特に記載のない場合は、見延典子が書いています。

2021・10・9 見延典子 → 山下幸太郎さん(鹿児島県在住)

「亀嶺峠にある頼山陽の石碑」④

 

 インターネット上に、亀嶺峠にある「頼山陽碑」と「萬壽山の碑」の2基らしきものが写っている写真を見つけました。(一般の方の写真です。謹んでお借りします)

インターネットの写真をお借りしました。
インターネットの写真をお借りしました。

 比較的最近の写真で、左が「頼山陽碑」、右が「萬壽山の碑」と思われます。あくまで見延の推測です。

 山下さんからのご報告では、「頼山陽碑」の高さは1、74㍍、「萬壽山の碑」は1、75㍍とあります。徳富蘇峰は0、01㍍でも山陽より高い碑を建てたかったのでしょう。いかにも蘇峰らしいと思います(笑)

 

2021・10・8  山下幸太郎さん(鹿児島県在住)→ 見延典子

「亀嶺峠にある頼山陽の石碑」③

 

亀嶺峠には「頼山陽碑」と「萬壽山の碑」の2基があるようで、整理してみると以下のようになりそうです。

 

「頼山陽碑」

昭和36月に建てられたのが「山陽頼先生経過賦詩処」であり、自然石の碑の高さは1.74メートル、幅1.05メートル、土台三段の石積みの石碑になります。石碑の表面には「山陽頼先生経過賦詩処」と刻まれ、裏面に「一嶺蟠四国」から始まる160字の漢詩が刻まれているようです。

 

「萬壽山の碑」

萬壽山の碑は頼山陽の石碑が建つ山に名前がない事が惜しいということから徳富蘇峰が命名し、昭和4年10月に頼山陽の石碑の左脇に建てられたそうです。高さ1.75メートル、幅0.77メートルあり、石碑の表面上部には蘇峰の揮毫による「世称亀齢萬年『萬壽山』及命亀嶺以萬壽之名蓋郷人之岳也能」と刻まれ、表面下部に山陽詩碑建設の趣意が刻まれており、裏面には建設に献身的な奉仕をした143人の名前が記されているそうです。

 ※山陽詩碑建設の趣意と訳文をデータでお送りします。石碑には漢文の

    みが刻まれています。本文と訳ともに『新水俣市史』参照です。

  参考にして頂ければ幸いです。

 

      錄萬壽山詩碑建設之趣意

文政元年十月嚝世大儒頼山陽先生遊於鹿児島其歸途過此

地激賞其景勝之雄大風光之壮麗爾来龜嶺臨眺之名高於天

下矣郷人恐其遺跡堙滅也久大正十五年十月機漸熟至組織

詩碑建設會受石坂川区民及水股町教育會之后援盛名赫々

徳富蘇峰先生詩其事蹟刻之於石焉應千歳之下照人耳目若

前日事不肖漾之會長松木直記高橋徳兩氏爲副會長水俣町

醫師徳永正氏督事業而石坂川校区民拮据孜之昭和三年六

月十日愈其功竣更翌昭和四年五月二十七日迎此地徳富先

生受萬壽山之佳名爰初達多年之宿望矣抑水俣者由來絋誦

之地蘇峰先生所生也本碑之建設亦有以哉今也風移俗易人

唯競進疏旧之時見此美擧徇也乃錄其沿革云爾

  昭和四年十月二日  詩碑建設會長齋藤俊三謹撰

 

(碑文解釈)

文政元年十月、嚝世の大儒頼山陽先生鹿児島に遊ぶ。其の帰途此地を過り、其の景勝の雄大風光の壮麗を激賞す。爾来亀嶺峠臨眺の名天下に高し。郷人其の遺跡の湮滅せんことを恐るゝや久し。大正十五年十月機

漸く熟し、詩碑建設会を組織し、石坂川区民及び水俣町教育会の後援を受け盛名赫々たる徳富蘇峰先生其の事跡を誌し、是を石に刻するに至る。応に千歳の下人の耳目を照らして前日の事の若くなるべし。不肖之を会長に承け、松本直記、高橋徳両氏副会長となり水俣町医師徳永正氏事業を督し、而石坂川校区民拮据是を孜む。昭和三年六月十日愈々其の功を竣わり、更に翌昭和四年五月二十七日此地に徳富先生(蘇峰)を迎え萬壽山の佳名を受け、爰に初めて多年の宿望を達せり。抑、水俣は由来絃誦の地蘇峰先生の出づる所なり、本碑の建設亦故あるかな。今や風移り俗易の人は唯新を競ひ、旧を疎んずるの時、此美挙を見る洵に欣快とする所なり。仍って其の沿革及び関係者の氏名を録すとしか云ふ。

 

  昭和四年十月二日       碑建設會長齋藤俊三謹撰

 

2021・10・7 見延典子 → 山下幸太郎さん(鹿児島県在住)

「亀嶺峠にある頼山陽の石碑」②

 

山下幸太郎さんへ

 お知らせいただき、ありがとうございます。現在、編集中の「頼山陽史跡 詩碑めぐり」ではまだ九州に至っておりませんが、いずれ掲載したい漢詩ですので、助かりました。

 下の写真は1931年(昭和6年、頼山陽没後100年) 6月、徳富蘇峰夫妻が亀嶺峠の頼山陽詩碑に駕籠で訪れた時の記事で、熊本在住の上田誠也さんが送ってくださいました。同詩碑はこの年に建立されたはずです。当時も今も不便な場所にあるようで、私は訪れたことはありません。

 実際に訪れ、写真(正面、裏面 左右面から写す)をお持ちの方は。送っていただければうれしいです。

                                              見延典子

   熊本県観光サイトより

2021・10・6

山下幸太郎さん(鹿児島県在住)

「亀嶺峠にある頼山陽の石碑」

 

こんにちは。

 鹿児島の『大口市郷土誌 下巻』に亀嶺峠にある頼山陽の石碑が所収されていました。

 水俣市教育委員会に石碑について尋ねたところ、石碑の近くの看板を作成する際に内田誠一さんに訳文等を依頼したそうで、その時の資料を送って頂きました。


二つの碑文を比べて違いがあるとすれば、大口市郷土誌に所収されている碑文の最後の行に「鶴庭汲井正則書」という文字があることでしょうか。

 石碑は水俣市に建立されていますが、内容は鹿児島を意識したものだろうと思いました。

 『大口市郷土誌』を参考に碑文を打ち込んだものと水俣市教育委員会より頂いた資料を送ります。

  ご存知かもしれませんが活用して頂けたら幸いです。

 

頼山陽ネットワーク事務局より

 情報をいただき、ありがとうございます。

 以下、「水俣市教育委員会より頂いた資料」をご紹介します。 

過亀嶺臨眺諸岳 蓋肥薩日隅分界処也   頼 山陽

    ()(れい)(よぎ)りて諸岳(しょがく)臨眺(りんちょう)す。(けだ)()(さつ)(にち)(ぐう)分界(ぶんかい)(ところ)なり。

 

一嶺蟠四国 瞰視万山低   (いち)(れい) 四国(しこく)(わだか)まり、万山(ばんざん)(ひく)きを(かん)()す。

雄抜者五六 指点自不迷   雄抜(ゆうばつ)する(もの)五六(ごろく)指点(してん)すること(おのず)から(まよ)わず。

桜岳在吾後 依依未分携   (おう)(がく)()(うしろ)()りて、依依(いい)として(いま)(けい)()かたず。

阿蘇在吾面 迎笑如相徯   阿蘇(あそ)()(おもて)()りて、(むか)(わら)いて()()つがごとし

温山与霧嶠 俯仰東又西   温山(うんざん)(むきょう)と、俯仰(ふぎょう) (ひがし)して()西(にし)す。

何図九国秀 攢簇擁馬蹄   (なん)(はか)らん (きゅう)(こく)(しゅう)攢簇(さんそう)して馬蹄(ばてい)(よう)するを。 

肥隅両湾海 渟泓碧玻瓈   ()(ぐう) 両湾(りょうわん)(うみ)は、渟泓(ていおう)たり (みどり)(はり)

列仙森玉立 鑑貌整冠笄   列仙(れつせん) (しん)として玉立(ぎょくりつ)し、(かたち)(てら)して(かん)(けい)(ととの)う。

譬之人躯幹 腰尻与腹臍   (これ)(ひと)()(かん)(たと)うれば、(よう)(こう)(ふく)(せい)となり。

此嶺是脊膂 表裡道程斉   ()(みね)()脊膂(せきりょ)にして、表裡(ひょうり) 道程(どうてい)(ひと)し。

吾今上其頂 右挈又左提   (われ) (いま) ()(いただき)(のぼ)り、(みぎ)(けっ)()(ひだり)(てい)す。

霊秘無遯隠 何異照水犀   霊秘(れいひ) 遯隠(とんいん)する()きは、(なん)(しょう)(すい)(さい)(こと)ならん。

厚福享可愧 寧無詩句題   (こう)(ふく) ()くるは()ずべし、(いず)くんぞ詩句(しく)(だい)する()からん。

恨吾無傑語 空吐気如霓   (うら) (われ)傑語(けつご)()く、(むな)しく()(にじ)のごときを()くを。

天風吹衣袂 我馬亦長嘶   天風(てんぷう) ()(べい)を吹き、()(うま)()(なが)(いなな)く。

欲笑一衡岳 当時狂昌黎   (わら)わんと(ほっ)す 一衡(いちこう)(がく)当時(とうじ) (しょう)(れい)(きょう)せしむる

             を。

  訓読と現代語訳 安田女子大学准教授・文学博士 内 田 誠 

 

亀嶺に立ち寄って、その高みより多くの山々を眺めたうた。思うにここは肥後・薩摩・日向・大隅の四つの国の境界にあたるところである。

 

ひと連なりの嶺(亀嶺)が、四つの国の境界にわだかまり、多くの低い山々を見おろしている。(亀嶺の高みから眺めると)雄々しく抜きん出ている山は五つ六つほどで、もとより迷わずに指し示すことができる。

桜島は私の後ろにあり、名残惜しくてまだ別れがたい。阿蘇山は私の面前にそびえており、笑顔で迎えて私を待っているかのようである。

雲仙岳と霧島山とは、一瞬のうちに東へ西へと身を廻らせば見ることができる。どうして推測しえたであろうか、ここからは九州の秀でた山々が、我が馬のひづめの辺りに群がり集まって取り囲むように見えることを。

肥後湾と大隅湾の二つの海は、深く水を湛えていて、その水面は碧色の水晶のように静かで澄みきっている。(それぞれの海の近くの阿蘇山と桜島は、)多くの仙人たちが厳かに直立して、海面に顔を映しながら、冠を固定するかんざしを整えているかのようだ。

山々の地勢を人の体にたとえれば、腰や尻の部分と腹や臍の部分にあたる。この亀嶺は言わば背骨に相当し、表側から登っても裏側から登っても道のりは同じである。

私は今やっと頂上にたどりついたのだが、(苦労の甲斐あって、)すぐれた景色を我が物のように、右に左にと意のままに眺めることができている。神秘的な景観が逃れ隠れることなく望めるのは、(古代中国の)東晋の政治家・温嶠が、犀の角を燃やして水底に潜む生物をあまねく照らし出したことと、どうして異なろうか。

このように大きな眼福を得たことは誠に有難く、どうして詩句を詠まないでいられようか。だが残念なことに、私は優れた詩句をひねり出せず、いたずらに白い虹のような気炎を吐くばかりだ。

空行く風は私の衣のたもとに吹きつけ、我が馬もまた長くいなないている。思えば笑い出しそうになる、衡岳[頼山陽の記憶違いで、実は「華岳」が正しい]があまりにも高く険しいので、そこに登った唐の詩人・韓愈は、そのとき下りられずに発狂して慟哭したという。(この亀嶺に比べたら、衡岳なんぞ大したものではないだろうに。)

    

一両編成の電車。乗客は観光客らしき女性と私の2人だけ。

がらんとした駅前にある観光案内板。そこに「頼山陽」の説明や「頼山陽詩碑」の写真やを見つけて、ややテンションがあがる(笑)

オレンジ鉄道「牛ノ浜」駅前に広がる海
オレンジ鉄道「牛ノ浜」駅前に広がる海

右の案内板の下方を拡大すると…

2018・10・25

鹿児島県阿久根市

「頼山陽公園の頼山陽詩碑」

 

熊本と鹿児島をまたいで走るオレンジ鉄道に揺られて「牛ノ浜」へ。

「阿久根」の次の駅が「牛ノ浜」

急に海が開ける。「牛ノ浜」も「米ノ津」と同じく無人駅である。

オレンジ鉄道「牛ノ浜」駅前
オレンジ鉄道「牛ノ浜」駅前

このような案内板に「日本政記」が出てくるとは。さすが薩摩である。

「薩摩街道」の標識
「薩摩街道」の標識

さらに進むと「頼山陽公園」の標識が見えてきた。

誰とも出会わないまま、てくてく歩く。やがて「薩摩街道」の標識。「米ノ津」から伸びている街道。間違いなく頼山陽も歩いた道である。

「阿久根県立自然公園、普通地域、牛之浜公園」の標識もあり、高台にようやく目指していた詩碑が。


かなり落剝しているが、次のように書いているようだ。文字の並びは原文のまま。「牛の浜」と書きこまれている。なるほど。

山陽詩碑建立の辞

詩聖山陽が西遊の途次薩摩路に入っ

たのは文政元年九月八日であった

偶〃阿久根の勝景に打たれ 当時の商

傑河南家に旅装を解き 長期滞在する

内当牛の浜沿岸を逍遥 其の雄大なる

自然の景観を賞してこの有名な詩を

賦したと傳へられる 爾来幾星霜今日

轉〃感慨大きを得ない この地を卜して

詩碑を建て懐古のよすがとする

昭和二十八年三月二十三日

 県立公園指定の日

  阿久根市長 松田進

これも「危礁」か
これも「危礁」か

裏というか、こちらが表なのだろう。山陽の漢詩が刻されている。

 

危礁乱立大

西南不見山

影低迷帆影没

天連水處是台湾

 

頼山陽公園から「台湾」を望む
頼山陽公園から「台湾」を望む

奇岩が波間に乱立し、南西を見ても山一つ見えない、低く飛んでいた鳥の影も白い帆影もいつしか消えた、天と水が連なるところが台湾だろう、というほどの意味だろうか。山陽が「台湾」を知っていたことも興味深い。

 

 

九州新幹線「出水」で下車、オレンジ鉄道で北に一駅「米ノ津」から、山陽と同じく、一人で「てくてく」

「薩摩街道」の面影のある道をてくてく。
「薩摩街道」の面影のある道をてくてく。

15分ほど歩き、インターネットで見た「野間の関」跡に到着。

「薩摩街道出水筋」をはさんで「江戸」と「薩摩」の標識。これを見て、米ノ津駅からだと、薩摩側から歩いてきたことに気づく。
「薩摩街道出水筋」をはさんで「江戸」と「薩摩」の標識。これを見て、米ノ津駅からだと、薩摩側から歩いてきたことに気づく。

 明治に入り、すべて取り壊され、残っているのは古井戸だけ。大正12年に惜しむ声があり、石碑が立てられた。揮毫は東郷八郎。木の枠で口型につくられた出入り口も後世、模して造られたのだろう。

2018・10・24

鹿児島出水市「野間の関」跡

 

2018年10月22日、文政元年(1818)9月、九州遊歴中の頼山陽が通過するのに難儀したという「野間の関」を訪ねる。

歩きはじめてほどなく、街道の雰囲気があることに気づく。かつて「薩摩街道」と呼ばれた道なのだ。車で来たら、気づかなかっただろう。

 乗らなかったけど、バス停もある。
 乗らなかったけど、バス停もある。

途中、親切なオバサンが道案内してくれる。こんな出会いも旅の楽しみ

   「野間の関」跡。見学無料。
   「野間の関」跡。見学無料。
 江戸時代の「野間の関」の様子。
 江戸時代の「野間の関」の様子。
石碑に「野間の関」東郷平八郎の筆による。
石碑に「野間の関」東郷平八郎の筆による。

周囲には温州みかんが実っている。

「歴史学者の頼山陽等が入国に苦労した」の記述も確認する。

西村緋祿史先生の挿絵。「頼山陽」から。
西村緋祿史先生の挿絵。「頼山陽」から。

小説『頼山陽』では西村緋祿史先生がその場面を描いてくださった。そういう意味でも訪ねたかった地。

別の角度から見た「野間の関」跡。
別の角度から見た「野間の関」跡。

近くにある有村雄助首実検の地(写真左)安政7年(1860)安政の大獄の実行犯薩摩藩士有村次左衛門の兄雄助は、挙兵を促すため薩摩藩に戻り、切腹を命じられる。身柄の引き渡しを求める幕府の役人はこの地で首実検を行った。

 


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら