見延典子が書いています。

11月7日、頼山陽記念文化賞を受賞者の近砂敦さん、出利葉康博さん、吉村晶子さん(後列向かって左から時計回り)

前列は石村良子代表(左)見延典子

2018・11・22

帝冠様式

 

現在、頼山陽文徳殿の建設経緯を含む「幕末から平成までの頼山陽の評価の変遷」を執筆中である。

 

頼山陽文徳殿については、ここに書いたこと、書いていないことも含めて、かなり調べたつもりになっていたが、先日、広島の建造物に詳しいI氏から新たな話を教わった。


頼山陽文徳殿は現在はカラーベストだが、当時は瓦葺きで、流行の「帝冠様式」と呼ばれていた。「帝冠様式」は、ヨロッパ発祥の鉄筋コンクリート構造の洋風建物を変質させ、大日本帝国たる象徴の瓦屋根(冠)をのせて、民族意識を高揚、表現したもの、ということなどである。

 

瓦葺きであったことは知っていたが、民族的な意図がこめられていたとは。民家でみかける瓦屋根より、屋根部分を強調させたものらしい。

 

これらから、完成直後の頼山陽文徳殿はもっと重々しく、いかめしく、周囲を威圧するような建物であったろうことが推測される。

愛知県庁
愛知県庁

※頼山陽文徳殿と同時期に建てられた帝冠様式の建物(ネットより)

 東京帝室博物館        (現・東京国立博物館本館)
 東京帝室博物館        (現・東京国立博物館本館)
日本生命館(現・高島屋)
日本生命館(現・高島屋)

2018・10・4

会員様にメールを送りました。

 

「頼山陽文徳殿」に関して、会員様にメールを送りました。

 万一届いていない場合は事務局までご連絡ください。

 

2018・9・15

山陽文徳殿の現状

 

広島市の「平和の丘構想」で概ねの完成時期が第一期(平成29〜30)

に入っている頼山陽文徳殿。昨年、私は当時の広島市生涯学習課長と主査から平成30年12月の再オープンの際の講演を頼まれた。

頼山陽瓶徳殿(広島市比治山)2017・9・8
頼山陽瓶徳殿(広島市比治山)2017・9・8

ところがいつのまにやら課長と主査は異動になっていた。昨日、新しい課長とお会いし、講演の延期を告げられた。つまり文徳殿の整備が進んでいないということである。担当課長が代わり、整備も先送りされ、いったい広島市はどこまで本気で頼山陽文徳殿の整備を考えているのか。

 

もう一つ、ずっと疑問に思ってきたことがある。なぜ文徳殿の担当が「生涯学習課」なのか。建築直後から文徳殿は「所属」が決まらなかったことは「山陽文徳殿建設ノ経過及概要」に書かれている。終戦後になって、文徳殿で書道教室が開かれていたことから、生涯学習課の管轄になったというのが生涯学習課の見解である。

 

生涯学習課は「文徳殿は昭和六十年代まで書道教室や詩吟教室などに利用されていた」とするが、当時の事情を知る近所の方の話では「そんな話は聞いたとがない」という。もし文徳殿で書道教室や詩吟教室に参加されたという方がいらっしゃったら、ご一報ください。

 

 

終戦記念日の少し前、5カ月ぶりに訪ねてみるが、近くにある山陽文徳殿と同じく目に見える進展はない。

絶えることのない湧き水(中央)
絶えることのない湧き水(中央)

2018・8・15

比治山陸軍墓地

 

広島市の「比治山平和の丘構想」により整備が決まった陸軍墓地。

明治5年(1871)、広島鎮台が置かれる前年に作られる。3500基の墓石がある。
明治5年(1871)、広島鎮台が置かれる前年に作られる。3500基の墓石がある。

すでに40日間ほど、35度前後の酷暑が続く広島で、湧き水なのだろう、近くにある手水用の水は途切れることなく流れている。

           (写真左)

 


2018・8・11

頼山陽、没後の評価を決定づける一文

 

頼山陽は明治に入り、評価に変化が見られ、昭和6年(1931)の没後百年の年にはピークを迎える感がある。

 

なぜ山陽の評価は急速に高まったのか。これに関して、熊本の頼山陽研究家の上田誠也さんから重要な資料をいただいた。想像していた通り、徳富蘇峰絡みである。

 

この件は、上田誠也さんが10月に熊本県菊陽町で行う頼山陽シンポジウムの際、配布するパンフレットに記載予定。ご注目ください。

 

 

昭和6年発行         「頼山陽の百年祭を迎へて」
昭和6年発行         「頼山陽の百年祭を迎へて」

この頃、生徒児童だった人も殆どいないとなれば聞いてみることもできない。

私が煎茶を教えだして来年で50年になるが、そのころ頼山陽のお軸は300万-500万はしていたと思う。今は落ち着いているが煎茶の世界では 文人頼山陽、相変わらず人気は高い。

 

2018・7・26

石村良子代表

「文人頼山陽の人気」🔁見延典子

 

「頼山陽百年祭を迎へて」には紙が添えてあり「本冊子御接受の各学校に於かれてはこの機会に接し先生の伝記功業に関して生徒児童に関して御訓話など・・・国民精神作興の一助・・・」とある。


石村良子代表へ

 

戦前の頼山陽人気は、たぶんに国家がつくりあげたものです。お軸のことはよくわかりませんが、今くらいの値段なら、その気になれば手が届くので、ちょうどいいのではないでしょうか。

                         見延典子

 

記念出版本のはしがきに「、、、その気魄万人を化し、年移り人変わるも世をあげて敬慕追慕すること、頼山陽先生の如きはけだし稀なり。」とある。

2018・7・25

石村良子代表

「頼山陽先生遺蹟顕彰会」

      🔁 見延典子

 

昭和6年10月16日頼山陽先生百年祭に献詠の詩歌俳句を募集したところ、詩504首、和歌511首、俳句361句総計1376首集まったという...


漢詩の所に私の高校時代漢文の太刀掛先生や武田甲斐人氏などの名がみえる。

そこに歌を詠ずる文化があったことは確かだ。

 

石村良子代表へ

 

頼山陽没後100年祭について鋭意調査中です。お示しの件、まず1376首が自発的な応募か疑問ですが、それ以前に、作品の内容が気になります。この頃「陸軍運輸部」が検閲をしている可能性があります(昭和9年は確実には検閲をしている。物証あり)。太刀掛先生の詩に「日東天子子成」が見えますね。そういうことだと思います。

                           見延典子

 

敷地にも夏草が生い茂り、昨年12月に建物フエスタが行われたころ、清掃された面影もない。予算はついているのだろうに…。

文徳殿の裏にも、依然として回れない状態が続いている。

山陽文徳殿に咲くムクゲ
山陽文徳殿に咲くムクゲ

2018・7・21

現在の山陽文徳殿

 

数か月ぶりに山陽文徳殿(広島市比治山)に行ってみる。階段には7月17日付新聞などが散乱。

広島市の「平和の丘」整備計画のただ中にある山陽文徳殿。私は昨夏、当時の広島市生涯学習課長から直々に「今年12月のオープンの際は講演をお願いします」と依頼されているが、はたして12月にオープンできるのだろうか。あと5か月…。

 

 


①楠公飯 ご飯を水で膨らまして炊く。戦前、楠木正成はもてはやされたのはこういう形で広まったのか。

➁大政翼賛会 「山陽文徳殿翼賛会という会」も作られた。「翼賛」という言葉は補佐するという意味。

②JOFK NHKラジオ第二放送のこと。玉音放送はNHKラジオ第一放送で放映された。

 

2018・7・1

印象に残る言葉

 

先日、誘われて「この世界の片隅に」という反戦アニメを見た。

昭和8年から終戦直後まで描かれ、山陽文徳殿が建てられた時期と重なる。映画に出てくる言葉で、印象に残るものが3つあった。

 

楠公飯を食べる一場面
楠公飯を食べる一場面

 「山陽文徳殿の建設由来」    頼山陽記念文化財団蔵
 「山陽文徳殿の建設由来」    頼山陽記念文化財団蔵

2018・6・28

山陽文徳殿の建設由来

 

すでにご紹介の「山陽文徳殿建設ノ経過及概要」には、当時文徳殿の後方の土地が多聞院の所有であったことや、管理人を置いた経緯など興味深いことが書かれている。

 

山陽文徳殿の建設については「山陽文徳殿の建設由来」という資料も残されている(写真左)


「山陽文徳殿用紙」と印刷された用紙を用い、山陽文徳殿が元真言宗安養院歓喜寺の跡に建てられたのは、近くに頼家之墓所があるからということが明記されている。こちらも筆者については不明である。

 

「山陽文徳殿建設ノ経過及概要」と「山陽文徳殿の建設由来」はこれまで注目されたことはなく、目を通した人は限られているだろう。

 

戦前の頼山陽の評価に関連して貴重な記述もあり、なんとか一冊にまとめたいと、現在、鋭意執筆中である。

 

 

山陽文徳殿につながる石段
山陽文徳殿につながる石段

2018・6・27

山陽文徳殿の設計者は小田能清氏

 

昨日、紹介した内容はすでにインターネット上で紹介されている事柄だが、「山陽文徳殿建設ノ経過及概要」に書かれているのは当然ながらもっと踏み込んだ内容である。

 

たとえば、山陽文徳殿の設計者の名前が具体的に出てくる。


広島市役所営繕課長心得の小田能清なる人物で、「小田能清氏」「小田能清技師」として登場する。「心得」というのは代理の意味で、その後、前の営繕課長が市疑獄に連座して退職するという出来事があり、「小田能清氏」は営繕課長のポストに就くことになる。

 

広島市役所には現在も営繕部営繕課があり、市有施設の建築、改修工事などを担当する。

 

余談ながら、最近は会う人(広島市民)に「山陽文徳殿ってご存知ですか」と尋ねているが、「知りません」という答えの多さに愕然とする。

 

 

2018・6・26

久しぶりに山陽文徳殿を考える

 

タイトルは「久しぶりに頼山陽文徳殿を考える」ではあるが、実際は今年に入ってからも、ずっと山陽文徳殿について考えている。

 

「山陽文徳殿建設ノ経過及概要」頼山陽記念文化財団蔵
「山陽文徳殿建設ノ経過及概要」頼山陽記念文化財団蔵

山陽文徳殿を理解するうえで、願ってもいないような資料が公益法人頼山陽記念文化財団に保管されていることを知り、閲覧に行ったのは今年の3月半ばであった。

 

「山陽文徳殿建設ノ経過及概要」(写真左)は中央に「廣島市」と書かれた原稿用紙を用い、片側を1ページとするなら、全16ページにわたり、山陽文徳殿が建てられた経緯について書かれている。


 

山陽文徳殿は昭和4年(1929)、広島市主催で産業博覧会が行われ、昭和6年は頼山陽の没後百年にあたることから、頼山陽の「廟」を作ろうという声があがり、昭和9年着工し、竣工。

 

「山陽文徳殿建設ノ経過及概要」は署名がないため誰が書いたかは不明であるが、読んでいるうちに山陽文徳殿の建設に関わったであろう、当時の広島市社会課の嘱託職員ということがわかってくる。

 

時代を映して漢字とカタカナによる文章ではあるが、楷書で書かれ、しかもなかなかユーモアもあり、公文書とは異なる趣がある。

 

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

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 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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