特別に記載がない場合以外、見延典子が執筆しています。

 

半年前まであった「礼拝堂」が撤去されて、がらんとしている(右)。

撤去された礼拝堂(ネットより)
撤去された礼拝堂(ネットより)

お参りしたあと、頼山陽文徳殿へ。

庭には梅や桃など春の花々が咲きはじめている。

 

 

2018・3・16

整備が進む陸軍墓地

 

広島市の「比治山の平和の丘」構想の進捗状況が知りたくて陸軍墓地(広島市中区)に行ってみた。

正直、撤去された建物が「礼拝堂」であったことを初めて知る。

頼山陽文徳殿(左)も周囲の樹木の伐採が進んでいるのか。以前に比べ、全貌が見えやすくなっている。


頼山陽文徳殿の前に咲く花
頼山陽文徳殿の前に咲く花

2017・11・23

頼山陽文徳殿を考える35

「広島市長を訪問」

 

私が投げかけた疑問に対して、複数の情報が寄せられた。それらついては裏付けが得られれば、いずれ書いていきたいと思う。


ところで22日、ある方にお声をかけていただき、広島市役所に松井市長をお訪ねした。もちろん話題は頼山陽文徳殿についてである。私は「頼山陽文徳殿を考える」に書いてきたことをそのままお伝えした。頼山陽文徳殿の整備がつつがなく進むことを願っている。

 

 

比治山に咲く山茶花
比治山に咲く山茶花

これは広島鎮台の設置に合わせての整備だったという。準備の良い話ではある。現在の靖国神社が東京招魂社と呼ばれ、広島護国神社はまだその前身の官祭招魂社とも称されていなかった時代の話である。

比治山公園にある案内図
比治山公園にある案内図

2017・11・22

頼山陽文徳殿を考える34

「国有地」

 

いわゆる「国有地」という概念ができたのは、明治に入ってからである。藩有地だった比治山が国有地になり、最初に整備されたのは明治5年の陸軍墓地である。

現在の陸軍墓地
現在の陸軍墓地

比治山に公園をつくることに尽力したのは、拙著『汚名』でもモデルとした広島市長の伴資健である。国有地だからこそ公園化が進み、御便殿が移築されたり、総理大臣加藤友三郎の銅像がつくられたのだろう。


そして昭和9年、頼山陽文徳殿が建てられた。広島市の配布資料によれば設計者は広島市営繕課。施工者は不明。「広島産業博覧会の余剰金一万円と建設翼賛会(会長光本鳳伏)が出版した遺墨集の売り上げ三千円で建設することとなった」「鉄筋コンクリート造り、平屋建て本瓦葺き(昭和58年度屋根を補修し現在はカラーベスト葺き)。延床面積132、49㎡(40、07坪)。20畳ほどの広間一室」

 

ここまで書いてきて、どうしても腑に落ちないことがある。国有地である比治山公園に、なぜ松谷さん宅があるのかという点である。それとも私有地なのだろうか。

                      

 

戦後掘削された道。文徳殿を望む
戦後掘削された道。文徳殿を望む

2017・11・21

頼山陽文徳殿を考える33

「安養院」

 

至近距離のある「頼家之墓」と「頼山陽文徳殿」。にもかかわらず行き来できない理由とは何なのか? 

 

問題を投げかけたものの、残念ながら私にはわからない。いや、冗談ではなく、本当にわからないのだ。


わかっている範囲のことを時系列に書いていく。

 

「頼山陽文徳殿」ができるずっと以前、江戸時代後期、現在「頼山陽文徳殿」が建っている場所には「安養院」という寺が建っていた。

 

この「安養院」という寺の名前もさることながら、安養院が現在「頼山陽文徳殿」のある場所に建っていたという事実を知っているのは、おそらく日本中に10名もいないだろう。そのくらいレアな話題である。

 

「頼家之墓」は当初、安養院の敷地内につくられ、頼景譲や頼春水が葬られた。頼山陽も再三墓参したことは『梅日記』にも書かれている。頼杏坪も、頼梅も、頼一族の多くはここで眠っている。

 

さて、ここからは私の想像であるが、当時、安養院並びにその敷地は広島藩のものであった。しかし明治に入り、幕府や藩の土地の多くは「国有地」という名目で、政府のものになった。しかも廃仏希釈が重なる。安養院が他所に移転したのはこのうちのいずれか、あるいは両方の影響を受けたからではないか。

 

結果として安養院にあった「頼家之墓」は隣接する多聞院が管理するようになる。安養院が建っていた場所は、今、書いた通り「国有地」になった。広島市の担当の方は「頼山陽文徳殿の敷地は国有地」と話されていた。話は符合する。

 

広島市の配布資料
広島市の配布資料

右の地図は、広島市が発行する「比治山公園『平和の丘』基本計画『概要版』」のコピーに、見延が「☆」「□」「△」を書きこんだもので、

「☆」は頼山陽文徳殿、「□」は頼家之墓。ではそのあいだにある△は何かというと、10日、11日、広島県の「たてものがたりフエスタ2017」で講師をつとめた松谷さんのお住いである。

改めて整理しよう。「頼家之墓所」の南側のすぐそばに頼山陽文徳殿がある(写真右、「→」方向)。

別の角度から見た写真が下で「↑」方向に頼山陽文徳殿がある。

2017・11・19

頼山陽文徳殿を考える32

「広島市の配布資料に、書かれていることと書かれていないこと」②

 

建てられた経緯から考えて、「頼山陽文徳殿」と多聞院の敷地内の「頼家之墓」は明らかに関連性がある。両所の位置関係については、下の地図をご覧下さい。

☆頼山陽多聞院、□頼家之墓(多聞院敷地内)、△松谷さん宅。2017年11月現在
☆頼山陽多聞院、□頼家之墓(多聞院敷地内)、△松谷さん宅。2017年11月現在

左の写真は「たてものがたりフエスタ2017」で広島市が配布した資料に「1935年(昭和10年)頃」として掲載された頼山陽文徳殿の全景である。「↓」は見延が書きこんだ。「↓」下に建物らしきものが見える気もする。松谷さんが当時から住んでいた家かは不明である。

頼家之墓から頼山陽文徳殿まで歩いていこうとすればまで歩いていこうとすれば、どんなにゆっくり歩いても30秒で着くだろう。そのくらいの至近距離である。にもかかわらず、現在、私たちはこの至近距離を歩くことができない。なぜなのだろうか?

 

 


そもそも頼山陽文徳殿は、昭和9年「頼山陽廟」として建設されたという。「廟」とは「先人の霊を祭る建物」というほどの意味である。頼山陽の墓は京都の長楽寺にあるので、山陽が育った広島の地では「廟」を建てようとしたのであろう。

頼山陽文徳殿と「頼家之墓」はセットと考えてこそ歴史的な意味、意義がある、と受けとめてよさそうな一文である。にもかかわららず、現在、頼山陽文徳殿と「頼家之墓」は分断されてしまっている。なぜなのだろうか?

 

 

2017・11・16

頼山陽文徳殿を考える31

「広島市の配布資料に、書かれていることと書かれていないこと」

 

広島県の「たてものがたりフエスタ2017」の一環として、頼山陽文徳殿で行われた「建物説明会」。そこで広島市から配布された資料には、これまで本連載では書いていないことがあるので、ご紹介しよう。

広島市から配布された資料には、続けて「建設地は比治山の頼家一族の墓所の隣接とし…」とある。ここに出てくる頼家一族の墓所とは、頼山陽文徳殿の西側、多聞院にある「頼家之墓」を指す。つまりまず「頼家之墓」があり、それゆえ「頼山陽の廟」たる頼山陽文徳殿が現在の場所に建設されたという流れになる。

今年7月15日の「頼家之墓」
今年7月15日の「頼家之墓」

頼山陽像の目や手に関する話や、松谷さんが作ったという模型の説明などが行われたあとは、自由見学。

玄関を入って左手の部屋
玄関を入って左手の部屋

天井の明り取りの窓を見上げて、「うーん」と唸る。

今年9月6日
今年9月6日

2017・11・14

頼山陽文徳殿を考える30

「建物見学会」②

 

頼山陽文徳殿の外での話が終わったあと、文徳殿の中に入り、引き続き松谷さんの説明を聞く。

内部もまたさっぱりときれいになっていることに、ここでも驚く。

玄関を入り右手の部屋
玄関を入り右手の部屋

「建物説明会」ということからか、頼山陽についての言及はいっさいなかった。

 

 


募集は各回20名
募集は各回20名

驚いたのは、頼山陽文徳殿前の草が刈られていたこと。私は20年あまり頼山陽文徳殿に足を運んでいるが、このようにさっぱりした光景を目にするのは初めてである。

西側もスッキリ。
西側もスッキリ。

松谷さんによれば、頼山陽の直系頼成一さんから、松谷さんの父親が「頼山陽文徳殿の管理をしてほしい」と頼まれたという。頼山陽文徳殿は広島市の管理下に置かれていたと考えていたが、頼成一さんのご判断によって、頼山陽文徳殿の管理人の指名できたのか。

2017・11・11

頼山陽文徳殿を考える29

「建物見学会」

 

10日、11日、広島県の「たてものがたりフエスタ2017」の一環として、頼山陽文徳殿で「建物説明会」が開かれるというので、参加した。

11月10日、頼山陽文徳殿前
11月10日、頼山陽文徳殿前

感嘆する間もなく、説明会が始まる。この日の講師は長く頼山陽文徳殿の管理人だったという松谷せいじさん(お名前の漢字は不明)

講師の松谷さん
講師の松谷さん

一方で、松谷さんは「広島市になんども鍵を返しに行ったが、受け取ってもらえなかった」といい、にもかかわらず「文徳殿の屋根の修理を広島市に頼んだが、監視風情(管理人のことらしい)が文句をいうなといわれた」と、このフレーズを2度繰り返したあと、「今日は広島市批判のようですね」と語った。

 

          続きます。


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

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『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

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