頼山陽は長崎に滞在中。

石村良子代表が執筆しています。

2018・8・19

芸者袖咲を詠み、戯れに描く

 

(こう)辛夷(しんい)(江雲閣)字は大楣、印亭、十二瑶台使者と号す 書を嗜み 詩に巧み江稼圃の弟(左)袖笑図 (こう)辛夷(しんい)題(上)


この夏、長崎に来る噂のあった江雲閣(こううんかく)と対面の機会を得なかったので、唐人番組頭水野媚川勝太郎の勧めで長崎花月の芸者袖笑に会い、消息を聞くことにした。

〇戯れに校書袖笑(こうしょそでさき)()(こう)辛夷(しんい)(おも)

【袖をあげて嫣然(えんぜん)袖を(おお)うて泣く、玉釵敲断(ぎょくさこうだん)す酒醒むるの時

相思何ぞ封姨(ほうい(風神))の事に輿()みせん、郎船を阻却して故々に遅し】

 

大意: 長袖をあげて笑い、これをおおいて泣く、玉の簪の落ちるとき声あり、この際、何人か無情の風ありて、船行くのを遅らすものがおろうや

〇席上墨戯戯題

【酔墨()す他の(えん)(たい)の青に、(ごう)()し紙を伸べ(のべ)(ひょうてい)(やと)ふ、()んぬ(けい)()って江郎(こうろう)(けん)(ささ)げるを、(かれ)濃泥裡(のうでいりてい)釘に似るを得ん】

大意:戯れに墨画をかいてみると、どうしても汝がかって郎君に送った、濃艶な筆には及ばない

 

2018・8・12  長崎八月中秋と既望に

下の写真は長崎中秋節長崎旅ネットより、一家円満団欒の祭り(陽暦2018年は924日(月)~30日(日)


中秋

【風は微雲を動かして暑いまだ収まらず。一尊月を待ちて且つ楼に登る。瓦光明滅す海山の影。旗色依稀たり呉越の舟。長鋏(ちょうきょう)短衣久客となり蛮烟(たん)()また中秋、天涯醒酔同く今夜。誰か(おも)はん(へい)(れい)(ひとり)(しゅう)。】

 (大意)まだ風があるのか、少しばかりの雲を動かしている、暑気いまだ去らぬなか一樽の酒を用意して月の出るのを待つ、旅客落莫として一人此の月に対して酒を酌もうとは思はなかった。

中秋後一日楊西亭館に観月会を挙ぐ聞く西亭新たに娶ると

【旅館の良宵且つ宴娯す。紅燈緑酒小姑蘇、対問の秋柳煙月を籠む

雲鬟(うんかん)香霧に(おも)ひ到るやいなや。】

(大意)旅館に宿し此の明月を見る。まるで姑蘇の地にいるようだ。だれも、美人の此の席に侍するとおもうであろう。

註:既望、この夜さらに古賀穀堂と舟游す。

 

 

2018・8・5 石村良子代表「頼山陽出島に行く」

 

頼山陽全書参考

8月 日  某寺にて陸品三などと会晤、筆談を試みる。

      陸は長崎に来ることすでに8年余り。

()()(中国(せっ)江省(こうしょう)()(こう)())の人

8月 日  陸品三、楊西亭と再度筆談

      【聞く、呉中は人文の(えん)(そう①)なりと。見今、最も著称せらるるは、何人ぞ 襄謹問】

      【下問  只、潘石泉、董山霞の二先生,最たり、その余は申数すべからず。陸品三再覆】

      【虎邱(こきゅう)と西湖とは、景勝いずれか(すぐ)れる 襄問】

      【西湖には、十景の名あり。虎邱(こきゅう)には十八古蹟ありて、各雅趣あり。杭州西湖は、乃ち眞山水なり。楊西亭復】

8月 日  潁川の案内にて蘭船見学(石村註:山陽は大唐通事潁川四郎(葉子昭)太の案内で出島に行った模様、ただし、木崎愛吉氏のこの記事の出所は不明)

  1. 中心として栄えている所      

 

 姑蘇繁華図
 姑蘇繁華図

2018・7・30

7月某日 唐船入港 楊西亭と会晤


姑蘇人楊兆元に()みえ酒間賦して贈る

(ひょう)(すい)相逢い且つ杯を挙ぐ。酔魂恍(すいこんこう)として訝る(いぶかる)()(だい)に到るを

看る君が眉宇(びう)秀でて(かく)(ごと)し。猶虎邱山(なおこきゅうざん)(すい)を帯びて来たる】

大意

水草の風の間にゝてんてんとして、偶々(たまたま)君と会う。

一杯を傾けてみれば、自分が姑蘇に行ったような気になった。

君はみるから眉目秀れている、虎邱山(こきゅう)の山水の翠をおびてやってきたのだから。

註:虎邱は蘇州北西の郊外約5㎞に位置する景勝地。春秋時代末期、「臥薪嘗胆」で知られる呉王夫差が父王闔閭を葬った場所。埋葬後、白虎が墓の上に蹲っていたことから虎邱と呼ばれるという

 

2018・7・21 沸郎王歌(ナポレオン)頼山陽

 

沸郎王歌(ナポレオン) 頼山陽

書き下し文

沸郎(ふつろう)()

 

王、何れの處より起こる大西洋      太白(たいはく)(せい)集め眼(あつめまなこ)碧光(へきこう)

 

天、韜略(とうりゃく)を付して其の腸を()る      欧邏(おうら)餐食(さんしょく)して(ひがし)(さかい)(ひら)

 

誓いて崑崙を以って中央を為さんとす   国内の游手収めて(こう)(へん)

 

兵に妻子無く武、趪趪(こうこう)たり        (てい)を縮めて銃と為し、()ばして(そう)と為す

 

銃退けば鎗進みて互いに(どうとう)す      向う所前なく ()玄黄(げんわう)たり

 

独り(がく)()有りて相頡頏(あいきっこう)す         (ひそか)(ぼうぞく)(つか)わし 剣鋩(けんぼう)(ふところ)にす

 

(さと)りて(ことさ)らに(これ)(こう)(しょう)す       能く刺さば我を刺せ、亡ぼすこと能わず

 

汝が主、何ぞ旗鼓(きこ)もて当たらざる     (きゃく)遣し(つかわ)即ち(すなわち)発す(はっす)(じん)堂々(どうどう)

 

絨旗(じゅうきてん)(おお)()(ぼう)なし         五戦、国に及び我が武()がる

 

(がく)()(うお)()(とう)に泣くが如し       (なん)(はか)らんや大雪(たいせつ)平地に一丈強(いちじょうきょう)ならんとは

 

王の馬八千凍え且つ(たお)る         (うん)()梗塞(こうそく)望むべからず

 

馬肉方寸()(かて)充つ()          (おう)(いわ)く天は仏王を(たす)けず

 

我吾が衆を()かさば(くだ)るも(なん)妨げん(さまた)と  単騎敵に降れば(くだれば)(てき)()えて(ころ)

 

之を()(めりか)(はな)ちて君臣(けい)す       

 

()(いん)の年吾()(よう)に遊び          蛮医(ばんい)遭逢(そうほう)して其の(くわ)しきを聞く    

 

自ら言う陣に在って(きん)(そう)(りょう)し     馬を()ひて死を免がるるは今に忘れじと 

 

君見ずや、何の国か(むさぼ)ること狼の如きもの有る()からん

 

勇夫(いさお)重閉(じゅうへい)して()(ぼう)(とうと)ぶ       又見ずや禍福(かふく)(なわ)如し(ごとし)何ぞ(つね)とす()けん

 

兵を(きわ)め武を(けが)すは(つね)自ら(みずから)(わざわい)す     方今五洲奪攘(ほうこんごしゅうだっじょう)()

 

何ぞ知らん(さつ)(うん)西荒(せいこう)(こう)むるを       詩を作り()()して故郷に(つた)

 

猶覚ゆ殺気(さっき)(けい)(のう)より迸る(ほとばしる)

 

【大意】

 

フランス王

王が身を起こしたのは大西洋のかなた,金星の精髄を集め眼は緑の光をたたえている

天は兵法を授け、はらわたを強固にした。ヨーロッパを侵食し東に国境をひろげ自ら誓って崑崙山を国の中央にしようとした。

國内の浮浪者を集め軍隊を編成すると兵士には妻子がないので武は猛烈であった。

棒を縮めると銃に、伸ばすと鎗になり銃が退き接戦になると鎗が進み、互いに突きあって戦った。

向かうところ遮るものなくおびただしい血が流れた。その中でロシアだけが戦力拮抗していた。

ロシアはひそかに刺客を放った、ナポレオンはそれに気付きながら近ずけ言った「私を刺してもフランスは滅びないぞ、お前の主人は何故戦で決しようとしないのだ」

ナポレオンは刺客を放免し、大軍を率い堂々とした陣容でロシアに出発した。その軍旗は天を蔽うほどであった。

ナポレオンは五たび戦って攻め入りロシアはまるで釜で煮られる魚のようであった。

ところが、ある時思いがけない大雪におそわれ八千の軍馬は凍えたおれ、道はふさがり倒れた馬の一寸四方を一人一日の食にあて,飢えを凌ぐという有様になった。

「こうなったのも天運にみはなされたからで私は軍の命を助けるため降参しょうと思う」とナポレオンは一人馬に乗り敵陣に下った。敵はあえて殺さずアメリカに流し、大雪の天幸を喜んだ。

私、頼山陽は文政元年長崎に遊び オランダの軍医から通訳を介し、詳しく聞いた。

その軍医はナポレオンの陣中で負傷兵の手当てをしていた。からくも死を免れたことは生涯忘れられない痛烈な体験であったという。

狼のような貪欲な侵略者が、いずれの世にも有るもの。国家は勇兵をもって守りを固くし平生無事の日にも守りを堅固にすべきである。

また禍福は交互にやってくるもの、あのナポレオンでさえ倒れたではないか。いつフランスとロシアのような血闘が起こるやもしれない。

自分はナポレオンの事蹟を詩にし異聞をしるし故国の人々に伝えようと思

詩稿は殺気に満ちて 入れた袋からほとぼしりあふれるようである

 

 

 

2018・7・10 頼山陽 荷蘭船行(オランダ船のうた)

 

頼山陽 荷蘭船行(オランダ船のうた)

 

碕港(きこう)西南(せいなん)天水(てんすい)交わり      (たちま)ち見る(くう)(さい)秋毫(しゅうごう)(てん)ずるを

 

望楼(ぼうろう)号砲一(ごうほうひと)たび(どこう)すれば   二十五堡弓(にじゅうごほゆみとう)を脱す

 

街声(まちこえ)沸く(わく)如く(ごとく)()もに(けんそう)す   ()く是西洋より紅毛(こうもう)(きた)ると

 

飛舸(ひか)往き()(むか)えて(ここう)を聞き    (ふた)つながら(しん)()(よう)げて濫叨(らんとう)を防ぐ

 

船は港に入り来り(はいりきたり)巨鼇(きょごう)の如し  水浅く船大にして(やや)もすれば(こう)せんと欲す

 

官舟連珠幾艘(かんしゅうれんじゅいくそう)(つな)ぎ       (これ)()きて進む(すすむ)謷謷(せいごうごう)たり

 

(ばん)(せん)水より出でて百尺高く    海風(かいふう)晰晰(せきせき)として罽旄(けいぼう)(ひるがえ)

 

三帆(さんぱんほばしら)()てて万條(ばんとう)を施し   機を設けて伸縮すること結槹(けつこう)の如し

 

漆黒(しっこく)蛮奴(ばんどさる)より(はや)く      (ほばしら)(のぼ)(つな)(おさ)めて手ずから(てずから)爬掻(はそう)

 

(いかり)(おろ)して満船(ひと)しく噭咷(きょうとう)し  (きょほう)畳発(じょうはつ)して声勢(せいせい)(ごう)なり

 

蛮情測(ばんじょうそく)()難く(かたく)(びょう)謀労(ぼうろう)し     兵営猶豹韜(へいえいなおひょうとう)(てっ)せず

 

嗚呼小醜(ああしょうしゅう)(なん)憂目(ゆうもく)(こう)(わずら)わさん 万里(ばんり)()()いて貪饕(たんとう)に在り

 

憐れむべし一葉鯨濤(いちようげいとう)(しの)ぐを   譬え(たとえ)()()(せんそう)を慕うが如し

 

乃ち(すなわち)(にわとり)割く(さく)牛刀(ぎゅうとう)費す(ついや)こと()からんや

 

乃ち(すなわち)瓊瑶(けいとう)(ぼく)(とう)()うること()からんや

 

大意

 

長崎港の西南水平線のあたり急に何か糸筋のようなものが点のように見え

番所の物見やぐらの大砲が鳴り渡ると、二十五か所の砦の警護の者は弓を備える。街中沸き立ちオランダ人がやってきたと口々にはやす。はしけ船が大小のたいこを叩いてオランダ船をむかえ、日本側も混乱しないよう旗を掲げている。船はまるで巨大なウミガメのよう、大きいので船底がつきそうだ 番所の船が連なって大声をあげてオランダ船を引っ張っていく。船は水面より百尺(3000メーター高いことの例え)海風がかすかにそよいで旗飾りをはためかし、多くの縄で三本の帆柱をたて 巻き上げ道具でつるべのように上げ下げしている。色黒の船員がサルのように帆柱を登り綱をさばきかき集める。碇をおろして大声でさけび号砲を連発して豪勢なことである。

海外の事情も分からないので幕府も対応に悩み守備兵も軍計も徹していない。まあどうやらオランダ人を心配しすぎることもない溶断

彼らは万里の遠くから利益のみむさぼりに来たのだから

大海を鯨のような大波の一葉のようにしのいできたその有様は蟻が生の羊肉に群がっているようだ。オランダ人を心配しすぎて鶏を割くのに牛刀を使ったり、玉とさんざしの赤い実を取り違えるというような事にならなければよいが。

 

石村註:語句が難解のため煩雑になるため語釈でなく大意にしました…

 

 オランダ船に乗り込む鍋島直正公
 オランダ船に乗り込む鍋島直正公

2018・7・5

に手紙 

対馬屋善五郎帰便に託す

 

7月8日

「4月20日出の手紙6月26日受け取り広島の近況承知したこと」


「唐船は一向まいらず,是切りにて帰るわけにはいかないところ6日蘭船

入津したので、くわしく見物話しのネタを蓄える積もり」

「大通事潁川四郎太別荘に乞われ寓居しているがその子等に講釈頼まれ面

倒である 短逗留で無益である、が詩文の指南などいたす積りである」

「お三穂の肥立ち、宮島観劇は大安心である」

「聿庵が毎夜杏坪宅に会読に行くことは又喜ばしい」

「当地は書画などあるかと思えばなく失望である」

「春水石碑のこと旅中これのみ気がかりである」

など書いている。親の情で聿庵が気にかかるようで聿庵の手紙の書きぶりにあれでは他国に遣るようなことがあれば大恥である。と聿庵に関するところは山陽の真骨頂(ここにはないが同様に山陽は三千三にも辛辣で、支峰や三樹三郎が成長するまで長生きしてないのが残念)

 

盁盁積水隔音塵 穿眼来帆阿那邊 

自慰吾儂勝織女 一年両度迎郎船 (山陽詩鈔)

 

 盁盁(えいえい)たる積水(おん)(じん)(へだ)つ 眼を穿(うが)つの(らい)(はん)阿那邊(あなの)

 

(みずか)ら慰む吾儂(ごのう)織女(しょくじょ⓶)(まさ)る 一年両度郎の船を迎う 

 

  1. あの辺

  2. 7月7日1年に1度銀漢に牽牛と相会す

 

 対馬アリラン祭振興会
対馬アリラン祭振興会

2018・7・1

石村良子代表 🔁 米山俊哉さん

「頼山陽 幻の対馬行」

 

頼山陽ネットワーク投稿記事

2016・4・13 米山俊哉さん「頼山陽と朝鮮通信使」 小生、縁あって「朝鮮通信使研究会」という会に関わるようになりまして-中略


頼祺一先生の文章に次の一文がございましたので。

「文化七年(一八一〇)、神辺の管茶山の廉塾にいた頼春水の子・山陽は、叔父の尾藤二州(幕府儒官)を介して、幕府の使節に随行して対馬に行くことになっている古賀精里(幕府儒官)に同行を依頼した。春水の友人である故に、その子・山陽の素行に批判的であった精里は、『此者(注、山陽)放心ハ能ク調へたるトハ、父兄弟共申儀二候得共、其著述(注、日本外史)等之沙汰承候処、一向外馳いたし候而、悔懲内省之意、絶而不相見、則亀井父子(注、福岡の亀井南冥・昭陽父子)之所為二も、格別不異候、』(古賀精理の子・穀堂ら宛書状)として断っている。

精里は、随員として穀堂の門人草場さん(肥前出身)と、他に塾生の中から樋口平三(会津出身)を選び、もう一人の大学頭林述斉は松崎さん(肥後出身)を指名した。

山陽がもし翌文化八年対馬に行っていたなら、通信使とどのような筆談・唱酬をしたであろうか」  

  出典『広島藩朝鮮通信使録 広島県蒲刈町』(注:難字を一部省略)

 

なんとか幕府に手をまわして、対馬で朝鮮通信使の学者と「筆談・唱酬」しようと画策、そして夢叶わず大きく落胆したさまが目に浮かびます。なかなか「ロック」してますねえ。

なんだか、なにくそと俄然その後張り切った山陽の活動も目に浮かぶようです。

                                     注;草場佩川は古賀精里の弟子

1811年3月27日 頼春水は対馬行きの古賀精里と海田市で会見している。

山陽は父春水の宿願でもあった長崎に期待するところ大だったようですが、あまり収穫無しとしています。(現在山陽研究、長崎であまり熱心でない理由か?)

西遊は「詩材を探す」が主目的。目的の一つ骨董品もあまりいいものが手に入らなかったようです。

 

 

 長崎 歴史文化博物館
 長崎 歴史文化博物館

(せん)(しゅう①)楼下(かじ)(うごか)すこと遅し 碧檻紅燈玉巵(へきかんこうとうぎょくし)にひらめく 試みに船窓に()りて姉妹を呼ぶ 認む他が夜宴(やえん)胡児に(はべ)るを  頼山陽長崎謡、12解中の1

①出島 緑の欄干のあかりが玉のさかずきに映る

古賀穀堂            「通義」において評語を書く
古賀穀堂            「通義」において評語を書く

2018・6・28

石村良子代表

頼山陽は出島に行った?➁

 

某所宴会担当イワク「行っていないに〇、あの性格、行ってたら誰かに言うか、書きのこしている。」

 出島入場券 昨年は橋ができた
 出島入場券 昨年は橋ができた

頼山陽は,舟游の時出島の近くまで行って女子に声をかけたのか?

 

8月16日古賀穀堂と舟游月見の宴では 歌い笑いケリカモメも驚いて逃げ長崎人の噂になったと穀堂が後記している。その穀堂文政初年5月7日(山陽は九州にいた)江戸からの帰り大阪で山陽に「あうこともできず殺風景なり」と。同じ11日堂島で倡婦、振袖几帳,芸伎、男伎を呼び歌ったり,舞ったりしたとか。 参考:生馬寛信「古賀穀堂」

 

 

 


2018・6・24 進藤多万解説員「葉子韶 頼山陽の荘の記を徴む」

 

葉子韶(しょうししょう)(潁川四郎太)頼山陽に荘の記を(もと)

                                                  書き下し、語釈 進藤多万

『松窻記』しょうそうき

葉子韶(しょうししょう①) 其の莊に(なず)けて曰く 松窻と、而して記を余に(もと)む。 

余の長崎に來たる、子韶と其の子子咸と、余に請ひて館せしめり。

以て(もって)負檐(ふたん⓶)(とりさ)るを得たり。(いずく)んぞ而して記さざるを得んや。

抑そも余の(これ)に寓すること(そう)(げつ③)なり。

莊の有する所、四時(しいじ) 草木の花實、(のき)(めぐ)りて階を(はさ)み、窻櫺(そうれい)(えん)(すい④)する者、(ことごと)く數ふべからざるなり。          

而るに(かえりみ)るに()だ松を以てのみ名づくるは、何ぞや。

子韶 蓋し之を愛して(しかい)()。「夫れ松の觀るべきは、(そう)(ぜん⑤) 鬱々たるのみ。

紅紫の以て目を娯しまする可き有るに非ざるなり。

甘酸の以て口を爽する可き有るに非ざるなり。

(ふん)(ぽう⑥)馥郁として以て鼻を快する可き有るに非ざるなり。」と。

子韶 果して何の愛する所ぞや。

且つ夫れ衆人の愛する所なるのみ。

亦た之を愛し、其の愛する所以(ゆえん)は、之を人に(たと)ふべきなり

人の愛さざる所なるのみ。

獨り之を愛し、其の之を愛する所以は、己の口と雖も、之を言ふ能はず。

況んや他人の口を借り、以て之を言ふをや。

子韶の松を愛し而して其の莊に名づくる所以を言はんと欲す、亦た難からずや。

然りと雖も、余 長崎の俗を察するに、以て子韶の意を知る有り。

長崎の俗、奔競躁進、榮利を艶慕す。

寧ろ其の産を破り、而して其の官に達するを求め、務めて一時に誇耀し、而して子孫の計を念はず。

是れ桃李を喜び而して松柏を愛せざる者なり。

子韶の松を愛する 其れ必ず此の輩と異ならん。

其の種うる所の松を視るに、皆な蓬蓬然として稚くて矮なるは、其れ雪霜を凌ぎ而して四時を貫かん。

将に之を數十年の後に期せんとし、是れ亦た以て其の久遠を計り、而して苟婾(こうとう⑦)せざるを知るべきなり。莊の名を得たる、意其れ此に在るか。

且つ夫れ長崎は、交易紛華の地、而して子韶父子の職する所は、其の要喉に據る。妖艶瑰麗の物、心に(いやしく)も之を愛さば、手に(つばき⑨)して致すべし。

四方の遊士、其の管弦奕棋(えきき⑩)凡百()技巧を挟み、以て人の耳目を娯します者は、踵を接し跡を(かさ)ぬ。

而して子韶 乃ち獨り 迂闊(うかつ⑫)古拙(こせつ⑬) 余が如き者を引きて之を優遇す。衆必ず指して笑ひて曰く、「彼 何の愛すべき所ぞや」と。

嗚乎 是れも亦た 其の磊砢(らいら⑭)にして節多く、衆に媚るの態無く、而して獨持の操有るを以てに非ざるなりや。

其の松を愛するを以ての故に、松に類する者を見、亦た之を愛する(のみ)

子韶に代はり、其の松を愛する所以を言ひ、又 其の施しの人に及ぶ(こと)を言ふ。

蓋し子韶の爲に嘲を解き、且つ以て自ら解くなり。

數十年の後、人の松と、兩つながら恙無きを得、再び來りて此に遊び、將に彼の(ほう)(ほう⑮)然たる者の、皆 (りゅう)(りん⑯)と成り、(くう)(つか)(そら)(しの)ぐを見んとす。

將に子韶と共に撫して之(ここ)盤桓(ばんかん⑰)せんとす。

 【語釈】

  1. [葉(せふ)()(せう)]しょう・し・しょう。姓のときは「葉(えふ)」をようと読まない。

  ⓶ [負檐(ふたん)]背に負い、また肩にかつぐ。

    1. [匝月]ひと月ひとまわりの意。

    2. [掩映]おおいかくす。

    3. [蒼髯]年老いて灰色になったひげ。

    4. [芬芳]よい香り。

    5. [苟婾]一時の平安をむさぼる。

    6. [瑰麗]文字などの非常に美しいこと。

    7. [唾手]きわめて容易なたとえ。

    8. [奕棋]囲碁。

    9. [凡百]いろいろの。あらゆる。

    10. [迂闊]世事に疎い。

    11. [古拙]書や絵などで、古風なつたなさの中に、かえって優れた趣のあること。

    12. [磊砢]人物が優れている。

    13. [蓬蓬]盛んに茂るさま。風の吹くさま。

    14. [龍鱗]龍のうろこ。

    15. [盤桓]立ち去りにくいさま。たのしむさま。

       

      石村注:進藤多万解説委員は「3回読み下しを読んでみてくだされば」と言っております

 

2018・6・22

石村良子代表

「頼山陽は出島に行った?」

 

もちろん正式記録には残っていない

前ブログ宮川雅一様に尋ねてみた


「当時の蘭商館医ハーヘンからナポレオンの事を通詞を通して聞いていますので、入った可能性は十分にあると思います。司馬江漢など要人の付き人に化けて入った例もありますので不可能ではなかったのです」

石村も、山陽は唐大通事(交易の中で外交官のような役割を果たす通訳)潁川四郎太の別荘にもに寄寓していたので入った方に〇です。

 

写真 宮川雅一氏自著本。氏は自治省大蔵省を経て長崎助役を務められ、現在長崎史談会相談役、歴史的墓の保存(掃苔会)等長崎の歴史文物保存に勤めておられる。

 

 資料は橋本正勝氏提供
 資料は橋本正勝氏提供

 

16日 梅颸 餘一あての手紙(てがみ①) 長門屋という水楼にて独居、手鍋にて生活している。古賀一左衛門(佐賀の古賀穀堂)が長崎に役向きで参り、一緒に游瀧彦次郎に招かれ舟遊(せんゆう②)する。

 

※「頼山陽全伝」木崎愛吉編では8月16日に記載。

 

 

 

2018・6・15

石村良子代表

「長崎からの手紙3」

 

615日 熊谷鳩居堂へ 長崎には目当ての物がないので鹿児島に行くこと。弟子の三河、美濃の細香,籐城、などへ示すべき詩を託した

頼山陽ネットワーク「熊本御馬下の角小屋」橋本正勝元館長
頼山陽ネットワーク「熊本御馬下の角小屋」橋本正勝元館長

 頼山陽 「松窓記」
頼山陽 「松窓記」
 潁川家墓地2.4.5代の墓 福済寺
 潁川家墓地2.4.5代の墓 福済寺

以下宮川様 御教示全文

 

宮田安著「唐通事家系論」長崎文献社に次の通り、陳沖一を祖とする()川家(がわ)の家系に六代として「潁川四郎太」其墓碑の戒名に「葉」「子韶」がありますので 同一人です。(墓は崇福寺後山)

 

墓碑銘  継徳院瑞鳳子韶行音府君之墓

2018・6・13

石村良子代表

「長崎便二通目 追記」

 

長崎都市経営研究所長、長崎学研究家 宮川雅一様より

頼山陽「松窓記」に出てくる 「葉子韶」は前ブログ(6・3付け)大通詞「潁川四郎太」と同一人である。と御教示いただきました。

 福済寺
 福済寺
潁川6代潁川四郎太の墓があるという崇福寺 
潁川6代潁川四郎太の墓があるという崇福寺 

 

快く教えていただき引用もご自由にしてよいとのお便り 有り難く 感謝です。

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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