記載のない場合は見延典子が書いています。

月刊「ウエンデイ広島」9月号
月刊「ウエンデイ広島」9月号

それに伴い、同社から出版された本の一冊として『頼山陽と戦争国家』が紹介された。

 

間もなく出版される『俳句エッセイ日常」の発売元も南々社です。

2020・8・28

月刊「ウエンデイ広島」9月号に

『頼山陽と戦争国家』

 

広島県内で発行されているフリ一ペーパー月刊「ウエンデイ広島」9月号の表紙は、広島の出版社南々社の西元俊典社長。


2020・8・25 アマゾンレビュー

「『日本外史』のどの部分が国家の装置にさせられたのか」

 

21日付け、アマゾンの『頼山陽と戦争国家』に、匿名さんによる★5つのレビューが掲載されました。謹んで転載します。こちらをご覧下さい。

 

はじめに、かつて右の思想、左の論陣だった方々、近代、現代史に詳しい方には興味を持って読んでいただけると思う。ぼんやりしていた方には分からんだろうな。ほんとボンヤリには分からんよ!

 

☆没後の頼山陽の評価の変遷をまとめ上げた☆貴重な書。

巻末には貴重な関連資料集あり。

 

そもそも現代日本人のほとんどは頼山陽のことを知らないであろう。

昭和123年生まれ以前の方々にはほぼ100%知られた存在。何故なら『日本外史』の「桜井駅の訣別」は当時の教育現場で読み継がれていた。戦前の国定教科書である。と云ったところで余程の昭和史通、又は「太平記」(楠正成だー)って分かる歴史通、又は戦前世代にしか理解して頂けないのだが…

 

江戸時代後期の 歴史家、思想家、漢詩人である頼山陽がまとめ上げた民間による日本の武家の歴史『日本外史』は平氏から徳川氏まで、(この時代までの日本のこれまでの歴史をまとめ上げた日本の歴史なる書は一般人の手にはまだ無かった。信長公記、甲陽軍記、太平記など各々の記録は沢山あるのだが)これが『日本外史』で当時の老中首座 松平定信に高く評価されるのだが、世の中に知られるようになるのは山陽の死後の話。

 

時が経ち、多方からこの「日本外史」が出版され、幕末の大ベストセラー

(ある部分が削られた=誤読される)になる。=(尊皇攘夷に影響を与える)吉田松陰 幕末期、佐幕派(例として土佐藩主 山内容堂公、天璋院篤姫、 新選組局長 近藤勇)にも討幕派(例として吉田松陰 伊藤博文「日本政記」も)にも愛読される。明治政府以降天皇の権威付けに利用させていく。何が? どのように?

 

 本書には山陽が『日本外史』『日本政記』(神武天皇に始まる歴代天皇の事績をまとめ上げた書)をまとめ上げるにあたって山陽が調べた、熟読した山陽以前の過去の書物、参考にしたであろう多くの書物、研究者が注目する当時の太平記ネタ本=こちらのほうから世に太平記が知れ渡るなど紹介しつつ再確認しながら、その後、明治から大正、昭和と時が経つにつれ、どのように曲解されていったか…

 

※主に南北朝時代→太平記→日本外史と日本政記→南朝正統論→南北朝正潤問題→楠正成→桜井駅の訣別(つくられる「忠臣」楠正成像)→湊川神社 山陽漢詩の書換え「七生滅賊」が国益に沿うように「七生報国」

 

頼山陽先生百年祭昭和6年、紹介しつつ再確認し、昭和初期の事件、出来事と照らし合わせながら時の政治によって右傾化する頼山陽をじんわりと浮かび上がらせる。

 

進む軍国化思想統制→頼山陽の神格化→反論

戦後 消える頼山陽=GHQ

 

 また、序盤の頼山陽をとりまく政治世界では「日本外史引用書目」(259の参考文献)の中で『大日本史』(水戸光圀が編纂に着手)と『大日本史賛藪』(水戸黄門の格さんの論賛)についての記実あり、山陽に影響を与えたことが分かる。また水戸藩が編纂をはじめた『大日本史』は完成するのが二百数十年後の1906年。安積澹泊(格さん 御老公の御前である 頭が高い 控えおろう)の論賛が削除されたり=後期水戸学派によってつくられた「大義名分論」削除を企た理由=いわゆる国体の概念。

 

多くの編者が関わったりしたことで、原点である徳川光圀(御老公様 先の副将軍 水戸光圀公)の考えから離れていった。水戸学は 前期水戸学派 後期水戸学派と分かれ 系列が異なる。

 

☆筆者曰く 

水戸学の変質にあわせるように、山陽も道連れにされた観がある。

初志を貫徹しるため山陽は多くの書物を読み、人の意見に耳を傾けた。批判もしたが、なるほどと思うものは貪欲に吸収しようとした。その上で自分なりの独自の視点を身につけ、思考を深めた。山陽が書いたものが誰かの踏襲であったり、踏襲と踏襲が掛け合わさったりしているように思えるのも、だから必然である。山陽や著作をありのままに受け入れて読むところから、山陽の再評価の道は開けていくであろう。 

 

2020・8・13

山根兼昭さん

「戦後75年と頼山陽」

 

見延典子著「頼山陽と戦争国家」の巻末に「消える頼山陽」と題し、今現在における状況を象徴的に表現しております。

GHQの占領政策により、昭和20年12月31日、軍国主義を鼓舞した日本歴史などの学科を禁止したのであります。


そして23年3月には文部省は、学識経験者を十数名集め、全国にある図書の中から、7~8000冊の関連した本を没収したのであります。

その中には、頼山陽に係るものも多数あったと思われます。

また、数年前に高校の歴史教科書の山陽の記述について調べたことがありますが、1冊だけ「江戸時代の儒学者、詩人ー石川丈山、梁川星巌、藤井竹外、その次に歴史家頼山陽」と一行の記述があるだけ、それ以上の解説はありませんでした。

また今年1月、6月からの市民講座開設のため教育委員会へ行き、応対の先生(50代)に「頼山陽の講座」と挨拶しました。先生ー頼山陽ってだれーと言ってスマホで検索。結局講座はコロナ禍によって開催できませんでした。

改めて、戦前までは、日本の英雄、神様にまでさせられそうになった「頼山陽」ですが、75年間という歳月がここまで風化させてしまうのかと思います。

私の名刺の肩書は「頼山陽を語る会ー主幹」、別に組織を作っているわけではありませんが、初対面の方には必ず名刺を渡し話題に致します。

コロナの巣ごもり生活の中でも、何人かの仲間が出来、輪が広がりつつあります。

  

2020・7・4  「『脱藩』という言葉」⑦ 若桜木虔さんの典拠か?

 

国会図書館デジタルで、「脱藩」を検索すると、「神代直人の捕縛―大村益次郎襲撃犯に対する山口藩の対応」(伊藤一晴)という論文がヒットした。以下が、その個所である。

 

  神代直人の捕縛及びその報告については「公文録粟田口 止刑始末一」

  のうち、「一山口藩ヨリ脱藩人神代直人捕縛并 処刑届」としてまとめ

  られている史料が基本となる。

 

神代直人が大村益次郎を襲撃する事件を起こしたのは明治2年である。この事件の詳細は割愛するとして、「公文録粟田口 止刑始末一」についてネットで調べると、「公文録・明治三年・第百十六巻・粟田口止刑始末(一)太政官」として出てくる。

 

これを踏まえれば、明治3年の公文録に「脱藩」という言葉は使用されていることになる。但し「脱藩」という言葉がいつできたかは依然としてわからない。「岩倉具視関係文書」の「脱藩」同様、書き残されたというだけで、話し言葉としてそれ以前から、スラングのように使われていた可能性は否定できない。もちろん、行政用語のように明治政府が作った言葉である可能性もないわけではない。

 

2020・6・30 見延典子→久保寺さん

「『脱藩』という言葉」⑥ 若桜木虔さんの典拠か?

 

貴重な発見をありがとうございます。写真の「岩倉具視関係文書」の一文を読むと、「脱藩」の言葉はすでに流通しているように書かれている印象を受けますが、どうなのでしょうか?

 

『頼山陽』を出版するとき、出版社の方から「見延さん、『自由』なんて言葉を使ってるけど、こんな言葉は当時ありませんよ」といわれたので、頼山陽が書いた「自由」という言葉を見せました。意味は多少異なりますが、山陽は『自由』を使っているのです。

 

若い世代が使いはじめ、後から文字として書き残されるという場合も考えられます。あらゆる可能性を想定したいですね。

 

余計なことを書きますが、先の「出版社の方」も中高年男性です。

 

2020・6・29

久保寺さん

「『脱藩』という言葉」⑤

若桜木虔さんの典拠か?

 

「脱藩」という言葉について、ついついネット検索に頼りがちになっていましたが持っていた「古文書用語辞典」(柏書房)で調べてみました。

 

「脱藩」はなかったものの、送った画像のとおり「脱籍」があり、それによれば「明治初年には『天下忠臣義士脱藩脱籍して・・・』と出てきます。

 

出典は「岩倉具視関係文書 第2」の155ページということで、この文書を国立国会図書館のデジタルコレクションで見ると、たしかに明治2年の「御沙汰書草案」という文書の中にでてきます。若桜木さんはこれを根拠にしているのかなと思いました。


「中国」の使用に関しては、おそらくそうだろうなとは想像していました。

しかし、ミスの指摘のほとんどが中高年の男性というのは、わかる気がします。

頭が固い上に、自分の優位性を保ちたいという意識が強いように思います。

 

反省も含めて、批判されることを喜ぶ頼山陽を見習いたいと思います。

あの時代、男尊女卑が当たり前の儒家の家に生まれながら、家にも縛られず

女性に対する差別意識も持たなかったのはなぜなのか、不思議です。

 

2020・6・23 見延典子 久保寺さん 「『脱藩』という言葉」➃

 

頼山陽の書簡をデータ化したものをありがとうございます。石村代表と活用策を考えて行きたいと思っています。

 

久保寺さんの地道な取り組みによって、頼山陽が生きた時代に「藩」という言葉があったことを証明でき、嬉しいかぎりです。できれば「脱藩」という言葉も見つけてください(笑) 

 

「中国」の件は、ある方に相談したところ「中国がわかりやすくていいのでは」といわれ、使った経緯があります。

 

『頼山陽』を中国新聞に連載中は、「○○が違う」「××は間違っている」という電話や投稿が多数寄せられ、対応に追われたことを思い出しました。ささやかな経験からいえば、まず褒められることはありません。読者から連絡があったといえば、まずミスの指摘です。そして大半は中高年の男性でした。

 

よけいなことを書きました。歴史上の言葉は、知ったつもりになっていると恥をかきます。私もずいぶん恥をかいてきました。いくつになっても教わるという気持ちを大切にしたいと思っています。

 

2020・6・21 久保寺さん 見延典子 「『脱藩』という言葉」③

 

返答ありがとうございます。確かに、当時に使われた言葉しか小説で使えないとしたら、逆に現代の私たち読者には伝えたいとこが伝わりにくくなるのかもしれませんね。頼山陽の書翰を解読して読めたとしても意味がよく理解できないのと同じことだと思います。

 

現代でも地方の方言同士でしゃべられたら、津軽弁なんかは関東育ちの私には全く理解できません。「おしん」の山形弁にしても、かなりわかりやすい共通語寄りの山形弁にしているのでしょう。

大河ドラマの「西郷どん」にしても、奄美の言葉は字幕が出てたくらいなので、正確にすればするほど伝わりにくい言葉になってしまう矛盾があると思います。

 

見延先生の「頼山陽」に出てくる広島弁は、私にはちょうどいい感じの理解しやすい広島弁で、「脱藩」という言葉を含め特に違和感は感じられませんでした。ただ、1つだけ「後悔篇」で頼山陽が妻の梨影に言うセリフの中で「女子であっても

詩を詠んだり、絵を描いたりする者は、中国にはいくらでもいるそうじゃ。」の「中国」は、中華民国も中華人民共和国もない当時は「清国」か「支那」だろうなぁと思いました。

 

「藩」については私も見延先生と同じ考えでした。本でも読んだことがありましたし、テレビでも確か、「広島藩の何某・・・」というより、「安芸浅野家御家中何某・・・」の方が一般的だと聞いた覚えがあります 

しかし、頼山陽書簡集の上巻、池口愚亭に宛てた中に「舊年大坂廣島藩寺川氏へ被托候御書、臘中か元旦の頃に相達申候。」と出てきます。例のエクセルデータ化がなかなか進まない中、20代の書簡にすでにみられるということは、他の書簡でも「藩」という言葉は使っていると思われます。

 

頼山陽の書翰は難しい漢字ばかりで、なかなかデータ化が進みませんが、とりあえず今までの分を送りますので何かの参考にしてください。赤字で書いているのはその漢字がPCに入っていなかったため似た漢字を打ち込んでいます。

また、半年後くらいに進んだ分だけ送らせていただきます。恐らく間違いが多々あると思いますがご了承願います。

 

2020・6・19 見延典子 → 久保寺さん「『脱藩』という言葉」➁

 

「藩」という言葉は、明治になって「県」という言葉ができてから作られたと何かで読んだ記憶があります

 

同様に、「鎖国」も「開国」という言葉ができてから、「士農工商」も明治になって「四民平等」という言葉ができてから作られた、とこれも何か読んだ憶えがあります。

 

注)「鎖国」の場合は以前使われたものが一般化した。「四民平等」は実際は「四民不平等」だったので、現在は使われていないとか

 

「大義名分」という言葉も、拙著『頼山陽と戦争国家』で書いたように明治に入って作られたようで、頼山陽自身は使っていません。

 

言葉の変化も、「西南の役」と呼ばれていたものが「西南戦争」になったり、「長州征伐」が「幕長戦争」や「四境戦争」なったり、「大東亜戦争」が「太平洋戦争」になったり、枚挙にいとまがありません。

 

ちなみに頼惟勤先生の「脱藩始末記」を確認したら、当時、春水らが書いた手紙に「脱藩」の表現はなく、概ね「出奔」を使っています。

 

当時、使っていた言葉で小説を書かなければならないなら、小説家は全員廃業に追いこまれるでしょう。

 

2020・6・17 久保寺さん「『脱藩』という言葉」

 

若桜木氏の「脱藩」という言葉は明治2年に出来たという指摘に興味を持って山陽の書簡集から少しだけ調べました。エクセルへのデータ化はまだ22通(山陽30歳まで)で、その中で検索すると「脱藩」「逐電」はゼロ、「出奔」が1つだけヒットしました。しかし、その出奔という言葉は、父親から叱られた内容として「毎時被叱候節は、随分どこへなりとも出奔可仕などゝ被申候」と出てきます。

 

脱藩といえば坂本龍馬ですが、龍馬の同郷で先に脱藩した那須信吾が父親に宛てた文久2年11月の手紙には「当春坂本龍馬同行ニ而内ニ宿り亡命仕候」と「亡命」という言葉を使っています。

 

2020・6・16 

  若桜木虔さん「脱藩は明治2年にできた言葉です」 🔁 見延典子

 

『賴山陽』を拝読しました。「脱藩」が何千回も(たぶん)出て来ますが、「脱藩」は明治二年にできた言葉で、頼山陽の時代にあるわけがないと考えます。小生、日本推理作家協会員で、時代考証を専門にしております。

若桜木虔さんへ

貴重なご指摘をいただき、ありがとうございます。

可能でしたら、明治2年に「脱藩」という言葉ができた経緯、または典拠が示されている書物をご教示ください。よろしくお願い致します。

                           見延典子

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

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