特に記載のない場合以外、見延典子が執筆しています。
日本の近代化は鉄と共に歩む。「近代化」という言葉は、この場合「戦争」という言葉と同義語でもある。明治27年(1894)日清戦争後、岩崎=三菱が表舞台に現れる。
「土佐の下士だった弥太郎の子孫は後藤象二郎、松方正義らと姻戚関係を結ぶ。明治22年、三菱の大番頭川田小一郎が日銀総裁になり、弥太郎の弟弥之助は日銀と三菱の上に君臨。日清戦争後、低い地位しか与えられていなかった〃商人〃は社会的な評価が変わり、弥之助と弥太郎の子の久弥には男爵が授けられる」
2018・6・2
軍艦島④
ブラックダイヤモンドと呼ばれる石炭は何のために採掘されたのだろうか。暖房用? 鉄を作るためだ。
「岩崎弥太郎は日本の海運業を独占し、大久保利通や大隈重信の後ろ盾に軍需品輸送を一手に引き受けていたが、その財力で高島炭鉱や長崎造船所を経営し、東京海上保険を支配下におさめる。日清戦争前後には筑豊炭田に進出し、九州の鉄道を手に入れ、石炭輸送の実権を握り、押しも押されぬ大政商になった」
上記「」内は『日本の歴史22』(中央公論社)の要約である。
このシリーズは日本の歴史がわかりやすく書かれ、ベストセラーになった。ただ、それでも歴史の底に生きていた人々についての言及は少ない。無人島になった軍艦島で、歴史に翻弄された人々に思いを馳せる。
「軍艦島に行く予定」と話した時、
軍艦島に行ったことのある人から「あそこには何もないよ」といわれた。一人ならず、二人から同じことをいわれた。何もない? 彼らはいったい何を見たのだろうか。
海底炭鉱である軍艦島の採掘作業は海面下1㎞以上の地点に及んだ。慣れない作業員は乗り物に乗せられ、一気に地下に下ろされると、失神したという。しかも採掘現場は気温30度湿度95%という悪条件で、ガス爆発との危険と隣り合わせであった。ガイドは悲惨な事故がなんども起きたと話した。最盛期には5300人もの人が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度に達した。
続きます。
2018・6・1
軍艦島③
世界文化遺産の軍艦島は入島が厳しく制限され、私たち観光客が歩けるのは全体の十分の一ほど。柵がつくられた道沿いに進んでいく。
この島を三菱が10万円で買収し、本格的な石炭採掘が始まったのは明治23年(1890)。私の高祖父が四国徳島から屯田兵として北海道に向かったのは明治22年。ここ軍艦島では「殖産興業」、遠く北海道では「富国強兵」という明治政府が掲げていた二大スローガンが実行に移されていたのだった。
さながら「海上に突如現れた廃墟」というところか。異様な光景に圧倒される。観光客の写真撮影のためクルーズ船は島の周囲を一周。
南北の約480m、東西に160m
周囲1200m。面積65000㎡頼山陽が長崎を訪ねた1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩による採炭が行われていたという。明治23年(1890)三菱が鍋島孫六郎から10万円で買収し、本格的な採掘が始まったのだった。
2018・5・30
軍艦島②
長崎港を出航して約30分で高島。高島からさらに約10分ほど、クルーズ船に揺られたところで、前方に軍艦島が姿を現す。
正式名称は「端島(はしま)」というが、その姿が軍艦土佐に似ていることから通称「軍艦島」と呼ばれるようになったという。土佐は岩崎弥太郎の出身地でもある。
当初、草木のない水成岩の小さな島で、現在の三分の一ほどの大きさであったが、石炭採掘後の「ぼた」を使って埋め立てを繰り返すことにより、現在の形になった。クルーズ船が接岸し、上陸した私たちが歩くのは、その「ぼた」の上である。
続きます。
2018・5・27 軍艦島①
明治の広島について書いているが、番外編として、先日旅猿ツアーで長崎まで行った際、軍艦島まで足を延ばした。そのリポートです。
やや不愛想ながら「うまい」「安い」に大満足。なんとなく良い一日になりそうな予感。そのまま近くの「軍艦島ツアー」乗り場へ
しかし生徒たちのマナーはよく、添乗している女性ガイドの案内は的確。天気もよくで、いい気分。
軍艦島の前に高島で下船。軍艦島の模型をみながら、ガイドによる軍艦島の解説。石炭資料館も見学。
昼過ぎに長崎到着。まずはネットで調べていた「シイタケ肉そば」の店へ。県庁マンご用達の店というが、タクシーで乗りつける観光客と鉢合わせ。皆同じことを考えるようで。
平日なのでガラガラと思いきや、鹿児島県出水市の中学生の社会見学の一行も乗船して、なんと満席。
石炭資料館を出ると、三菱の創始者岩崎弥太郎の銅像。軍艦島を購入した人物である。岩崎弥太郎が指さす方向に採掘現場(軍艦島)があるという。いよいよ軍艦島へ。
続きます
2018・4・19
吉田裕『日本軍兵士』
ベストセラーになっている吉田裕『日本軍兵士』を読んでみる。
太平洋戦争で犠牲になった310万人の9割が1944年以降と推算されるという。その理由を探るうち、日本兵たちが軍事思想の下で、凄惨な体験を強いられた現実が見えてくる。
戦争といえば指揮官の立場で書かれたものが少なくないが、本書は実際に戦場で戦った日本兵士の目線で書かれている。戦地に赴き、想像を越える絶望に直面した兵士の心中を想像し、ページをめくる手が何度もとまる。
昭和2年生まれの亡父(札幌市出身)が「終戦直前、藁で作った手袋をはいていた」と書き残し、同じく昭和2年生まれの姑(呉市出身)は「鉄道草(線路の周辺の雑草)まで食べた」と話したことを思い出すが、比較にならないような現実があった。
著者は1954(昭和29)年生まれの一橋大学社会学部教授。
しかし私は『汚名』を書いたとき、ある資料を見つけ、この話に違和感を覚えた。その資料というのは『呉市史』(第三巻)にある呉鎮守府開庁式の出迎者の記述である(下)
先週の18日「宇品港」の解説会に出かけ、終了後、学芸員さんにお尋ねしたところ、今回の展示企画を担当した別の学芸員さんを紹介され、あれやこれや話すことになった。学芸員さんの反応を見る限り、私の発掘は従来の千田貞暁イメージを覆すものになりそうな予感がするが、さてどうだろう。
2018・3・21
新発掘? 千田貞暁前広島県令
呉鎮守府開庁式に出席
広島で千田貞暁県令といえば、宇品干拓に全精力を傾けたのに、完成直後新潟に左遷された悲劇の人というイメージが定着している。
通説では、新潟に左遷された千田は宇品港の開港式は多忙を理由に断っているのに、同日、つまり明治23年4月21日に行われた呉鎮守府の開庁式には出席しているのである。一体どういうことなのか。呉鎮守府には明治天皇も列席。小松宮が出席した宇品港の開港式とは格が違う。いや、そういうことのみならず、千田貞暁が宇品の開港式出席を断り、呉鎮守府開庁式に出席した背景に何があったか、非常に興味がわく。おそらくこの頃から始まっていた海軍と陸軍、長州と薩摩の派閥争いが関係しているのではないか。
今回の展示内容を見る限り、干拓に至った事情はわかるものの「宇品軍用港」という部分的な解説で終わっている気がする。呉軍港も含め、日本史、世界史を広く見ていく必要があるのではないか。当時「宇品港」はそのくらい重要な軍事拠点だったからである。
い、広島の近代史において大きな役割を果たしました。本展示会では築港から、昭和7年に広島港と改称した以降に進められた『商業港』『工業港』の建設までの歴史を紹介します」 とある。
実は展示にある千田貞暁の説明で、腑に落ちないところがある。その点を同館にお尋ねして、再度とりあげたいと思う。
2018・3・14
広島市郷土資料館「宇品港」
広島市郷土資料館で開催中の特別展「宇品港」に行ってきた。
展示内容について「県令千田貞暁によって築かれた宇品港(明治22年完成)は、近代都市広島の発展に寄与した一方、日清戦争後は陸軍の出兵基地となって軍都広島の一翼を担
戦後、行方不明になっていたが、広島市佐伯区で見つかり、10月7日東照宮に移設、復元された。移設、復元に尽力されたのは郷土史家の田辺良平先生。広島にあって数少ない明治を物語る記念碑である。
2017・10・21
西南戦争
「旌忠碑(せいちゅうひ)」復元
明治10年(1877)西南戦争で亡くなった広島鎮台兵の顕彰と慰霊のために、広島の東照宮に建立された「旌忠碑(せいちゅうひ)」