2025年(令和7)は頼三樹三郎生誕200年にあたります。

 

連載小説

 はるかなる蝦夷地 

    ―頼三樹三郎、齊藤佐治馬、松浦武四郎の幕末

                           見延典子

 

あらすじ 1847年(弘化4)頼三樹三郎は、Ⅰ年間滞在した蝦夷地を去り、故郷の京都まで日本海側を南下していく。1848年(嘉永元)京都では三樹三郎の兄又次郎(支峰)が『頼氏の本外史』を出版する。

明治期の『校刻日本外史』
明治期の『校刻日本外史』

2025・5・19 第44回

 

羽州街道は江戸時代に整備された脇往還であるが、峠越えが多く、難所続きである。特に冬のあいだは歩くのに難儀する。八月に蝦夷地を離れた三樹三郎は寒さと雪にまたしても行く手を阻まれることになる。といってもこうなることは自ずとわかっていたことではある。思うようにならない現実を楽し


む思いが芽生えている。いろいろあっても旅はたのしい。母や兄の待つ京都に帰らなければならないという思いと、このまま放浪詩人として生きていきたいという思いがせめぎ合っている。気がつけば1847年(弘化四)も暮れ、1848年(嘉永元)が明けようとしている。

そのころ、京都では一大事業が進んでいた。『頼氏日本外史』の出版である。『日本外史』の出版については頼山陽が亡くなって四、五年たった1836、7年(天保7、8)ころ中西忠蔵という者が「拙修斎叢書」の一環として木活字版で出したのが最初であった。忠斎は長崎市助と称する加賀藩家老奥村家の臣であったが、1822年(文政5)ごろ江戸に出て昌平黌に学び、御切手同心の中西氏を継いだ。「拙修斎」とは忠斎の号で、名邦基、字伯基。

「拙修斎叢書」として忠斎が刊行したのは中井竹山『草茅危言』や尾藤二洲の著書など十数種類で、ほとんどは政事向きの内容であった。木活字版はまだ規制がゆるやかであったという事情があるが、忠蔵はいずれも世に出すに値する内容と考えたのである。

忠蔵の交遊関係には、山陽の門下から江戸に出て福山藩士になった門田朴斎や関藤藤陰(石川五郎)らがいることから、彼らの手を通って写本が忠蔵に渡ったことが考えられる。また松浦武四郎も忠蔵と交流があり、後に武四郎が多くの出版物を手がけるのは忠蔵からの影響もあると考えられる。ただ、『拙修斎叢書 日本外史』はほとんど注目されることはなく、発行部数も限られたものであった。

ところが『拙修斎叢書 日本外史』を川越藩の藩校博喩文堂の儒者で、江戸詰の保岡嶺南が読み、大いに感銘をうける。というのも川越藩は幕府から海防を任されたことから藩士に檄を飛ばすも、二百数十年の合戦を経験していないことから、武士の本分とはなんであるかさえ忘れかけている。異国と対峙するようになった場合、武士の心得というものを伝えるのはどうしたらいいのか思い悩んでいたところ、武士の成り立ちを説き、実際に武将がいかに戦ってきたかを伝える『日本外史』を読み、これを自藩の藩士に読ませば、武士の本分をたたき込めると考えたのだった。

ちなみに1837年(天保8年)に発生したモリソン号事件で異国船打払令に基づき砲撃したのは浦賀の川越藩だった。川越藩は数千人体制まで増員、1846年(弘化3)、アメリカ東インド艦隊司令官・ビッドルが黒船二隻を率いて城ヶ島の沖に現れた際、最初に小船に乗ってビンセンス号に乗船、接触したのは川越藩士の内池武者右衛門であった。

 保岡嶺南の狙いは当ったといえよう。博喩堂が出した『校刻日本外史』(1844年=弘化元、通称川越版)は藩士に読まれるようになり、士気も高まった。ただ、予想外の出来事が起きた。武士の本分を説くという以外にも、ほとんど知られていなかった源氏や平家のころから徳川家までの日本の歴史が書かれ、しかも読みやすく、おもしろいということで読者の裾野がひろがっていき、大いに売れはじめたのある。印刷は嶺南坂にあった川越藩邸で行なわれたが、刷りあがった『日本外史』は台八車に乗せられて瞬く間に拡散していき、川越藩邸はさながらにわか印刷所の様相を呈したのである。

 

2025・5・8 第43回

 

体調が上向くと、旅の続きである。小繋宿(秋田県能代市、羽州街道50番目の宿場)では浄応寺に宿泊し、主の無等上人から点茶を供される。渡し船に乗り、能代へ向かい、そのまま雄鹿半島見物に繰り出す。男鹿からは鳥海山を望むことができる。

「夕陽、水を熨して、水、油の如し。

三倉鼻(みくらはな)とは、秋田県三種町と八郎潟町にまたがる山である。

赤線が羽州街道
赤線が羽州街道

海を隔てヽ鳥山、鴎外に浮かぶ。雪色玲瓏、空を撑へて白し、幾分の冬はすでに峯頭に至る」

 昨年見た松島は女児妖矯の眺めとするなら、雄鹿は男子剛強の観を呈している。1809年(文化6)頃、工藤学内という者が三倉鼻(みくらはな)近くに望湖亭という茶屋を設けた。三樹三郎は、その三倉鼻を訪れ「題望湖亭」という漢詩を詠んだ。

 さらに酒田(現在の山形県酒田市)


に入った。三樹三郎の曽祖父の亨翁、祖父の春水父子が1770年(明和7)仙台から山形に入り、大沼の浮島を見物したあと、酒田に入った話が伝わっている。その折りには羽黒山にも登ったという。当時の知己の人々に優遇されたと聞くが、すでに80年前である。知り合いなどもいなくなっている。

酒田から船で庄内に向かったのは10月19日であった。船はこりごりと思っていたが、そういうわけにもいかない。太陽暦でいえば10月中旬から12月下旬くらいである。この分では年内に帰京するのは無理だろうと諦めつつ、内心ではまだ旅が続けられることを喜んでいる。庄内では清水口で一夜の宿を得た。さらに上ノ山に入り、今は藩儒になっている金子得所を訪ねる。得所とは聖堂での学友であり、その紹介で高橋善助という者の屋敷に宿泊する。この頃から寒さが強くなり、いよいよ先に進むことは断念した。

 金子得所は三樹三郎より2歳年上の文政6年(1823)生まれ。18歳で仙台藩校養賢堂に入学し、のち昌平黌で学び、三樹三郎と知り合った。弘化4年(184725歳で上山に帰藩して徒頭となり、藩校明新館の都講を兼任する。

藩内では藩校の明新館を大いにもり立てる一方、商人の搾取で生活苦に陥った農民を救済し、またゲベール銃その他西洋式の軍備の導入にも努める。彼の政治思想は水戸の徳川  斉昭へ提出した『杞憂臆策』や、老中の板倉勝清に対して行った献策、および弟子が記録した言葉などからうかがえるだろう

慶応3年(1867)、薩摩の西郷が人を雇い、江戸市中で狼藉を働かせて幕府を挑発したとき、幕府は上山、庄内、鯖江の三藩に掃討を命じ、金子も参戦したが、流れ弾に当たって戦死をとげた。

 

2025・5・2 第42回

 

 頼三樹三郎は、弘前では伊東広之進(梅軒、三十三歳)も訪ねた。広之進は江戸に遊学して佐藤一斎の学び、さらに大坂で篠崎小竹にも学んだ。同じく小竹の塾に在籍していた三樹三郎はそのころは江戸に移っていたので、会うのは初めてであった。九州にも渡っていたことも含めて全国には知己も多


く、川越藩から『日本外史』が出版され、大評判になっていることも知っていた。

また海防に関心がつよく、三樹三郎が蝦夷地内部まで足を伸ばしたという話に目を輝かせた。すでに書いたように、幕府は1807年(文化4)から1821年(文政4)まで全蝦夷地を直轄支配した時期がある。ロシアの南下政策に対抗する措置であるが、このとき白河以北の藩は蝦夷地各所に配された。そのため陸奥の諸藩にとっても蝦夷地の話は関心の高い事柄であった。

先の話になるが、五年後の1852年(嘉永5)萩藩士吉田松陰が宮部鼎蔵と弘前にやってくるとき、訪問するのが広之進のところである。軍事や教育や国事を談じ、頼三樹三郎の名も耳にしたかもしれない。松陰は松下村塾で『日本外史』から「毛利氏」を論じるようになる。

三樹三郎らは秋田に向かった。すでに九月下旬になっている。冷たい雨が降り、冬が到来したような寒さであるが、それでも雪はまだ降っていないのだ。大館に入って青嵐亭で諸士と歓談したとき、悪寒がする。風邪をひいたらしい。

年末には京都に帰ろうと思っていたが、果たせそうもない。兄の支峯に出した便りは届いているだろうか。心配性の母は、いまころどこで何をしているだろうとそわそわしながら、帰りを待ちわびているに違いない。三樹三郎と同じように、連れの柴山紫陰も寝込んでしまった。大人二人が幼子のように熱にうなされて横になっている様がどこかしら滑稽である。

 三樹三郎は手もとの紙に、次のように書きつけた。

「秋城に困臥して寒帷を掩(おお)ひ、二豎(子ども)、人を悩まして帰路差(たが)へり」

 

2025・4・25 第41回

 

 江差を発った三樹三郎の旅はさらに続いていく。江差に渡る前は太平洋側を北上したのに対し、復路は日本海側を南下しようと考えていた。当時は白河の関と隣接する陸奥国は蝦夷(えみし)の住む国と考えられていたが、北前船の西航路の発達により陸奥国の海岸沿いには栄えている港町も多い。

 ところがいきなり試練に見舞われる。1847年(弘化4)八月初め松前の福山を出航したあと、想像以上の


荒波に船は方向を失っていく。蝦夷地に渡るときも海が荒れ、三樹三郎は船酔いに苦しんだ。悪夢の再現であった。

「汗漫、幾度か帰期を誤り、空しく、母兄をして遠悲を懸けしむ。果爾、今朝、天譴を受け、身を魚腹に葬らんとす。北溟の陲」「狂気蓬に駕して、高く山に似たり。竜飛・白紙、一瞬の間。盲風、雨を挟んで天墨の如し。何の処か青森の第一湾」「鯨口を脱し来って危蓬を繋ぐ。暮雨冥濛たり、漁戸の嵐、松籟、半更、夢を吹いて動かし、猶驚く、身は大涛の中に在るかと」

 竜飛に入港するはずが、着いたのは数十里離れた九艘泊であった。源源義経一行が九艘の船を停泊させたという伝説の残る地である。だが伝説を面白がる余裕もなく、岡にあがったときは二度と船には乗りたくないと本気で思った。

 連れの柴山紫陰と弘前まで歩き、宿を得たところで、三樹三郎は江差の齊藤佐治馬に書状を認めた。

「渡海は大風雨で、同行の柴山紫陰と転覆するものと覚悟しましたが、天は未だ我を見捨てなかったようで、南部九艘泊というところに着き、万死を脱しました。その後津軽弘前城下に入り、弘前藩の絵師百川文平(学庵)殿の屋敷に入りました」

 佐島馬には蝦夷地で書きためた漢詩や文の草稿をあずけ、あとで北前船にのせて京都へ送るか、敦賀まで行くという梁瀬存愛に持たせ、三樹三郎が敦賀に着いたところで届けてほしいと頼んでいた。厚かましい頼みに思えたが、もし持参していればこの嵐の中、草稿がどうなっていたのかわからない。

 百川文平は百川玉川の次男で、朝川善庵に儒学、谷文晁に画を学んだ。三樹三郎より二十歳以上も年上ながら、詩文にもすぐれいて、話も合う。だが何があったのか二年後に蟄居を命じられ、1849年(嘉永2)五十歳で死去する。