2018・11・1

見延典子「豊後竹田を出立」

 

10月23日から豊後竹田に滞在していた頼山陽は、11月1日、日田郡隈町を目指して出立する。

 竹田荘 ネットより
 竹田荘 ネットより

11月1日の日付は、田能村竹田の「卜夜快語」による。実際には10月29日だったのを、誤記したらしい。いずれにしろ秋は深まり、寒風が吹きはじめる季節。ただ、竹田のはからいで、揮毫の依頼も多くあり、山陽の懐はいくぶん温かくなっていたのではなかろうか。

 


講師は頼山陽ネットワークの進藤多万さん
講師は頼山陽ネットワークの進藤多万さん

文政元年(1818)、田能村竹田は九州遊歴中の頼山陽と竹田の文人たちとの詩酒徴逐の様子や、山陽の言行を『卜夜快語(ぼくやかいご)』として63項目にまとめた。講座では特に印象深い約20項目について解説。聞き上手にして観察眼鋭い竹田によって山陽の語りが蘇った。

 

2018・10・28

頼山陽文化講座 進藤多万さん

「頼山陽の豊後竹田訪問」

 

27日、頼山陽文化講座が行われ、頼山陽ネットワーク事務局の進藤多万さんが「頼山陽の豊後竹田訪問」として山陽と竹田の交遊を語った。

「山陽と竹田の交誼は22年続きました」
「山陽と竹田の交誼は22年続きました」

2018・10・23

進藤多万さん「豊後竹田 頼山陽来遊」

 

文政元年(一八一八)十月二十三日

 

 文政元年二月十九日に廣島で父・春水の三回忌を終えた山陽は、三月六日九州長崎への旅に出発した。長崎に滞在の後、鹿児島まで足を伸ばし、熊本から田能村竹田の住む豊後竹田に来たのは、十月二十三日の夜であった。田能村竹田とは文化十一年(一八一四)十月十五日、鞆津で偶然出会って以来四年振りの再会で、この時の様子は、竹田の随筆『卜(ぼく)()(くわい)()』に詳しい。『卜夜快語』は、山陽が滞在した十月二十三日から二十九日にわたる豊後竹田での、山陽と人々との詩酒徴逐の様子や、山陽の言行を六十三項目にわたって、竹田が別後すぐ書き留めたもので、原文は漢文。以下は、その序である。

 

『卜夜快語』

 

 今茲(こんじ)文政紀元、十月廿三日夜、賴山陽 東肥よりして我が邑に至る。予を招きて合澤生の宅に會す。是れ從()り日として會はざるは無し。廿四日、竹雨亭。廿五日、春松園。廿六日、洗竹窓に會し、遂に同(とも)に大穀屋に宿す。廿七日、看雲樓。廿八日、再び春松園に會す。廿九日、春曦樓。凡そ六日の夜、臂(ひぢ)を把()り膝を接し、恣意 從談す。言はんと欲する所有らば、則ち直に之を言ひ、亹亹(びび)として口を衝()きて發す。肺腑の間に有る所、勃然として躍出して、廻避する所無く、隱諱する所無し。睛(まなこ)は轉ずるに及ばず、耳は掩(おほ)ふに暇(いとま)(あら)ず。苟(いやし)くも胸に滯(とどこほ)りて□に窒(ふさ)がり、擬疑 口より出さず、須臾にして含糊なれば、則ち一場の好話も立ちどころに冷水と化して去るを覺ゆる也。毎日、午前午後、若()し晡時(ほじ)に相會()はば、夜の三更或いは四更、鐘鳴り雞叫()くに非ざれば、則ち敢へて寝に就()かざる也。廿九日朝發()ち、日田郡に如()く。相送りて卑田(ひた)村の古城下に至る。笑ひて曰く、「半醉半醒の言、負(そむ)かずと謂ふ可き也」と。廼(すなは)ち手を分かちて還る。爾後 宿酲解()けず、倦臥して起きざる者(こと)三日、枕上に追ひて之を記す。凡そ六十條、名づけて『卜夜快語』と曰ふ。將(まさ)に滅せんとするの跡を追ひ、既に過ぐるの影を捉(とら)へ、他時相逢ふの日、以て一笑に資()せんと云ふ。

 

  本年文政元年、十月廿三日夜、賴山陽が肥後から我が村に来た。私を呼んで合澤君の家で会った。この日から会わない日は無く、廿四日、竹雨亭。廿五日、春松園。廿六日、洗竹窓で会い、遂に共に大穀屋で泊まった。廿七日、看雲樓。廿八日、再び春松園で会う。廿九日、春曦樓。凡そ六日の夜、肘を取り合い膝つき合わせ、思うがままに話し合った。言いたいことがあったらすぐにそれを言い、水が流れるように口から出てきた。胸の中にある物がむっくりと躍り出て、そのままを言わなかったり、隠し立てすることもなかった。目は他を見ることもなく、耳はふさぐ暇もなかった。もしも胸に滞って□に窒(ふさ)がったり、疑問を口から出さず、たちまちあいまいになるようなら、すぐにその好話も冷水となり流れ去ってしまうような気がした。毎日、午前午後に会い、もし夕方に会ったなら、夜中の零時、二時、夜明けの鐘が鳴り雞が鳴かないと、寝ようとはしなかった。廿九日朝出発して、日田郡に行った。見送って卑田村の古城下にまで行った。彼は笑って「半醉半醒の話、実に楽しかった」と言った。そこで別れて帰った。その後、二日酔いが治らず、くたびれて三日も起きず、枕辺で思い出してこれを記した。およそ六十項目、名付けて『卜夜快語』と言う。今にも消えようとする跡を追い、すでに過ぎ去った影をつかまえ、いつの日かまた逢う日に、これを一笑の種にしようと思う。

 

この序によると、山陽の豊後竹田滞在の日程は次のとおりである。

  十月二十三日 合澤生宅(玉屋)

  十月二十四日 竹雨亭(溝川 谷川家)、竹田莊泊

  十月二十五日 春松園(古田含章〈三山〉宅)

  十月二十六日 洗竹窓(加島富上宅)、臨川亭(淵野士明〈天香〉宅)、大穀屋同宿

  十月二十七日 看雲樓(後藤家)、竹田莊泊

  十月二十八日  春松園(古田含章〈三山〉宅)

  十月二十九日 春曦樓、玉屋泊

  十一月一日  豊後竹田出立、日田郡隈町へ

 

400年前、加藤清正が将来の城の修繕用と伐採による敵兵の進軍防止を目的に整備した杉並木。屋久杉を取り寄せて植えたと伝わり、現在は豊後街道を東西に約11kmが残る。この下を山陽も歩いた。

頼山陽の詩碑。道路整備のために近くに移された。その写真は近日公開予定。

2018・10・21

見延典子「熊本を発す」

 

鹿児島から熊本に引き返したのが10月6日。頼山陽は次なる訪問地豊後竹田を目指して、熊本を発つ。

この時に詠んだ漢詩

 

熊基(本)を発す  頼山陽

 

大道平々砥しかず

熊城東に去ればすべて青蕪

老杉道をはさんで他樹なし。

欠くるところ時々阿蘇を見る

 

訳(上田誠也氏による)  

大きな道の平坦なことは砥石も及ばない。熊本城下を東に進むと、一面の青草である。老杉の並木が両側に続き、他樹は見当たらない。樹木の隙間からは時々阿蘇の山が見える。

        


頼山陽はこれで熊本を2度訪ねたことになるが、実はこのあともう一度熊本を訪れる。なぜ? 近砂敦著『耶馬渓』収録、見延典子の短編小説「獲物」を是非お読みください。

 

 

2018・10・16

見延典子「熊本に滞在中」

 

下関の広江殿峰が長崎の遊龍梅泉に宛てた手紙によれば、山陽は長崎へ行った後、夏には下関に帰ると語っていたようで、薩摩まで足を延ばしたのは旧知の小田海僊がいたからだろう、と推測している。

『筑前名所図会』より
『筑前名所図会』より

岡村玉蘭が描いた『筑前名所図会』は余りに精密なため福岡藩から「出版の許可か下りなかったという。

奥村玉蘭 写真はいずれもネットより
奥村玉蘭 写真はいずれもネットより

殿峰のもとには京都の妻梨影からもたびたび書状が届いていたようだ。心配でならなかったのだろう。

当の山陽は熊本滞在中で、博多の豪商松永花遁へ書状を出し、『筑前名所図会』などを描いた岡村玉蘭に引き合わせてほしいこと、また博多滞在中に見ていた盛茂燁の「石湖秋一色」が「少し値高にてもよろしく」入手したき旨を伝え、京まで持ってきてほしいこと、「さなく候へは貴下御かすめなされ候義と存、御恨み申候」と冗談に紛れて脅している。

 

 


2018・10・8

見延典子「熊本に引き返す」

 

頼山陽は水俣から八代に向い、そこから舟で熊本まで引き返す。10月6日のことである。『頼山陽全伝』には山陽が広島の母梅に宛てた手紙が掲載されており、水俣で泊まっ


たのは大庄屋の深水壹郎右衛門の屋敷と書かれている。頼山陽は熊本から、豊後竹田の旧友田能村竹田を訪ねたあとは、天気が穏やかであれば、鶴崎から上の関に渡りたいと書いている。

往路で世話になった深水春山にも「留別かたがた両地(水俣・津奈木)の負債(詩画揮毫)を償いたい」と鹿児島土産の筆を添えて手紙を出している。

 

復元前
復元前

徳富蘇峰・蘆花の生家は、寛政二年(1790年)、徳富家中興の祖といわれる徳富久貞(太多七)により建てられた。明治3年(1870年)、蘇峰・蘆花の父一敬(淇水)が熊本藩庁に招かれ一家が熊本に移り住むまでの80年間、徳富家はこの家に住み続けた。その後、明治22年からは西村家の商家(屋号:衣屋)として代々受け継がれた。

箕山の『頼山陽』では、山陽が鹿児島で小田海僊に留別した後、夜船に乗って加治木を目指して出港。この時、志布志の臨済宗大慈寺所管の琉球暗脚僧と同舟し、琉球の事情を教えてもらう。また「鎮西八郎歌」を詠む。明け方、加治木の着き、横川駅に向かう。翌日は6里の道を歩き、大口駅に着き蕎麦屋の河野銀太宅に宿り、嚢中乏しかったため、唐紙3枚に揮毫し宿料の代わりする。2日、北に向って3里を歩き、山野郷を過ぎ、小河内の関所を越え、亀

坂を登る。ここで詩を残し、石坂を

2018・10・3

見延典子「鹿児島から水俣へ➁」

 

頼山陽は復路も、水俣で徳富邸に宿泊したと書いたが、坂本箕山『頼山陽』を読み返して違いがあることに気づいた。

土間
土間
離れ
離れ

現在の徳富蘇峰、蘆花生家

熊本県水俣市浜町2-6-5

写真、文ともHPより転載、引用


下り、渓水の流れに沿って歩くこと2里半、水俣の大庄屋深水信孚の家に宿ったことになっている。

この深水信孚とは、山陽を鹿児島まで案内した熊本の医者深水春山の親族であろうか。そのへんがわからないので、いずれの記述が正しいのか、判断がつきかねる。

 

いずれにしろ、山陽が水俣で竹原の道工彦文の墓があることを教えられ、参詣している。文彦は山陽の父方の祖母道工中(仲とも)の同族で、和歌に長じたが、この地で客死している。

 

10月1日、陸路水俣へ引き返し、往路同様、徳富太蔵宅に入る。また分家の徳富鶴眠のために「成簣(せいき)」の扁額を書く。成簣とは「 論語 」 にある言葉で、竹の箕(み) に盛った土の意味。鶴眠は徳富蘇峰(1863-1957)の祖父にあたり、蘇峰はこの扁額を譲り受け、文庫「成簣堂」を創設。内容は蘇峰が精力的に収集した古典籍や古文書類で、昭和15年に東京の石川武美記念図書館が一括購入し、現在は予約すれば、有料で閲覧できる。蘇峰の『頼山陽』によると、山陽は滞在中も『日本外史』の原稿に手を入れ、酒にはうるさかったという。

 

2018・10・2

見延典子「鹿児島から水俣へ」

 

頼山陽は9月30日に鹿児島を発程する。ここからは復路になる。山陽は香川出身の詩人後藤漆谷(1749-1831)に宛て、長崎ではめぼしい書画、骨董がなかったが、熊本には少々あったことを伝えている。

戦前の言論界に多大な影響を与えた徳富蘇峰は、頼山陽の評価にも影響を与える
戦前の言論界に多大な影響を与えた徳富蘇峰は、頼山陽の評価にも影響を与える

2018・9・28

見延典子「薩摩藩への批判」

 

山陽が薩摩を訪ねたころ、実権は隠居している第8代藩主島津重豪(しげひで)が握っていた。重豪の娘は第11代将軍徳川家斉の正室になった広大院である。

 広大院の肖像画
 広大院の肖像画
島津重豪の肖像画
島津重豪の肖像画

広大院の実名は寧姫、篤姫、茂姫といい、後に天璋院が篤姫を名乗ったのは、広大院にあやかったという。

幕府との因縁が浅からずあるためか、旅の孤独からくるものなのか、山陽の薩摩藩への批判は手厳しい。

菅茶山に宛て「驚入候は、鹿島の紛華に御座候。其謀国の拙。笑うべき事のみに御座候」と報告している。


薩摩滞在中に読んだ詩も批判に満ちている。「前兵児謡」で昔の薩摩武士の勇猛果敢さを詠み、「後兵児の謡」で軟弱に変化した姿を皮肉る。

 

余計なことだが、これほど士気の下がった薩摩藩が後世幕府と対立し、倒幕の中心になる。山陽が知ったなら、どんな感想を抱いたであろうか。

 

前兵児謡   頼山陽
 衣は骭に至り 袖腕に至る
 腰間の秋水 鉄断つ可し
 人触るれば人を斬り 馬触るれば馬を切る
 十八交を結ぶ健児の社
 北客能く来らば何を以って酬いん
 弾丸硝薬是れ膳羞
 客猶属えんせずんば
 好し宝刀を以って渠が頭に加えん

    菅茶山評 是れ豈今時の詩ならんや

 

後兵児の謡   頼山陽
 蕉衫の如く塵を愛せず
 長袖緩帯都人を学ぶ
 怪しみ来る健児語音の好きを
 一たび南音を操れば官長瞋る
 蜂黄落ち、蝶夢褪す
 倡優巧みにして、鉄剣鈍る
 馬を以て妾に換へ髀肉を生ず
 眉斧解剖す壮士の腹

   大窪詩仏評 筆力矯健詞気跌宕。前後の西は寒暑の候を殊にする如

   し。変化自在なり。古楽府に深き者に非ずんば到る能はざるなり。

    (参考文献「頼山陽詩鈔」 頼成一、伊藤吉三訳注)

 

鮫島白鶴の書
鮫島白鶴の書

薩摩で山陽が交流したのは小田海僊以外には鹿児島儒者の鮫島白鶴(46歳)、江戸遊学中の旧友の伊知地季幹(赤崎海門の外甥)である。二人は鹿児島の南郭大門口の酒楼で山陽の歓迎の宴を催す。

 

当時、白鶴は山陽が詩や書の得意な一才子と思っていたが、後に『日本外史』を書いたことを知り、自分の眼識が低かったのを悔いたという。

2018・9・26 

見延典子「鹿児島滞在中の交遊」

 

参考文献として木崎好尚の「山陽全伝」を用いているが、併せて坂本箕山の『頼山陽』も参照している。箕山の『頼山陽』を読むと、山陽が異郷にあって、ずいぶん孤独な日々を送っていたろうことが推測できる。

 

 煙草畑 ネットより
 煙草畑 ネットより

また季幹はこのころ藩の地方検者であったが、後に政変に連座して士官を停められ、飛来山房の号で団扇を作ったという。

 

大隅の国分で作られる「国分煙草」は「花は霧島、煙草は国分」と俗謡に歌われるほど有名で、山陽も煙草畑を入れた詩を詠んでいる。ただ、鹿児島の文人肥後芸谷によれば、山陽は「これ極めて勁烈(強く激しい)、得て吸い難し」といったとか。国分煙草の味が伝わる逸話である。

 

 

2018・9・20

見延典子「小田海僊に会う」

 

鹿児島に着いた頼山陽は藤田太郎右衛門の屋敷に入る。そこには知己の小田海僊(かいせん)が寄寓していた。

海僊は百谷とも号する赤間関出身の画家で、山陽より5歳年下。京都の修業時代に山陽と交遊し、山陽の影響で南画家に転向したという。この頃、長崎を経て薩摩で絵の勉強をしていた。

同じ時期に九州にいるわけで、山陽は事前に海僊の薩摩滞在予定を聞いていたと思われる。

慣れない土地で知り合いに会い、安堵する思いはあったろう。

海僊は都合5年間、九州を遊歴し、南画家として大成。文久2年(1862)78歳の長寿を全うし、没す。

  小田海僊の薛濤(せつとう)図

  薛濤は唐代の実在した妓女。

  1846年絹本着色(ネットより)


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら