見延典子が、先祖かもしれない「菅谷半之亟」について書いています。

「菅谷半之亟は先祖か①」もご覧下さい。

半之亟が身を潜めた「甲斐庵」
半之亟が身を潜めた「甲斐庵」

半之亟は一時、西条川東側(現広島県三次市)にある「甲斐谷」に身を潜め、討ち入りを待ったとされ、『芸藩通志』「三次町国郡志下調書出帳には家中の徳永氏を頼ったこと、足を悪くした風を装って月日を送ったことなどが書かれているが、

天保元年(1830)杏坪が三次での職を退いて去るにあたり、半之亟が庵を結んだ「甲斐庵」を訪ね、「甲斐庵記」を記したというのである

(右の写真)。半之亟が三次に来ていたことは、半之亟の書状にも書き残されている。杏坪が「甲斐庵」でどのような思いに抱いたのか。「甲斐庵記」を読んでみたい。

 

2020・1・25

菅谷半之亟と頼杏坪

 

堀尾哲朗さんが貸してくださった2点目の資料『赤穂事件と広島一知られざる忠臣蔵』(広島城 2006)には、思いがけなく、頼山陽の叔父杏坪の名前が出てくる。


右の写真は『赤穂事件と広島一知られざる忠臣蔵』(平成18年、広島城刊)に掲載されたもので、「法橋善信筆」とある。

昨年公開された映画「決算! 忠臣蔵」で、菅谷半之亟役を演じた妻夫木聡クンとは雲泥の差がある風貌。

ただ、四角い顔の形は「半之亟は先祖」と語っていた祖母と似ていなくもない。祖母は当時の女性と比較しても、かなり小柄であった。さて半之亟はどうだっのか。

 

 

2020・1・22

菅谷半之亟の資料

 

菅谷半之亟に関する資料を、堀尾哲朗さん(広島県在住)が貸してくださる。左の写真は広島の明星院が所蔵する赤穂浪士47士の木像のうち「菅谷半之亟」の像

『芸州浅野家ゆかりの名宝展』(平成14年、中国新聞社刊より)


2019・12・14

国宝不動院さん「赤穂四十七義士の碑の拓本」

 

1214日は討ち入りの日。

不動院には、東京泉岳寺にあった亀田鵬斎(かめだ ぼうさい)が 赤穂浪士の討ち入りに感動して建てた「赤穂四十七義士の碑」1819年(文政2年)の拓本があります。

この碑は後に幕府の怒りにふれ、大般若の供養塔に変えられ、消滅しています。今ある泉岳寺の赤穂浪士の碑は江戸時代の拓本をもとに明治時代に建立されたものです。

亀田鵬斎は碑を建てるため、拓本をとり資金の捻出したようです。

その拓本が不動院にある経緯はわかりませんが、本日は赤穂浪士のゆかりの日なので、床の間に掛けています。

ホームページ編集人  見延典子
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 石村良子代表の編集

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 監督 東陽一

 原作 見延典子

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