2025・6・8
久保寺辰彦さん「朝日新聞デジタル版に桑名市博物館の『日本外史』」
6月7日付朝日新聞ネット版に桑名市博物館の企画展が記事になってます。
松平定信の洒脱な一面 趣味人ぶり伝える企画展 三重・桑名市博物館
「儒学者頼山陽から71歳のときに贈られた「日本外史稿本」は22冊がそろい、定信の読後の感想も残されている。」とあるので期待します。
2025・6・2
京都頼家所蔵の『日本外史』
左の『日本外史』は5月2日付で紹介済みの、「大定信展」の冊子に掲載されていた桑名市博物館所蔵の『日本外史』と桐の箱の写真である。また下は新たに紹介するもので、京都頼家所蔵の『日本外史』と桐の箱である。
右は、見延の手書き絵を見て西村先生が同じくFAXで送って下さった絵。
すべて身辺の整理中に見つけたものだ。見延が見たであろう元の写真は何か本に載っていたものだが、タイトルが思い出せない。最近はこういうことが増えている。いずれ判明するかも。
さらに左は、小説『頼山陽』連載中、挿絵の西村緋祿史先生のお問い合わせに、見延が何かの写真を見ながら手書きしてFAXで送ったもの。
FAXを受信する用紙は感熱紙を用いていたので、20年も経つとほぼ白紙になっている。この絵は感熱紙から普通紙にコピーしてあった。
「異国船図」木版画 谷文晁画、松平定信題 文政12年(画と賛は寛政期) 早稲田大学蔵
2025・6・1
山下幸太郎さん「頼山陽と松平定信との関係」② ⇔ 見延典子
見延典子様
ありがとうございます。頼山陽と松平定信との交流が一朝一夕に生まれたものではないと思います。だとしたら、日本外史も最初から松平定信に献上すると決めていた、言い方を変えると、『日本外史』は松平定信のために書かれたのではないかと思います。そして松平定信が老中の在任中や要職を勤めている現役のときに、献上すると厄介なので、引退、隠居後に献上することも頼山陽は最初から決めていたのではないかと思います。以前、見延さんの著書『頼山陽と戦争国家』の中で、頼山陽が『日本外史』を世に出すにあたり松平定信に接近したと書かれていましたが、そこが疑問でした。
山下幸太郞様
「誰のために書いたか」より「なんのために書いたか」のほうを知りたいと思っています。「山陽は『日本外史』を○○のために書いた。そしてその意図を最も理解してくれると思えたのが定信だった」
現在、○○に入る言葉を求めて、ホームページを更新中です。
見延典子
2025・5・31 山下幸太郎さん「頼山陽と松平定信との関係」
⇔ 見延典子
松平定信と頼山陽の関係性について質問があります。
頼山陽は松平定信に『日本外史』を献上しますが、なぜ松平定信に献上したかです。おそらく、頼山陽に一獲千金を狙うという類の発想があったとしたら松平定信には献上していないと思います。となれば、頼山陽もしくは頼家と松平定信との間にはそれを超えた交流があったと思われます。
『日本外史』を受け取ったあとに『閑なるあまり』を執筆したわけで、そこに何らかの意図があったと思います。頼山陽と松平定信との関係についてどのようなものがあったと思われますか?
山下幸太郎さん
松平定信が行なった寛政の改革に「寛政異学の禁」があります。昌平黌の学問を朱子学に統一するもので、これは広島藩が行なった学問所の主流を朱子学にした「天明異学の禁」を模したといわれています。
広島藩の中心にいたのが朱子学者の頼春水で、江戸勤番中の春水は天明4年4月2日に、白河藩主だった定信の江戸藩邸に招かれ、学問や政治のあり方について論じています。
また春水の大坂時代からの親友の尾藤二洲(伊予出身)は寛政3年儒官となって寛政の3博士の一人と呼ばれます(異説あり)。春水の妻梅颸と二洲の後妻梅月は姉妹で、春水と二州は義兄弟の関係でもあります。
定信は春水の学才を高く評価し、話が長くなるので割愛しますが、谷文晁に描かせた「杜鵑」の絵を侍臣の田内月堂を介して梅颸に送ってもいます’(現在その絵は伝わっていない)。定信と山陽の交流が一朝一夕に生まれたわけではないことがわかります。
見延典子
2025・5・30 松平定信著『閑なるあまり』②
5月27日付けで紹介した松平定信著『閑なるあまり」で気になるのは、元治元年(1864)秋に頼支峰が出版している点である。
元治元年といえば、6月に京都で起きた新撰組が長州藩、土佐藩ら尊皇攘夷派を弾圧した「池田屋」事件、7月の蛤御門の変を思い出すが、出版には時間がかかるから、遅くとも前年には出版が計画されていたであろう。
支峰は同書で、定信と祖父春水、父山陽との交流について触れている。だがすでに春水、山陽はもちろん、弟の三樹も亡くなっている。
特に三樹は安政の大獄で処刑されており、刑の執行を決めた井伊直弼への怨みは抱いていたであろう。そして晩年の三樹が一橋派の先鋒として担ぎあげていた一橋慶喜は歴史の表に立つようになっている。但し、日米修好通商条約の破約、攘夷決行という朝廷側の意向に翻弄されており、あるいは支峰はそこに一石を投じようとしたことも考えられる。いかがであろうか。
松平定信が藩主だった白河藩(赤い□)
2025・5・29
松平定信と海防
5月20日付け、久保寺さんのご投稿以来、松平定信がどの程度海防について関心があり、危機意識をもっていたのかについて考えている。
定信はロシアの南下政策のもと、蝦夷地支配に関して消極的な態度であったといわれてきたが、最近の研究では「積極的とはいわないまでも、高い関心があった」と風向きが変わってきているようだ。寛政の改革にしても、田沼意次との政策に連続性があるとしているネット記事もある。
将軍徳川家治の代に老中職を務めたのは10名(ここに田沼意次がいる)。徳川家斉の代に老中職をつとめたのは26名。うち老中首座は10名(ここに定信がいる)。長い目でみれば、申し送り事項はあり、連続性があると考えるほうがむしろ自然であろう。
時代とともに新しい資料の発見もある。柔軟な目で見ていきたい。
2025・5・27
松平定信著『閑なるあまり』
「旅猿ツアー桑名・津」にそなえて、あれこれ準備を勧めているが、ツアーに参加される久保寺辰彦さんから、松平定信著の『閑なるあまり』という一冊を教えていただく。
定信は文章家だからその一冊だろうと思ったが、なんと『賴氏藏梓」とあるではないか。「広島頼家関係資料」を調べたが、載っていない。「書物自体が贋作か?」とまで思ったけれど(笑)、いやいや、そうではない。やはりツアーに参加される青山浩子さんに検索をお願いしたところ、芋づる式にいろいろなことがわかってきた。知らないことはまだまだある。しかも幕末史の根幹にかかわってくる。
2025・5・23
桑名市博物館で『日本外史」の展示
明日5月24日(土)からはじまる桑名市博物館「初夏の企画展『松平定信と江戸文化」で、頼山陽が松平定信に献じた『日本外史』が展示されることがわかった。但し、桐の箱や定信の題辞(感想)が展示されるかは、本日時点では不明。
会期:令和7年(2025)5月24日(土曜日)~7月6日(日曜日)
会場:桑名市博物館(三重県桑名市京町37番地1)
開館時間:午前9時30分から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
休館日:毎週月曜日
入館料:大人[高校生以上]150円、中学生以下無料
2025・5・22
『日本外史』を理解する上で、最大級の衝撃
探そうと思って探したわけではない。捨てようと思って広げたファイルの中にその感熱紙は収まっていた。平成15年(2003)竹原のFさんがFAXで送ってくださった3枚ものだ。
その後、見延は川越市博物館まで『校刻日本外史』(川越版)を見にいった。おそらくFさんからのFAXを見たからだろう。
但し、そこに書かれている内容について、どこまで理解できていたかわからない。「ふうん」というくらいにしか受けとめていなかった気がする。
しかし22年たった今、ここに書かれている事柄が『日本外史』という書物を理解する上で、最大級の衝撃を与えるものであることがわかる。おそらく『日本外史』について語られてきたほぼすべてを覆せるほど、破壊力があることが書かれているのだ。
残念ながら、今はここまでしか紹介できない。すみません。頭を冷やしたいので、少し時間を下さい。
上/松平定信筆「安房国一宮州崎大明神」
右/州崎神社 いずれもネットより
2025・5・20 久保寺辰彦さん「南房総の海岸警備」 ⇔ 見延典子
見延典子様
滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の舞台は南房総です。
また館山市の鏡ケ浦に最初の海防施設ができた(1810年=文化7)のは白河藩時代の松平定信が房総の海岸警備を命じられたことがきっかけです。
南房総市千倉町にも陣屋があったようで、洲崎にも台場が築かれました。洲崎神社の題字は松平定信筆です。
久保田辰彦
久保寺辰彦様
お近くの情報をお寄せいただき、ありがとうございます。南総と松平定信のかかわりがわかったことで、多くの疑問が氷解しました。
まず「なぜ頼山陽が松平定信に『日本外史』を献呈したか」です。見延は父春水とのつながりから、定信を頼ったと考えてきました。しかしそれだけではなかったのですね。白河藩主時代
から定信は幕府の海防政策にかかわり、そのあと昨日付け「はるかなる蝦夷地」で書いたように川越藩による浦賀の海防防衛へとつながっていきます
1837年(天保8年)に発生したモリソン号事件で異国船打払令に基づき砲撃したの
は浦賀の川越藩だった。川越藩は数千人体制まで増員、1846年(弘化3)、アメリカ
東インド艦隊司令官・ビッドルが黒船二隻を率いて城ヶ島の沖に現れた際、最初に小船
に乗ってビンセンス号に乗船、接触したのは川越藩士の内池武者右衛門であった。
異国船来航に対する防衛は、ペリー来航の十数年前から幕府にとっての緊急課題であり、人々の関心の的でもあったのです。定信がその中心にいたとはいいませんが、一翼を担っていたであろう定信に山陽が『日本外史』の献呈を画策した背景には、幕府による「攘夷政策」があったからでしょう。
山陽にしろ、御地ゆかりの梁川星巌にしろ、頼三樹三郎にしろ、明治以降は「尊皇家」のレッテルを貼られますが、幕末に近い江戸後期は「攘夷政策」こそが支配者層の課題であり、『日本外史』もそのあたりを意識して書いた。だからこそ全編 合戦譚に満ちた内容になったと思います。
2025・5・19 讃州高松にある?『日本外史』
6月催行予定の「旅猿ツアー桑名、津」に、香川県からキク夫妻が初参加される。それで思い出したわけではないが、坂本箕山著『頼山陽大観』には、「南総里見八犬伝」の著者滝沢馬琴が高松藩家老木村黙斎に贈った『日本外史』の写本がある、と書かれている。現在も高松のどこかに保管されているのだろうか?
引き続き調査していこうと思うが、「旅猿ツアー桑名、津」の次は「旅猿ツアー高松」になるかもしれない(笑)
『拙修斎叢書 日本外史』は江戸の中西忠蔵が初めて『日本外史』を木活版として出版したもの。天保7、8年ころ山陽が没して5年ほど後である。
続いて出版された『校刻日本外史』『頼氏日本外史』は頼山陽史跡資料館の常設展に展示されている。
2025・5・17
『日本外史』出版本を見る
月2回「日本外史を読む会」に通っているが、江戸時代に出版された『日本外史』について考える機会はほとんどなかった。申請すると、許可がおり、会員8名で『拙修斎叢書 日本外史』の一部を見ることができた。
2025・5・14
尾崎和則代表「『日本外史』は保守的な歴史書の側面も」
吉田東洋は斎藤拙堂、梁川星巌、頼三樹三郎とも交遊があり暗殺当夜藩主の山内豊範に『日本外史』の本能寺の変について講義をした後、酒宴に招かれ深酒をした帰路暗殺されました。
吉田東洋など土佐勤王党から見れば逆賊ですが、土佐藩の藩主や重臣が『日本外史』に興味を持っていたことから『日本外史』は明治維新のバイブルではなく為政者の立場にたった保守的な歴史書の側面があったと思います。
2025・5・12
見延典子「司馬遼太郎、『日本外史』に触れた一節」
司馬遼太郎『明治の国家』(NHKブックス1994)に次の一節がある。
「『日本外史』も『大日本史』と同様、朱子学的名分論でつらぬかれていますので、幕末の状況でいえば、幕府否定になります。天皇家に政権をかえすことこそ大義名分になる。そのような読
まれ方をして大いに幕末的イデオロギーの燃焼力を高めました」
一見『日本外史』の内容説明のようでありながら、「幕末の状況で」以下は『日本外史』がどのように読まれたかを書いている。従って山陽の執筆意図との間には乖離が生じているのだが、それについての言及はない。
『日本外史』を著わした山陽の意図とは何か。改めて考える日々が続く。
献本のために山陽は桐の箱を用意し、写真にも残っている。桐の箱とともに原本を見てみたいものである。
2025・5・2
見延典子「『日本外史』の展示は・・・」
桑名市博物館(三重県桑名市)で5月24日から始まる「松平定信と江戸文化」のポスターが同館のホームページで発表された。ただ頼山陽が定信に献本した『日本外史』についての記載はどこにも見当たらない。
同館に問い合せても、何を展示するかについては公開日までは公表できないという回答である。