち入り後、江戸の伊予松山藩邸で切腹したというから、四国とは何らかのつながりがあったことは考えられる。
それにしても、半之亟と「山形県」の接点を探すつもりが、ますます離れていく。長い旅になりそうだ。
半之亟は一時、西条川東側(現広島県三次市)にある「甲斐谷」に身を潜め、討ち入りを待ったとされ、『芸藩通志』「三次町国郡志下調書出帳には家中の徳永氏を頼ったこと、足を悪くした風を装って月日を送ったことなどが書かれているが、
天保元年(1830)杏坪が三次での職を退いて去るにあたり、半之亟が庵を結んだ「甲斐庵」を訪ね、「甲斐庵記」を記したというのである
(右の写真)。半之亟が三次に来ていたことは、半之亟の書状にも書き残されている。杏坪が「甲斐庵」でどのような思いに抱いたのか。「甲斐庵記」を読んでみたい。
2020・1・25
菅谷半之亟と頼杏坪
堀尾哲朗さんが貸してくださった2点目の資料『赤穂事件と広島一知られざる忠臣蔵』(広島城 2006)には、思いがけなく、頼山陽の叔父杏坪の名前が出てくる。
右の写真は『赤穂事件と広島一知られざる忠臣蔵』(平成18年、広島城刊)に掲載されたもので、「法橋善信筆」とある。
昨年公開された映画「決算! 忠臣蔵」で、菅谷半之亟役を演じた妻夫木聡クンとは雲泥の差がある風貌。
ただ、四角い顔の形は「半之亟は先祖」と語っていた祖母と似ていなくもない。祖母は当時の女性と比較しても、かなり小柄であった。さて半之亟はどうだっのか。
2020・1・22
菅谷半之亟の資料
菅谷半之亟に関する資料を、堀尾哲朗さん(広島県在住)が貸してくださる。左の写真は広島の明星院が所蔵する赤穂浪士47士の木像のうち「菅谷半之亟」の像
『芸州浅野家ゆかりの名宝展』(平成14年、中国新聞社刊より)
2019・12・14
国宝不動院さん「赤穂四十七義士の碑の拓本」
12月14日は討ち入りの日。
不動院には、東京泉岳寺にあった亀田鵬斎(かめだ ぼうさい)が 赤穂浪士の討ち入りに感動して建てた「赤穂四十七義士の碑」1819年(文政2年)の拓本があります。
この碑は後に幕府の怒りにふれ、大般若の供養塔に変えられ、消滅しています。今ある泉岳寺の赤穂浪士の碑は江戸時代の拓本をもとに明治時代に建立されたものです。
亀田鵬斎は碑を建てるため、拓本をとり資金の捻出したようです。
その拓本が不動院にある経緯はわかりませんが、本日は赤穂浪士のゆかりの日なので、床の間に掛けています。