明治の広島②頼山陽文徳殿を考える 頼山陽文徳殿を考える②もお読みください。記載がない場合、見延典子が執筆しています。

2017・11・1 11月10日、11日、山陽文徳殿の一般公開

 

「たてものがたりフエスタ2017」の一環として山陽文徳殿が一般公開される。

 

建物説明会

■日時:11月10日(金曜日),11日(土曜日)15時30分~16時30分
■定員:各回20人
■参加費:無料
■集合場所:玄関前
■申込み:電話またはメールでお申込ください。
■問い合わせ先:広島市営繕課 082-504-2730 eizen@city.hiroshima.lg.jp

江戸,昭和,そして今を繋ぐ

江戸時代後期の漢詩人、頼山陽の没後百年祭を機に、昭和9年に建てられた施設。和風のデザイン要素を抽象化しながら当時最新のコンクリート技術と調和させる意欲的な設計であり、室内装飾は被爆前の姿をとどめています。ふだんは非公開ですが11月10日、11の2日間は特別に公開します。
 竣工:1934年 設計:広島市建設局営繕課(当時)  

 住所:広島市南区比治山町7-1

 

 

2017・9・25  頼山陽文徳殿を考える28「山陽記念館」

 

「頼山陽文徳殿」が昭和9年に建てられたことは書いたが、翌年の昭和10年に建てられていたのが「山陽記念館」である。

広島県立文書館の資料デジタル画像より
広島県立文書館の資料デジタル画像より

「山陽記念館」は西隣に日銀ビルがあったことから、昭和20年の原爆投下の際も全壊は免れた。平成7年に現在の「頼山陽史跡資料館」に建て替えられた。「山陽記念館」は鉄筋2階建てだったという。写真を見てもなかなかの建物だ。


昭和4年、頼山陽先生遺蹟顕彰会が設立され、同会が中心になって「山陽記念館」が建設されたのである。おそらく「頼山陽文徳殿」の建設にも大きな働きをしていたであろう。現在でも顕彰会と名のつくところには地元の政治家や名士が加わっていることが多く、頼山陽先生遺蹟顕彰会も例外ではなかったと思うが、残念ながらどのような方々が会員として名を連ねていたかは今のところ資料がなく、わからない。

 

頼山陽先生遺蹟顕彰会は平成3年頼山陽記念文化財団と名称を変え、現在に至っている。私も役員として末席を汚している。

 

 

「戦前の面影」を探していると、多聞院の本門の前になにやら石碑らしきものが建っているのに気づく。

近づいて、草木をかき分けると「御大典記念」と読める。昭和3年、昭和天皇の即位を記念して坂本某という人物が建立したらしい。昭和天皇は皇太子時代の大正15年、比治山にあった御便殿を訪ねているので、それに因んで建てたのであろうか。草木が邪魔をして、写真に収めるのも難しい状態である。

 「楠公追慕の塔」が建つ一画 多聞院にて
 「楠公追慕の塔」が建つ一画 多聞院にて

上の写真、右手の黒石の碑文は、神戸湊川神社にある水戸光圀公の文句を模写し刻字したものという。広島でも戦前は楠木正成の人気が高かった様子がうかがえる。サンケイ新聞記者に報告したいような話である。このようなものが神社ではなく、寺にあるというところが不思議に思えるが、ご住職によれば、真言宗は間口が広いというお話であった。

 

 

 

 

2017・9・9

頼山陽文徳殿を考える27

「戦前の面影を探して」

 

頼一族の墓所がある比治山の多聞院にご住職のお話を伺いに行く。早めに着いたので周辺を散策。

多聞院の本門側から通りを見る。
多聞院の本門側から通りを見る。

比治山に上がるメインストリートに面して建っているのに、草木に覆われ、埋没しそうな感じ。

多聞院に戻り、昭和14年に築造されたという「楠公追慕の塔」を見学する。拙著『竃さらえ』に収録した「非利法権天」のもとになった「非理法権天」と書かれた碑を見つけて、ひとりニヤリ。

「非利法権天」ではなく「非理法権天」です。『非利法権天』を読んでくださった方にはわかる話。
「非利法権天」ではなく「非理法権天」です。『非利法権天』を読んでくださった方にはわかる話。

 天井の明りとりにも歳月の流れ
 天井の明りとりにも歳月の流れ

少し前、東京から広島の歴史を調べている方を「頼山陽文徳殿」に案内したところ(外観しか見られなかったが)、たいそう喜んで下さった。広島市に来て、近代史を感じられる場所が「頼山陽文徳殿」にあったというのだ。案内した甲斐があった。広島市の生涯教育課の担当者からお話を聞いても「頼山陽文徳殿」が少なくともこの2、30年放置されていたことは疑う余地がない。

ブルーシートの下に何があるのか?
ブルーシートの下に何があるのか?

20数回にわたって「頼山陽文徳殿」を書いて、最も強く感じたのは、頼山陽没後、明治から昭和にかけて経験してきた闇が、かくも近くにあったことへの驚きである。引き続き、「頼山陽文徳殿」を考えていく。広島市の近代史に光を当てることは、広島市に陰影を与え、必ずや益するものと信じている。

 

 

2017・9・6

頼山陽文徳殿を考える26

「近代の闇」

 

「頼山陽文徳殿」の輪郭のようなものを書いてきた。興味を示してくれた方と、まったく興味を示してくれない方と、受け取られ方は二つに分かれたようだ。その差がどこから生まれるのか、私にはわからない。

 天井板は意匠が凝らされている
 天井板は意匠が凝らされている

だが逆にいえば、放置されたおかげで「頼山陽文徳殿」には広島の歴史から消えようとしている近代史が残されることになった。広島市にとって貴重な財産であると思う。ただ、そんなふうに考えない方がいるのかもしれない。それが作為的なのか、勉強不足が招く悲劇(または喜劇)なのか、これも私にはわからない。

頼山陽像の下に何やら。解明が待たれる。
頼山陽像の下に何やら。解明が待たれる。

肖像写真は光本鳳伏。どこかで聞いた名前だと思ったら、『山陽先生の幽光』(大正14年刊)の口述者であった。頼山陽を調べる者なら一度は手にする本である。本名は半次郎。安政4年(1857)竹原で生まれ、昭和23年(1948)92歳で亡くなり、照蓮寺に葬られる。

戦前に移したと思われる頼山陽文徳殿
戦前に移したと思われる頼山陽文徳殿

2017・9・4

頼山陽文徳殿を考える25

「光本鳳伏」

 

頼山陽像に向かって左には肖像写真と「百働大学」と書かれた額が並べて置かれていた。広島市役所の担当者の話によれば、頼山陽文徳殿は戦後から昭和50年代ころまで書道教室が行われて、その頃のものだという。「百働」の意味は今のところ不明。ご存じの方は教えてください。

竹原小学校の前身「薫陶館」で子弟の育英に当たり、賀茂郡議会議員などさまざまな分野で活躍をしたという。竹原町並み保存地区にある春風館のほぼ隣に建っているのが光本邸である。もっともその光本鳳伏が「文徳殿建設翼賛会会長」を務めていたとは知らなかった。


ところで光本鳳伏の肖像写真と「百働大学」の額の他に、昭和19年新緑の季節、光本鳳伏が記した文章も額に収められ、置かれている。

中盤に「将に聖山の上に山陽神社を創建有らんとす」とある(漢文に詳しい方へ。間違っていれば、教えてください)

山陽神社についてはこの頃には建設が決まっていたが、敗戦によって消滅した。建設地については不明であったが、ここにある「聖山」とは比治山と考えるのが自然ではなかろうか。

 

 

 

広島市の担当者によれば、製作者は早稲田大学の大隈重信像を制作した朝倉文夫の弟子にあたる富樫政人。

修道学園の校庭にある山田十竹の像も手掛けているという。

 

頼山陽像は竹原市、熊本県苓北町、頼山陽史跡資料館のほか、掌の上にのせられるサイズの頼山陽像も2体見たことがあるが、この像が最も古いと思われる。材質についても訊ねたが、不覚にも失念。いわゆる木像ではない。全体に損傷などはないようだ。埃の溜まり具合に歳月の流れを感じる。

2017・9・1

頼山陽文徳殿を考える24

「頼山陽像」

 

頼山陽像に近づいてみる。


頼山陽文徳殿 2017年8月9日
頼山陽文徳殿 2017年8月9日

以前書いたように、12、3年前、私を含む60名余りは「頼山陽文徳殿」を訪ねたにもかかわらず、当時、鍵をもっていた方が開けてくれず、やむなく引き返すという前代未聞の経験をしている。内心、疑心暗鬼であったが、約束の時間に訪ねると、すでに玄関は開いていた。

数十畳、いや、もっと多くの畳が敷き詰められている広間で、今でいうワンフロア。靴を脱ぎ、振り返ると、下の写真のような感じ。

2017・8・30

頼山陽文徳殿を考える23

「頼山陽文徳殿に入る」

 

20日余り前になるが8月9日、広島市生涯学習課の担当者のご好意で「頼山陽文徳殿」の内部に初めて入る機会を得た。

今まで「頼山陽文徳殿」と書いてきたが、よく見れば「山陽文徳殿」とある。どちらがいいのかご意見をお願いします。
今まで「頼山陽文徳殿」と書いてきたが、よく見れば「山陽文徳殿」とある。どちらがいいのかご意見をお願いします。

玄関を入ると、正面に像が見える。ここに頼山陽像があるのは知っていたが、見るのは初めてである。

 玄関を入って右手の様子
 玄関を入って右手の様子

昭和6年(1931)に建設が決まり、昭和9年に建てられたというから、83年前の建物である。

                          続きます

 

 

2017・8・29頼山陽文徳殿を考える22「頼山陽という幻想」

 

明治37年(1904)の日露戦争での勝利後、大正3年(1914)から第一次世界大戦が始まる。ここでも日本はアジア唯一の勝利国になり、好景気が訪れるが、長くは続かず、大正12年(1923)の関東大震災、昭和2年(1927)の金融恐慌が起きる。

 

この間、日本が積極的に投資していたのが満州である。南満州鉄道を手に入れる。旅順や大連には日本人街ができる。だが大正11年(1922)辛亥革命が起き、翌年、中華民国が成立。満州を巡る情勢が流動的になる。そこで起きたのが昭和6年の「満州事変」。

 

「満州事変」について、広辞苑には「奉天北側の柳条湖の鉄道爆破事件を契機とする日本の中国東北侵略戦争。十五年戦争の第一段階。翌1932年には満州国を樹立。華北分離工作を経て、日中戦争に発展」とある。

 

その後の日本の行方に大きな影響を与えた「満州事変」と「頼山陽文徳殿」の建設とを結びつけて考えるのは無理があるだろうか。無から有を生み出すこと。妄想を現実に変えること。小さな誤解を大きな確信にかえること…。

 

「張りぼて」のような様相を呈していた国家が、誰が名づけたのか「大日本帝国」という名称を繰り返すうち、確かにそこに「大日本帝国」があるような気持になってくる。そのような幻想を、人々は「頼山陽」の上にも見た。その末に「頼山陽文徳殿」は建設された。

 

「近代史」を教えれらないまま大人になった私たちの中には、今も幻想の中で生きている人が少なからずいる。そして幻想が醒めやらぬまま「被爆建物」の言葉を突きつけられる。

 

 

2017・8・26 頼山陽文徳殿を考える21「昭和6年という年」

 

江戸時代に頼家の墓所があった「安養院」と、現在、頼家墓所がある「多聞院」について長々と書いているのは、そのあたりを精査していかなければ、「山陽文徳殿」が建てられた全容が見えてこないと思うからだ。

 

「頼山陽文徳殿を考える」の第1回目で書いたように、広島市が「頼山陽文徳殿」を被爆建物としてくくり、「これでおしまい」にしようとするなら、「それは違いますよ」と言い続けていかなければならない。

 

そのために本連載を開始し、皆様からも多くのご意見、調査報告をいただきながら、すでに20回を越えた。しかも書き続ける熱量は減るところ増え続けている。この力はどこからくるか不思議である。

 

さて、長く書き続けてきたにもかかわらず、未だに触れていないこと、そしてこれこそが「頼山陽文徳殿」が建てられることになった大きな要素と思われることがある。昭和6年という年だ。

 

昭和6年(1931)は頼山陽が亡くなった天保3年(1832)から数えて100年にあたる、100年を区切りとして記念式典が行われるというのはわからない話ではない。むしろ世間にはよくある話である。

 

しかし東京で行われた100年祭で総理大臣が祝辞を述べたり、NHK第二放送で5時間も生中継をしたり、広島の式典では旧藩主がかつて脱藩を図った者を「先生」と呼んだりするのは、やはり何かおかしい。

 

そこで改めて昭和6年という年を振り返ってみた。昭和6年9月、「満州事変」が起きている。 

                        続きます。

 

 

2017・8・25 麻生由紀さん「多聞院と安養院」

 

明治5年に多聞院の住職は、多聞院と安養院を兼務していたということがわかりました。

 

広島市史の社寺誌(昭和471212日発行)

本書は大正11年から大正14年にかけて広島市役所編纂により刊行されたものを原本として復刻した。安養院があります。

 

比治山の山復(原文ママ)にありしが、明治維新後、維持困難なるに至り、明治30814日蟹屋村荒神堂に合併し、其境内に移転せり。

比治山腹の西方に突出るせる丘地は、もと「雛の山」と唱え、当院奮時の境内たり 南は厳島靑螺の如く海上に浮び、西北は満城を一眸の中に収め、天然の風色いふ計りなく、四時遊客絶へずと雖も、殊に三月雛の節句には、老幼の士女、行厨瓢酒を携へ此處に登臨するを例とし、衆庶の群集せるを以て、其名に呼びけるといふ、今は全山すべて公園にして到る處

(中略)往時当院の境内は甚だ廣く、512歩御免租もありしが・・・

 

この資料の多聞院のところにある、頼春水の墓 儒家(もと安養院の境内)

 

文徳殿の土地は江戸時代に藩が所有していたのか、この資料では安養院ような気がします。頼家の墓は移動せず、多聞院の所有になったと考えてもいいのでは。

 

 

 

2017・8・24 麻生由紀さん 🔁 見延典子「多聞院」

 

見延典子さんへ

 

本日送った図の文章は多聞院の歴史が書いてあります。

ちょっと時間がかかりそうです。

 

当山ハ金剛吉祥如意宝珠山光明遍照寺多聞天王院ト称シ

其元ハ人皇七十七代後白河天皇ヨリ起リ治承四年三月ニ至リ

高倉上皇厳島御幸ノ際 霊夢ニヨリ・・・

 

多聞院の前住職の著作の『多聞院』に頼家一族の墓というページがあります。

 

明治37年ごろまで頼山陽文徳殿の場所にあった元安養院の管理墓地で、新しい毘沙門天本堂の右下(南西)道を上がった所にある。

 

『多聞院』の中に 大正64月には頼諸先生の学徳を追慕して、墓地の修理と墓地前面の土地を買入れる計画をたてて、有志の協力を呼びかけた。

                          麻生

 

麻生由紀様

 

ご連絡いただきましたが、残念ながら文意を読みとれません。再度お訊ねします。

 

Q1、現在、多聞院内にある「頼家墓所」は、明治37年ころまで「山陽文徳殿」の場所にあった「元安養院」の管理墓地だった、という意味ですか?

 

Q2、大正6年4月になって、頼諸先生の学徳を追慕して、多聞院が「元安養院」の管理墓地だった「頼家墓所」を修理し、かつ前面にあった土地(現在、山陽文徳殿が建つ場所)を買い入れる計画を立てて、有志に協力を呼かけたという意味ですか?

 

Q3、結局、それらの計画は実現したのでしょうか?

 

よろしくお願い致します。

                          見延典子 

 

 

2017・8・24 頼山陽文徳殿を考える⑳

                 麻生由紀さんから多聞院の絵

 

麻生由紀さんが『広島県神社仏閣図録』(明治34年刊)に掲載されている多聞院の絵を送ってくれた。

右に書かれている文字が小さすぎて読めません。

麻生さん、なんと書いてあるか、お知らせください。

少なくとも「頼家墓所」は描かれていないようですが…。

 

広島市にある比治山は標高70mの小高い丘
広島市にある比治山は標高70mの小高い丘

2017・8・23

頼山陽文徳殿を考える⑲ 国有地

 

「山陽文徳殿」は、昭和9年(1934)に完成した時から広島市が管理していると広島市生涯学習課の担当者は話す。


さらに担当者の話によれば、「山陽文徳殿」が建っている土地は「国有地」で、そこに広島市からの支出や民間からの寄付によって「頼山陽文徳殿」が建てられた。設計は市営繕課(当時)が行ったそうである。

 

振り返れば、比治山は江戸時代、広島藩の藩有地であったが、明治に入り、「国有地」になった。明治6年、政府が行った地租改正は土地制度改革としての側面をもち、幕府、諸藩の土地はもちろん、所有者が不明の土地は没収された。これが「国有地」の実態である。

 

頼家の墓地があった安養院も、この土地政策の上に、廃仏毀釈という極端な思想政策のあおりを受けて消滅した可能性もある。いずれ多聞院にお尋ねしたいと思っている。

 

比治山に陸軍墓地があり、御便殿が移築され、総理大臣をつとめた加藤友三郎の銅像や、農林大臣や大蔵大臣をつとめた早速整爾の銅像があったこと、さらに戦後、日本とアメリカによって放射線影響影究所が設立された理由の一端が、以上から明らかになった。

 

「山陽文徳殿」も広島市が設計、建設に携わり、管理した側面はあるにしろ、政府の関わり抜きに建設されることはなかったのである。

                         続きます。

             

2017・8・19 山根兼昭さん → 進藤多万さん

                                 「芝居『頼山陽』を見た生き証人に感慨」

 

頼山陽100年祭を記念して作られた比治山の「頼山陽文徳殿」につきましては、いろいろ先生方の検証によって、貴重な報告があり現状を知ることが出来たことは、頼山陽ネットワークならではの成果であったと思います。

 

この度、進藤多万さんより、昭和47年、杉浦正治主演「頼山陽」の公演記念手ぬぐいのご披露があり驚きました。新制作座創立20周年記念公演「頼山陽」のことは先日、概略此の紙面で報告致しましたが、こうしてその舞台を見たという生き証人がおられたことは、一層頼山陽を身近に感ずる思いです。

 

今年も、72回目の終戦記念日を迎えたばかりですが、戦前、あれだけの存在であった頼山陽は、この72年間 残念ながら見る影もありません。

 

この6~7月、尾張旭市民塾のアンケートに、異口同音の描かれていたことは、「初めて頼山陽の偉大さを知った、もっと広く多くの人に知らせてほしい。」

 

講座はもうこれで最後と思っておりましたが、来年は明治維新から150年、「明治維新の仕掛人・頼山陽ー日本外史」をテーマに行うことを約束してしまいました。

 

 

 

2017・8・18 進藤多万さん「芝居『頼山陽』のてぬぐい」

 

1972年でしたか? 賴山陽の芝居が広島に来たとき、配られたてぬぐいです。

 

「羽虫はなぜか知らんだろう。それでも飛ばずにはいられないんだよ」

 

というせりふが変体仮名で書いてあります。今では誰も読めないかも・・・。

 

幕のおりたあと、父母と一緒に、舞台上に案内されて、ハンサムな春水先生以下みなさんにお辞儀され恐縮しました。

 

羽織の双瓶子の紋が「草加せんべい」くらい大きく舞台美術の一端をのぞいたような気がしました。

 

花も恥じらう22歳の私でした。

 

何でも取っておく家系で・・・。断捨離とは程遠いです。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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