特に記載がない場合は見延典子が書いています。

2018・12・20

頼山陽、九州を去る

 

4月25日、九州に上陸した頼山陽は九州各地の思い出を胸に、12月20日、中津から下関に渡る。厳寒の季節を迎えて移動はやめ、下関で正月を迎えることになる。

 

ところで中津で紹介した「田信」こと田中信平について、中津市在住の地方史研究家 近砂敦さん(愛称は中津のオッサン)が現在、西日本新聞に連載中(月2回)の「なかつ今昔こぼれ話」で書いている。

「卓子(しっぽく)式」の原本。田中信平は長崎留学中、中華文明に魅了される。本文の内容は「中津今昔こぼれ話」から引用した。

近砂敦さんの西日本新聞連載記事から
近砂敦さんの西日本新聞連載記事から

田中信平は中津城下で外科医院を営むかたわら、本格的中国料理解説書「卓子式」を出版。大皿料理を取り分けて食べるしっぽく料理の形式を紹介し、ちゃぶ台が普及するきっかけをつくった。また鯛麺、唐揚げ、ハム、丸ボ一ロの紹介はじめ、さまざまな料理の考案、開発も行う。地元では変わり者といわれたが、食通の山陽とは話があったに違いない。

 


「田信」こと田中信平宅址の碑。田信は篆刻で知られ、田能村竹田などの文人と交流した。

2018・12・17

中津城下へ

 

正行寺滞在中、「耶馬渓」を再訪探勝、耶馬渓図巻を描くなど充実した日々を送った山陽は、16日正行寺を辞し、中津へ向かう。

17日には中津城下京町にある田中信平宅(写真左)を訪問する。同宅には叔父の春風も14年前の文化4年(1804)石井豊洲とともに訪問している。話も弾んだに違いない。

 

 


2018・12・6

正行寺まで

 

12月6日、頼山陽は道中、後に「耶馬渓」と自ら名づける名勝と出会い、感動しつつ柿坂の茶店で持参の酒を飲む。そこへ偶然、猟師がイノシシを獲ってきたので料理させ、肴とする。山陽はほろ酔い気分のまま下関で約束したように、中津の正行寺に友人の雲華上人を訪ねる。

正行寺 2018年11月4日写す
正行寺 2018年11月4日写す

※柿坂に残る「筆峰」は山陽の命名ではなく、後世のものと考えられる。


宮園村→柿坂→戸原村、口の林→曽木→樋田→正行寺(泊)

                      (近砂敦著『耶馬渓』参照)

※山陽が歩いた「日田から中津までの道」はこちらをご覧下さい。

 

頼山陽も歩いた石坂
頼山陽も歩いた石坂

2018・12・5

日田を出立

 

 12月5日、頼山陽は中津を目指して日田を出立する。広瀬淡窓、中島子玉、森春樹、森荊樹、館林万里らがそれぞれ途中まで同行。最後まで残っていた万里と伏木峠、龍(中津市山国町守実)を過ぎたところで別れ、守実からは一人旅になる。

日田→伏木峠→一ツ戸隧道→宮園村(民泊)(近砂敦著『耶馬渓』参照)


※頼山陽が歩いた「日田から中津までの道」はこちらをご覧下さい。

 

 

2018・11・26

天領「日田」に滞在中②

 

日田には広瀬淡窓の咸宜園がある。

頼山陽も訪れ、咸宜園内の秋風庵に宿泊している。

広瀬淡窓の肖像画。ネットより
広瀬淡窓の肖像画。ネットより
頼山陽が宿泊した咸宜園内の秋風庵
頼山陽が宿泊した咸宜園内の秋風庵

二人は初対面であったが、山陽は淡窓の詩を読んだことがあり、評価していなかった。それを伝え聞いていた淡窓は、日田での山陽に行動を気にかけていた。ライバル心から、どんな人物か興味があったのだろう。

 

詳しくはこちらをご覧下さい。

 

 


菅茶山の廉塾に伝わった森春樹筆「筑後川図巻(広瀬淡窓跋)」の一部。右下も同様。図録「頼山陽と九州」(頼山陽史跡資料館発行)より転載。この作品は頼山陽史跡資料館で開催中「頼山陽と九州展」でご覧いただける(12月2日まで)

販売中の「頼山陽と九州」図録 (頼山陽史跡資料館発行)
販売中の「頼山陽と九州」図録 (頼山陽史跡資料館発行)
近くを流れる三隈川。下流で筑後川に交わる。山陽は森春樹と共にこの川を下った。
近くを流れる三隈川。下流で筑後川に交わる。山陽は森春樹と共にこの川を下った。

2018・11・21

天領「日田」に滞在中

 

11月3日、豊後竹田から天領日田に入った頼山陽は、熊本や久留米に足を伸ばしたあと、11月25日には再び日田に戻る。熊本、久留米に行く際、共に筑後川を下ったのは森春樹(1771〜1834)。日田郡隈町の豪商森五石の長男で、山陽より9歳年上の48歳。

「田能村竹田は『竹田荘師友図録』において、豊後国では書画が盛んであるが、その中で日田が一番であり、先鞭をつけたのが仁里(春樹)であると評している」(「頼山陽と九州」図録より抜粋)

往時をしのばせる鍋谷(森家)の屋敷付近
往時をしのばせる鍋谷(森家)の屋敷付近

森春樹の「筑後川図巻」は、後に山陽が描く「耶馬渓図巻」にも何某かの影響を与えたのではないか。

 

 


2018・11・18 進藤多万さん「筑後川を下り…」

 

下筑後河過菊池正觀公戰處感而有作

 

  筑後河を下り菊池正觀公の戰ひし處に過(よ)ぎり感じて作有り

文政之元十一月    文政の元十一月

吾下筑水僦舟筏    筑水を下り 舟筏(しゅうばつ)を僦(やと)ふ

水流如箭萬雷吼    水流は箭(や)の如く 萬雷吼(ほ)え

過之使人竪毛髪  之に過(よ)ぎれば 人をして毛髪を竪(た)たしむ

居民何記正平際    居民何ぞ記せん 正平の際

行客長思已亥歳  行客長く思ふ 已亥の歳

當時國賊擅鴟張    當時 國賊 鴟張(しちょう)を擅(ほしいまま)にし

七道望風助豺狼    七道 風を望んで 豺狼を助く

勤王諸將前後没    勤王の諸將 前後に没し

西陲僅存臣武光  西陲(せいすい) 僅かに存す 臣武光

遺詔哀痛猶在耳    遺詔哀痛 猶ほ耳に在り

擁護龍種同生死    龍種を擁護し 生死を同じうす

大擧來犯彼何人    大擧して來たり犯す 彼は何人ぞ

誓剪滅之報天子    誓って之を剪滅して 天子に報いん

河亂軍聲代銜枚    河は軍聲を亂し 銜枚(かんばい)に代ふ

刀戟相摩八千師    刀戟(とうげき) 摩す 八千の師

馬傷冑破氣益奮    馬傷つき 冑破るるも 氣益(ますま)す奮ひ

斬敵取冑奪馬騎  敵を斬り 冑を取り 馬を奪ひて騎す

被箭如蝟目眥裂    箭を被ること 蝟(い)の如く 目眥(もくし)裂け

六萬賊軍終挫折    六萬の賊軍 終に挫折す

歸來河水笑洗刀    歸り來りて 河水に 笑ひて刀を洗ひ

血迸奔湍噴紅雪」  血は奔湍(ほんたん)に迸(ほとばし)り 紅雪を噴く

四世全節誰儔侶    四世の全節 誰か儔侶(ちゅうりょ)ならん

九國逡巡征西府    九國 逡巡す 征西府

棣萼未肎向北風    棣萼 未だ肎へて 北風に向かはず

殉國劍傳自乃父  殉國の劍は 乃父(だいふ)自り傳ふ

嘗卻明使壯本朝    嘗て明使を卻(しりぞ)けて 本朝を壯んにす

豈與恭獻同日語    豈に恭獻と 日を同じうして語らんや

丈夫要貴知順逆    丈夫 順逆を知るを貴ぶを要す

少貮大友何狗鼠」  少貮大友 何の狗鼠(くそ)ぞ

河流滔滔去不還    河流滔滔 去りて還らず

遙望肥嶺嚮南雲    遙かに肥嶺を望み 南雲に嚮かふ

千載姦党骨亦朽    千載の姦党 骨も亦た朽ち

獨有苦節傳芳芬」  獨り苦節の芳芬(ほうふん)を傳ふる有り

聊弔鬼雄歌長句    聊(いささ)か鬼雄を弔ひ 長句を歌へば

猶覺河聲激餘怒    猶ほ覺ゆ 河聲の餘怒(よど)を激する

菊池武光世領肥後。父武時死元弘之王事、兄武重嗣。及於武光、以傳子武政。奉征西將軍懷良親王、數與足利氏党大友小貮二氏戰。正平十四年己亥歳、大戰筑後河側克之。

明氏來書至征西府、武光以其書辭無禮、卻不受。又招足利義滿、義滿受之。及没、明謚之曰恭獻。  

(菊池武光 肥後を領す。父武時 元弘の王事に死し、兄武重 嗣ぐ。武光に及んで、以て子の武政に傳ふ。征西將軍 懷良親王を奉じて、數ば足利氏党の大友小貮二氏と戰ふ。正平十四年己亥の歳、大ひに筑後河側に戰ひ之に克つ。

明氏の來書 征西府に至る。武光其の書辭の無禮なるを以て、卻けて受けず。又足利義滿を招ずるに、義滿 之を受く。没するに及んで、明 之に謚して恭獻と曰ふ。)  

 

【語釈】

*文政元(一八一八)年十月、山陽三十九歳、西遊の際の作。

[菊池正觀公]菊池武光(?~一三七三)。南北朝時代の肥後の武将。正平十四年、少貮賴尚を討つため、懐良(かねなが)親王を奉じて、筑後に出兵した。太刀洗の故事は、この合戦にかかわるものである。(『太平記』巻三十三)

正平・己亥]正平十四年。

[竪毛髪]「竪」字は、「豎」字の俗字。「豎毛」は、おぞけが立つこと。『唐書』巻一七九、李訓、鄭注、王涯傳贊に「訓等、持腐株、支大廈之顚、天下爲寒心豎毛」(訓等、腐株を持ちて、大廈の顚を支ふれば、天下爲に寒心豎毛す)とある。

[國賊]足利氏。

鴟張]ふくろうが羽を張ったように勢いが強く我が儘なこと。

七道]律令時代の行政区画。五畿(大和・山城・河内・摂津・和泉の畿内)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の地方)に分けた。

豺狼]やまいぬとおおかみ。貪欲、無慈悲な者のたとえ。

[西陲]「陲」は、さかい、ほとり。

[遺詔]後醍醐天皇の遺言。(『太平記』巻二一)

[龍種]天子の子孫。ここは懐良親王。

[彼何人]少貮賴尚と忠資父子。

[剪滅]『春秋左氏伝』成公二年に、「齊侯曰、余姑翦滅此而朝食。」(齊侯曰く、余姑{しばら}く此を翦滅して朝食せんと。)

[銜枚]口に枚を銜む。馬の嘶くのを防ぐため用いる。

[如蝟]「蝟」は、はりねずみ。『唐書』巻七八、淮陽王道玄傳に「毎赴敵、飛矢著身如蝟、氣益厲」(敵に赴く毎に、飛矢 身に著くこと蝟の如く、氣益{ますま}す厲{ふる}う)とある。

[目眥]まなじり、目じり。『史記』巻七、項羽本紀に、「頭髪上指、目眦盡裂。」(頭髪 上指し、目眦 盡く裂く)とある。

歸來河水笑洗刀]明の李夢陽の「石将軍歌」に、「追北帰来血洗刀、白日不動蒼天高」(北を追ひ帰来し血もて刀を洗ひ、白日動がず蒼天高し)とある。

[奔湍]水の速く流れるところ。はやせ。

[紅雪]ほとばしる血のさま。

[四世]菊池武光と父・武時、兄・武重、子・武政の四人。

[全節]節操を全うする、使命を完全に果たす。

[儔侶]ともがら、同輩。

[征西府]肥後・八代にあった征西将軍府。征西将軍は、懐良親王。

肎]肯に同じ。『玉篇』に、「肎、今作肯」(肎、今肯に作る)とある。

[棣萼]菊池武重、武光兄弟。

[乃父]菊池武時。

[嘗卻明使]正平二四(一三六九)年、(明の洪武二年)、明は和冦の禁を懐良親王に乞うが、親王は拒否した。

豈與恭獻同日語]足利義満は一四〇二年明の国書を受け、死んだ時、(永楽六〈一四〇八〉年)、明国から「恭獻」という謚号を送られた。「同日語」は、ごっちゃにして語ること。

[姦党]「姦」は、わるい、よこしま。

[芳芬]芳しいかおり。芳名をいう。

[鬼雄]英雄の亡霊。『楚辞』九歌・国殤に、「身既死兮神以霊、魂魄毅兮爲鬼雄」(身 既に死するも 以て霊、魂魄 毅として鬼雄と爲れり)ある。

[餘怒]あふれる怒り。

 

【訳】

 筑後河を下り菊池正觀公の戦跡を訪ね感じて作った

文政元年十一月

私は筑後川を舟をやとって下る

水流は矢の如く 万雷は吼え

ここを訪ねたなら 人の毛髪を竪たせる

住民はどうして覚えていようか 正平のこと

旅人は思いをはせる 已亥の歳のこと

そのころ国賊は ふくろうのごとくいばりちらし

諸国は風向きを眺めて 豺狼を助けた

勤王の諸将は 前後して没し

西の辺境に 僅かに臣の武光だけがいた

遺詔の哀痛なるひびきは 今なお耳に残り

龍種を擁護して 生死を同じくした

大挙して来たり犯すのは いったい誰か

誓ってこれを剪滅して 天子に報いよう

瀬音は軍声を乱し 銜枚するまでもなく

八千の兵の刀戟はせまり合う

馬は傷つき冑は破れても 気概はますます奮い

敵を斬り冑を取り馬を奪って騎る

矢を被ること蝟(はりねずみ)の如く まなじりは裂け

六万の賊軍は終に挫折す

帰来して 河の水で笑って刀を洗えば

血ははやせにほとばしり 紅雪を噴く

菊池氏四世の全節は 誰がまねできようか

九州全土は 征西府を攻めるのを逡巡した

棣萼は 未だあえて北朝に向かおうとはせず

殉国の剣は 父より伝わる

かつて明使を追い返して 国威を壮んにした

どうして「恭獻」と同じに語れようか

丈夫は順逆を知るものを尊ぶことが必要

少貮や大友は何という狗鼠か

河の流れは滔々と去って還らず

遙かに肥嶺を望み 南雲に向かう

千載の姦党は 骨も亦た朽ち

ただ菊池氏の苦節の芳芬が伝わった

心ばかり鬼雄を弔い長句を歌えば

なお河音があふれる怒りを激するのを感じる

 

 

 菊池武光は、代々肥後を治めた。父武時は元弘の王事に死に、兄武重が嗣いだ。武光に及んで、以て子の武政に続いた。征西將軍の懷良親王を奉じて、しばしば足利氏党の大友・小貮の二氏と戦う。正平十四年、己亥の歳、筑後河の側で大戦し、これに勝った。

 

 明よりの來書が征西府に至った時、武光は、其の書辭が無禮なので、かえして受けなかった。また足利義滿を招くに、義滿は之を受けた。没した時、明は彼に謚して恭獻といった。  

 

11月3日、日田に着く(日田の様子は日田でご紹介)

ところが11月10日、熊本へ引き返す(熊本へ引き返した理由は、見延典子の短編『獲物』(近砂敦著『耶馬渓』収録)で紹介)

頼山陽詩碑 (菊池観光協会)
頼山陽詩碑 (菊池観光協会)

2018・11・17

日田から、熊本、久留米へ

 

10月29日、竹田を出発した頼山陽は日田へ向かう(竹田の様子は竹田竹田②で紹介)

鍋屋(森家)の裏から見た三隈川と亀山公園
鍋屋(森家)の裏から見た三隈川と亀山公園

11月15日、再び日田に戻った山陽は筑後川を下り、久留米へ向かい「筑後河を下り、菊池正観公の戦処を過ぎ感じて作有り」の漢詩を読む。この漢詩を刻した詩碑が菊池市に建立されている。内容は進藤多万さんが紹介してくれる予定です。

 

 


2018・6・21

上田誠也さん

「10月に200周年記念の集い」

 

「10月は菊陽で頼山陽」を合言葉に、毎年、熊本県菊陽町で開催されている「ふれあい・いきいき漢学サロン」。今年は頼山陽「九州遊歴200周年」記念の集いを開きます


どなたでも参加できます。無料!

メールでお申込みください。先着80名様には、記念資料を無償でお配りします。

お申込み先 ✉ seiya.1213-1065@docomo.ne.jp

(ご住所、お名前、お電話番号をご記入ください)

 

頼山陽「九州遊歴200周年」記念の集い

 

2018年10月21日(日)

菊陽杉並木講演さんさん公園管理センター学習室

 

プログラム

12時30分〜 受付

13時30分〜 開会セレモニー

13時45分〜 映像と朗読

        「文才高し! 頼山陽ものがたり」

         朗読 うぐいすの会の皆さん(菊陽町)

14時20分  合吟 頼山陽詩「天草灘に泊す」「熊基を発す」

        吟詠 香雲堂吟詠会の皆さん(菊陽町)

14時40分  鼎談「千年先まで伝えたい 頼山陽の魅力」

        ゲスト 見延典子さん(小説家 広島市)

        聞き手 橋本正勝さん(頼山陽研究家)

         〃  上田誠也(漢学サロン世話人代表)

主催 ふれあい・いきいき漢学サロン

後援 菊陽町、菊陽町教育委員会、大津町教育委員会、菊陽町文化協会

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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